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Chapter: 1  Original 5 Days

七時になると、自動的に目が覚める。

二月の外界に接続している自室の窓を、高性能な緑の悪魔が容赦なく開け放つからだ。

二秒で、窓際のベッドは南極になる。

「うぐ……。寒っ……!」

「ナニー。ソレハタイヘンダー! アッタメナキャー!」

俺が起きるのをためらうと、奴は棒読みを携えて、制服のまま布団に忍び込んでくる。

いきなり至近距離に現れた、柔らかくていい匂いのする熱源が、触手のように両手を伸ばす。

「……いないっ!? セミがメランコリック!?」

「それだと鬱な蝉になっちゃうよ。引きこもりだけどね、あいつら」

空蝉を決めて、ベッドから脱出した。身を刺すような寒さに、靴下を履くことで抗う。

「むむむ。いっつも起動からは早いねぇ。ウインドーズエイト? ってカンジ」

「じゃあ窓を開けるのも八時にしてくれない?」

「却下でーす」

布団の中から顔だけをひょっこり出して、二葉は冷めた表情を俺に向けた。

毛布にやられて少しボサついた緑の前髪には、茶色い丸太のヘアピンが十年以上変わらず定位置についている。

「何度も言ってるけどさ。この朝イチのウィンドウ開き、他の起こし方にはならないの?」

「マックでぶん殴るとかならいいのん?」

「宗派の問題じゃないよ……。寒くて、イヤなんだ」

「知ってるー。顔に書いてあるもん」

わざわざ言わなくても、栢木二葉(かやのきふたば)には、俺の思考がわかってしまう。

彼女たちとは、腐れ縁。切っても切れない縁。

他にもそういう奴らはいるが、特に二葉と六花の二人ほど、この言葉が適する奴らはいない。

「でも結局コレが一番起きてくれるからさ。やだったら自分で起きてみなっ」

「わかった。じゃあまず、虎を屏風から出してくれ」

「諦めハヤスギ! ……もー。相変わらず一人くんは、人として色々欠けてるナー」

おっと。今日はいつもより口撃がトゲトゲしいな。

ゆうべ六花の家に行ったらしいけど、また喧嘩でもしたのかな。

「手厳しいね。遠慮の持ち合わせは?」

「……遠慮~? そーいうの、どうでもいい人でしょ。一人くんはさ」

「よくお分かりで」

実際、その通りだ。さすが二葉先生と言ったところ。

「当たり前じゃん。なーんでも、お見通しだよ?」

俺は参りましたとかぶりを振って、速攻で制服に着替え始めた。

開いた窓から流れ込む、澄んだ早朝の空気は白く冷たく、眠気をスマートに連れていく。

身体が否応なしに震えて、足早に二葉が付けてくれたハロゲンヒーターに近づく。

島の二月の朝は、寒いを通り越してもはや痛い。

当社比二倍の速度で、真っ黒に赤のラインの入った制服に着替えた。

「お待たせ。ヒーター、感謝するよ」

「なんのなんの。眼福だったもん。特に背筋」

「次からお金を取ろうかな。ヒーターだけじゃ、お釣りが足りない」

「今日の朝、ホットドッグにしたー。旦那の好きなコーヒー、もう淹れてる!」

「グラシアス。君のコーヒーの為に生きてるよ」

お釣りを受け取るはずの手のひらを、くるくる返した。

「今無音カメラで撮った分もそれで許そう。顔洗ってくるから座ってて」

「うげ、バレてた……。あいよー」

歩いて行く先で日めくりカレンダーが揺れた。二月十一日、木曜日。

十七歳も半分以上終わりか。早いものだ。

「さて。今日も一日、お勤めと行くか」



「ねー、一人くん。明日の放課後は予定入れんでねー。あたしにちょーだい」

「うん? どうして? 明日はロードショーが天空の城だったと思うから、万全を期したいんだけど」

「アレ一年に三回くらいやってるよね。あたしは豚さんのやつが一番好き。……じゃなくて、それまでには終わらせるからさ。四十秒で支度するから! たのむよ!」

居住区から伸びるアスファルトには、ロードヒーティングが施されているせいで雪がない。

定規で引いたみたいな真っ黒な道が、島一面に広がる銀世界とのコントラストを演出する。

車通りの少ない、けれど大きな三叉路で、二葉は俺の一歩前に出て頭を下げた。

百六十を少し越えた、焦げ茶のコートに身を包んだ柔らかそうな二葉の身体が、柳の木みたいに折れ曲がる。二葉がこういう風に、真剣にものを頼んでくるのはめずらしい。

「構わないよ。何を……、って、ああ」

そうか。ロードショーということは、金曜日か。

「うん、部会! やるから! 今月はまだやってないし、大事な話もあるんだー」

部会。

国立有架学院天文部の、月イチの集まりだ。大体金曜日に開催されることが多い。

部室を使って、宇宙や天体のことについて語り合う。実際の観測会も不定期で。

金曜夜に曜日を設定しているのは、そのまま部会から天体観測に移行しても、休日を挟むので学業に支障をきたさないからだ。

特殊棟屋上に併設された天文ドームと、崇高な理念を持ち合わせた、学院公認の部活。

と、なっている。書面上では。

実態は部活とは名ばかりのただの遊びの集まり。

教官も殆ど来ない部室は、今やただのたまり場だ。

「了解。今回は何をするんだい? また天文部らしくスター鑑賞会にするか」

「次、蛍光灯をセイバーにしたら宇宙のチリにするからね。しくよろ」

「フォースのせいだよ。宇宙の意志だ。……しかし三柑、まだ怒ってるのかな」

ウォーズの方の鑑賞会をした。その時後輩に「あの金のロボ、三柑に似てるね」と言って以来、まだ口を利いてもらえないでいた。

「C3呼ばわりはあたしでもキレるわい……。わかんなくても、とりあえず謝っときなよ。女アイテには有効。三柑ちゃん、構ってほしいんだよ。あたしにはわかるぞー」

「二葉は、俺には明け透けだよね」

「だってあんた言わないとわかんない人じゃん。……分かってほしいんだけどナー、色々」

「……そう言われてもね。八百屋にサンマを注文しないでくれよ」

「あはは。そのセリフ、あたしが恋女房ってことでいい?」

「あの漫画の通りだと、幼馴染同士はくっ付かないけどね」

ぐぬっていた。髪がうすい抹茶色だから、二葉の渋面は言葉的に面白い気がした。

島の北部では、学生以外の姿はほとんどない。黒いブレザーに身を包み、その上からコートを着た学生たちは、各々のペースで学院へ向かっている。

学院への道は一本道で、道路の脇には人家がない。

島の中腹や東端に広がる、居住区に集められているからだ。

道路の右手には、濃すぎるほどの雪化粧をした森が広がっている。

迷いやすく、熊も出るので地元民でも入らない。軍の人も、入らないようにと厳命する。

そう、軍。

左手には、広大な軍の駐屯地が存在を主張していた。軍事演習は日常的に行われていて、授業中にもよく銃声が聞こえてきたりする。ヘリや戦闘機の離着陸も多い。

ただ、慣れてしまえば、どんな非日常だって日常になってしまえる。

港や商業区、ルナサイドモールあたりを軍人さんたちが歩いている風景は、島民にとって親の顔くらい見慣れたもの。共生関係は良好だった。

北へ、北へ。少し傾斜がかかってきた辺りを越えると、学院へ至る最後のポイントが見えてくる。向こう岸との断絶を言い渡す幅五メートルほどの川だ。

ここに、年季の入った石橋が駆けられている。三人までなら同時に渡れる小さな橋からは、この島唯一の自慢を見ることができた。

砂糖をまぶしたように真っ白な学校の裏山と、三日月の上端部分にある島の果て。

それらを境界のなくなった群青が優しく包んでいる光景は、渡る者の足取りを遅くする。

そんな橋の名前を、「溜息橋」と呼んだ。

「あたし今日はバイトとやることあるからさ、一人くん、みんなを赤紙っといてくんない?」

「了解。そう言えば、昨日六花と二人で会っていたようだけど、何かあったのかい?」

「……どーしてそれを?」

「蓮が、研究所に向かってる二葉を見たってメールでね。じゃあ六花と会ってるのかなと」

「……よけーなことを。今度脅しちゃお。あんま調子乗ってるとバラすぞこらーって」

今日は二葉の苦々しい顔をよく見る。かわいらしい顔が台なしだった。

「ま、いつものケンカとかじゃないから大丈夫だよ。ちょっとヤボ用。乙女の秘密~」

「なるほど。だったら手を引かざるを得ないね」

「……心配してくれたん?」

「もちろん。胃が万力で締め付けられたみたいだったよ」

こういう問いかけには、同調。そう身体に染みつけている。

「ふふ。ありがと、嘘つきさん。じゃ、教室行く前に明日の部活申請してくるから、一足先に行くねー。じゃっ。愛してんぜー」

駆けていく二葉の投げキッスを首をひねって避け、そのままなんとなく空を見た。

「やっべぇえええ!! 朝練! 遅れたっ!」

一年の吉川が、鬼の形相で矢のように速く空を飛んでいた。あいつ、また遅刻か。

十メートルくらいある学院の壁の近くで降り立っていた。飛べるのは楽そうで羨ましいな。

それにしても。

「平和だなあ」

起こしにくる幼馴染がいることも、軍隊が駐留していることも、空を飛ぶ人間がいることも、俺たちルナティックが、こうして普通に生きていることも。

慣れてしまえば、どんな非日常もやがては日常になってしまうらしかった。



昼休み前の最後の授業、数学を受けていた時のことだった。友愛数の話の時だ。

教官のベルトの臀部あたりについている左右のホルダーのうち、左に忍んでいたPHSが着信を告げる。寝ていた何人かが、柔らかいアラーム音を聞いて身体を起こした。

「私です。どうしました? ……そうですか。下ですか? 上ですか? 処理は終わって……いますか。そうですか。お疲れ様です。了解しました、すぐに向かいます」

初老の教官は、PHSを切ると深いため息をついて、慣れた口調で言った。

「お前たち、少し早いが四限はここまでだ。教室で自習とする。一階への階段はシェルターを閉じたらしいから使えん。食堂へは避難階段を使ってくれ。ではな」

足早に出て行った。こういうことも、もう何度目か。

露骨に喜びの声をあげることはなかったものの、次第にクラスメイトたちはそれぞれの友人のもとに集まり、談笑を始めていた。

その中でも、一際目立つ大所帯のグループがある。男子二に対して女子が五くらいで構成されていて、その雰囲気は華やかだ。髪色も明るい奴らが多く、うちの学年の中心だ。

ついでに、その五人の女子の熱視線は、一様に中心の男に注がれていることでも有名だ。

薄い赤髪のあいつは、琥珀を薄く伸ばしたような色眼鏡の向こうから、優しい視線で取り巻きのみんなを見つめ返している。

髪のセットが気に入らないのか、右手の指先で毛先を触っていた。

その手の甲に、赤い三日月の聖痕が見える。あいつのは、比較的わかりやすい位置にある。

四条蓮(しじょうれん)。人と話すのがうまい奴だ。だから、凄くモテている。

本人に聞いたことはないけど、多分あの対人能力は、ギフトが絡んでいるはずだ。

「よっ。熱視線に応えて参上したぜ。惚れてくれっか?」

油断すると、蓮は水のようにするりと前の空席に入り込んでくる。

「向こうの話はもういいのかい?」

「別に興味ねぇしな。あんまり有益な話はなかった」

「モテるやつは言うことが違うね。すぐに代えが利くわけだ」

「こればっかりは才能でね。嫌いな言葉だが、それ以外当てはまる表現がない」

こいつは、男には人気がないだろうなと思った。チャイムが鳴る。

蓮が右手で鉄砲を作って、天井を指差す。昼飯を持って移動することにした。



「毎回思うんだけどね、二月の屋上で昼食ってどうなの? 寒いんだけど」

「まぁそう言うなよ。こんなトコなんだから、せめて青春の様式美くらいはな」

蓮は道中購入したホットの缶コーヒーを俺に向かって投げた。受け取る。

朝と比べて暖かくなったとはいえ、まだまだ寒いからあったか~いコーヒーが染みた。

吐き出した白い息に、甘い匂いが混じる。

天文ドームへと登るはしごの横に併設されたベンチに座って、サンドイッチをかじった。

「何て言って抜け出して来たんだい? 毎日一緒に食べようって言われてたのに」

「部活の打ち合わせがあるって言ってきた。余計なこと喋りながら食うのは好きじゃない」

「演劇部に打ち合わせなんてないだろ」

「演劇部、とは言ってない。お前とオレは天文部だ。だったら、嘘にはならねぇよ」

蓮は整った顔立ちをコロッケバーガーの咀嚼で乱しながらそう言った。

演劇部始まって以来の天才役者。台本は一度読んだだけで完全に覚える。

百年に一度とまではいかないが、十五年に一度くらいの天才。らしい。

「相変わらず、詭弁がうまい。俺は利用されたってわけだね」

「そんなことねぇよ。最初からダベりたかったんだ。ちゃんとお前と友達やっとかないとな」

「それも本当かどうか。ま、いいけどね。別に」

「信用ねぇなぁ……。まあ、お前にも分かる時がくるよ。オレの海溝よりも深い人間性」

「あれ? なにこれ、水たまり?」

「この溝は埋まんねぇようだな……」

蓮は缶コーヒーの缶を一瞬で潰した。

「長いこと突っかかってくるね、君も。俺に何か期待したってムダだよ。わかるでしょ?」

「だからって何もしないのが嫌だ。オレは、ライバルってのが欲しいんだ。なってくれよ」

「……屋上への変わったこだわりといい、俺が言えた義理じゃないけど、君は変な奴だ」

昼食を食べ終えて、コーヒーも切れて、そろそろ寒い。

教室に戻ろうかと身体を動かしたところで、蓮が携帯を見て呟いた。

「カズ。今日の授業、もう終わりだってよ。……今回、対処に結構揉めたらしい」

「ああ、そうか。まあ、また誰か目覚めたんだろうなとは思ってたよ」

「……一年の吉川、知ってっか?」

「毎朝飛んでるやつだろう?」

「オシオキくらったの、あいつだってよ」

「うーん、そうか。いい時間の目印だったのになあ」

オシオキを喰らったんなら仕方ない。まあ、二葉がいる限り俺の寝坊はないからいいんだけど。

そんなことを考えていると、蓮は片目を瞑って苦笑しつつ、前髪をいじりながら言った。

「お前さ、やっぱ演劇部入んね? 鍛えるか? それなりにモノにはなるぞ」

「それはいいね。今晩じっくり考えておくよ」

今日の夜は何をしようかな。また漫画でも読むか。二葉に借りた本が……、って、ああ。

「そういえば、蓮。明日の放課後は部会をやるってさ。二葉が、全員集めろって」

「ん、明日金曜か。……ま、元々練習は休む予定だったしな。了解。あんまり遅くしないでくれって、部長殿にはよろしく頼むわ」

「悪いね。星海祭(ほしうみさい)の前に」

「別にいいさ。……お前も、なんかあったら一回くらいはオレに頼れよ」

「機会があれば。行けたら行く」

「一回死んでこいマジで」

蓮も続いて立ち上がろうとすると、一階下の音楽室からピアノの音が聞こえ始めた。

うっすらと開いた窓から流れるその音色は、俺達の足を不意に止めさせる。

影を針で縫い付けられたように、その場から動けなくなった。

「……相変わらず、上手いもんだね。いわゆる天才ってやつなのかな」

「天才? そんなのいねぇよ。馬鹿なのか?」

蓮はもう一度携帯を見て、ポケットに入れて俺の肩を軽く叩いた。

「ご指名だぜ。行ってやれよ」

「俺を? たまたま暇してるだけじゃないの? まあ、部会のこともあるし行くけどね」

「……わかってねぇやつ。まあ、仕方ないっちゃ仕方ないか」



階段を一つ降りて、特別教室棟の廊下をずんずん突き進む。昼休みの時間、こっちの棟にはほとんど人がいないから、音楽室に近づけば近づくほど、大きくなっていくピアノの音がよく響いていた。それにしても、心地の良い音色だ。

音楽のことが全くわからない俺でさえ、あいつのピアノはモノが違うとわかる。

何というか、暖かい。冬場に素肌で毛布に包まってる感覚に似たものがある。

音漏れで気持ち暖かくなった廊下の果て。突き当たりの二枚の引き戸の上には、「音楽室」のプレート。なぜかその上からみかんのシールが何個か貼られていた。

右側の廊下の窓から差し込む日差しに引っ張られるように、引き戸を開いた。

部屋の暖気と、生の音量になったピアノが堰を切られたように流れて俺にぶつかった。

この小さな城の主は、部屋の左隅で更に籠城するように、ストーブと窓とグランドピアノに囲まれていた。

小柄だ。それでも伸ばされた足は踊るような軽妙さでペダルを操っている。

細く伸びたオレンジ色のハイソックスをなぞった俺の視線は、インドア派特有の真っ白な素肌を寸刻かすめて、制服の胸部に一切引っかかることなく、砂金製と言われても疑えない、瑞々しい金のショートカットに辿り着く。

延髄まで届かないくらいの黄金の短髪に、額が隠れるまで被った黒のニットのコントラストが美しい。帽子の右前についたみかんの缶バッジは、個人的に推しポイントだと言っていた。

飼い猫みたいないつもの幼い顔は、溶けるみたいに音楽に陶酔していて、ある種の背徳的な官能を感じさせた。

「それ何だっけ。アラベスクの一番だったかな」

「……あー! 来やがりましたね、ミスター失礼」

「座右の銘は不謹慎。初めまして、ミスター失礼です」

「ご丁寧にどうもー。C3POでーす」

ドビュッシーが一瞬で星戦争のメインテーマになる。繊細な指が躍動していた。

「まだ根に持ってたの、それ?」

「極めつけに、胸はあっちの方がまだあるとか言ったの覚えてます!? ぶち切れですっ!」

秋山三柑(あきやまみかん)は、キレた猫みたいにふしゃっとこっちを睨みつけながら、弾いてるピアノを一顧だにせず、『怒りの日』に切り替えた。よく喋りながら弾けるものだ。

「悪かった。まだ発展途上国だもんね」

「その言い方も何かムカつくんすけど……。ま、いいです。反省してるんなら!」

「途上国って、異常なほど高層建築物建てたがるよね。浅ましいよね」

「でかくなりたいんですよっ! やかましいです! あの、反省って知ってますか。反省っ」

「俺の辞書に反省の二文字はないんだよ」

「……貧乳の二文字も消してくれませんかね?」

三柑は深いため息をつくと、テンポが倍増しになった『悲壮』を弾き始めた。

表情と共にころころと移り変わる三柑のピアノは、もはや身体の一部に見えた。

「……やっぱ寒い! 窓閉めますっ」

三柑は演奏を中断して身体をさすると、立ち上がって少し開いた窓を閉めた。

俺はいつもの指定席である、ストーブ横の木の椅子に座る。

外から来たばかりの身体に、灯油の匂いと炎が染みた。

「今日は授業中止だってね。もう聞いたかい?」

「はっ、もちろんであります。……爆心地、自分とこでしたから」

「そうか。怪我はなかった?」

「あはは、お優しい。だーいじょぶです。自分、小型高性能の日本製品なんで。当方危機察知と逃げ足には自信ありですよ。……ただ」

「ただ?」

「おひる、全部教室に置いてきちゃいました。お腹減ったよー……」

きゅるる、とタイミングよく三柑の腹が鳴った。

互いに無言になり、三柑は顔を真っ赤にしている。珍しい。マジ照れだ。

「くっ……殺せ……」

「落ち着け、女騎士。ここに余ったたまごサンドがある。君にあげよう」

「ええっ! それマジリアリーですか!?」

素で言ってるんだよな、三柑は。天動説信じてたしな。頭痛が痛くなってきた。

「色んな意味で憐れすぎる。さすがの俺も施しを辞さないよ」

「……あー、でも、男の人からご飯を奪うのは……」

「今日は朝を食べ過ぎたんだ。遠慮しなくていい」

「……そうっすかー? では、いただきます」

手渡したたまごサンドをもしゃもしゃと、小動物のように食べ始める。

ふと、俺の目はピアノの譜面台に吸い寄せられた。

三柑は譜面を使わない。だからいつもそこには何もないはずなのに、今日に限っては違った。

一通の白い便箋が、縦になって置かれてある。

「三柑。その便箋は何だい?」

「あ、これっすか? ……ただの、赤紙ですよ」

ここは掘り下げようか。……いや、いいか。まずは目的を果たさないとね。

「おかしいな。まだ配ってないはずなのに」

「へっ? 何がですか?」

「二葉キャプテンから召集令状が届きました。明日は部会だよ」

「あっ、マジですか。全員集合っすかー?」

「そうなるだろうね。六花も来るよ」

サンドイッチを食べる手がピタリと一瞬止まった。予想通りの動きだ。

「あ、あのー。明日は予定があるかなって」

「へえ。どんな予定かな?」

「お、お腹が腹痛で痛くなるか、おばあちゃんが急病で事故死する予定です!」

病院で見てもらうのは頭にしたほうがいい気がする。第一、俺達はふつう親類に会えない。

「断れないよ、三柑。俺は弱味を握っている」

「そ、そんな覚えはありません!」

「おいしかったかい? 弱味って、サンドイッチの味がするらしいね」

後一口で全てを食べきる、といったところで三柑の動作は完全に静止し、絶望に染まった。

「タダより高いものはないんだよ。勉強になったかい?」

「さ、詐欺師! 詐欺師がいます! 罪悪感とかないんですか!?」

「ないよ」

「あ、そうだった。こういう人だった。……むー。頑張って、柊センパイに言っちゃおうかな」

「あ、やめて? その術は俺に効く……」

六花にバレると、この子に構っていたことで面倒になる。

三柑は観念したように深いため息をつくと、たまごサンドの袋を合掌してくしゃくしゃにした。

そのまま投げてきたので、華麗にキャッチする。

「快諾したって伝えておくよ」

「また呼吸するように嘘を……。うー。柊センパイ、うまく、喋れないっす……」

三柑は頭を抱えるみたいに両手で帽子を押さえると、こっちを向けていた身体を再びピアノに向けて伸ばした。鳴らすのは数音、それだけでも磁石みたいに意識が吸いつけられる。

「センパイ、自分に来て欲しいですか?」

「三柑のいない人生なんて考えられないよ。来ないと世界が滅びるよ。いいの?」

「……相変わらずイミフです。ふふ」

ふむ。『喜びの歌』か。わざとわかりやすい曲を弾いてるのかな。

「まー、そこまで口説かれたら、自分も女子なんで悪い気はしません。行きまーす。……ところで、何かリクエストはありますか?」

自分の左側にある窓から、外の景色を見渡した。

分厚く堅牢な防壁と空以外、何も見えない。ふと、ある映画のワンシーンを思い出す。

「じゃあ、『そよ風に寄せる』がいい。弾けるかい?」

「センパイ、謎に守備範囲広いですよねー。……ほーい、オーダー入りまーす。ソーハンイー」

中華料理店の店員のようにおどけてから、三柑は鍵盤に指を滑らせていく。

オレンジ色の優しい空気みたいなものが、やんわりと音を伴って教室に染みる。

感化されて、映画にちなんだセリフを吐いてみた。

「なあ、三柑。音楽は自由かい?」

「……んー。そうっすねえ」

手も、考えも止めないまま三柑は斜め上を見た。くしくも、答えの方角と同じだった。

「そんないいものじゃないですよ。音楽なんて……」



「んー。夜は、冷えるな」

暦の上で春になったとはいえ、陽が落ちるのはまだまだ早い。零度を下回る寒気は、図書室の暖房が連れてきた眠気を一瞬で消し去る。島の夜は、やはり凍える。

武装した守衛さん二人の間を通って、硬質な門から出た。

ふと、ポケットの中の携帯が震える。震え方でメールだとわかり、手袋を外してチェックした。

相手は、二葉。

『全員召集したかーい? ひとりでもサボってたら、今晩のごはんはドッグフード♪』

「尊厳を人質に取るとは……」

そういえば、後は六花だけ誘っていない。誘えばすぐ来るのは間違いないが。

「木曜の六時過ぎか。だったら研究所かな」

携帯を使えば楽だが、六花は研究中に携帯を見ないからな。このまま帰ると飯がエサになる。

人として、それだけは嫌だった。

「ほんと、何でもお見通しだね。二葉には……」

弱点を突かれたらお手上げだ。帰りの途中、研究所に寄っていくことにした。

溜息橋を渡らずに、川沿いを東へ、東へと進んでいく。学院から研究所に向かうには、通常また橋を越えて、三叉路に戻って、居住区へと帰る道の途中で、森をぐるりと囲む一本道に入らなければならない。これが結構遠回りだ。

しかし、川沿いに島の反対側まで歩いて行くと、実は森を迂回せずに研究所に辿りつくことができる。島民も知る人は少ないが、実は研究室の裏にも橋が架かっているからだ。

橋を渡り、森の奥にある閑静な研究所の敷地の前に辿り着く。

門の前で、虹彩認識。異常なくらい蒼い瞳が、数秒のチェックに晒される。

『雪白様、お通り下さい。優先度Sでお通し致します』

機械音声は流暢なのに、どこか冷たい。

硬質で無菌室のように白い研究所の中を、勝手知ったる家のように進んでエレベーターへ。

迷うことなく八階のボタンを押した。降りて、右から三番目の個室をノックしようとする。

「一人ね。待って、開けるわ」

扉に遮られて少し小さくなった声が、比較的弾んだ様子で飛んできた。

「まだノックもしてないんだけどな」

「空気の揺らぎでそれぐらいわかるわ」

内に向かってドアが開かれる。

気付けば、俺は宇宙船の窓が割れたみたいに中へ吸い込まれていた。

引き締まった、しかし女性特有の柔らかさに包まれていた。瞬間移動か?

「六花。いきなり超スピードで抱きしめるのはやめよう。地球がやばい」

「大丈夫よ、音速は越えてはいないはずだし。……久しぶりね。会いたかった」

身体を解放されて、見慣れた六花の個人研究室の全貌が目に飛び込んでくる。

高価そうな文献の山が、作り付けの巨大な本棚に整然と並びたてられている。パソコンのモニターは複数あり、開いてある研究報告はおそらく英語で、俺では読むことができない。

部屋の中央には、彼女が俺と同列に愛したチェス盤。これを見るのは久しぶり。

視界は遠景から近景へ。珍しく喜びに溢れている彼女の姿を見つめてみた。

あらゆる面で人間を超える彼女の身長は、一七〇を越えている。

身体のどこも異形と化してはいないが、容姿の美しさも常人を超えている。

余計な脂肪がなく芸術品のような彼女の肢体は、黒の制服と羽織った白衣に包まれていた。

怜悧な印象を受ける水色の双眸は、シャープな紺色の眼鏡を通してもなお、眼力がある。

青と水色の中間くらいの髪は、腰に届くか届かないくらいに伸ばしている。

絹のような艶やかさが、蛍光灯の光の照り返しでわかった。

彼女が右手で髪をかき上げると、ミントのように爽やかな匂いがした。

古ぼけた西洋絵画から出てきたみたいに、柊六花(ひいらぎりっか)の美しさは浮世めいている。

包みこまれるような可愛さをまとう二葉とは対極に、六花には日本刀のような美しさがあった。

「一人、今日は何をしに来たの? 震えたの?」

「寒いからね。会いたくて会いたくてそうなったわけじゃないよ」

視線を逸らして、研究室を見回した。モニターの中に広がる資料は英語だと思っていたが、どうやらそれだけではないようだ。二行ごとに言語が変えられている。読めない。

六花は、自分の日記とか他人に読まれたくないものに、こういう暗号化を施す癖がある。

「……相変わらず、私にはつれないのね」

「そんなことはないさ。今日来たのは、デートのお誘いでね」

目が輝くという表現がまさにふさわしい顔をしていた。相変わらずだ。

この子が怖い人間がいるらしい。怖いって何なのかな。

「今日はこれまでにする。帰る用意をするから、待っていて」



「今日は学院にも来ず、何をしていたんだい?」

「あなたのことを考えていたわ。ずっとね」

「いつも通りルナティックの研究か。君も飽きないね」

「……時間、ないから。それに、この時期は雑務も増えるの。学院に行く暇なんてないわ」

「この時期? 何かあったかい?」

「……忘れたの? もうすぐ、星海祭じゃない」

「ああ。なるほどね」

星海祭。

毎年二月十四日に行われる、島総出のお祭りだ。

この近辺だけは、本土から人が来れる。最近は増加傾向にあるらしい。

島民と本土の繋がり。現実世界へと続く一方通行の扉。島は、それを祝う。

島民の祭りに賭ける熱い思いは、少数民族の民間信仰じみたものがある。

そうか。星海祭が近いのか。だったら、二葉の要件もそれに関するものだろうか。

「そう言えば、デートのお誘いだけどね」

「行く。月でも」

「さすがに君でも宇宙は無理だろう。……明日、部会をやるよ。全員集合だ」

「……それはデートじゃないわ」

眼鏡の奥の目が露骨にくもる。その眼鏡も、相変わらずだね。

「デートはこの帰り道ってことじゃダメかい?」

「駄目よ。デートとは、もっと特別」

「普通こそ、この世で一番の特別だって言うじゃないか。理解はできないけど」

「その境地に至るには、まずは特別を経るべきだと思わない? 私と特別になる?」

「別にどっちでも。人間、よく分からないけど。それでいいなら」

自分にとっては何気ない返し。けれどそれは、彼女が沈黙するには十分だったらしい。

「意地悪ね」と呟く彼女が瞬間見せた幼さは、年上の彼女のイメージを逆転する。

「悪気はないんだけどね。……今回の部会は、絶対に全員に来て欲しいんだって」

「……そう。もしかして、栢木がそう言ったの?」

「そうだね。珍しいよ、今回は。いつもは自由参加だよーって言うのに」

「……でしょうね。あいつなら、そうするわね」

六花はたまに、自分の答え合わせをするような質問を俺に投げる。

計算過程をすっ飛ばして、答えだけ書いてある数学の答案みたいだ。

「……了解したわ。必ず行くと伝えて」

だから、どんな過程を経てその答えに辿り着いたのか、俺にはわからない。

全員が揃う部会は、いつぶりか。とても珍しいことだった。

「お休み、一人。久しぶりに帰れて、嬉しかった。……明日は、昼からちゃんといるから」

「ああ、お休み。……そういえば、チェス盤、まだ持ってたんだね。昔、病室で見た以来だ」

「当たり前よ。私の、宝物」

力強く断言する姿に、幼き日の面影はもはやない。

「なあ、俺も今から勉強すれば、六花にチェスで勝てるかな?」

「二十年早いわ。奇跡でも不可能ね」

「ははは、厳しいな。手加減してくれよ」

「嫌よ」

刀を振り下ろすような鋭い答えを残して、彼女は去った。

「私、負けるの嫌いなの」


役目を全て終え、マンションの門にもたれて息を吐く。霧のように、白い。

同じく限りなく白に近い、オレンジ色ともクリーム色ともつかない前髪を引っ掴む。

相変わらず何の感慨も湧かない。そのまま、蒼い両の瞳を空に向けた。

「月でも行く、か」

雲一つない満天の星空に、偶然一つの流れ星。何の願いもないことに気付く。

あるとすれば、少しはまともになってみたい、だろうか。

散らばる星々を、全て吸い込んでしまいそうなほど大きな月が浮かぶ。

あと数日で、満月だ。

「俺達が行けたとして、それはどっちなんだろうね。六花」

どんな絶望よりも深い蒼を宿した月が二つ、異世界への洞穴のようにこちらを見ていた。


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