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第一章:第十六話 姫の嗜み

「も、もうダメです……」

「なんだ、もうへばってるのか?」


 木刀を手に楽しそうな利家とは対照的に、小春は地面に膝をついた。


「力が入りすぎだ。槍は振り回すものじゃない」

「え、じゃあどうするの」

「突く」


 利家が後ろから構え直す。

 桶狭間の戦いから数週間が経つ。小春は“姫としての嗜み”という名の地獄に遭っていた。

 織田の姫に恥じない教養を身につけさせよ、という信長からの命令を受けた利家に、小春は槍術、馬術を教え込まれる日々を送っている。


 小春の思う姫に必要な教養とは、料理をしたり読書をしたりと奥ゆかしい内容だと思っていたのだが……これはまるで武将になるための稽古である。

 さらにそれを面白がって慶次が剣術を教えに加わることもある。利家の熱さと慶次のぶっ飛び加減が相俟った日の稽古内容は地獄を通り越して酷いの一言に尽きる。


「握り方違うって。ほら、こうだ」

「痛ったい!」

「痛ぇのは生きてる証拠だ」

「もうやだ!」

「利家殿。もうその辺に……」


 そうやっていつも声をかけてくれる光秀は小春にとって天使だった。


「少し休憩しませんか」

「するする!」

「あ、小春っ。お前!」


 木刀を投げ出して縁側に座った小春は、光秀が用意したお茶と饅頭を堪能する。キツい稽古の後のおやつタイムは格別だ。


 利家の稽古に三日で根をあげた小春は、毎晩空を見上げていた。虹が現れたら未来に帰れる、稽古しなくて済む。そう思っていたが、虹は今日にいたるまで現れなかった。夜には必ず現れる。ただ、いつ出るのかはわからない。

 もう虹が出ることはなく、帰れないかもしれないという悲観は、あまり感じなかった。来ることができたなら帰れるだろうと思っているし、未来へ戻ると過去へ行った時から再び時間が進むように思う。つまり小春がここにいても、未来で行方不明として家族や友達に心配をかけることもない。それに――


「なんだかんだで、楽しいしね」


 一生未来に戻れないのは嫌だが、ここにいて嫌だということもなかった。織田の人々はみんな小春によくしてくれる。

 ただ困るのは生活面。当たり前だがお風呂もトイレも仕様が違う。それも数週間過ごせば慣れたが、動きにくい着物には苦労する。


「利家、着替えて稽古再開していい?」

「いいけどよ、またあの変な着物にするのか?」


 利家の言った変な着物とは、小春が元々着ていた服。普段は着物で過ごし、稽古時は動き慣れた衣服で対応。かなり役に立っている。

 逆にスマートフォンは電波も繋がらないため使えず、電源を切ったまま放置していた。持ち運び充電器も然り。

 部屋で着替えを済ませ、リュックからチョコレートの袋を取り出す。


「これは持ってきてよかった」


 言わずもがな小春の大好物である。一つだけ取り出して口に入れる。甘さが舌に広がり、少しだけ元気が戻った。


「よお。お姫さん」

「うげ……慶次……」


 再び利家のもとへ戻ったところで慶次の姿を見て絶句する。


「今から俺も稽古に付き合うとするか」

「よかったな、小春。慶次が来たからにはもっと男上げていくぜ!」

「男じゃないってば!」


 再開した稽古は熱さとぶっ飛びが混じり、地獄と言うよりむしろ混沌だった。


 稽古が再開してしばらく経った。


「足が止まってるぞ、小春!」

「もう無理!」


 利家の槍を必死で受けながら、小春は半泣きで叫んだ。そこへ慶次が笑いながら口を挟む。


「ほらほら、小春。そんな振りじゃ蚊も斬れねぇぞ」

「蚊は斬らないから!」

「慶次、茶々を入れるな!」


 利家が怒鳴り、慶次は肩をすくめる。

 縁側では光秀が静かにお茶をすすっていた。その時だった。ふいに光秀が立ち上がる。


「――殿」


 その一言で、空気が変わった。小春が振り向く。

そこに立っていたのは信長。黒い衣をまとい、腕を組んでこちらを見ている。

 利家と慶次が同時に姿勢を正した。


(え、なんでいるの!?)


 小春は木刀を握ったまま固まる。

 信長の視線がゆっくりと小春へ向く。少しだけ口角が上がった。


「ほう」


 それだけ言う。利家が胸を張った。


「信長様のご命令通り、姫に武芸を仕込んでおります」

「見ればわかる」


 信長は淡々と言った。そして小春を見下ろす。


「どうだ」


 突然話を振られ、小春は固まる。


「え?」

「織田の姫の嗜みだ」


 利家がにやりと笑う。慶次は面白そうに腕を組む。小春は半泣きで叫んだ。


「嗜みってレベルじゃないです!」


 一瞬の沈黙。そして。信長が笑った。低く、愉しそうに。


「ははは」


 利家が驚き、慶次が笑みを深める。光秀だけが静かに目を細めた。

 信長は小春を見据える。


「ならば、もっと鍛えよ」


 その目は完全に楽しんでいた。


「織田の姫が弱くてはつまらぬ」


 小春は心の底から思った。


(信長、絶対楽しんでる!)


 信長はしばらく小春の稽古を眺めていた。

 木刀がぶつかる音。利家の鋭い踏み込み。小春の必死の防御。数合で小春の足がもつれ、尻もちをつく。


「うぅ……」


 利家が肩で息をしながら言う。


「今日はここまでにするか」


 その時だった。


「利家」


 低い声が落ちる。利家が振り向き、すぐに姿勢を正す。信長はゆっくりと庭へ降りてきた。


「どけ」


 短く言う。利家が目を瞬かせる。


「……は?」


 慶次が楽しそうに笑った。


「ほう」


 信長は小春の手にある木刀を見る。


「貸せ」


 言われるまま差し出すと、信長はそれを軽く振った。木刀が空気を裂く。それだけで、小春の背筋がぞくりとした。

 信長は小春を見る。


「立て」

「え」

「相手をしてやる」


 利家が慌てる。


「信長様、小春はまだ――」

「構わぬ」


 一言で黙らされた。慶次は腕を組み、面白そうに眺めている。縁側では光秀が静かに目を細めていた。

 小春はふらふら立ち上がる。信長が木刀を肩に乗せた。


「来い」


 その一言で空気が変わった。利家との稽古とはまるで違う。圧がある。小春はごくりと唾を飲み込む。


「い、いきます!」


 勢いで踏み込む。木刀を振る。次の瞬間。カン、と乾いた音。

 気づいた時には、木刀が弾かれていた。視界が揺れる。背後に信長が立っていた。


「遅い」


 耳元で声がする。小春は凍りついた。


(いつの間に!?)


 慶次がくつくつ笑う。


「さすが信長様だ」


 利家は腕を組んでうなずいた。

 信長は木刀を軽く回す。


「もう一度」


 小春は歯を食いしばる。

 再び踏み込む。振る。突く。だがすべて、軽く流される。信長はほとんど動かない。それでも当たらない。

 数合後。小春の木刀が止められた。信長の木刀が、喉元に触れている。


「終わりだ」


 静かな声。小春は肩で息をする。信長は少しだけ口元を上げた。


「利家」

「は」

「悪くない」


 利家の顔がぱっと明るくなる。


「はっ!」


 信長は木刀を小春に返した。


「だが、まだ弱い」


 慶次が笑う。


「それはそうだ」


 信長はくるりと背を向けた。


「鍛えよ」


 歩きながら言う。


「織田の姫であろう」


 その背中を見ながら、小春の中に悔しさと、少しの興奮が混ざる。


「小春」


 去り際に信長がふと足を止めた。


「今の踏み込み、悪くなかった」


 その言葉に、小春の胸の奥が熱くなる。と――慶次が肩を叩いた。


「小春」

「なに?」

「いい相手を持ったな」


 利家がにやりと笑う。


「明日から稽古倍だ」

「やめて!」


 庭に笑い声が響いた。縁側で光秀が静かに呟く。


「……楽しそうで何よりです」

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