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綾子の勤め先となった製糸工場は、蚕の繭から生糸を精製する従来のようなものではなく、人工的に生糸を精製する近代的な設備を持つ工場であった。
仕事は二交代制で、早番の時には毎朝四時に起床し簡単な部屋の片付けや掃除をして五時には作業場に立っていた。生糸を紡ぐ回転車を一人につき五台ほどまかされ、細い生糸が途中で切れないようにチェックをしながら、もしも切れた場合は素早く補修をするという作業を延々と繰り返す。糸が切れても途中で車の回転が止まることはない。どんどんと回転は続くので油断をしていると生糸球がうまく精製されなくなってしまう。この糸が曲者で、本当に細いためによく途中で切れたのだ。そのため行っている作業はとても単純だが、一瞬たりとも気の抜けない、緊張感のある現場だった。
午前七時に朝食。この時間になるまでが毎日とても長く、また、わずかな休憩となるこの時間が綾子たち若い女工にとってはかけがえのないものであった。互いの労をねぎらい、少しでも楽しい話をして気を紛らわせていた。
朝食が終わると昼過ぎまで再び作業に追われる。
いっそ自分も機械の一部になってしまった方が楽なのに…
綾子は何度そう思ったことだろう。溜息をつく暇もなく、切れた糸を繋ぎ直すために指先はいつも痛みで赤く腫れていた。
こんな生活がいつまで続くのだろうか。綾子だけではない、作業をしている仲間たちすべてがきっと同じことを考えていたと思う。
昼食を食べ終わると、早番の場合、午後は勉強の時間となった。工場の敷地内にある学校で高等教育に近い授業を受けることが出来た。この点において、綾子はこの会社に感謝していた。もともと勉強が嫌いではなかった綾子にとって、午後の授業はとても楽しいもので、また、人間的な感情を取り戻すことの出来る大切な時間となっていたのだ。日々の労働で疲れきり、居眠りをする者も多かったが、綾子は睡魔に襲われることもなく、積極的に発言もした。知識が増えていくことが単純に嬉しくて仕方なかった。
夕方までの勉強が終わると夕食となり、それがすむと洗濯など、朝こなしきれなかった身の回りのことをし、夜八時には消灯となった。
綾子たち女工は六人部屋で、大概疲れ切って皆んなすぐに眠ってしまうのだが、翌日が休みの日などは枕を並べておしゃべりをしたりすることも多かった。ほとんどが仕事の愚痴だったが、時にはいわゆる“恋話”のような賑やかな話題になることもあり、そんな夜は遅くまで布団の中でワイワイ・キャアキャアはしゃいだりした。
同室の仲間の中で、綾子と特に仲が良かったのが吉永けい子である。けい子は綾子と同期で、出身地も近いことからすぐに打ち解け合った。他の仲間には言えないことでもお互いにこっそり打ち明けあったりもしていた。
「綾子ちゃんはどういう人が好みなの?」
「私? そうだなぁ…」
「当ててあげようか?」
いたずらっぽく笑うけい子は、年上の姉のような存在で、綾子はそんなけい子に振り回されながらもいつも一緒になって笑っていた。
だから決して辛いことばかりだったわけではない。日々の中で楽しみを見つけ出すことはそれなりに出来ていた。
そんな綾子だったが、工場に来てから二年目の夏、とうとう身体の方が先に悲鳴を上げてしまった。切れた糸を繋ぐために酷使してきた指先に激痛が走りようになり、どうにも我慢出来なくなったのだ。
綾子は実家に連絡をし、長野で新しい仕事が工面出来ないか相談をした。幸いにも長男の口利きで鉄道会社に就職出来ることになった。
あれほど仲の良かったけい子へまったく相談しなかったわけではないと思う。そして、けい子も綾子の身体を心配してくれていたに違いないという確信がある。ただ、どういう経緯があったのか分からないが、綾子とけい子は喧嘩別れという形で離れることになってしまった。後になって振り返ってみてもあの時何があったのか、綾子はどうしても思い出すことが出来ない。それは半世紀以上の時が流れた今でも同じであった。