第一章:第九話 桶狭間の戦い①
半蔵と小春は信長のいる那古野城へと馬で駆けた。
「お尻が痛い……」
「我慢しろ」
馬に乗り慣れていない小春のお尻は限界だった。冷たい言葉が半蔵から帰ってくる。
「優しくしてくれてもいいじゃん」
「無用。殿の役に立てるだけでいい」
お尻の痛さを紛らわそうと話を振っても、半蔵相手だと会話も続かないだろうと半ば諦めていた。そんな小春に意外にも半蔵から質問が投げられる。
「お前は殿をどう思う?」
「どうって?立派に成長したなぁって思うよ」
「そういうことではない。殿の力になる気があるのかということだ。お前は殿をどう思って接している」
その質問にきょとんとする。特に深く考えたことはなかった。
「殿は昔から事あるごとに例のお守りを見ておられる。初陣の時も先日の戦の時も……」
「相変わらず可愛いなぁ、家康」
「先ほどお前の行方がわからなかった時も、お前が来るまで時折お守りを見ておられた」
「ん?私が徳川の陣へ行った時って半蔵は見回りでいなかったよね?いつから天幕の中にいたの?」
「お前が来た辺りからだ」
「けっこう最初の方じゃん」
姿を消してずっとあの場にいたとは、相変わらず謎だ。
やがて城が見え、城壁のすぐそばで馬から下りて半蔵と別れた。あとは自力でなんとか信長に会わなくては。
「お前、そこで何をしてる!」
うろうろしていると、城の警備の者だろうか、男がそこにいた。妙に目立つ男だった。背は高く、しなやかな体つき。長い髪を後ろで結い、軽装の鎧の上には派手な陣羽織を羽織っている。どこか遊び人のような結び方の髪も、妙に様になっていた。しかも顔がいい。とてもいい。
(いや待って、顔がいいとか言ってる場合じゃない)
男がこちらを見る。その瞬間、背筋がぞくりとした。さっきまで人懐っこく見えた目が、獲物を値踏みする獣のそれに変わっていた。逃げられる気がまったくしない。
「利家、どうした」
そして男の声で新たに男が一人やって来てしまった。
目の前に立った瞬間、壁みたいだと思った。背が高いとか、体格がいいとか、そういう次元じゃない。鎧ごと一人の城壁みたいな男だ。黒鉄の大鎧に赤い組紐がぎしりと鳴る。
顔立ちは意外なほど整っている。けれど鋭い目に見つめられると、冗談でも逆らえない気がした。
「女を見つけた」
背の高い男が、小春の腕を掴んだ。逃がす気はまったくなさそうだ。
「小娘……?お主、ここで何をしておる?」
低い声で問いかけたのは、もう一人の大男。小春の頭に、ふと名案が浮かぶ。
「私、怪しい奴だから捕まえて」
男二人は沈黙した。そしてゆっくり顔を見合わせる。
「……なんだ、こいつ」
「小春っていいます。城の周りをうろつく怪しい奴です」
「間者か?いや、しかし間者が名乗るか……?」
腕を組んだ大男、が眉を顰める。小春を上から下まで眺めた。
「それに、その装束……」
小春もつられて自分の服を見る。Tシャツにパーカー、スニーカー。どう見ても、この時代の人間ではない。
「珍妙よの」
「確かに。見たこともない格好だな」
そして小春を見下ろし、にやっと笑った。
「まあいい。怪しい奴なのは本人が認めてる」
「ひっ捕らえて殿のもとへ連れて行くぞ」
作戦成功だ。城の周りにいたということは、彼らは信長の家臣だ。殿とは、きっと信長のこと。このままいけば信長に会える――
男たちに連れられ、とある部屋に引っ張られて中に入る。その場に膝をつくと、中央奥に男が一人座っていて、じっと小春を見つめてきた。彼の傍らには妖艶な雰囲気の女がいる。左右には二人の男と一人の女が内側を向いて座っていた。
「その者は?」
「城の近くにいるのを捕らえました。ただの女が城の周りにいるのは怪しく、間者の疑いもあって捕らえましたが……」
「その格好といいなんだか面白そうな御仁だねえ。叔父御や俺と同じ傾奇者かい?」
「傾奇者な間者ってどんなだよ」
「うむ……わしもそれは思ったが、扱いがわからず……殿のご意志に委ねようと」
「いかがしますか、信長様」
やはり、と小春は自分の直線上、上座にいる男を見る。彼が、織田信長――
「うぬの名は……」
「小春、だよ」
答えると、信長の目が微かに見開かれる。そして。
「……全員、部屋から出よ」
そう口にした。それを聞いた家臣たちが驚愕する。
「信長様!?何を……っ」
「退室せよ。信長とこの者のみでよい」
反対する彼らを一声で黙らせ、信長は小春を見た。傍らの女は妖しい笑みを浮かべ、信長に問う。
「その子が気に入ったのね?」
「お濃。うぬもきっと気に入る」
そう答えた信長も、妖しい笑みを浮かべた。
みんなが退室し、二人だけになった部屋で、小春は信長の前に正座した。特に何も言われることもなく、沈黙が続く。
「あ、あの……何も訊かないの……?」
静けさに堪えきれず小春から声をかける。
「気づいてるかわからないけど、私とあんたは十年前に――」
「十年も昔のことなど忘れた、ぞ」
「あ、そう……」
家康は覚えていたというのに、それに比べてなんて薄情な奴だと小春は思った。
「小春。うぬは信長の願いを三つ聞くと言ったな」
「え……?」
記憶を思い返すと、そんな覚えがある。
「あー、そういえば言った……て、しっかり覚えてるじゃん!」
「ならば叶えよ。信長の娘となれ」
「……は……?」
思わず唖然とする。言葉の意味はわかるが、この場における解釈が意味不明だった。
「あのー。信長?私、あんたより年上――」
「どう見ても年下、ぞ」
長い黒髪を結い、鎧や衣装も豪奢で重厚だ。目の前にいるのは、紛れもなく織田信長だった。
一週間前に別れたばかりのはずなのに、どこか懐かしい。だが、記憶の中の少年とはまるで別人のように大人びている。こちらでは十年の歳月が流れているのだ。
冷たい表情と、周囲を圧するような空気に思わず息を呑む。しかし、その瞳だけは変わらない。子どもの頃と同じ、焔を宿したような目。大人になったはずなのに、その奥にはまだ少年の気配が残っている。
そして何より――驚くほど整った顔立ちに、小春は一瞬見惚れてしまった。
信長は傍らに置いてある物を手に取ると、立ち上がる。鞘から抜かれたそれが刀だと理解した瞬間――
「……っ!」
信長は背後の襖を一刀両断した。そして鋭い視線を小春に向ける。
「生きる道は信長の望みを叶えることのみよ。それとも約束を違え、ここで果てるか」
「……な、なるっ。なります!娘にならせて頂きますっ!」
襖と同じ運命を辿るのはたまったものではない。否定すれば、この男はきっとやる。
小春の返答を聞いて、信長は満足げな笑みを浮かべた。
「今この時より、うぬは信長の娘……ぞ」




