芸術と芸術「的」なものの違い
パスカルが「真に哲学するとは哲学をバカにする事だ」と言っている。パスカルはおそらく、様々な形骸化の問題について、そういう一言で本質を貫く言葉を残していたのだと思う。
これを自分の領域に置き換えると、「真に文学するとは、文学をバカにする事だ」という事になる。これもまた、パスカルの言うように真実であろうと思う。ちなみに、これをもっとも適正に実行したのは、セルバンテスではないかと思う。近代小説の始まりたる「ドン・キホーテ」は正に、「(当時の)文学をバカにした真の文学」だった。
別にパスカルの言った事に僕は何かを付けたそうとは思わない。あらゆる思想、政治、芸術、制度が時代により形骸化する。古代中国の禅の坊さんなんかはその辺りの事をよく心得ており、自分の言う事が教義となる事をかなり恐れていたように思う。ソクラテスなんかが、書き物ではなく、話し言葉を重視したなんてのもそこらに原因があるのかもしれない。つまり、そこで言葉の意味が固定化し、それを後の人がそう捉えると、それは形式化し、形骸化するという問題だ。この時、いきいきした精神は言葉にとらわれてしまう。
我々は言葉を使っているが、それに囚われるか、それを使用するかでは微妙な異なった態度を持つ事になる。相変わらず、創作という困難な行為に対して、方法論一つあれば十分だという考え方があるようだが、辞書を持っていれば英語が十全に話せるというわけではないだろう。例えば、僕がアニメ、ゲーム、小説を作るとして、僕はその創作の際に一々、手元(脳内)の方法論を参照して作るのだろうか? これは馬鹿げた事ではないかと思う。もちろん、そんな時もあるかもしれないが、根本的に人生というもの、現実というものは、そういうものではないと思う。マニュアルがあって、その通りに作ればそれができるという発想を持っている人間は、マニュアルではどうにもならない領域に敗れ去るだろう。あるいはそれらの人はついにその領域を見ないのかもしれない。
あらゆるものが形式化し、教義化し、マニュアル化する。それは免れる事ができないし、それ自体適正な事でもある。しかし、現代の純文学とか、クラシック音楽、現代アートなどの領域では、『芸術的』なもの=芸術という定式を本気で信じている(信じる事によって成立しているアーティスト)が多数いるのではないかと思う。僕はそれは嘘だと思っている。芸術というのもまた、「芸術をバカにする事が真の芸術だ」と言える領域があると思う。真の芸術と、芸術『的』なものとは似て、非なるものだ。僕はそう思う。一例を上げれば、朝吹真理子とプルーストは似て非なるものであり、中村文則とドストエフスキーでは似て非なるものであるという事だ。それらは互いに、本質的には全く違うものだ。それはあまりに違うものであり、ただ、後に出てきた作家らが身につけた衣装がやや、その前に出てきた作家に似ているという事だけだ。本当は全く違う。
僕などは、ベートーヴェンが現代に生きていたら、シンセサイザーもDAWも平気で使っただろうと思っている。しかし、そうなるとベートーヴェンというパーソナリティ、独自性は全く謎になってしまう。ベートーヴェンという独自性は完全に霧の向こうに消えてしまう。
しかし、オリジナリティとか創作というものは、この霧の中から生まれてくるのであって、『芸術的』なもの、『芸術的』な雰囲気から生まれてくるのではない。最近はそういう事を考えている。