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第一章:第十三話 桶狭間の戦い⑤

 光秀と久秀と別れ、小春は一人崖沿いに歩いていた。


 “お前はここに存在しない人間よ”


 久秀に言われた言葉が頭を離れない。彼は小春がこの時代の人間ではないと、未来から来たと知っている――?

 いや、でも気づかれるようなことは何もしていない。何かを感づかれるほど久秀と一緒にいたわけでもないし深い話もしていない。

 そして気になるのは“この戦で、戦国の運命が動きだす”という言葉。

 後に『桶狭間の戦い』と言われるこの戦で、織田信長は戦国大名として天下に名を轟かせ、天下人への大きな一歩を踏み出すのだ。


「まさか、ほんとに占い師か何かなの……?」


 そんなことを思いながら、気づくと平地へ降りていた。今川の本陣が近い。

 雨の中、小春は今川の本陣を見つめていた。


 史実では――この時、今川義元は油断していたと言われている。だが、目の前の陣は違った。静かすぎる。兵の声も、笑いもない。雨の音だけが幕を叩いている。

 その時だった。陣幕の奥から、一人の男が歩み出る。白い衣。濡れた髪。――義元。

 その目が小春を捉えた。護衛が一歩前に出る。だが義元は、静かに手を上げてそれを制した。そして微笑む。


「ああ、そちか」


 月夜の時と同じ声だった。小春の指先が震える。


「義元……ここは危な――」


 言いかけた言葉を、義元は首を振って止めた。


「危ういのは、常よ」


 雨音だけが二人の間に落ちる。


「我はな、恐れておる」


 小春は息を呑む。


「だが――進む。止まれば家が死ぬ。恐れぬ顔をせねば、家が揺らぐ」


 義元は穏やか。小春は、再び言いかける。言ってはだめだ。だめなのに、言葉がここまで出かかる。


「義元、今日の戦は――」

「そちは、何か知っておるの」

「っ、それは……」

「言わずともよい。我は、進むと決めた」


 ふっと義元は笑った。


「家を残すとは、ただ血を繋ぐことではない。名を、威を、恐れを、世に刻むことよ。人を欺き、討ち、滅ぼす。それでも生きねば、守れぬものがある」


 雨が義元の肩を濡らす。


「負けるかもしれぬの」


 あまりにも軽く言うので、小春は息を呑んだ。

 義元は焦っていない。むしろ――あの月の夜より、美しかった。

 その瞬間、小春は気づく。この人は。すべてを分かった上で、進んでいるのかもしれない。


 雨が静かに落ちていた。義元は空を見上げたまま言う。


「当主とはな」


 小春は息を止める。


「己を殺す役目よ」


 義元は小さく笑った。


「己を残したままでは、家は背負えぬ」


 視線は一度も小春に向かない。


「好き嫌いで物を決めてはならぬ。恐れで止まってもならぬ。情で刃を鈍らせてもならぬ」


 雨が義元の頬を伝う。それが涙なのか、雨なのか――分からない。


「たとえ血を吐こうが、笑う」


 雨が静かに落ちる。


「たとえ恐れようが、進む」


 義元の声は穏やかだった。


「たとえ涙を呑もうが、顔には出さぬ」


 小春は動けない。


「心が軋もうとも、刃を振るう」


 そして初めて、小春を見る。


「それが当主というものよ」


 雨。その時、義元が少し柔らかく笑う。


「……じゃがの。本当は、誰もそんな役目など背負わずに済む世がよいのじゃが」


 そして懐から何かを取り出す。それは鞠。義元はそれを軽く放り、受け止めた。そして言う。


「蹴鞠とは、落とさぬよう繋ぐものじゃ」


 小春の目が見開く。あの月夜の言葉。義元は静かに続ける。


「我が落とすこともあるやもしれぬ」


 雨が強くなる。でも義元は微笑んでいる。


「だが、その時は――」


 義元は小春を見る。優しく。穏やかに。そして言う。


「誰かが、次を蹴ればよい」


 義元は小春に背を向ける。その背中は最後まで笑っている。

 雨は強くなっている。陣は静まり返っている。

 小春は立ち尽くしたまま、呼び止めようとしたが、声が出ない。

 義元の言葉が頭の中で反響する。


 “たとえ血を吐こうが、笑う。たとえ恐れようが、進む。たとえ涙を呑もうが、顔には出さぬ。心が軋もうとも、刃を振るう。それが当主というものよ”。


 その背中は、もう止まらない。

 この人は――止められない。止めてはいけないのかもしれない。

 義元の歩みはゆっくりだ。だが一度も振り返らない。雨が地面を叩く。小春の手は微かに震えた。その時、義元の足が止まる。

 小春の心臓が跳ねる。振り返るのかと思った。けれど。振り返らない。ただ――ほんの少しだけ、横顔が見えた。


 雨の向こう。義元は、いつものあの柔らかな笑みを浮かべている。まるで、月夜に蹴鞠をしていた時と、同じ顔。

 恐れも。覚悟も。悲壮も。そこにはない。ただ穏やかに。静かに。笑っている。

 そして義元は言う。


「そちは見ておれ。戦とは、当主が一人で背負うものよ」


 小春の喉が詰まる。言葉が出ない。義元はもう止まらない。歩き出す。雨の中へ。陣の奥へ。


 この人は、勝つために戦うのではない。背負うために進んでいる。それが――当主。


 義元の背中が遠ざかる。やがて雨の向こうに溶ける。

それでも小春は立ち尽くしていた。

 その時、小春はふと気づく。義元は最後まで一度も振り返らなかった。なぜか。簡単だ。振り返れば、足が止まるから。


 そして数刻後。

 桶狭間で、今川義元は討たれる――

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