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第一章:第二十三話 優しさでは救えない

 心臓が痛いくらいに胸を叩く。緊張で手に汗を感じる。声は出せず、強張った顔で小太刀を見つめる小春に、信長は静な声で言う。


「どうした、小春。果てぬのか?」


 死ねない。死にたくない。信長はそれを分かってる。だから小春に選ばせようとしている。どうしても命令を聞かせる気でいるのだ。震える手で、小太刀を拾い上げる。


「人には心があるんだよ」


 震える声で小春は言った。


「あんたにとっては何ともなくても、濃姫にとって美濃は……斎藤は、生まれ育った大切な場所でしょ……!」


 鞘を抜き、小春は小太刀を床に突き立てた。


「そんなんじゃ、あんた、いつか痛い目みるんだから!」


 信長に叫んだ勢いのまま、小春は部屋を飛び出した。走って自分の寝所に与えられた部屋に閉じこもる。


 確かリュックに入っていたはずだと、そこから図書館で借りたままになっている信長について書かれた本を取り出した。震える手でページをめくる。

 そこには、はっきりと書かれていた。


『信長は上洛の際に美濃へ侵攻。

戦いの末、斎藤家は滅亡する――』


 わかっている。これは歴史どおりだ。信長上洛の大事な戦だ。泰平の世のためには、必ず通らなければならない道だ。

 わかっている。今は乱世だ。身内で争うことも、味方が突然敵になることも、よくあることだ。そんなことはわかっている――はずだった。


「それでも私は、濃姫の実家を攻めたくないよ……」


 それからしばらくして、侍女が夕餉に呼びに来たが無視をした。利家と慶次が声をかけてきても返事をせず、布団をかぶって寝たふりを決めこむ。しかし限界だった。


「お腹すいた……」


 部屋からこっそり顔を出す。廊下に誰もいないことを確認し、小春は部屋を出た。

 夜はすっかり更けていて、静かなものだった。それをぼんやり眺めていた時。夜空に、ぼんやりと七色の弧が浮かんでいた。


「夜の虹だ……!」


 帰れる。そう思ってホッとした反面、ふと思う。


「どうやって帰るんだっけ……?」


 帰れた時の状況を思い返す。山道から滑り落ちたら戻っていた。


「まさか何か痛い思いしなくちゃいけないの……?」

「おっ。やっと部屋から出てきたんだねえ」


 そんな声がして廊下の先を見ると、勝家と利家、慶次がやって来た。


「いつまで拗ねてんのかって心配したけどよ。まあとりあえず良かった」

「夕餉も食べず閉じこもって、殿も心配しておったぞ」

「信長が心配?まさか」


 あの冷徹な信長が小春を心配するはずがない、と勝家の言葉を笑い飛ばした。


「それより、ちょうどいいところに来たね。利家、私を思いっきり殴ってくれない?」

「はぁ?」

「手加減せず、遠慮なくどうぞ」

「……じゃあ、いくぞ?」

「うん」

「遠慮なしだぞ?」

「どうぞ」


 ゴンッ。


「いったぁっ!!」


 脳天に衝撃が走る。ぐらりと視界が揺れて倒れかけた小春を慶次が受け止めた。


「大丈夫か?叔父御、やりすぎたんじゃないかい?」

「利家、殿に知れたらただでは済まぬぞ」

「あ、だ、大丈夫っ。私が殴ってって言ったから……それにしても痛い……」

「すまねぇ、小春。遠慮なくって言うからつい……」

「大丈夫、大丈夫……」


 会話を続けながら、空を仰ぐ。虹はそこにある。だけど小春はここにいる。


「帰れないか……」

「どこにだ?」

「ううん、なんでもないっ。変なこと頼んでごめんね……!」


 慌ててその場から走り、彼らの姿が見えなくなったところでしゃがみこんだ。殴られた頭がズキズキ痛む。思い当たる条件では帰れなかった。しかしよく考えれば、今は早まって帰らなくて良かった。荷物も部屋に置いているし、未来に戻る準備も何もしていなかった。それに長政の件がまだ解決していない。解決の目処が立つまでは、こちらにいたい。せっかく手ぬぐいくんに協力をお願いしたことだし……。


「でも、方法がわからないと帰りたい時に帰れないよね……一体どうしろと……」


 溜め息を吐くと同時に、お腹が音を発する。


「あら、情けない音ね」


 ハッとして振り返ると、そこには濃姫がいた。


「何も食べずに閉じこもっていたのね」

「う、うん……」

「いらっしゃい。果物ならあるわよ」


 部屋に通され、濃姫は桃を器用に切って出してくれた。


「ありがとう、いただきます……」


 空っぽの胃に桃の甘さが沁みる。


「聞いたわよ。あの人に楯突いて、閉じこもっていたって。馬鹿な子ね」

「すみませんねぇ」

「あの人には逆らわないのが普通よ。あなたはあの人の娘なんだから。前に言ったでしょ?子は親に従うものよ」


 確かにそう言われた。信長が小春を娘にしたのも、自分の言うことを聞かせたいから──従わせるためだと。


「……逆らった理由も聞いたわ。私のことは気にしなくていいのよ」

「で、でも……っ」

「あなたは知ってるかわからないけど、私の兄・義龍は弟たちを殺して、父上に敵対したの。あの人が援軍を送ったけど間に合わず、父上は討ち死に。その義龍の子が今の美濃を治める斎藤家の当主──斎藤龍興よ」

「じゃあ、母上の甥っ子ってことになるんだね」

「あなたにとっては従兄ね」

「……そんな人を攻めるの、嫌じゃない?」

「いいえ」


 はっきりと濃姫は言った。


「お父さんを殺したお兄さんの子どもだから……恨んでるの?」

「兄上は父上からずっと無能だと言われていた。でも父上の最期の戦いで見せた采配は素晴らしかった。父上もそれは評価を改めて後悔していたわ。ただ……兄上の子もそうだとは限らない」


 濃姫はその美しい顔に笑みを浮かべる。


「斎藤が今でも父上の後悔どおりならいざ知らず。父上や兄上と比べて凡庸で、政には興味なし。女と酒に溺れて、皆の信望も得られない。家臣に居城を占拠されて美濃領主の座から追われたこともあるのよ」

「えーと、それは……ひどい当主だね……」

「そんな龍興に美濃が治められる?もう斎藤の衰退は表面化してるのよ。変わらない斎藤に価値はないもの」

「でも……実家を滅ぼすの、悲しくない……?」


 彼女は笑っていた。斎藤がもう領主として駄目だとわかっていても、それでも、慣れ親しんだ場所を攻め滅ぼすのは苦しいはずなのに。


「父上は死ぬ直前、あの人に美濃を譲る遺言書を渡したの」


 濃姫は微笑んだ。


「だから私は悲しまないわ」


 静かに続ける。


「私は――織田信長の妻だから」


 濃姫の顔にはいつまでも笑みが浮かんでいた。

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