【短編小説】無花果
一.
蝉の声が姦しく響く夏の日。
強烈な日差しが、コの字型の校舎を白く染めている。色素の薄まった景色に、自分の影だけが黒く落ち窪んでいる、そんな高校三年生の夏だ。
静まり返った教室には誰もいない。
蝉の声も、生徒達の喧騒も、煩わしい教師の呼び声も、すべてが背景の向こうに遠のいている。
僕は誰もいない教室で一人机に向かっていた。山のように積まれた参考書やら問題集やらと睨めっこしながら、考えていた。すでにセンター試験まで半年を切っている。センター試験が終われば、すぐに私立、そして国公立の入試が始まる。余所見をすることは許されない。振り向くことも、立ち止まることも。ここにいる誰もが、その先に価値があるのだと、その先に輝かしい未来があるのだと、無闇に信じている。そんな夏だった。
ふいに教室の扉が開いた。
廊下から生ぬるい風が流れてくる。
そこに立っていたのは、同じクラスの村田繭美だった。
教室の入り口に立つ彼女の短くしたスカートの裾から、すらりと白く滑るような足が覗く。
僕は突然現れた彼女を見ていた。
「村田さん」
一言そう呟いたまま、言葉を失った。
繭美は同じクラスだったが、彼女との接点はただ同じクラスであることに尽きた。これまで彼女とまともに話したことさえなかった。僕にとって彼女は、ただのクラスメイトに過ぎなかった。また、彼女にとってもそれは同じはずだった。
「高坂くん、お疲れ」
「お疲れ」
僕らの会話はそれで途切れた。
今まで碌に話したこともないのだから、当然だ。僕は再び机に視線を戻した。
すると彼女は、一瞬、こちらに鋭い目線が投げかけたような気がしたが、それでも僕は知らないフリをしていた。実際、彼女は何も話さずに、鉄色のロッカーの中から何か自分の荷物を取り出すと、そのまま踵を返し、再び教室の扉に手をかけた。僕は机に向かいながらも、その所作をなんとなく横目で見ていた。
彼女は再び口を開いた。
「高坂くんって、いつもここで勉強してるの?」
「あ、うん。暑いけど静かだし集中できるから」
僕は彼女に話しかけられ少しどぎまぎしていた。
「ふ~ん」
彼女は、自分で聞いておきながら、気のないような返事をした。からかわれているのだろうか、そう思いながら、彼女の立ち居姿を見ていた。村田のことをまじまじと眺めるのはこれが初めてのような気がした。小さな横顔。白い首筋。まとめた後ろ髪が、汗のせいなのか少し濡れている。ドアのところに少しもたれかかった彼女のシルエットが、僕の瞼に焼きつくようだった。
彼女は、そんな余韻を僕に残しながら、アスファルトに浮かぶ陽炎のように、廊下の向こうへ消えていった。
僕はぼんやりとしたまま、それを見ていた。
翌日。
僕はいつものように家を飛び出すと、電車を乗り継ぎ高校へ向かった。夏色に染まった校舎が眩かった。
3―Dの教室は北校舎の二階の、一番隅にある。
毎日毎日、熱心な狂信者のようにこの校舎を訪れる。学校で勉強する理由は、余計な誘惑を排除したり、在校している教師に指導を受けたりできるメリットがあるからだった。
だが、どうしてこんなに必死になって勉強しているのか。そうまでして大学に行きたいのか。
大学に行った先に何があるのか。今の僕にはわからない。そしてその根源的な問いから逃げるために、僕は勉強しているのかもしれなかった。
薄暗い昇降口から階段を昇る。誰もいない長い廊下に、僕の足音だけがついてくる。
そして僕は立ち止まった。白く明るい光の零れる教室。見慣れたはずの自分の教室。
なのに、僕は少しだけ身体を硬直させていた。教室に誰かがいるのが見えたのだ。僕は何故か無意味にドキドキして、ゆっくりと、物音を立てないように、教室の入り口に忍び寄った。
僕の視界に飛び込んできたのは意外な人物だった。
「……村田さん?」
僕は小さく呟いていた。
驚くべきことに、繭美は僕の机の上に勝手に座っていた。まるで僕のことを待ち構えていたみたいに。
繭美は、廊下にぼさっと突っ立っている僕に気づいたようだった。彼女は、僕が現れても驚くような素振りを見せず、その切れ長な目を細め、甘く憎たらしいような声で呟いた。
「高坂くん」
彼女の唇が僕の名前を呼んだ。
昨日と違って、髪を降ろしていた。背まで届く長い黒髪だ。僕はいつか見た絵画の裸婦像を思い出した。彼女が僕のことを見つめている。まるで淫靡な夢を見ている心地がしていた。
わからなかった。
彼女が何を考えているのか。うまく反応できなかった。妙に彼女を意識してしまっている自分がそこにいた。
「村田さん、今日も来てたんだ」
数秒のタイムラグの後、僕はそんな空々しい台詞を吐きながら、吸い込まれるように教室に入った。すると彼女は何か意味ありげな調子で、机から降りると、汗に濡れた髪の毛をかき上げ、こちらへ歩み寄ってきた。
「待ってたの」
彼女が艶かしい唇を動かす度、僕の心臓は無性に高鳴った。汗で濡れた僕の身体は、呪われたように動けなくなった。
「なんで……」
僕はどうにか平静を保とうとしていた。
無機質な時計の長針が午後一時三十分を示す。
彼女は待っていた。僕のことを。でもどうして?
いけない。何か期待したらいけない。冷静にならなくちゃ。
だが、繭美はそんな僕を嘲笑うみたいに、黙って、そろりそろりと――焼きついたアスファルトで踊る陽炎のように――僕の元へ歩み寄った。
僕は磔にされた罪人みたいに身動きが出来ず、思わず彼女の顔を見つめていた。
「こんな誰もいない教室で、寂しくない?」
そう聞いてきた彼女の、まっすぐに見据えられた瞳。気だるい表情。首が少し傾いている。逆光になった夏の光が、彼女の髪を亜麻色に染めている。
「寂しくなんて……」
僕は恥ずかしさを誤魔化すように下を向いた。
彼女は僕の心情など見透かしているのだろうか。彼女は小さく笑いながら、僕の目の前に立った。腕を後ろ手にして、さらに顔を近づけてくる。
彼女の目鼻立ちをこんなに間近で見たのは初めてだ。
「本当に毎日来てるんだね。びっくりしちゃった」
彼女はそう言うと、ようやく顔を逸らしてくれた。
「八月になってからは毎日来てるよ」
僕は少し溜め息をついて、自分の気持ちを誤魔化すように、そんな言葉を返した。
彼女の得体の知れない行動は、一色で染め上げていたはずの僕の心を、たちまち斑模様にしてしまった。
僕は気にしない振りを続けたまま、さっきまで彼女が占領していた自席に座った。参考書を取り出し、あくまで勉強をする体でいた。
しかし、繭美はそんな僕にさらに追い討ちをかけようとしていた。
「高坂くんて、この前の代々木模試でもソートウ優秀だったんでしょ? すごいね」
彼女は、尋問官のように僕の横の席に腰掛けると、そんな話を振ってきた。
「あれは偶然だよ。得意の範囲がたくさん出たし……」
僕は話をはぐらかした。
考えてみれば、僕は彼女のことをほとんど知らなかった。
繭美は、交友関係も広く、艶やかな黒髪に端正な顔立ちが密かに男子の人気を集めていた。
実際、彼女に告白した男子も少なからずいる。
つい先日も、僕と同じクラスでお調子者のTなどが、しつこく彼女に迫った末、軽くあしらわれたばかりだった。Tの、普段より一層笑われ者になった姿は惨めだった。彼女は、僕から見ればお高くとまっている印象だったが、援助交際に手を染めているとか、カレシが何人もいるとか、そんな醜悪な噂もついて回った。きっと彼女の端麗な容姿に対する嫉妬から発生したものだろう。
僕の高校は、県内でも上から数えて五番目には入る進学校で、それ故三年生の生徒の多くは夏休みの臨時講義に参加したり自主勉強に勤しんだりしていた。そのため、夏休みに入っても校舎に平静が訪れる機会は少ない。
「やっぱりできる人は違うんだね、あたしなんか」
「そんなこと。勉強なんて、やる気があったら誰だってできるよ。今からだって、まだ時間はあるし。だけどさ……」
僕はそれまで俯いていた視線を、改めて彼女に向けた。
繭美は、自分が予想していたよりずっと不安そうな顔をしていた。何か思うところがあるのかもしれない。だからこそ、こうして待ち伏せていたのだろうか、この僕を? いや、そんなことあるはずがない。
「何かも捨てて勉強して、いい大学に行けたらそれで幸せなんだろうか。僕はわからないよ」
誰もが自身のやるせなさ、そして劣情を机にぶつけている。今はただ、この夏が過ぎればいい、そう思っている。
しばらくの沈黙。先に口を開いたのは繭美だった。
「じゃあ、どうして高坂くんは勉強してるの?」
彼女は小首を傾げて言った。
「逃げてるだけなのかもしれない。目の前のことから」
勉強していれば、余計なことを考えずに済む。それは僕の正直な答えだった。
僕は彼女の顔を見なかった。それが彼女の求めている答えなのか、知る由もない。
ただ触れれば届く位置にいる彼女の拍動、ほのかな汗の匂いが僕を追い詰めていた。
「祐樹くん」
彼女は勝手に僕の下の名前を呼んだ。そして徐に、僕の座っている机に両手をついたのだ。
繭美の、艶めく肌を玉虫色の滴が伝っていき、黒髪が汗に濡れている。汗と香水の混じった馨しい匂いが、僕の脳髄の奥を刺激した。心臓がはちきれんばかりに暴れている。額から汗が噴出す。
どうにか呼吸を整えて、僕はもう一度彼女の面立ちを見た。
大きな二重の三白眼。通った鼻筋。少しグロスの光る唇。繭美はその口元を歪める。その姿は、ファム・ファタール。彼女の言葉は、悪魔の誘いだ。僕はそう思いながらも耐え切れず立ち上がった。椅子と床の擦れる音が場違いに響いた。遠くて蝉が鳴いている。
「あたしのこと見てよ」
繭美は顔を近づけてきた。
息が頬に伝わるほどの距離だ。
僕は目線を逸らすために下を向いた。彼女は、開襟の夏制服の第二ボタンをわざと外している。シャツの隙間からは露になった下着と、膨らんだ乳房が今にも零れそうだった。スレンダーで華奢な身体には不釣合いだが、それが、彼女のなんとも形容し難い妖艶さと魅力とを助長させた。僕はどうにかこの卑劣な欲求を抑えなければならなかった。
「ねぇ?」
繭美はジッと僕の目を見つめていた。そして咄嗟に、僕のだらりと垂れ下がった右手を握った。彼女の白く長い指が、逆らえない僕の指に絡まった。身体中が汗でべとついていった。
「村田さん……どうしてなの」
「繭美って呼んで」
「繭……」
彼女は僕の身体に抱きついた。今までおよそ味わったことのない熱が僕を包んだ。
彼女の身体からはかぐわしい香がしていた。彼女の吐息が耳元に伝わる。華奢な身体から放たれる熱情が伝わる。
彼女の誘惑を、その熱い身体を、僕は拒めはしなかった。
繭美は、その薄く湿った唇を僕の唇へと無理やり押し当ててきた。さらに彼女は、その身体を僕に押し付けてきた。ゆっくり、手馴れたような手つきで、僕の手を、やれと言わんばかりに一気に上半身へと運ぶ。繭美は、僕の右手をつかって、自らの制服越しの膨らみを掴ませた。そして、僕は抗うことなく、彼女の布越しの乳房を、欲情に任せるまま弄った。
不思議な気持ちだった。時間が停止した世界に放り出されたみたいに思えた。
僕らは何をしているんだろう。互いに碌に知りもしないのに。こんなことをして、僕らは……。
その時だ。微かに足音がした。ハッと正気に戻り、僕たちは離れた。廊下の向こうから誰かが歩いてくる。
「繭―、ごめん、遅くなっちゃったー」
そんな声が、場違いな調子で教室に響いた。やって来たのは彼女の友達らしかった。その女子生徒は、教室から僕たちの様子を見ていたが、特別疑問は抱かなかったようだ。
僕はただ放心していた。繭美は、そそくさと身支度を整えると、「今行く」なんて言いながら早足で去っていった。僕の方には一切目を向けなかった。
二時を告げるチャイムが鳴り響く。そこに取り残された僕は、自分の右手を虚ろに眺めていた。ほんの僅かな時間の出来事に過ぎなかった。
かぐわしい香りだけを残して、彼女は消えた。僕は一人この小さな白い空間に佇んでいた。僕の影が、亡者のようにそこに染み付いていた。
翌日は通っている進学塾の模試だったが、散々な結果に終わった。集中できるはずもなかった。僕の心の中には、繭美が残していった波紋がいくつもいくつも重なっていったのだ。
僕は彼女のことを知らない。彼女は何を思っているんだろう。彼女は……悔しさと、慕情が入り混じり、僕は身が引きちぎられるような思いを引き摺っていた。
二.
それから一週間が経った、八月の終わり。その日は、八月にしては珍しい雨だった。土砂降りが、街の色を変えた。僕はいつもどおり学校での自習を終え、一人帰宅しようとした。
校門で靴に履き替え、傘を右手に持ちながら、憂い色の空の下歩き出した。他に生徒の姿はなかった。いつもなら部活をしている生徒たちの爽やかな声も、今日は雨に潰されてしまっている。
すると、目の前に一人の女子の姿が見えた。傘も差さず、ずぶ濡れになっている。朝は晴れていたから、忘れたのだろうか。僕は何気ない振りでその人の横を通り抜けようと思った。
「……繭美ちゃん?」
迂闊だった。僕は無意識にその人の名前を呼んでいた。誰もいない校庭で一人雨に濡れていたのは、繭美だった。
彼女は、その制服から髪から何からびしょ濡れであった。いつもはうっすら化粧をしている彼女。だが、今日はそんな着飾るような素振りは一切なく、ただうらぶれたように雨に濡れていた。
「祐樹くん」
彼女の唇が、僕の名前を呼ぶ。そして、続けざまに何かを叫んだ。だが、降りしきる雨がその言葉を遮った。無声映画のようだった。彼女の瞳が濡れているのは、雨のせいなのか、それとも……。
次の瞬間、彼女はしがみつくように僕の身体に抱きついた。僕は咄嗟に傘を捨て、彼女を抱きとめた。
彼女は泣いているらしかった。どうしてなのか、知る由もない。彼女の身体は冷たかったが、それでも芯には熱が残っていた。その仕草は、一週間前のあの時より、ずっとずっと素直なものに思えた。
一瞬が、永遠のように感じた。雨は止まなかった。彼女は、自ら身体を引くと、無限に続くような雨にその身を濡らしながら、静かに鈍色の校庭を去っていった。彼女のどこか思いつめたような後姿に、僕はそれ以上声をかけることができなかった。
僕は臆病だったのかもしれない。彼女はきっかけを求めていた。なのに踏み込めなかったのは、恐かったからだ。彼女に対する気持ちに、歯止めが効かなくなるのが。
雨音が、哀歌のように僕を包んでいた。
まっすぐ家に帰る気になれなくて、そのままネットカフェに行った。橙色の光を放つそこは、人々の欲望を反映した場所である。パソコンの画面を見つめたまま何をするでもなく時間を潰す。僕は後悔していた。
家に帰ると、消灯し静まり返ったリビングで母が僕を待っていた。色々言いたいことはあるのだろうが、何も言わなかった。母は早く寝なさいね、とだけ言い残して、寝室へ消えていった。
食卓には今日の晩御飯が残されている。だが食欲などあるはずもない。
そのまま寝てしまおうと思ったが、ふと、晩御飯の傍らに置かれた赤いものに目がいった。色のない夜半の景色に、その赤だけが浮かんで見えた。違和感さえ覚えるほどに。
それは無花果だった。深皿の中で肩寄せあう無花果の実。この時期になるといつも安城の伯母さんがくれるのだ。
僕はそれらをジッと見つめた後、一つ手に取った。赤黒く染まった皮を捲る。みるみる果汁が滴り落ちる。果肉を掴めば、今にも崩れてしまいそうなほど柔らかい。薄っすら白く、中にいくほど紅い。無花果の花は、実の中に隠れている。僕は手にした無花果をひとしきり眺めた後、ぐじゅぐじゅとしたその実を、思い切って頬張った。過剰な甘みが、僕の神経をくらくらさせた。
外は土砂降りらしかった。無花果の甘みが僕の憂鬱と劣情とをますます濃くした。
いつの間にか、夏は遠ざかっていた。
あの雨の日を境に、僕が繭美と会うことはなかった。僕は彼女に対する煩悶とした感情を抱えたまま夏を越えなければならなかった。
九月になっても彼女は教室に現れなかった。
クラスを包んでいたのは、奇妙な緊張感だった。これから訪れる季節を恐れているような、そんな空気が底に漂っていた。
誰も繭美のことを話題にしなかった。
季節は過ぎたのに、彼女の香り、彼女の面影が、僕を縛った。夏の幻が僕をがんじがらめにしている。
学校でも塾でも家の中でも、僕の成績の低迷が心配の種になっていた。
無花果のみが、赤黒く熟れ、腐っていくように、僕の心も腐り始めていた。
もうどうにでもなれ。そんな風に思っていた、十月の始め。
その日日直だった僕は、クラスの提出物をまとめて職員室にもっていかなければならなかった。生徒たちは皆長袖を着て、もうすでに夏の気配などどこにもなかった。
失礼します、と職員室に入る。
その瞬間。
繭美、と思わず口に出してしまいそうだった。だが寸でのところで堪えた。クラス担任と話している女子生徒。後ろにまとめた黒い髪。横顔。背丈。見間違うはずはない。
担任は、彼女と話す間ずっと、苦虫を噛み潰したような顔をしていた。何か重要な話らしかった。僕は提出物を両手で抱えたまま、その光景に釘付けになっていた。
――彼女と話がしたい。せめて一言でも。
そう思ったとき、彼女は担任との話を終え、職員室の手前の扉から足早に出て行ってしまった。後方でそれを見ていた僕は、両手に抱えていた提出物を投げ出すと、彼女の後姿を追った。
鈍色に沈む廊下。彼女は早足で行ってしまう。僕はうまく声をかけられない。始業ベルが鳴る。昇降口まで来て、ようやく彼女を捉まえた。そこに僕ら以外の人はいなかった。
「繭美ちゃん」
僕は肩で息をしていた。彼女は鞄を肩に引っ掛けて、この慣れ親しんだはずの学び舎から――今まさに飛び出そうとしていた。
彼女が僕を見つめる。寂しさと恨めしさが同居しているような瞳。
「何しに来たの?」
彼女は少し俯いて言った。彼女の口ぶりには含みがあった。
僕は歯を食い縛った。悔しい。どうして僕は、こんなにも無力なんだろう。
「……会いたかったんだ」
結局僕は、その時言える一番素直な言葉を放った。
すると彼女はその引きつった表情を少し崩して言った。
「馬鹿じゃない」
僕には彼女の姿が今にも崩れてしまいそうなほど覚束ない存在に見えた。
「誰もあたしのことなんか気にしてないのよ? ここに来るの今日で最後なのにさ。みんなよそよそしくて、友達でさえ知らないフリするのよ。こんな学校になんか未練ないけど、けど……」
知らず知らず、彼女は涙を流していた。あの夏の最後の日と同じように。
「繭……」
彼女は僕の胸に飛びついた。
彼女の嗚咽がシンと静まり返った廊下に響く。僕は人目を憚らず彼女の肩を強く抱いた。
「もっと早く気づいてよ」
彼女は泣きながらそんな恨み節を僕にぶつけた。
「繭美ちゃん、ごめん」
僕たちが抱き合った時間はほんのわずかな時間だったに違いないが、それはとても長く甘美で、また苦いものだった。
彼女は顔をもたげると、静かに僕の胸から離れ、自らの下腹部を丹念に摩った。僕はその仕草で、事のすべてを悟った。
「もう二度とここに戻ってくることはないけど……」
そう言った後、続けざまに、
「祐樹くん、優しくしてくれてありがとう」
繭美は少しだけ笑みを浮かべた。そして振り返ると、靴を履き替え、昇降口を飛び出した。僕はその背中に向かって叫び声を上げた。
「繭美ちゃん!! 俺忘れないから!! 君のことッ!!」
夏の気配が去った校庭に、僕の咆哮が響いて消えた。
それ以来、僕は二度と彼女に会うことはなかった。たゆたう長い黒髪も、その白い首筋も、二度と見ることはなかった。
愛おしく狂おしい夏の果実は、僕の心の底で腐り、その熱情は密葬された。跡には、消えることのない墓標が築かれた。
僕は何もかもかなぐり捨てるように受験勉強に打ち込んだ。一日七時間も八時間も机に向かった。成績は次第に復調し、センター模試で志望する国立大学に対してA判定までとることができた。
担任の教師は、そんな僕に対して、学年でもトップクラスの成績であることを褒め称えた。センターまであと二ヶ月を切ってるから、この調子でがんばってくれ、と僕の肩を叩く担任を蹴り飛ばしてやりたかったが、結局、無表情のまま「がんばります」と答えた。
校舎を出ると、すでに日が暮れかかっていた。
昇降口の外灯に大きな羽根をした美しい蛾がバタバタと羽音を立て舞っていた。本当は月を目印に飛ぶはずが、こんなところに来てしまった、哀れな迷い蛾だ。
深呼吸をして、しばらくぼーっとしていると、凍てつく風が僕の首筋に絡みついてきた。マフラーを巻きなおして、制服のポケットに手を突っ込む。
冬が訪れる。何かも凍らせ、閉じ込めてしまう冬が。その先に春が、そして灼熱の季節が待っていようとも、僕たちは今この季節を生きなければいけないのだ。
校庭には誰もいなかった。僕の影だけが長く伸びていた。ふいにあの人の面影を思い出しそうになり……首を振った。きっと、彼女もどこかで生きているはずだ。じゃあ僕も負けるわけにはいかない。目指す先が月じゃなくてもいい。闇の中、遠くの、一筋の明かりを目指して飛べば、いつかはそこに辿り着く。
冬の凛と冷え切った風が、そんな勇気を僕に与えてくれた。
<了>