8月31日(日)④夏の終わり
そこからは無我夢中だった。
壁紙みたいに薄っぺらになって剥がれ落ちてくるヒャックリさん。鎖が緩んで、ぶら下がっていた足が床に着く、と同時に僕は部屋の反対側へダッシュして、空中で夏澄さんが掴んでいる鎖のほうにしがみつく。そして狐火から彼女を引き離すため、全体重をかけて倒れ込むように鎖を引きずり下ろした!
キシシィッ!
響くそれは嘲笑ではなくて、憎しみの咆哮に聞こえた。
鎖の勢いのまま落ちてきた夏澄さんの華奢な体を僕は抱きとめる。軽いけど確かにその存在の重みを感じられたのは、両手に宿ったおじさんたちのおかげだろう。彼らは空気を呼んだように手の甲から顔を消していた。
『ありがとう』
頬を仄かにピンクに発光させながら、口の形で感謝を伝えてくれる夏澄さんが可愛いけれど、狐火が軌道を変えて追尾してきているから見惚れてはいられない。
「おじさんッ!」
夏澄さんを座らせて、立ち上がりながら叫ぶ。両手の甲に再びおじさんたちの顔が浮かび上がって『応!』と返事が聞こえた気がした。すぐ頭上まで迫る無数の狐火。どうせ運動神経もない僕だから、おじさん任せでめちゃくちゃにパンチを繰り出した。
「うおおおお!」
オジサン流星拳だ! 弾き返された狐火は、なぜか速度と大きさを増しながら剥がれたヒャックリさんに炸裂し──紫色の炎がいっきに拡がっていった。
キシシ…… キシシシ……
掠れた笑いを残して、ヒャックリさんが焼け落ちる。舞い散る紫の火の粉の中で、原田さんは一心不乱に玉串を振り上げ、横に薙ぎ、振り下ろす。お札から縦横に伸びた光る鎖が、彼女の動きに連動するように巻き上げられていく。
僕は肩で息をしながら、へなへなとその場に座り込んでいた。傍らに正座した夏澄さんの口の形と微笑みは『おつかれさま』と言ってくれているんだろう。
がぎんと何かが噛み合う音がして、部屋が──いや、空間そのものが大きく振動した。
「よし! 終わった! 疲れたあ……」
原田さんの声。見れば彼女の巫女装束も、その場に力尽きたように座り込んでいる。
光の鎖もすべて消えていた。部屋中に貼りまくったお札も消えている。
気のせいかも知れないけど、空気が心なしか軽くなっていた。
それに、両手も何だか軽くなって……
「あ……」
目の前に、ぼんやりと浮かび上がる二人のおじさんの姿。僕の手に宿っていた彼らもまた、去るのだろう。
「……そうだ……ええと、僕の前に入っていたのはどちらの……?」
右側で穏やかに微笑むおじさんが首を振り、左側の苦虫を噛み潰した表情のおじさんが遠慮がちにうなずいた。優しい人だと聞いていたから逆だと思った。いや、力を貸してくれた時点で二人ともきっと優しい人なのだろうけど。
「中村さんって覚えてますか? 管理会社の」
僕の言葉に、苦虫のおじさんの表情がぴくりと動く。
「ちゃんと向き合えなかったことを、後悔されてました」
おじさんは目を大きく開いて、それからゆっくり首を横に振る。何かを口にしたようだけど、読み取れなかった。ただ彼の表情は、穏やかな微笑に変わっていた。
『そんなことない、気にかけてくれてありがとう』
聞こえた声は、ベッドの上にワイヤレススピーカーに片手を添えた夏澄さんのものだった。それが、おじさんの言葉だったのだろう。
「伝えます」
おじさんたちは二人揃って頷くと、そのまま微笑を浮かべたまま、空気に溶けるように消えていった。
「通訳ありがとう、夏澄さん」
言ってベッドに目を向けると、彼女の姿はもうそこにはない。
時計は午前三時を回ったところだった。




