第一章:第三十二話 甘さと冷酷のあいだで
「もー!何やってるのさ!」
羽柴の屋敷にて、半兵衛の声が響く。
「昨日教えたじゃん。これは、こう!」
「えっと……こうかな?」
「また間違ってる。その程度、子どもでも簡単に覚えられるよ」
「う……ごめんなさい……」
小春は半兵衛に字の読み書きを教わっていた。
濃姫が彼に学を教えるよう頼んだらしい。
本来なら姫である小春は城を出ることはなく、半兵衛が岐阜城へ赴くはずだったが、教えてもらう身なのにそれは申し訳ないと小春は自分からそれぞれの師のもとに出向くことを希望した。
柴田邸では勝家に料理と裁縫を習い、前田邸では利家と慶次に武の稽古をつけてもらう。
そして隣の羽柴邸で勉学に励む――そんな日々を過ごしていた。
羽柴邸には秀吉に仕える官兵衛もいるため、両兵衛揃って小春の教育係となっていた。
「もっと厳しくやるべきかな?」
「やめよ、半兵衛殿。小春は他にも稽古がある。体がもたぬぞ」
「甘いんだから、官兵衛殿は」
「厳しくやる必要はないが、本日の課題を増やせばよい」
「え!官兵衛の鬼!」
そんな小春の抗議は無視され、机の上に続々と本が置かれていく。
「前に教えたよね? え、忘れた? も〜、だめだなぁ」
半兵衛は笑ってる。声は優しい。でも――
「……覚えられないのは、努力が足りないからだよ?」
その目が一瞬冷えるのを見て、小春はぞくっとした。でも――
「ほら、ここ。ちゃんと考えてみて?」
ちゃんと導く。甘やかさない。でも突き放しもしない。半兵衛には、“強くするための厳しさ”が滲んでいた。
やがて再び小春の手が止まる。と――
「わからぬか……仕方あるまい」
官兵衛がため息を吐いた。怖い。空気が重い。でも――
「ここまでは理解しているな? なら、あと一歩だ」
ちゃんと噛み砕く。怒らない。呆れない。理解するまで付き合ってくれる。
「焦るな。真面目に励む者を笑う者いない」
官兵衛は――誰よりも味方でいてくれる。
「……ほんと甘いんだから、官兵衛殿は」
「二人には感謝してる」
「だがそれでもこの程度とはな」
「これでも一生懸命なの!」
官兵衛の言いぐさにムッとしていると、秀吉が部屋を訪ねて来た。
「おっ。やっとるな。どうじゃ、調子は」
「ぼちぼちって感じかな」
「そりゃええ。ところで、今日はもう終わりにせんか?」
勉学の終了を提案した秀吉は、天使どころかもはや神に思えた。
「まあ、秀吉様がそう言うなら」
「やったー!」
「ちょうどお前さんに紹介したい奴らもおるしの」
「紹介?」
お前たち入れ、と秀吉が廊下に向かって声をかける。
「失礼致します」
そして丁寧な挨拶と共に、三人の少年が部屋に入って来た。
「お前たち、そこに座るんじゃ」
秀吉の言葉に従い、彼らはその場に座った。
「この子らはわしの子飼いたちじゃ。向かって左から佐吉、夜叉若、市松という」
目鼻立ちの整った綺麗な顔をした佐吉という名の少年。
切れ長の目に凛々しい眉毛。夜叉若は子どもながら精悍な顔つきをしている。
そして明るい茶髪の市松は、やんちゃそうな雰囲気をしていた。
「お前たち、こちらは信長様のご息女、小春様じゃ」
「小春です。よろしくね」
そう言うと、三人はよろしくお願いいたします、と頭を下げる。礼儀正しくていい子たちだな、と好感を持てた。
「お前さんら、仲良くせいよ。わしゃ用があってもう行くで」
「じゃあ俺たちも行こっか、官兵衛殿」
秀吉に倣って半兵衛が言い、官兵衛も立ち上がる。
「えっ。なんでみんな行っちゃうの?」
「だって今日の勉強はもう終わったし」
「子守りも姫の教養にかかせないことだ」
「そんなー!」
部屋には小春と子飼いたちだけが残された。
なんとも気まずい沈黙が流れる。気まずさを感じたのは彼らも同じだったようで、三人は顔を寄せ合って話し始める。
「気まずい……どうすればいいんだ」
「なんとかしろよ、佐吉」
「なぜ私に頼る、馬鹿」
「こういう時に頭使わねーでどうすんだよ!」
「そうだな。市松には使える頭がなかったな」
「なんだと!」
「おい、二人ともやめろ!」
ひそひそ話のつもりらしいが、会話はしっかり聞こえていた。
「……そもそも秀吉様は、なぜ俺たちに小春様を紹介したんだ?」
「わからんが、あの信長様のご息女だ。変わり者で手を焼いているのかもしれん」
「あー……だから信長様が秀吉様にお姫様の世話を頼んだとか?最近よくここに出入りしてるし」
「そして秀吉様も手に負えず、俺たちに任せることにした、ということか。正直小春様のお相手は……困る」
「確かに困る!俺たちそんなに暇じゃねーからな!」
「面倒だが、秀吉様の命令なら仕方ない。相手をしてやるか」
「……ちょっと、あんたたち!」
我慢ならずに小春が突っ込む。
「さっきから全部聞こえてるんだけど!」
「これはこれは小春様。いかがいたしましたか?」
佐吉が丁寧な口調で言う。先ほどの好き勝手な発言を聞いているから今更丁寧に対応されてもなのだが。
「いや、もう敬語とかいいよ。心の声か何か知らないけど本音聞こえてるから。普通にしよう」
「そうか。それはありがたいことだ、小春」
「順応性早いね」
早速態度を改めた佐吉に小春だけでなく夜叉若と市松も驚いた。
「佐吉、いいのか」
「後で怒られても知らねーからな」
「こいつが自らそう言うのだ。そのように接するのが当然だろう。私たちより身分が上の姫様が言うのだから、聞かなければな。そうでしょう、小春“様”?」
「まあ……そうだね……」
小春は引きつった笑顔を浮かべた。




