◆ 1 ◆
当時、僕には誰にも話したことのない気持ちがあった。
いつからだろう。思い出そうとしてもそれができない。ふとした瞬間、その気持はスッと頭の中に、いや、心の中に湧き上がってきた。嫌な感じでは決してなく、むしろ、ああまた来たか、そんな、まるで友人が訪ねてきたかのような自然で当然な気持ち。安心感すら抱いていた。
誰にも話したことがないのには訳があった。
それは、もし他人に話したら間違いなく心配事を増やしたり、嫌悪感を抱かれたりすることが目に見えたからだ。
そう、明らかにマイナスな気持ち。だが、僕にとってはその気持ちこそが日々の安定を図るために必要なものだったのだ。
「沢村。ちょっと」
僕は内心溜息をつく。この人はいつも切りの悪い作業をしている時に限って呼びつけてくるのだ。
「はい」僕は努めて快活に返事をして席を立った。藤崎部長の顔を見ると眼鏡の縁が異様な光を放ちながらギラギラしていた。きっとまた何かの小言かいちゃもんだ。
「田所先生への原稿の催促、どうなっているんだ?」
「はい、今朝一番で連絡を入れまして、先生が自室にこもって執筆されているということでしたので奥様にお願いをしておきました」
藤崎はさも嬉しそうに大げさに溜息をつくと、
「あの先生には直接言わなくちゃだめなんだよ。もう一度連絡してみて、それでも本人が出てこないようなら一度顔を出して様子を伺ってきてくれないか」
「締切まで一週間以上ありますし、まだそこまでしなくても…」
「そんなのんきなこと言って後でとばっちりを食うのはこっちなんだからな。分かってるだろう。お前ももっとチームリーダーとしての自覚を持ってくれよ。いいな、頼んだぞ」
藤崎は話はもう終わりだとばかりに自分のパソコンに目を向けてしまった。僕は少しだけ面倒くさそうなニュアンスをこめた返事をして席に戻った。隣の同僚が椅子を寄せてくる。
「藤崎さん、また奥さんと喧嘩したらしいぜ」
「やっぱりなぁ、朝のミーティングから機嫌悪そうな感じだったしな」
「お前、チームリーダーになってから何かと目を付けられやすくなったからなぁ」
「ほんと、いい迷惑だよ」
どうせ電話を入れても田所先生本人が電話口に出ることはほとんどない。イコール、僕が出向いて行くことはこの段階で決定していた。今日中に上げなければならない僕自身の原稿もある。僕はデスクの上の整理をちゃっちゃと済ませ、急いで席を立った。
「ちょっと行ってくるよ」
「頑張ってくださいね、リーダー」
同僚の皮肉めいた言葉を背に僕は出口へ向かった。
こんな時である。
最近では、こんなよくある簡単なストレスを感じた時にも例の気持ちが湧き上がってくるようになっていた。内容は決して笑えない軽いものではないにも関わらず…
---消えてしまいたい---
僕が誰にも話したことのない気持ち。それは、この世界から消えてしまいたいという本気の厭世観だった。