優しい世界はどこにある
「先生、この世界は優しくない」
僕は扉を開けると同時にそう言った。カルテに何かを書き込んでいた先生が顔を上げ、メガネで小さくなった細長い目をさらに細長くする。
「どうしたんだい?ハム君」
ハム君、とは僕のことだ。僕がハムスターのようにきょどきょどしているから、と先生は言って僕にあだ名をつけ、そう呼んでいる。
僕は息を吸って
「だって、僕は人と違う。」
「うん、そうだね」
「みんなが楽しく暮らしているのに、僕だけ悲しい。みんなの話にもついていけないし、僕が発達障害だからみんなが変な目で見る。嫌だよ、悲しいよ、怖いよ」
「ちょっと落ち着いて、ハム君。」
「落ち着けないよ先生。僕だけ違う、みんなとは違うんだ」
先生はうーん、と唸る。
「どうして僕はこんな風に生まれてきたの?僕はこんな体になりたくなかった!どうして僕だけ・・・」
「それは違うよ、ハム君。君だけではないよ。」
「他にもそんな人がいるんでしょ?わかってる。でも僕は悲しいんだ、今、僕が悲しんでいるんだ。もう嫌だよ、こんな世界」
「ハム君」
先生はカルテを閉じ、僕を見つめる。
「君は余裕がないようだね、今日何かあった?」
「バイトを首になった。僕が仕事できないから、僕の名前だけシフトから消されてた。」
「そうなんだね」
先生が悲しそうにうつむく。窓から涼しい風が入ってくる。
「僕はどこへ行っても、うまくいかない。うまくいったことがないんだ。こんな世界、消えてほしい、いや、僕がいなくなりたい。」
「ねえ」
風がカーテンを躍らせ、先生の髪を静かになでる。
「何ですか」
「君はこの世界は優しくないって言うけど、この世界が優しいって、誰が決めたんだろうね」
「え?」
「確かにこの世界は優しくない。君みたいに能力にばらつきがあったり、何か、かけているものある人にはそりゃあもう厳しい」
「そうですよね、だから僕は」
「でもね、この世界は美しいんだよ」
「・・・どういうことですか?」
「言ったとおりだよ、この世界は優しくない、でも美しい。私はそう思うんだ。」
「先生がそう思うんですか?」
「そう、だからここからは私の主観だよ。」
そう言って軽くほほ笑む。
「例えばね、障害者、もしくは人と違う人がいる。その人たちはうまくやらないと、社会ではやっていけないんだ。ここで、世界は優しくない。」
「はい」
「でもね、その優しくない世界で君たちは頑張ろうとしている。社会でうまく立ち回ろうと必死で頑張っている。それが美しいんだよ」
「意味がわからないです」
「わからなくていいよ、私の主観だからね」
だから、と先生は続け
「私の結論としては優しい世界なんて、甘い考えだ。この世界は厳しいよ。そんな厳しい世界で生きていくためには」
「生きていくためには?」
「ハム君が自分を受け入れ、君がどう動くかを考えていくんだ。この世界は厳しいけど」
先生はグローブを机から取り出して
「君のいる世界とキャッチボールをしよう。君がどうするかを決めたら世界に「僕はこれをやるぞー」ってボールを投げる。幸いハム君のいる世界はその球を返してくれるよ。でももしかしたらそれはどうしようもないことで、剛速球で返ってきて、ボールを取り損ねた君が傷つくかもしれない。もしかしたらコントロールがきかなくて君の手元にボールが来なくて拾いにいかないといけないかもしれない。それでも投げ続けて、ボールを受け止めて、の繰り返しをしよう」
僕はしばらくその言葉を反芻するけど
「・・・やっぱり僕にはその話を理解できません」
先生は再びにこっと笑う。
「だろうね、私が今、勝手に作って言っているだけだから。」
先生は目をさらに細くして
「要するに、ハム君のいる世界はハム君が受け入れることで世界は変わる。君はもっと楽に生きなさい。今のハム君は押しつぶされてるよ」
「・・・」
「生きづらいだろうけど生きなさい、そして、君は笑って過ごしなさい。そうすることで救われる人もいるんだ。どうだい?そう思うとここは美しい世界だろ?」
「先生は救われますか?」
「君が笑ってくれたら安心するよ。それと」
メガネの奥の瞳をきらめかせ
「君は十分に世界から愛されているよ、だから、泣かないで」
先生がティッシュを僕に差し出す。
きっと、ここだけ、この一室は優しい世界なんだと感じた。