8月19日(火)幽霊に筋肉ってあるの
もうすぐ二時だ。今日は仮眠を取らず、ベッドに腰掛け待っている。
右の耳には満充電のイヤホンを装着済みだ。
原田さんとの昼ご飯のあと、管理会社に電話をして心理的瑕疵の内容を知りたいと伝えた。
「えっ、あっ、はい! あれ? たしか開示の必要はないというお話だったかと思うのですが……」
電話向こうのお姉さんの声が明らかに動揺していた。話し始めは凄く事務的で冷たい感じだったのに、なんだろう、そんなにやばい内容なんだろうか。
「そうなんですが、いちおう知っておこうかなって」
「もっ、もしかして何か気になるようなことあった? ……りしました?」
動揺からかタメ口になりかけのお姉さんにうっかり萌えそうになる。ちなみに内見は不動産会社のおじさんだったので、このお姉さん──中村さんとは面識がない。
「ああいや、そういうわけではないです。知らなくていいと言ったのはこちらなので、後出しでクレーム付けたりもしませんし」
ほんとは気になりまくることがあるけども、とにかく安心してもらえるようにそう伝えると、彼女の声も落ち着きを取り戻した。
「……お気づかいありがとうございます。では、詳細は後ほど、書面でお伝えさせていただきます」
とりあえず、こちらも一歩前進した。
コソコソ調べているようで後ろめたさもあるけど、彼女に直接聞くのはやっぱり難しい気がするし、かと言ってそのまま知らずにいるのも無理だ。
『かんがえごと?』
──!? 微かな声に右を向くと、いつの間にか仄白い彼女の浴衣姿がベッドの右隣に腰掛けて、こっちを覗き込みながら左手を僕の耳に添えていた。
「あ、うん。そうだ、昨日は寝ちゃってごめん」
『いいの。寝顔みてた』
「……恥ずかしいな。起こしてくれても良かったのに」
『でも、金縛りになっちゃう』
彼女は困ったように顔を伏せる。なるほど、そういう仕組み(?)なのか。
『ねごと、言ってたよ』
「え!? なんて?」
朝までぐっすりだったので、夢の記憶もないけど、いったい何を口走っていたのだろう。
『ないしょ』
「えっ、気になる」
『教えない』
「どうして……?」
『だって』
「だって何?」
『…………ないしょ』
なんだろう、この幸せなやり取りは。思わず顔がにやけてしまう。
かすみさんの方は顔を伏せていて、表情はよく見えなかった。そして左手をずっと僕の耳のイヤホンに添えたままの彼女に、ふと思う。
「そういえば腕、疲れない?」
『うん?』
こちらに視線を向けて、不思議そうに首をかしげる。
「いや、ずっと上げっぱなしだから……」
そこまで言って、幽霊に筋肉とかないし疲れるわけないか、と思って言葉を止める。
彼女は伏せがちな目を見開いて、こっちをまじまじと見詰めていた。
可愛すぎて思わず目を逸らしてしまう。
『……ふふっ……』
一瞬だけ聞こえたそれは、聞き間違えかと思った。だけど彼女の方を見ると、口元を抑え前かがみになって、全身をふるふると震わせながら、めちゃくちゃ笑っているようだった。
左手がイヤホンから外れたせいで、笑い声は聞こえなかったけど。
そのまましばらく、無音で笑い転げる彼女を僕は、幸せな気持ちで眺めていた。
いったん笑いを抑えて、僕の耳に手を伸ばそうとして、目が合うとまた笑い出してしまう。
というのを二回繰り返して、ようやく彼女が平常心を取り戻したころには、タイムリミットの二時半直前だった。
『笑って、ごめんなさい』
「ううん、笑ってくれて嬉しい」
幸薄顔は大好きだし、寂しくて哀しげな表情はそれを引き立てるけど、それでも彼女が笑顔になってくれたことは心の底から嬉しかった。
「けど、そんなに面白かった?」
『うん。面白くて、優しくて、嬉しくて、びっくりして。よくわかんなくなって、たくさん笑っちゃった』
目を伏せてぽつりぽつり呟くように話していた彼女が、まだ微笑を浮かべたまま、こんなに長く喋ってくれたのは初めてだ。
何か気の利いた言葉を返したいと思ったけど、残念ながら何も浮かんでこない。
『ふふっ。また、あしたね』
そして今日も彼女は、夜に溶けるように消えていった。