第一章:第十五話 桶狭間の戦い⑦
再び半蔵に織田のもとへ送り届けられた小春は、リュックからチョコレートを取り出して彼に渡した。
「これは?」
「あの女の子に渡して。チョコレートって言えばわかるから」
半蔵は特に疑いもせず、懐にそれをしまって馬を走らせた。
見送った後で城へ戻ると、兵たちの中に見知った人物がいた。
「光秀!なんでここに……」
「織田に仕官いたしました」
「え?」
「桶狭間を遠目に見ておりましたが、あのような戦をする御方は、初めて見ました」
ふっと目を細め、光秀は空を見上げた。
「信長様は、常識では測れません。あの方の行く先を、少し見てみたくなりまして。あの炎がどこまで燃えるのか……」
そして光秀は一瞬だけ、小春を見つめた。まるで何かを測るような視線だった。
「な、なに……?」
「……あなたは」
そこまで言いかけて、光秀は言葉を切った。
「……いえ、なんでもありません」
「そういえば、光秀一人?」
人だかりの中にあの銀髪の男を探すが、いない。
「久秀は一緒じゃないの?」
「彼は、しばらく隣で戦を見ていたのですが、いつの間にか姿を消していました」
小春を見る光秀の瞳は、どこか不思議そうだった。胸の奥がわずかにざわつくのを感じる。
――お前はここに存在しない人間よ。
久秀の声が、ふと耳の奥によみがえる。あの男は、何を見ていたのだろう。
久秀はいずれ信長の家臣になる。また会うことになるだろう。その時は、あの言葉の意味を聞いてみようと小春は思った。と――
「前田利家、殿がお呼びだ」
兵が声をかけると、利家が振り向いた。
「お、呼ばれたか」
利家は軽く手を振り、小春の横を通り過ぎていく。
「行ってくるわ」
そう言って信長のもとへ歩いていく背中を、小春は見送った。
信長の前に、利家は膝をついていた。周囲にいる兵たちも、いつしか距離を取っている。誰も口を開かない。
ただ、二人の間に張りつめた空気だけがあった。
「勝手に来たな」
低い声だった。利家は顔を伏せたまま答える。
「はっ」
「武功を立てたな」
「はっ」
わずかな沈黙。信長の視線が、ゆっくりと利家に落ちる。
「だが、命令を破った」
その言葉が落ちた瞬間、空気が重く沈んだ。
利家は何も言わない。ただ黙って頭を下げている。風が、旗を揺らした。
信長はしばらく利家を見つめていたが――ふと視線を横へ向けた。
少し離れた場所。小春が立っている。心配そうにこちらを見ているのが分かる。
信長の目が、一瞬だけ柔らいだ。けれど、その色はすぐに消える。再び利家を見下ろす。
「……馬鹿者」
利家は何も言わない。沈黙が落ちる。兵たちも息を潜めていた。
そして信長は、ゆっくりと言った。
「帰参は許さぬ」
空気が凍る。利家の肩が、わずかに動いた。だが顔は上げない。その沈黙の中で、信長は続けた。
「あれに槍を教えろ」
利家が、はっと顔を上げた。
「……姫様に槍を?」
信長は小春の方をちらりと見た。信長の口元が、ほんのわずかに歪む。
「あれは飾りではない」
短く、そう言い切る。
「死なぬ程度に強くしろ」
利家の目に、わずかに光が戻る。
「……はっ」
深く頭を下げる。信長はそれ以上何も言わなかった。
ただ、手を振って下がらせる。
利家が立ち上がり、静かにその場を離れる。その背を、少し離れた場所から小春は見つめていた。
二人のやり取りを固唾をのんで見守っていると、信長がふと顔を上げる。視線が、一瞬だけ小春に向いた。
『当主とは、己を殺す役目じゃ』
――あの夜の言葉が、ふいに蘇る。低く、静かな声。耳の奥で、まだ残っている。
雨が降っている。細い雨音が、静かに地面を打つ。その音に混じって、別の音がよみがえった。蹴鞠。ぽん。ぽん。柔らかな音が、記憶の奥から跳ね返ってくる。
小春はゆっくり息を吸った。胸の奥で、何かが静かに繋がる。
今川義元は、負けると分かっていたわけじゃない。けれど――“死ぬ可能性込みで進んでいた”。
当主とは。自分が落ちる可能性を知っていても、前へ出る者。
もし落ちても。その先に、誰かがいればいい。次に進む者がいればいい。その“次”が――
小春は顔を上げた。視線の先に、信長 がいる。
信長は、違う。あの人は、落とす覚悟で進むのではない。勝つために燃えている。
迷いはない。命も、国も、すべてを燃やしてでも勝つという炎。
小春はその姿を見つめた。
「私は……」
この炎を選んだ。でも、胸の奥に静かな痛みが残る。
あの雅を。あの静かな誇りを。小春は、切り捨てた。
足元で、小さな石が転がる。無意識に、つま先で蹴っていた。石が跳ねる。乾いた音がした。
ぽん。
ほんの少しだけ、蹴鞠の音に似ていた。




