第一章:第八話 再会⑥
「小春殿、無事であったか」
徳川の陣へ着き、家康の天幕を訪れると、中には忠勝がいて心配そうな顔をして出迎えた。
周りには家康、稲もいる。
「小春殿、何かあったのか?」
「何かって?」
「徳川の陣営へ向かってから全然帰って来ず……殿に訊ねたらまだ来てないと……」
「あまりに遅いので、皆で探しておりました。そうして今、小春殿が私の元へ来た」
「ごめん、心配かけて」
「万が一の事があってはならぬゆえ、今も半蔵に周囲を探らせておる。よくぞご無事でおられた」
家康の安堵が、言葉だけではなく、表情や仕草から伝わってきた。その温かさに、小春の胸もほっと軽くなった。
「小春殿がいない間、命が下り、状況が変わり申した。……我らは時期に移動いたす。なかなか落ち着かれないと思うが、今はゆっくり休まれよ」
家康は鞠を小春の枕元に置いた。
「とにかく無事でなによりでございます」
「ほんと心配かけてごめんね。稲もありがとう。忠勝と一緒に来てくれたんだね」
小春が言うと、稲は笑顔でこくんと頷いた。
ふと、家康が巾着にしまおうとしている物に気づき、小春は言った。
「それ……ずっと持ってたんだね」
「……小春殿から頂いた大切なお守りですからな」
手の中にある、あの小さな消ゴムを家康を見つめた。
「幼い私は、寂しさと不安でいっぱいでありました。されどあの日、小春殿と出逢い、泣きじゃくる私にこれをくださった……本当に救われる気持ちでした」
「信長にはゴミって言われたけどね」
「誰が何と言おうと、私にとってはお守りです」
義元の言葉が頭をよぎる。
――強き者が立ち、世を一つにまとめる。乱世を終わらせる者。小春の脳裏には一人の男が浮かんでいた。――織田信長。あの人なら――。
「……そうだ。信長と藤吉郎はどうしてるんだろ?」
義元が生きているのなら、まだ信長との決戦は起こっていない。しかし確実に信長はこの先にいる。そしてこの頃には織田信長に仕えている藤吉郎――羽柴秀吉も一緒だ。
「あの時に出会った農民の少年の行方は存じませぬ……しかし信長殿なら……義元様が上洛する際に、織田の領地を通ります。今川は織田を呑み込み、そのまま京へ向かうかと……」
「確か上洛することは決めたって氏康が言ってたけど……いつ開始するか知ってる?」
「……今が上洛の途中でございます」
「え、今!?」
「先日の前哨戦で織田の砦をいくつか落としました。本隊移動中にて、今はここ桶狭間で休息中にございます。尾張はもう目と鼻の先。信長殿はこの危機をどう脱するおつもりなのか……」
小春の胸は早鐘のように打った。ただ見ているだけでは、何も変わらない。迷う時間はない。
自然と足が前に出ていた。迷いなど、もうどこにもなかった。
「私……信長に知らせてくる」
「小春殿!?」
動いた小春の行く手を、家康が遮る。
「行かせられぬ」
静かな声だった。しかしその一言には、揺るがぬ重みがあった。
「義元様を、裏切ることはできぬ……」
家康は俯く。
「義元様に恨みはあれど、恩義もある……」
その言葉は、自分に言い聞かせるようでもあった。
今川に人質として差し出された幼き日。生きるか死ぬかも分からぬあの時、生かされ、守られてきた。それがどんな形であれ。恩を忘れて生きるほど、家康は器用ではなかった。
小春は真っ直ぐに家康を見る。
「あの日、みんなで話したよね」
幼い頃の記憶。
「泰平の世にするって。そのためにまず乱世を打ち破るって」
家康の瞳が揺れる。
「今、それができるのは、信長だけだと思う」
はっきりと言い切った。
「彼に打ち破ってもらわないと。泰平の世を目指すために……」
そして小さく続ける。
「もう……竹千代みたいな子どもを出さないために」
その名に、家康の肩が微かに震えた。
しばらく沈黙が落ちる。やがて、家康は小さく息を吐いた。
「……馬をお貸しする」
「家康……?」
「私もできることなら、信長殿と刃を交えることはしたくない」
苦く笑う。
「甘いと思われるやもしれぬが」
二年という短い間だが、幼き日を共に過ごした信長と家康は幼なじみのようなものだ。争いたくない気持ちはわかる。かといって徳川は今川の傘下だから、表立って行動は起こせない。彼のためにも、自分が動かなければ。そう決意した小春だが、重要なことに気づく。
「……待って。ごめん。私、馬乗れない」
「なんと……っ!?」
家康は唖然としてまじまじと見つめてくる。しばらくそのまま固まった。
「そんなに驚くこと?」
「馬に乗れないのであれば、徒歩で行くしか……しかし距離が……」
「……殿」
事態を見守っていた忠勝の隣に、半蔵が現れる。
「私にお任せを。小春を織田へ連れて行く」
「おお、半蔵……小春殿を無事に信長殿のもとへ送り届けてくれるか。そしてお前も無事に帰還せよ」
「殿のことは、この忠勝が守りきってみせる」
「頼みにしている。小春殿が今川を出たのが義元様に悟られぬように私も上手く立ち回らねば」
だが心配なのは、ずっと話を聞いていた稲だ。しかし目が合って力強くこくんと頷いた彼女を見て、大丈夫だと小春は思った。
「忠勝。家康のこと、お願いね」
「殿の身は命に代えても守る。安心して行って来られよ」
頼んだよ、と頷いて見せて小春は半蔵と外に出た。




