【物語】い と し せ よ
鏡に映る自分が大嫌いで、ありったけの憤りをもって拳をそこに打ちつけた。
しかし、鏡はひび割れもせず、それはいともたやすく弾き返される。
自分の存在なんか、まるではじめからないかのように。
私は両手を握りしめた。指の間からは赤い血がしたたり落ちる。なにもかもうまくいかない己に歯がみして、もうどうにも貫くことができないあらゆることに敗した。
慈悲を請うかの如く、私は鏡に弱々しく諸手をつくしかない。
すると、鏡は打って変わり、柔らかくなった。
鏡は水面で、私の全てをおおらかに受け入れてくれた。
水はまことに嫋やかにしてあたたかく、私の器と成ってくれた。
拳の血と嗚咽は水に溶けて浄められ、あらゆる傷と痛みは祝福された。
血も、痛みも、傷も、浄いのだ。
私は黎明の胎内で、産声を上げた。
一瞬、私は気が付いた。
山からの激しい濁流の中、私は凍える泥水を飲みながら必死に足掻く。
陽も地も見えない。
私は木っ端でしかない。なんと脆弱にもてあそばれるのだ。
あまりの恐ろしさに気を失いたくなる。
視界に入った近くの岩肌にすがりつく私。
神様、お願い。神様、あと少し。助けて。
死にたくないよう。
暗転。
私は仄暗いどこかにいる。そこはうっすらとあたたかで、穏やかだ。
ここは地獄か?
「今から生まれるのだ」
声が私に教える。
「生きるのですか?」
「そうだ」
「なぜ?」
「なぜ、と?不思議なことを。それを決めていいのはお前だけ。では、お前の望みは?」
「しあわせになりたい」
「それでいいよ。しあわせにおなりなさい」
私は背の水面を直線に破り、青空に蝶の羽を広げた。
春の気流に包まれ、私は伸びやかに上昇する。
風と陽が、私に厳しく微笑んでくれる。
全ては祝福される。
瀬よ、私を祝福せよ。
(了)
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