8月17日(日)きみの名は?
午前零時を過ぎて、日付は8月17日。
なんとなくスマホで芸人さんのラジオを聞いて時間をつぶす。
設定したスマホのアラームは、鳴るのと同時に止めた。
ラジオを止め、昨日と同じようにベッドに腰掛けて彼女を待つ。
もうすぐ午前二時、草木も眠る丑三つ時。
実際、聞こえるのはエアコンの風の音ぐらい。
……。
スマホの時刻を確認すると、もう午前二時八分。彼女は現れない。
やっぱり、送り盆で帰ってしまったのか……?
天井を見上げる。照明が、まぶしい。
……あ……。
慌ててベッドから立ち上がり、壁にある照明のスイッチをオフにした。
闇に包まれた部屋の中央に、白くぼんやりと浮かび上がる彼女の浴衣姿。
もしかすると、ずっとそこで待っていてくれたのだろうか。
「ごめん、明るいと出てこれないよね」
申し訳なくて僕は手を合わせて謝る。その瞬間、彼女は両手を前に出して首を激しく左右に振った。表情が苦し気に歪んでいて、僕は慌てて合わせた手を離す。
「だっ大丈夫!?」
慌てて駆け寄ると、彼女は僕の顔を見上げて小さくうなずいてくれた。
手を合わせて拝む行為は霊にとって払われる危険性を伴うということか。
気を付けなくては……。
それにしても、僕の前で目を伏せた彼女は今日も最高に幸薄い。
部屋の真ん中、至近距離で向き合って立つシチュエーションに胸が高鳴る。
ちなみに身長差は頭一つぶんまではない。
怖さをほとんど感じないのは、今日もホラー映画を見まくったおかげで耐性がだいぶ上がったのか。
ただ、やっぱりひとつ気になることはある。
僕が黙っていると、おずおず視線を上げて僕の顔を覗き見てくる彼女。あいかわらずの上目づかいの破壊力だ。
「ええと、その……そうだ、名前は……?」
彼女は恥ずかしげに顔を伏せたまま唇を動かした。三文字だろうか。
「ええと……あゆみ、さん?」
ぷるぷると首を振ってから、もういちどゆっくり口を動かす。
「わかった! なつきさん!」
また首を振る。顔を上げて僕の顔をまっすぐ見詰め「よくみて」とばかりに唇を指さす。
「さゆり……かな?」
ぷくっと頬を膨らませる。おそろしく可愛いが、それどころじゃない。冷静に考えてみると、他の女の子の名前を連呼するのはすごくダメなんじゃないか。
そのとき彼女は何か気付いたように、はっと目を見開いた。
片手をすっと持ち上げて、指先で僕の右の耳に触れる。
──え?
そわりと走った期待に対して、実際の感触は何もなかった。それはそうだ。かわりに、プツッとノイズが走る。そういえば、ワイヤレスイヤホンを付けたままだ。
僕の目を見ながら、彼女が口を動かす。
『……か、す、み……』
彼女の口の動きに連動して、イヤホンから幽かな声が聞こえた。
「かすみ?」
僕が口にした名前に、一瞬だけ微笑を浮かべてうなずく彼女。
思わずガッツポーズをしてしまう僕だったが、いやいや待て情報量が多い。
一旦整理しよう。
とにかく彼女の名前は“かすみ”。ぴったりすぎる名前ですばらしい。
あと、今日見たホラー映画の中にも電話を通して霊が話すシチュエーションは何度か出てきた。かの有名な貞子もテレビから出て来たし、霊は家電と親和性が高いのかも知れない。
これで普通に会話できるのか? だとしたら、すごくうれしい。
そして何より彼女の一瞬の微笑! 幸薄の困り顔から繰り出されたそれは達人の居合一閃のごとく僕の胸に深々と刻み込まれた。
『今日も、そろそろ時間』
聞き逃しそうな小さい声で、彼女がイヤホンから言った。耳もとで囁かれているようなくすぐったさに、思わず首をすくめてしまう。
「そうだね。話したいこと、たくさんあるのに……」
『ほんとに?』
僕の言葉に、彼女は食い気味で問い返す。あいかわらず声は小さくて、表情も困り顔のままだけど、そのトーンは嬉しそうに聞こえた。
「本当だよ。嘘なんかつかない」
『うん、ありがとう。あしたは……』
ポーン。
彼女の言葉の途中で無粋な電子音が鳴り響き、そこで声は途切れてしまった。最悪のタイミングでのバッテリ切れだった。
映画では電源コード抜けたテレビに映ったりしてたのになあ。
「──かすみさん、おやすみ!」
最後に何を伝えたかったのかわからないまま、彼女の姿は今日も夜に滲んで消えていった。
僕の挨拶に、うなずいてくれたように見えた。
そして部屋の真ん中にひとり立ち尽くす僕は、とにかく明日は満充電の状態で二時を迎えよう、そう心に誓うのだった。