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第一章:第十四話 桶狭間の戦い⑥

 小春は再び歩く。高台へ上がると、前方にまだ十歳にも満たないぐらいの少女が立っていた。衣服は襤褸、髪は乱れ、裸足だった。

 戦場をじっと見つめている彼女の癖毛が、風に揺れる。

 戦のない野は、妙に静かだった。あるのは、風と、遠くで鳴く鳥の声だけだ。


「こんなところで何してるの?」

「……戦……」

「終わったみたいだよ。帰らないの?」

「帰るところはない。戦でなくなった」

「そうなんだ……お父さんとお母さんは……」

「いないよ。戦に巻き込まれて死んだ」


 竹千代と似た境遇だな、と小春は思った。ただ違うのは、竹千代は震えていたが、瞳には灯りがともっていた。けれどこの少女の瞳は違う。まるで、火が消えたあとの炭のようだった。何も映していない。

 これ以上かける言葉が見つけられず、小春は黙った。静けさの中で、小さな音が鳴る。ぐう。少女の腹が鳴った。


「……ごめん。今何も持ってなくて」


 リュックは本多家の陣に置いてきたままだ。


「あー……こんなことならリュック持ち歩いとくべきだった」

「りゅっく?」

「チョコレートとかいろいろ入ってるの」

「なに?」


 きょとんとした顔で小春を見つめる少女に、はっとする。この時代には、まだチョコレートはない。


「すごく甘くておいしいお菓子だよ」

「それ食べたい」

「もしまた会えたらね」


 その時。すぐそこで、空気が揺れた。気配だけが先に現れる。そして、影が一つ、形を取る。そこにいたのは半蔵だった。


「小春。こんなところで何をしている」

「半蔵……どうしたの?」

「すべて終わった。義元は──死んだ」


 信長が、勝った。半蔵がここにいるということは、家康は無事だろう。もし何かあったなら、この男がこんな風に姿を見せるはずがない。


「忠勝がお前を探していた。荷物を預かったままだと」

「ちょうど気になってたとこなの。後で取りに行かないと」


 半蔵は小春から少女へ視線を移した。


「お前の子か?」

「いや、違うでしょ。……天涯孤独みたいだよ。戦で家も親もなくしたんだって……」


 ほんのわずか、間があった。半蔵は少女を見下ろす。少女はその視線を受け止め、動かない。泣きもしない。ただ、じっと立っている。


「それなら私が面倒を見よう」

「え……っ」


 小春は度肝を抜かれた。あの半蔵の口から、家康以外を気遣う言葉が出るなんて。


「来るならば共に来い」


 短く言うと、半蔵は背を向けた。少女は一瞬だけ小春を見る。それから、小さく頷き、半蔵のあとを追った。自然と、半蔵の半歩後ろに立つ。

 影に守られる位置。その立ち位置は――まるで主と従者ではなく、親が子を連れているように見えた。


 小春は思わず呟く。


「あの半蔵に子どもができた……」


 それから半蔵に本多の陣まで送ってもらうと、中で忠勝と稲が待っていた。


「これは、小春殿の荷物だ」

「ありがとう……」


 忠勝からリュックを受け取る。その上に、ぽんと鞠が置かれた。

 小春の手が止まる。指先で、そっと触れる。あのときの音が、ふと耳の奥によみがえった。


 ――ぽん。

 ――ぽん。


 蹴鞠の軽やかな音。そして、穏やかな笑顔。今川義元 。

 あの、どこかのんびりした男は、もうこの世にいない。胸の奥が、きゅっと締めつけられる。


「無事に信長殿に会えたようだな」


 忠勝の声に、小春は顔を上げた。


「うん。みんなのおかげだよ」

「しかし……義元様が……」


 忠勝の顔に、深い憂いが浮かぶ。

 小春は何も言えない。歴史どおりの結末だった。

 そう、分かっていた。分かっていたはずなのに。胸の奥に、重たい石のようなものが沈んでいる。


 もし何も言わなければ。もし黙っていれば。違う道は、あったのだろうか。

 手の中の鞠を見つめる。

 あのとき義元は、楽しそうに蹴っていた。戦など忘れたように、穏やかな顔で。

 ——あの人は、死ぬはずの『運命』だった。

 けれど今は違う。あれは確かに、そこに生きていた一人の人だった。


「……私が、早めちゃったのかな」


 攻めたのは信長だ。けれど――

 その背中を押したのは——きっと小春だ。


「氏真様では、遠州は治まらぬ……」


 忠勝が低くつぶやく。


「また戦乱に巻き込まれるやもしれぬ……」


 その声には、主家への忠義と、不安が入り混じっていた。

 小春と稲は、黙って忠勝を見つめる。そのとき――


「氏真は義元の器に遠く及ばず」


 陣の外から声が聞こえた。聞き覚えのある、落ち着いた声。


「今川家は衰退の一途を辿りましょう。殿、今川をお捨てになられては」

「主家を裏切れと申すか、半蔵っ」


 小春は思わず天幕の隙間から顔を出す。

 そこには家康 と半蔵 がいた。空気が張り詰めている。

 小春は一歩、外に出た。


「……家康」


 家康が振り向く。


「誰も、家康のこと責めないよ」

「小春殿……」

「忠勝も、半蔵も」


 二人を見る。


「みんな家康の味方だよ」


 家康の目が、わずかに揺れた。


「どんな道を選んでもきっと、ついてきてくれる」


 沈黙が落ちる。夜風が、静かに吹き抜けた。

 小春は続ける。


 「ただね」


 少し言葉を探す。


「どんな道でもいいから、みんなが幸せになれる道を選んでほしいなぁ、なんて」


 少し照れたように笑う。


「……半蔵にも、家族ができたことだしね」


 半蔵がわずかに目を細めた。


「家康なら大丈夫だよ」

「何をもってそう申される」


 小春は少し笑って言う。


「だって家康は、誰よりも人を大事にする人だから」

「そんな人が治める国なら、きっと長く続くよ」


 家康はしばらく黙っていた。そしてゆっくりと口を開く。


「小春殿」


 その声は、迷いを含んでいた。


「徳川の行く末は、まだ決められぬ……」


 視線を遠くに向ける。かつての主家。今川への義。それを捨てることの重さ。


「しかし」


 再び小春を見る。


「小春殿の言うように、皆が幸せになる道を歩みたいと思います」


 小春はほっと息をついた。


「うん」


 そして、少しだけ笑う。


「私は……織田に行くね」

「先ほど信長殿にお会いして話を聞き申した」

「え?」

「小春殿は織田の姫でしたか」


 小春は一瞬固まる。


「だから十年前、那古野城におられたのですな」

「いや、それは違うんだけど……」


 信長はどう説明したのだろう。

 十年前、小春より年下だったはずの男が、今は父親になっている。

 家康は不思議そうな顔一つせず、うなずいている。


(そこはツッコまないんだ……)


 小春は苦笑いを浮かべた。

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