◆ 3 ◆
「ようやく、だな」
父の位牌に手を合わせながら僕はそうつぶやいた。独り言のつもりだったのだが、背中越しに母が答えてきた。
「一年と少し過ぎちゃったけどね」
ホームセンターで購入した慎ましい仏壇へお茶を供えながら、僕の横に来て愛おしそうに父の写真を見ている。写真の中の父は生前には見た覚えのないほどの最高の笑顔をしていた。
父と母は、小さな街の小さな商店街で二十年余りお茶の小売をしながら僕を育ててくれた。しかし、近くに出来たスーパーやコンビニなどの影響で次第に商店街の活気はなくなり、そのあおりを受け店の経営も苦しくなった。いよいよ商売締めを決心したのは、僕が専門学校を卒業して今の出版社に就職をした二十歳の春だった。母が見つけてきたマンションの管理人の仕事の面接に合格し、その年の秋から住み込みで働くことになった。と同時に、僕は家を出て一人暮らしを始めた。
あれから十二年、もともと商売をしていたこともあり人付き合いが苦にならなかったからだろう、マンションの住人の方々にも好かれ、しっかりと働きながらも半ば余生のように静かな生活を送っていたように僕には思えた。
父の死後、管理人の業務を続けることは困難になり、母は管理していたマンションの近くのアパートに一人で生活をしていた。母を養うどころか自分一人の生活さえ汲々としていた僕は、そんな母にどこか後ろめたさを感じていた。母からは一言もそんなことを言われたことはなかったのだけれど…
「いよいよ明日でお父さんとも本当にお別れなのね」
父の写真から仏壇の上に乗せられた遺骨へ目を移し、母は本当に寂しそうにそうつぶやいた。父の実家が遠方にあることもあり、母はこの一年、公営墓地の抽選を待っていた。早く安らかな場所へ弔ってあげたいと思いつつも、たとえ遺骨とはいえ父の存在を身近に感じてきたこの一年は母にとってどういう時間だったのだろうか。未だに真剣に誰かを愛するということから縁遠い僕には母の気持ちは分かりそうで分からないものだった。
「お坊さんも一年くらいはゆっくりと探してみるのも悪いことじゃないって言ってたし、ちょうどいいタイミングなんじゃないかな」
「そうね…そうかもしれないね」
まったく、こんな時にはもっと気の利いたことでも言えないものか。
「魂はお位牌に移ってるんだろ? むしろ親父もホッとしてるんじゃないかな」
「そうだといいんだけどねぇ」
自分で自分の台詞が歯がゆくてたまらない。
しばらく二人で何を話すでもなく仏壇の前に座っていた。
「さて、夕飯の支度しなくちゃ」
母はそう言うと台所の方へ歩いて行った。
写真の親父は変わらずに満面の笑みを浮かべている。ふと僕の中である疑問がふつふつと湧き上がってきた。
なぁ、親父、母さんは本当に幸せだったのかなぁ。
死んだ人間に向かってなんてことを思っているんだ、と自戒しながらも、僕の中でその疑念はどんどんと膨れ上がっていった。