Chapter :5 さよなら最終兵器
最後の一日は、目もくらむような晴れだった。
昨日の夜は永遠に続きそうだと思えるほど、雪が降っていたのに。
当然の如く目覚ましは効かず、起こしてくれる人もいなかった。
もう家を出なければならない。時計塔は、国立有架月病患者学習収容院、通称学院の裏山を越えた先にある。普段行かない所だから、少し早く出た方がいい。
囚人服に着替えて、何も食べず、冴え冴えとした空気の中へ出た。
隣の部屋は、相変わらず空のままだった。
学院へと向かう道中、居住区は喪に服したように静かだった。配備兵はほとんどおらず、大半は施設区や商業区の処理に向かったのだと予想できた。
交通が多いはずの三叉路には、車どころか人一人いやしない。縦型の信号が、壊れたように黄色の点滅信号を繰り返しているだけだった。
静かだ。
寝ている間に、まるで世界から人が消えたみたいだなと思う。
お構いなしに、歩く。そうして、いつも通りの橋まであと少し。
あの橋は渡ったら最後、学院で人間として扱われなくなる。だから溜息橋。
そんな皮肉を乗せた橋の柵の上。彼女は、長髪を風になびかせて景色を見ていた。
「久しぶりだね。このところ、どこで何をしていたんだい?」
雪の太陽の照り返しと、嘘のように穏やかな水面の間に立つ六花は、相変わらず綺麗すぎて、人から離れてしまっている印象を抱かせる。
「……さあ。何してたのかしら、私。……知っている?」
微笑と共に彼女は振り返る。水色の髪からは変わらないミントのような香りがした。
ふと、気付く。今日の六花は、眼鏡をかけていなかった。
「俺に聞かれてもね。……眼鏡、どうしたんだい?」
「……それは、覚えている。弾丸にしたの。人狼を撃つ、最後の希望」
そう言って、ふわりと彼女は柵から俺の前に降り立った。まるで、重力がないみたいに。
いつも通り、六花の言葉には過程がないから、要領を得られない。
「……言わないと。……私は、その為に、命を貰ったのだから」
さくり、さくりと雪の中を彼女は歩み寄る。あと一歩で何でもできる距離まで。
手渡すように、彼女は言った。
「ねえ一人。私、あなたが好き」
唇に熱量。いつものやり取りとは、質が違っていた。
「好きなの。好き。……頭がおかしくなるくらい、好きなの」
「……それは」
「私の全てをあなたに捧げるから。……だから、私のものに、なってくれないかしら?」
後ろ手に両手を組んで、懇願するようにこちらを覗きこむ彼女の瞳は潤んでいて、声は震えていた。重なる。彼女と、初めて出会った時の光景と。
「あなたの心さえあれば。……私は、他に、何もいらない」
「なあ六花。それは無理だよ。君が一番、わかってることだろ?」
わかりきっているはずのことなのだ。この世で一番、ルナティックの実態に近い彼女には。
「ないものは、あげられないよ。……だってもう、他の人に取られちゃったんだ」
マイナスは、罹患した瞬間、心が世界中のどこかに散らばる。過去、現在、未来を問わず。
その散らばった心をいつかどこかで授かった者たちが、プラスのルナティックになるのだ。
「……どうして。どうして? 簡単な、ことなのよ? 私は、あなたが好きなの。だったら、後は……あなたが、私を好きになる。それだけじゃない」
血が滲みそうなほど唇を噛みしめ、彼女は言った。
「たったそれだけのことが、どうしてこんなに叶わないの?」
「さあね。それは人類普遍の悩みじゃないかな。……ねえ。一つ、聞いていいかな」
「……何かしら」
「君はどうして、俺が好きなんだい?」
数値一桁ばかりの心中で、異端のあいつが問いただしてくれと叫んでいた。
「人を愛することに、ただ好き以上の理由がいるの?」
「……そうか」
無敵の六花には、どんな刃も通じないのだと、疑わなかったせいもある。
獲物を狩る猫のような気まぐれで、真実を突きつけた。
「それ、勘違いだよ。君は鳥と同じだね。一番最初に見たものを、無条件に信じ込んでる。
ルナティックの幻想だよ、それは。他ならぬ君が一番知ってることだろう?」
六花は、泣いてはいなかった。
ただ、致命傷を受けた人の顔って、今の彼女の顔に似ているんだろうなと思った。
臓腑を握られた人間がこぼす、鳴き声のような苦悶に満ちた声で彼女は言った。
「あなたが、それを言うの? ……そんなのって、ひどいよ」
「そうらしいね。最近よく言われるんだ、それ」
「…………あなたが、どう言おうと。でも、それでも」
彼女は膝を折らずに、悲壮で染まりそうになった表情を、へたくそな笑顔で隠した。
「私、あなたが好き。……私には、これしかないんだもの」
どうして彼女が笑うのか、俺には全くわからない。
「約束があるんだ。そこを通ってもいいかな?」
「……そう。好きに、なさい。……もう、どうしようも、ないのね」
すれ違う時、自然に唇を奪われた。
「……二度目だね」
「本当は、協定違反なの。……でも、もう、いいわ。無駄になってしまった」
「二葉もたまに言ってるけど、その協定とやらは何なんだい?」
「そうね。来世があれば、教えてあげるわ」
「ははは。普通に今度教えてくれよ。……じゃ、またね」
約束の時間まで比較的余裕はあるが、俺は急ぎ足で六花の元を去った。
去り際、六花が何かを呟く。あまりにも小さく、聞き取ることは出来なかった。
「……もう、遅いよ。馬鹿。…………今度なんて、どこにあるの?」
学院の大きすぎる塀をぐるりと迂回して、裏山の道へと歩いていく。
誰一人逃さぬと言い張るような防壁を、振り返った俺の視線が舐めた。
相変わらず分厚い。一番上には高圧電流ときた。赤外線センサーとかも張ってんのかな。
白壁を舐め終わった俺の視線は、天文ドームの横でわずかに揺れた緑髪を捉えた。
いるのか。そこに。
反射的に時計を見た。約束の時間まで、まだ余裕がある。
『そだねぇ。……でも、雪でも、やるからね。打ち上げ』
順序付けをするなら、最初の約束をまず果たすべきだ。俺は駆け足で屋上へと向かった。
空疎な場所だった。
前日の雪が降り積もった屋上には本来、五人分の足跡が残るはずだった。
扉を開けると、青春の雪国には一人分の足跡しかなかった。
月面に残る、消えない足跡のようだった。
「……一人くん。無事、だったんだ。……よかった」
梯子を登った先にある天文ドームの横で、二葉は右手に筒状の何かを持って景色を見ていた。こちらからは背中しか見えない。軽く押したら、そのまま下へ墜ちて死ぬだろうなと思う。
「振り返らなくてもわかるんだね。まるで六花みたいだ」
「わかるよ。耳、いーんだ。良すぎて困っちゃうくらい。……だから、一人くんの歩幅とか、足音とか、ドアの開け方とか、息遣いとか、……ほんとに考えてることとか、ぜんぶ」
「ぜーんぶ……お見通し、なんだよ?」
振り返った彼女は、泣いていた。泣きながら、それでも笑おうとして変だった。
元気と一緒に失くしてしまったのか。髪留めは、やはりなかった。
濡れた視線が、屋上のど真ん中にあるテーブルを見下ろしている。
空っぽな鍋だけがそこにある。囲むべき人も、煮込むものも、何も揃ってはいなかった。
「わかってた。……最初から無理だったって、わかってた!」
泣いているようでいて、悔いているようでもある。正体不明の感情を、二葉は吐き出した。
「時間切れなのも、みんな手伝ってくれないのも、一人くんが変わらないことも、全部全部わかってたよ! でも嫌じゃん! ぼーっとして諦めろなんて、そんなのやだよ!」
……時間切れ? 何のことだ?
「なんか……なんか残したいじゃん! あたしたちはここにいたんだって、誰かに知ってほしいよ! このままバラバラなんて嫌だっ! 寂しいよ! 何か欲しいよ! あたし、何か間違ってる!? 普通のこと言ってるだけじゃん! ……奇跡が。ただ奇跡が! 欲しかったんだ!」
二葉は、丸めた何かを開いて、「こんなものっ!」びりびりに破いた。
それは、部活とは名ばかりの、彼女が一人で足掻いた結果の模造紙だった。
「何の役にも立たなかった! 面白くなかった! ただ、空しいだけだった! ……あたしの。あたしの、やってきたことには、何の意味も、なかった……っ」
風に破いた模造紙が舞う。激した二葉を見るのは初めてだった。
俺はと言うと、ただ、疑問だった。
二葉も六花も、ただの一年に一度の祭りにどうしてこうも感情がうねる?
「ねえ……。三柑ちゃん、死んだんだよね。……本当、なんだよね?」
「うん。目の前で見た」
「……どうして。……どうしてかなぁ。どうして、こうなるかなぁ」
悲しまなければ。そうしないから、蓮は怒った。
「あたしにバレないわけないだろっ! いい加減にしてよっ!」
……ああ。わかりきったこととはいえ、また人を怒らせてしまった。
「あたしは怒ってるんじゃないっ! 悲しいんだ! 寂しいんだよっ! この分からず屋ぁっ! …っ、っぐ……ひっぐ……! ……どうして。どうしてぇ? あんなに、なか、よかった、じゃん。……それでも、どうでもいいんだ? だったら。……だったらさぁ」
二葉は涙で顔をぐしゃぐしゃにして、俺に最後の一言を問うた。
「あたしが、もし死んでも。……一人くんには、どうでもいいんだ?」
問われた時点で、詰んでいた。二葉に嘘は通じない。
繕った言葉を届ける前に、二葉は白い雪に膝を折っていた。
「嫌。嫌。嫌っ。嫌ああああああああああああああああ!!」
両手で顔を覆い隠して、二葉は軋んだ金属のように吠えた。涙が雪に落ちる。
拘束具が外れたみたいに、赤紫色の光が二葉の身体から溢れ出す。
オルギア――。
あまりに突然のことで動けない。光に触れて、急速にしゅうっと溶けていく雪の音を聞くばかりで、足が固まってしまった。
これから何が起ころうとも無事では済まない。確信が身を貫いた瞬間、暴風めいた衝撃が俺の身体を宙にさらった。視界は屋上の柵を越え、青空を逆さに映す。
視界から得る理解よりも先に、嗅覚から得たミントの香りで状況を把握した。
「六花かっ」
「喋らないで! 舌を噛むわよ!」
ジェットコースターのような浮遊感は、地面にぶつかる衝撃には繋がらなかった。
危機を察知した六花は、下から超速度で迫って、俺をさらって地面に柔らかく着地したのだ。
抱擁を解いて、学院裏の地面に下ろされる。
「一人、無事!? ……くっ」
「おい、六花、どうし……ぐっ!」
頭痛が、『この疼痛……栢木のオルギアね』『嫌あああああああっ! 嫌ぁっ!』
割れるように声が、脳裏に。……これが、心の声というものなのか?
「……まずい、わね。徐々に拾える声が増えている。……く」
『お前、誰だ! 俺の心を覗くな!』『気持ち悪い! 気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い!』『あああああああああああ』『妖精。妖精が逆上がりをして赤色。Zキーの友達がマイナスドライバーのはさみが血。血。血』『出ていけ! 殺してやる! 殺してやるぞ!』
頭に植物が根を張ったのかと錯覚するぐらい気持ちが悪い。MRIにぶち込まれた気分だ。
「……これは。読心能力が、拡散してるのか?」
二葉は、リーディングはあくまで任意的に心の声を読むものだと言っていた。
……制御が外れて、拡散してしまっているのか?
ハウリングのように不快な他人の声。好意的なものより、悪意があるものが一層大きく聞こえる。ノイズみたいに脳をかき乱した。……これは、思ったよりこたえる。
「これじゃまるで、心の結合、だね」
俺はまだいい。うるさい、その所感だけで済む。だが、ちゃんとした心を持っている者たちにこれは一体どう響くのか。
「うう……っ、あああああああっ!!」
六花が頭を押さえて叫んだ。ああ、君でさえそうなのか。
半ば諦観を示し始めた俺とは対照に、六花は抉れる程の勢いで自分の唇を噛んだ。
暴力的なまでに赤い血が、涙のように彼女の口元に流れる。
「……く。私が、止めるわ。……私しか、いないものね」
オルギアの影響で、性格が変わったのかなと思った。
普段の六花なら、俺以外の他人なんて心底どうでもいいと言い切りかねない。
「間違ってない。……でも。約束、したから」
六花は屋上を数秒見つめると、頭を押さえながら、よろよろとその場所へ歩いて行く。
その数秒、彼女が何を思ったのかが聞こえた。
『謝らないわよ、栢木。……だから、あなたも、そうしなさい。……さよなら、宿敵』
約束。……そうだ、俺も行かなくちゃ。
刻限まであと少し。俺は頭を押さえながら、裏山を越えにかかる。
それほど高くない、頂上にある一本杉の下で、一度だけ後ろを振り返った。
屋上に光るは、沈む夕陽のオレンジと、侵食してくる夜が混ざったような赤紫色。
オルギアの収束条件はたった一つ。ウィッチの死。
だから、この声と頭痛が止まった時、二葉は。
「……せめて、祈るよ」
どうか彼女が、最後は安らかに逝けるといい。壊れたロボットの面倒を見続けた見返りとして、それぐらいの報酬は受けるべきだと思った。
その程度にしか、思わなかった。
最期の瞬間は、あっけなかった。
零時で時が止まったままの時計台の風車が、カラカラと空回りする音だけが聞こえる。
待ち人は来ない。
愛想をつかされたか、それとも、あいつも死んでしまったか。
時計塔にもたれかかって、頭に響く声と自分の思考を他人事のように見つめていると、今まさに自分が踏破してきた小さな山で、銃声が響いたことに気付く。顔を上げた。
黒髪の女性が、まるで物語のように暴漢二人に追われていた。暴漢というのは正しくないか。
おかしくなってしまった軍の人、か。無理もない。
「殺せ! こいつが元凶に決まってる! 殺せ!」「この声を止めろっ!」
「いや、いやぁっ! 助けてぇっ! ……お父さん、お母さぁん!」
ああ、あの子死ぬな、と即座に悟った。
知らない顔だった。きっと、島民ではないのだろう。
彼女が最後の下り坂でつまづく。転がり落ちたのが功を奏して、銃弾は彼女を捉えなかった。
だがそれも最後の幸運。この平地に辿り着いたが最後、彼女は弾丸で身を飾る。
誓って言う。見たことのない顔だった。いや、それがもし知り合いでも、俺には起こり得ないはずのことだった。でも、奇跡は起こった。
俺は、磁石に吸い寄せられたように彼女へ向かって走り出していた。
俺には俺が理解できなかった。意思とは関係なく、身体が動いていたのだ。操り人形みたいに。
人より少し速い俺は、間に合う。坂を転がり落ちた彼女の前へと躍り出た。
両手を広げて。まるで、十字架でも背負うように。
人差し指を曲げるだけで人が死ぬなんて、滑稽だな。
そんな思考と同時に、頭に響いていた声が消えた。
「……二葉」
最期の瞬間は、あっけなかった。
途切れゆく意識の中、二つだけわかっていたことがある。
後ろの彼女が、無傷だったこと。……そして。
本当に最期の一瞬、ミントの香りがしたということだ。
これにて、ひとりのルナティック、雪白一人の生涯は終わった。はずだった。




