第2話:儚げな夫人は、何も言わないはずだった
ノックの音は、控えめだった。
「奥様……失礼いたします」
返事をする前に、私は目の前に浮かぶ光の文字――この世界のガイドブックを確認する。
【前任者の印象:儚げ、薄幸、無機質】 【生き残るコツ:目立たず、騒がず、人形のように振る舞うこと】
(なるほど。自己主張ゼロの置物系ヒロインだったわけね。よし、そのまま引き継ぎ(コピー)よ) 私は声を極限まで落とした。
「……ええ、どうぞ」 (※本音:体調が悪いふりをして、お仕事を全部回避する作戦よ!)
鏡越しに見える自分は、今にも消えてしまいそうなほど華奢で細い。銀糸のような髪が、不健康な白さに映える。
(……これで中身が『締め切り三日前、栄養ドリンクで生きていた社畜』だなんて、誰も思わないわよね)
「ご気分はいかがでしょうか」
「ええ……少し、楽になりましたわ」
様子を見に来たメイドさんたちが、私をちらちらと見ている。完全に「今日は雰囲気が違う」という顔だ。ここで先手を打たなければ、「夫人としてのお仕事」という名の面倒事が降ってくる。
「……あの。今日は、少し静かに過ごしたくて。身支度は、簡素にしてくださる?」 (※本音:着替えに時間をかけたくないの。最短距離で布団に戻らせて!)
「……かしこまりました、奥様。お身体が戻られるまでは、それが一番です」
(よし、着替えの時短に成功! 二度寝の時間が30分増えたわ!)
内心でガッツポーズをする。 着替えの間、私は無口な人形を演じた。だが、前世の習性でつい「現場」の綻びを拾ってしまう。
「……朝は、いつも忙しいのね」 (※本音:無駄な動きが多いわね。配置、見直した方が良くない?)
「はい。ですが……それが我らの務めですので」
メイドさんの言葉に、嫌な予感がした。この、疲れ切っているのに「気合」で乗り切ろうとする空気……ブラック職場の香りがする。
「……皆さんのおかげで、この屋敷は保たれているのですね」
空気が、ほんの少し変わった。メイドさんたちの表情に戸惑いと、隠しきれない「疲労」が浮かぶ。 ここで私の瞳が、無意識にこの世界の「淀み」を捉えた。
【辺境伯領の運営状況:危険信号】 ・みんな寝てない(過労死ライン) ・主要な魔力設備:ガタがきていて爆発寸前 ・食糧事情:新鮮な野菜が届かない物流トラブル発生中
(……ちょっと待って。ホワイトな嫁ぎ先だと思ったら、ここ倒産寸前のブラック企業じゃないの!)
メイドさんの手がわずかに震えている。廊下ですれ違った騎士の目の下には、死ぬほど濃いクマ。そして何より、豪華なはずの朝食が、保存の利く乾物ばかり。 料理番の人員か、物流が死んでいる証拠だ。
「今日も……良い一日になりますように」
私は微笑みながら、内心で冷や汗を流した。
(ダメよ、このままじゃ領地が破綻して、私の『上がり』の生活が消えてなくなる! 私の安眠を守るために、早急にこのグダグダな現場を立て直さなきゃ……!)
朝食の席で、旦那様――カシアンが執務に追われて欠席だと聞いた。
「後ほど……お身体を案じていると、お伝えいただけますか」 (※本音:社長、あなたが過労死したら私の給料(生活費)が止まるのよ! 頼むから倒れないで!)
「奥様がそのように……! 必ずやお伝えいたします!」
――儚げで、薄幸で、何もできなさそうな辺境伯夫人。 その皮を被ったまま、私は静かに決めた。
(ここ、絶対に壊れてるわ。私の二度寝のために、徹底的な『大掃除』を始めてあげるわよ)
気合を入れて立ち上がった瞬間――。 「……あ」 派手にドレスの裾を踏んづけて、私は再び豪華な絨毯に顔面から突っ込んだ。
「「奥様ーーーっ!!」」
(……まずは、この長すぎるドレスの裾から『修正』が必要ね……)




