第2話:平和な隠居計画と、不穏な足音
コンコン、と控えめなノックの音が響く。
「奥様……失礼いたします」
返事をする前に、私は視界の端に浮かぶ『ステータス画面』を見た。
【前任者の印象:儚げ、薄幸、無機質】
【生き残るコツ:目立たず、騒がず、人形のように振る舞うこと】
(なるほど。自己主張ゼロの置物系ヒロインだったわけね。よし、そのままのキャラ設定を引き継がせてもらうわ)
私は喉のボリュームを最小限まで絞って、静かに声を出す。
「……ええ、どうぞ」
数人のメイドが入室し、一礼した。
その動きはどこかぎこちなく、揃っていない。
「ご気分はいかがでしょうか、奥様」
「ええ……少し、楽になりましたわ」
その瞬間、彼女たちの視線が一斉に私に集まった。
――違和感。
昨日までと、何かが違う。
ここで下手に動けば、「夫人としてのお役目」という名の余計な仕事が降ってくる。
私は即座に先手を打った。
「……今日は、少し静かに過ごしたくて。身支度は、一番手間のかからないものにしてくださる?」
(※本音:最短ルートで布団に戻りたいだけ。着替えに時間をかけるなんてごめんだわ)
一瞬の沈黙のあと、メイドがほっとしたようにうなずく。
「かしこまりました。お体が戻られるまでは、それが一番かと」
(よし、時間の短縮に成功。二度寝へのカウントダウン開始ね)
私はそのまま、儚げな人形を演じ続けた。
だが――前世で染み付いた、観察する悪癖は簡単には抜けない。
家具の配置、掃除の行き届いていない部屋
そして何より、メイドたちの目の下に刻まれた濃いクマ
「……朝は、いつもお忙しいのね」
穏やかに言ったつもりだった。
だが、メイドの肩がわずかにこわばる。
「はい。ですが……それが我らの務めですので」
その言葉に、背筋が寒くなった。
疲れ切っているのに、「慣れ」だけで回している乾いた声。
これは……知っている。崩壊寸前のブラック職場の空気だ。
「……皆さんのおかげで、この屋敷は保たれているのですね」
空気が、少しだけ変わった。
メイドたちの目に浮かんだのは、戸惑いと――隠しきれない疲労。
(……やっぱり。廊下の騎士も、朝食のメニューも、余裕がなさすぎる。ここ、現場が回ってないんじゃない?)
ステータス画面をよく見れば、領内の運営状況が「危険信号」を示している。
「今日も……良い一日になりますように」
微笑みながら、私は内心で冷や汗をかいていた。
(冗談じゃない。このままこの屋敷が潰れたら、私の『上がり』生活も一緒に消滅するじゃないの!)
朝食の席。旦那様――カシアン・G・バウムガルトは、昨日から不眠不休の執務で不在だと告げられた。
「後ほど……お体を案じていると、お伝えいただけますか」
(※本音:社長、あなたが倒れたら私の不労所得が止まります。頼むから寝て)
「奥様がそのように……! 旦那様も、どれほどお喜びになるか! 必ずお伝えいたします!」
儚げで、何もできなさそうな薄幸の夫人。
その皮を被ったまま、私は静かに決断した。
(ここ、確実に壊れかけてるわ。私の安眠環境を守るために――最低限の『手入れ』は必要ね)
そう思って立ち上がった、その時だ。
「……あ」
一歩踏み出した瞬間、膝に力が入らない。
さらには長すぎるドレスの裾を見事に踏み抜き、私は絨毯に向かって優雅に――ではなく、盛大に倒れ込んだ。
「「奥様―――っ!!」」
【警告:身体能力が低すぎて、歩行動作に不具合が発生しました】
(……まずは、この重たくて長いだけのドレスから『手入れ』が必要ね)




