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第一章:第十一話 桶狭間の戦い③

 ポツポツと雨が降りだしてきた。此方に戻って来てから数時間は経つ。月は消え、今は暗雲が広がっていた。

 部屋の前に立ち、声をかけてから中に入る。


「のぶ――じゃなかった。えーと、父上……え……っ」


 小春はぎょっとした。絶体絶命の危機が迫っているというのに、信長は舞を舞っていたのだ。


「あのー、今川が上洛を決めて迫って来てるのをご存知で?」


 知らないはずはないのだが、一応そう聞いてみる。


「踊ってる場合じゃないと思いますけどー……」

「うぬはそのような言葉遣いに慣れておらぬのか?」

「え?まあ……そうですね。遣う相手なんて限られてたので。それにあんた――じゃなくて、父上と初めて出会った時はそんなしゃべり方じゃなかったので」


 どうしても最初に出会った時のイメージが強く、信長は小春より年下という認識もあって敬語を意識すると違和感があるかもしれない。


「あまりにもぎこちなく、気味が悪い。皆に不審がられる……」

「悪かったね!――あ、いえ、ごめんなさい。精進します」

「……もう普段どおりでよい」


 お許しが出た。そんなに不自然……いや、気味が悪かったのだろうか。


「ねぇ。何か打開策あるの?」


 そう聞いてみたが、信長は笑みを浮かべるだけで何も答えなかった。


「数では不利だよね。まあでも、数が多いから勝つとも限らないし……ただ力押しじゃ敵わないね。何か不意を突かないと……」

「奇襲、であるか」

「……義元は今、桶狭間で休んでる。もし不意を突くなら――」

「まだその時にあらず」


 そう言って信長は舞を続ける。小春はその場に座り、信長が舞うのを眺めていた。やがて雨音が強くなり始めた時。


「出陣、ぞ」

「……は!?今から!?」


 突然舞をやめた信長は、刀を手にした。


「雨がこちらの気配を消す」

「でもすごく雨降ってるよ?」

「豪雨の中、敵襲はないと相手も油断している」

「なるほど……あ」


 感心した小春は、今川の上洛状況を報せる他に大事なことを思いだした。


「今川には竹千代がいるの」

「竹千代……?」

「あんたんとこに人質になってた子だよ。今は家康って名前なんだけど。助けてあげてくれない?」

「信長が道を阻むなら、すべて絶やすのみよ」

「そんなっ。家康だって好きで義元に従ってるわけじゃないのに」


 やはり冷酷に成長してしまったのかと小春は溜め息を吐く。まあ、だからこそ織田信長なのだが。


「じゃあいいよ。私が家康を助ける」

「うぬは連れて行かぬ。時が来るまでお濃、市と共に城で待機せよ」

「嫌。あんたのことだから家康諸共やっちゃいそうだし、避難するよう伝えないと」

「――信長の言うことが聞けぬか」


 振り返った信長の動きが一瞬止まる。いつの間にか部屋に勝家、利家、慶次、秀吉が揃っていた。


「殿、準備ができ申した」


 勝家が言い、信長は部屋の外へと向かう。が――


「利家」


 出入り口の前で足を止めた。背を向けたまま、名を呼ぶ。利家は膝をつき、頭を下げた。


「うぬはなぜここにいる」

「信長様の一大事ゆえ……」

「帰参を許した覚えはないが?」


 言い放った瞬間、空気が凍る。しばし間の後、信長は廊下へと足を進めた。

 信長が去って部屋の緊張が解けた途端、秀吉が利家のそばに寄る。


「利家、ここは引くんじゃ。柴田殿のおかげで出仕禁止で済んどる。それを破っては――」

「命令違反?知るか。信長様の戦だぞ!」

「落ち着け、利家。これ以上はわしも庇いきれぬやもしれぬ」


 勝家の言葉に、利家は口を噤んだ。


 やがて出陣して行った彼らを見送り、再び静けさが戻る。利家は座ったまま黙りこくって何かを考えているようだった。

 そんな彼を尻目に、小春は本を開いた。織田信長の歴史――桶狭間のページに、利家のことが少し載っていた。


『前田利家は素行の問題で織田信長から出仕停止を食らう。 桶狭間の戦いに無断で参戦して武功を立てる。それでもすぐには完全復帰できず、次の戦いなどでさらに功を挙げてようやく帰参が許された』と。


「利家。あなた戦に出れないんだってね」


 小春は利家をじっと見つめ、呆れ混じりにため息をついた。


「帰参許されてないのに、戦出るの?行かなくて済むなら、私なら行かないけど」

「……織田が滅びるかどうかの戦だ。じっとなんかしてられるわけねぇだろ」


 絞り出すようにそう言うと、立ち上がり、利家は拳を握った。 


「信長様は、見ている。そういう御方だ」


 利家が部屋から出て行った後、小春は信長の傍らにいた女と二人、部屋に籠った。彼女こそ信長の正室・濃姫だった。

 豊満な体つきに白い肌。着物の隙間から深紅が覗くたび、妙に目を奪われる。その妖艶な美女は、さすがあの信長の妻だと思う容姿をしていた。


「なぜあの人があなたを娘にしたかわかる?」


 そんな濃姫と二人きりは緊張する。特に会話もなかったが、ふいに彼女が話しかけてきた。


「あなたを手元に置いておきたいみたいだけど、それなら側室でもいいのに、どうして娘なのか」

「それは……確かに気になる」


 濃姫は静かに小春を見つめた。その視線は柔らかいのに、逃げ場を与えない。


「妻を娶るのは家同士の結びつきと、自分の子を産ませるため。ただあなたは……出生がどこかわからないみたいね」


 図星を突かれ、小春は言葉を失う。


「そんなあなたを娶っても、利は子を産むことだけ。でも娘なら違うわ」


 濃姫は指先で髪を払う。


「織田の姫として嫁げば、嫁ぎ先との繋がりができる。子を産めば、孫はあの人の臣になる」


 そこで彼女は小さく笑った。


「それに……子は親に従うものよ」


 そう言った彼女の横顔は、信長に似た雰囲気をしていた。


「どうもあの人は、あなたに言うことを聞かせたいみたいね」

「そうみたいだね……」

「わかってるでしょうけど、あの人の妻である私はあなたの母よ。私の言うことも聞いてちょうだいね」


 濃姫は小春に微笑んだが、なぜか圧迫感を感じた。頷くしかできない。


「は、はい……えーと、母上とお呼びすれば……?」

「いい子ね。可愛がってあげるわ」


 小春の返事に濃姫は笑みを強める。その時、失礼致します、と声がかかった。障子が開けられ、市が部屋に入って来る。


「お義姉様。お兄様から使者が来ました。準備もできています」

「手際がいいわね、市。それじゃあ、私たちも行くわ」

「え、あの、どこへ……?」


 立ち上がり、刀を手にした濃姫は、小春を振り返って妖しく微笑む。


「私たちも向かうのよ、桶狭間に。あなたも一緒にいらっしゃい」

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