F1201号室 林さん>>Scene.01
「パパー!」
元気な声で手を振る男の子の視線のずっと向こう。そこにはスラリと背の高い穏やかそうな男性がいて、その子を見ると笑顔で手を振り返した。
「あっこら!走っちゃダメ!!」
母親らしき女性の言葉などまるで異国の言葉であるかのように、そのまま目的の場所までその子は走る。ゴールで待っているのは、しゃがみこんで男の子と同じ背丈ほどになった男性と、その骨ばった大きな掌だ。
飛びついて来た男の子を受け止め、よしよし、と。男の子の頭を、肩を、背中を、頬を。男の掌はあたかも何かを確認していくかのようにポンポンと幾度となく触れ、その手の内に詰めようとしていた。
子供の後を遅れて到着する女性の肩には、大きなバッグ。手には子供が好みそうな柄の小さなバッグがもう一つ、水筒の頭が顔を覗かせていた。
そう。今日はピクニックなのだ。月に一度の。この建物の先に広がる、緑の地への。
「今日の外はすごく暑いのよ」
女性がテーブルに、手際良くバッグの中身を出して並べていく。白、緑、黄色、青、ピンク、オレンジ。カラフルなピックが器の中の食べ物を紹介してくれる。
「確かに昨日とは全然違うよ。今日は緑が燃えているからね」
差し出されたコップを片手で受け取り、男はもう一度、視線を元に戻す。もう片方の手は子供に取られたまま、小さな子供特有の落ち着きのなさに翻弄されている。煩わしさに払いのけたくなりそうなものを、男はむしろそうされたいかのように、子供の思う通り、時には指先にちょっとした悪戯も入れて楽しんでいた。
「ほら、コータ。パパの隣に座って」
母親が子供に語りかける。子供はうん!と素直に母親の言葉を聞き、男の座るソファにボスンと背中を投げ出した。
「パパさっき燃えてるって言った?どこ?どこどこ?」
「ははは。コータ、火事みたくメラメラ燃えてるんじゃないよ」
そうだなぁ、と男は逡巡し、ガラスの向こうに展開されている風景を指差し、くるり。円を描いた。
「ほら、景色がね?お日様の光がたくさん当たってるから、ギラギラ光って見えるだろ?」
「うん!」
男の子の目に映った景色も、キラキラと光っている。
「お日様がたくさん照らせば、葉っぱもどんどんギラギラになって来る。パパはそのギラギラに、今日の暑さとか天気を教えてもらってるんだ」
「そっかー」
家族のテーブルから少し離れて、一人コーヒーを飲む男がいた。瞳の奥に疲れが見え隠れしている。それもその筈、仕事を終え、この後自宅に眠りに戻る予定の男だ。
男の表情を訳すと、『まったく夢だくさん誤解たくさんな説明だな』。それから、『そろそろ退散するか。場違いな感が増してきた』。
親子の他愛ないやりとりに声無く笑い、それでもあの父親の言葉を反芻しているかのような沈黙を置いた後、男はコーヒーを飲み干し、その場を後にした。
男が席を立つのと前後して、先の家族以外にも、徐々に周りに人が増えて来ていた。同じような家族連れだったり、学生たちや夫婦、あるいは恋人同士のような二人もいる。バスケットに食べ物を用意して来ている家族、各々が好き好きに食べ物を持ち寄るグループ、……カフェで軽食を買う男女。そして、それを出迎える、此処の住人たち。
そう、今日は、日曜日。その早朝。
院内のカフェスペースで、外出できない入院患者とその支援者たちが集うひとときが、これから始まる。
◇◇◇◇◇