第19話:ノアの入社祝いと、胃袋を掴まれた守護竜
我は黒嶺竜。この山脈を統べる者、空を焼き、大地を震わせる「災厄」の名を冠する存在だ。 ……だったはずなのだ。
(な、なんなのだ、あの「小さき者」は……!)
我は現在、お屋敷の裏庭にある、何やら魔法で平らにならされた奇妙な場所で、身を縮めて震えていた。 数刻前、我はただ、空腹に任せてこの屋敷にある「旨そうな魔力の源」を食いに来ただけだった。だが、あのバルコニーにいた女が指先を動かした瞬間、我の誇り高き翼は石のように重くなり、声は封じられ、脳内には見たこともない奇妙な「禁忌の理」が直接流し込まれてきたのだ。
『命に従え。さもなくば、汝の存在をこの世から抹消せん。同意するか? [肯 / 肯]』 (選択肢がないではないか!!)
我のプライドは粉々に打ち砕かれた。あの女の瞳……あれは獲物を見る目ではない。「不具合のある道具」を直すべきか、捨てるべきか、冷徹に見定めている。そんな底知れぬ者の目だ。 逆らえば、存在を消される。そんな本能的な恐怖に、我はただ「平伏」を選んだ。
そこへ、ようやく呪縛(睡眠魔法)が解けたらしい人間たちが、武器を手に次々と庭に飛び出してきた。
「な、なんだこれは!? ドラゴンが庭に墜ちているぞ!!」
「総員構えろ! 奥様をお守りしろ!」
騎士たちは狼狽えている。無理もない、ついさっきまで熟睡していたはずが、起きたら目の前にランクSの災厄が転がっているのだから。
「奥様、危ない! 下がってください!」
「カシアン様、加勢いたします!」
騎士たちが剣を抜き、我を包囲しようとしたその時。バルコニーから降りてきたあの女――小さき者が、ふんわりとした足取りで我の鼻先へと歩み寄ってきた。
「……皆さん、騒がしいわよ。あまり怖がらせないであげて」
「なっ……奥様! 近づいてはいけません、そいつは黒嶺竜ですぞ!」
騎士たちが悲鳴を上げる中、小さき者は一切の躊躇なく、我の巨大な鼻先にそっと手を添えた。 ……が、そこで小さき者は、足元の石ころに盛大につまずいた。
「わわわっ!?」
ゴンッ!!
勢いよく我の鼻面に頭突きを食らわせ、彼女はそのまま尻餅をついた。
「いっ……いたたた。……あ、鼻血、止まってたのにまた出てきた……」
鼻を押さえて涙ぐむ小さき者。……だが、その手つきは、力でねじ伏せるようなものではない。冷えた鱗を労わるような、とても温かく、優しいものだった。
「……怖かったわね。無理に落としてしまって、ごめんなさい。痛いところはないかしら?」
(……!? この御方、頭をぶつけて鼻血を出しながらも……我を、案じているのか……?)
「はじめまして。私はリゼット。さっき、勝手に『ノア』なんて名付けてしまったけれど……嫌じゃなかったかしら。もしあなたが良ければ、改めて……今日からずっと、あなたのことをノアって呼んでもいい?」
支配のための識別ではない。一人の家族として、友として。その声に含まれた慈しみに触れた瞬間、我の魂に刻まれていた荒ぶる衝動が、静かな「忠誠」へと姿を変えた。支配の鎖だと思っていたその名は、今、我を孤独から救う「絆」へと変わったのだ。
「……グ、グルルゥ……(ノア、と……我を、そう呼んでくださるのか)」
我は、気づけば巨体を丸め、甘えるように鼻先をリゼット様の肩へ押し付けていた。その時、彼女が空中で指先を軽やかに滑らせるのが見えた。
【設計図操作:素材構成・熱量変換(爆速調理)】 【対象:保存していた魔獣の肉】 【工程:圧力煮込みを0.5秒でシミュレーション。栄養濃縮完了】
「ジャネット、これ。ノアの『入社祝い』よ。運ぶのを手伝って」
リゼット様が空間から取り出したのは、巨大な器に盛られた、凄まじい香りの肉塊だった。つい数秒前まで何もなかったはずなのに、豊かな湯気が立ち昇っている。
「……ノア。夜中の騒音についてはまだ少し怒っているけれど。墜落させて痛い思いをさせたお詫びと、これからよろしくの印よ。食べて?」
(……!? この短時間で、これほどまでの供物を用意したというのか!)
恐る恐る口に運ぶと、全身に雷が落ちたような衝撃が走った。 旨い。今まで食べてきたどんな獲物よりも魔力の純度が高く、翼の先まで力が満ち溢れていく。
(……この御方は、底知れぬ力をお持ちだ。……だが、それ以上に温かく、少しだけ危なっかしい……。我はこの御方を護る盾となろう!)
庭の隅で、カシアンや騎士たちが「奥様……空中に文字を書いて、肉を召喚されたのか……? やはり聖女様……!」と驚愕し、祈りを捧げているのが見えたが、知ったことか。
我の名はノア。この優しき主の安眠を守る、世界で唯一の「幸福なドラゴン」なのだ。




