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第一章:第十九話 存在の意味

 信長の部屋から出た後、小春が部屋を訪れると、市は静かに茶の支度をしていた。


「市……じゃない、叔母上」

「二人の時は気を遣わず、名前でいいのですよ」


 市は柔らかい笑みを浮かべる。


「利家に稽古をつけてもらっているそうですが、大丈夫ですか?」

「全然ダメ。利家、すっごい厳しいんだから。姫に武芸って必要かな」

「女でありながら、好きで武芸を極める方もいるのですよ。小春は違うのですか?」

「うーん、体を動かすのは得意な方なんだけど……利家、厳しいんだもん。慶次が乱入したらもう大変だよ」

「いつかあなたの役に立ちます」


 湯飲みに茶を淹れる市を眺めながら、小春は訊ねた。


「市はさ、どうして戦に付いて行くの?」

「私は家で帰りを待つだけでは嫌なのです。皆が戦っているのですから、私も皆のために――皆と共に戦いたい……。お義姉様もきっと、お兄様をそばで支えたいという思いで戦に付いて行ってると思います」


 濃姫、市の実力はわからないが、信長が戦場にいることを許しているのだ。かなり信頼しているのだろう。


「ところでさ、輿入れの話があるって……」

「聞いたのですか」

「うん。浅井長政だよね。近江の大名で、信長も期待してる人なんだって」

「そうなのですか?」

「……会ったことないの?」

「ええ、そうです」

「顔も知らない人と結婚するの、嫌じゃない……?どんな人かわからないんだよ……?」


 市はしばし考えた後、こう口にした。


「普通に出会って、恋をして結婚する……そんな夫婦は珍しいことです。でも、そういえば……サルとねねは互いに愛し合い、夫婦になったそうです」


 サルとは秀吉のことだ。彼と妻のねねは年の差を超えての恋愛結婚だというのは有名な話。


「政略結婚でも、利家とまつのように仲睦まじい夫婦もいますよ」

「へぇ。利家って奥さんとラブラブなんだね」

「お義姉様も同じく政略結婚でお兄様に嫁いでこられました。馴れ合いはしませんが、あの二人の間に愛がないとは思えません。それに、政略で嫁いだとしても、私はお義姉様と家族になれてよかったです」

「市……」

「私も……長政様に、そんな風に思っていただける妻に……」


 市は静かに言った。


「家族になれたなら、それが幸せです」

「なれるよ」


 長政と市の夫婦関係は良好だったらしい。それは、信長と長政が敵対しても、だ。


「長政は、市を大切にするよ。……絶対に」


 そう言うと、市は微笑み、頷いた。


「小春もいつか、嫁ぎ先をお兄様が選ぶと思います」

「いや、私はまだ結婚とかは……」

「将来いい妻になれるよう、稽古に励んでくださいね」

「それは……あ、まつの名前出したら、利家の稽古が優しくなったりしないかな」

「あら、悪いことを考える姪ですね。では今度、まつを呼んで皆でお茶しましょうか」


 小春と市は顔を見合わせて笑った。



▽   ▽   ▽



 夜、縁側に座って小春は空を眺めた。今夜も虹は見えない。


 勝家も市も小春の将来、結婚の話をしてきた。この時代、当然のようにみんな結婚し、特に名のある者の子だと政略結婚で娶ったり嫁いだり。同盟を結ぶための手だ。

 小春は立場上は信長の娘、織田家の姫である。このままここで生きていれば、もしかして……。


 未来から来たとは知らなくても、出自が説明できない者を嫁に出すはずがないなんて、そんなこと信長には通用しない。彼の娘という肩書きがある以上、例外なく政略の道具として使われる。そのために側室ではなく娘にしたと濃姫も言っていた。


「その前に彼氏欲しいなぁ、なんて。この時代じゃ恋人と……なんてないのかな。いきなり結婚かな」


 しかし久秀が言うには、小春は結婚はできるが彼氏はできない、らしい。いや、そもそも誰かに嫁ぐことになったとして、過去の人間と結婚なんてできるのか。ここに存在しないはずの自分と夫婦になることは、久秀の言うように、この時代を生きる人間の運命を歪めることになるのでは――?


「小春殿?」


 物思いに耽っていると、ふいに声をかけられる。廊下の向こうから光秀が歩いて来た。


「こんなところで何をしているのですか。風邪を引きますよ」

「大丈夫。空を見てただけだから」

「いけません。今、何か羽織るものを……」

「心配性だなぁ、光秀は。もう子どもじゃないよ」

「この世では、子どもでも大人でも命は軽い。ですから、御身を大事にしてください」


 光秀はふっと笑い、小春のそばに立った。


「何かありましたか?」

「え、何かって?」

「悩ましげな表情をしておられたので」


 それだけ言って、光秀は夜空に視線を向けた。それ以上訊いてくることはなく、彼の心遣いが嬉しかった。


「もし……もしもだよ。ここにいるはずのない人間がここに存在したら、どうなるんだろう」

「久秀殿が言ったことを気にしておられるのですか?」

「え……ま、まあ、そうかな」

「気にすることはありません。……と言っても、あなたは気になさるでしょう」

「うん、ごめんね」

「いえ。本当に気にすることはないと思いますが……そうですね、あなたの言うことが本当だとしたら……」


 光秀は小春をじっと見つめた。光秀は少し考え、夜空を見上げた。


「今この時を日本で生きる者が一人増えるでしょう」

「……え?」

「その程度のことです。存在しないはずの者が一人増えたところで、何ら変わりありません。ここに存在する時点で、すでに存在しない者ではないのですから」


 柔らかい眼差しを向ける光秀に頷くと、彼は小春の頭に優しく手を置いた。その温もりが心地良い。

 小春は光秀を見た。静かな目。整った顔立ち。この人が――いずれ、信長を殺す――


「……光秀」

「はい」

「もしさ」


 言葉を探す。


「もし、信長が……」


 喉の奥で止まる。光秀は待っている。小春は言い直した。


「もし信長が、間違ったことしたらどうする?」


 光秀は少し驚いた顔をした。そして答える。


「諫めます」


 即答だった。


「それでも聞かなかったら?」

「それでも諫めます」


 小春は眉をひそめる。


「それでも?」


 光秀は少し笑った。


「それでも聞かなければ」


 空を見上げる。


「私は殿を信じ続けます」


 小春は思わず聞き返した。


「なんで?」

「殿は乱世を終わらせようとしている」


 光秀は静かに言う。


「その志は、本物です」


 小春は光秀を見た。まっすぐな目。迷いがない。


(この人が……裏切る?)


 信じられない気がした。光秀は続ける。


「それに、小春殿がおられる」

「え?」

「小春殿が殿を信じておられる」

「え、いや私は」

「だから大丈夫です」


 光秀は穏やかに言った。


「信長様は道を違えません」


 小春はしばらく黙った。それからぽつりと呟く。


「……光秀ってさ。優しいね」


 光秀は少し困った顔をした。


「そうでしょうか」

「うん」


 小春は笑った。


「ちょっと安心した」


 光秀はその意味を聞かなかった。ただ軽く頭を下げる。


「それは何よりです」


 その姿を見ながら小春は思う。


(この人が……)


 この先、本能寺の変を起こす。


(……そんなの、信じたくないな)


 胸が、少し痛んだ。

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