F1201号室 林さん>>Scene.09
「パパー!」
元気な声で手を振る男の子の視線のずっと向こう。そこにはスラリと背の高い穏やかそうな男性がいて、その子を見ると笑顔で手を振り返した。
「あっこら!また走る!!」
「ごめんママ!」
謝るが足を止めない子供と、その先で早く早くと急かす父親の姿。しょうがない二人、と子供の背中を母親も追った。
そう。今日はピクニックなのだ。月に一度、恒例の。この建物の先に広がる、緑の地への。
「今日は燃えてないな〜」
背伸びをして外の景色をみる子供。その子供の頭がつい先日のそれよりも高い位置にある事に、父親は目を細めた。
「もう涼しいから、燃えないだろうな」
「えー」
「そのうち赤、黄、緑の三色に変身するぞ」
「……?!」
「その後は、ピッカピカの白だ」
「……雪?!」
「そう」
「やった!」
「パパったら気が早いわよ。まだ日中は結構な暑さよ」
笑いながらテーブルに手際良くバッグの中身を並べる母親と、それを手伝いに戻る子供。器の中は旬の素材の生命で満ち溢れている。
そう、今日は、日曜日。その早朝。
院内のカフェスペースでの、入院患者とそれに寄り添う人たちの集い。それぞれの日常が一つになるひとときが、静かに始まる。
「あのね、かけっこ、一位になったよ!」
「本当か?!コータ、よく頑張ったな」
「リレーの選手にもなったんだけど、そっちは抜かされちゃった」
「そうしょげるな。選ばれたのが凄い事なんだぞ」
男は、頬を膨らませた子供の肩をわしわしと揺さぶった。子供の体が笑い声と共に大きく左右に揺れる。
「それとね、ぼく前より3センチも大きくなってた!」
「そんなに伸びたら、そのうちパパを追い越しちゃうなぁ」
「去年の服がほとんど着られないのよ。もうビックリ」
「なのにまだ、背の順後ろから二番目なんだ」
再び頬を膨らます子供に、母親が笑いかける。
「問題はブロッコリーなのよ」
「んー……」
「ブロッコリー?」
「ねーパパぁ〜食べたら本当に大きくなれるのー?」
「え?」
「ママがそうだって言うんだもん」
「うーん……食べない子よりは可能性があるんじゃないか?」
「やっぱそーかぁ。タケル君、ブロッコリー大好きなんだって」
「ね、言ったでしょ?食べてみる?ほら、ここに入ってるよ」
「えぇー……」
他愛も無い、ごくごく普通の家族の風景がそこに在った。
男の子が苦手な野菜を前にもたついていたその時、パタパタという足音と共に、家族に声をかける者がいた。
「林さん、ピクニック中にごめんなさいね」
看護師長だった。夫婦は頭を下げる。師長は高まった呼吸を鎮め、林に向かって小声で言った。
「申し訳無いけど、大至急、谷脇『課長』の所に戻って頂けますか?」
「え?!」
「話が有るとの事で……」
伝達する彼女自身も詳細を知らないような表情だった。だが、彼女は看護師長で、谷脇は医師。林は患者だ。当然世間話の筈は無い。
今朝此処に来る前に、林は採血とレントゲンを終わらせていた。でもそれは、長い入院中頻繁に有った事だ。今朝のそれも何ら変わりは無かった。何だろう。何か、今までにない異常が見つかったのだろうか。
林は今にも噴き出しそうな不安を隠すべく、よし!と力強い掛け声とともに自身の膝を一打ちした。そして茶を一息に飲み干し立ち上がると、参ったな、何だろうね?とおどけた風に家族に話しかけた。
「ゴメンな。ちょっと行って来る」
「パパ、たにわきジョーシに怒られるの?」
「うーん……悪い事何かしたかなぁ?」
「……」
「大丈夫大丈夫!すぐ戻って来るから、な?」
曇り顏の息子の髪をくしゃりと震わせ、林は無言で妻に頷いてみせた。心配するな、と。そして、師長と共にその場を後にする。
その背中を黙って見つめていた子供は、急にフォークを掴んだ。
「コータ?」
「ママ、ぼくブロッコリー食べる!」
◇◇◇◇◇