8月31日(日)②いつわりのかみ
ぞわりと寒気が背筋を走る。
猫をかぶっていた巨大な狐の顔に、空中の夏澄さんはゆっくりと距離を取る。
いくら鈍感な僕でもわかる、こいつはヤバい。
「動物霊と人間の邪念が結合した偽神格──まあ、いわゆる狐狗狸様ね」
「コックリさん!?」
原田さんの解説に思わず聞き返してしまう。
コックリさんと言えば例の、コインが紙の上を勝手に動いて質問に答えてくれる降霊術だ。ホラー作品の題材としてもよく使われていて、たいていは締めの言葉である「お帰り下さい」を言い損ねて誰かがコックリさんにとり憑かれ、惨劇に発展する。
ちなみにchatGPTいわくコインが動くのは「イデオモーター効果」なる心理的現象であって、霊的なものではないそうだ。
「が、百体くらい合体してる」
「ひゃくたい……」
「ええ、名付けるならそう──」
キシシシシ、と狐の顔は天井が軋むような笑い声をあげた。
「──ヒャックリさん!」
…………。
「こういうのって、強い名前で呼ぶとそれに相応しい存在になるから、わざと変な名前付けてるの! 私がスベったみたいな空気やめて!」
「ああ、なるほど……」
確かにそれは、ホラー小説でもよく言及される仕組みだ。祀り上げられることで彼らは神に成るのだと。うん、そういうことにしておこう。
ボボッボボボッ
そんな話に気を取られていると、頭上から聞こえる異音と部屋を包む紫の光の揺らめき。視線を天井に向ければ、そこには野球ボール大の紫色の火の玉──狐火が無数に浮かんでいる。
「ちょっ!? 火事になるって!」
「物理的な炎じゃないからそれは平気! でも夏澄は危ないし高野くんは呪われるから気をつけて!」
部屋が燃えることはないけど、霊である夏澄さんは直接干渉を受けるし、生身の僕もただでは済まないようだ。ヒャックリさんめ狡いぞ。
「夏澄さん気をつけて!」
僕の声に彼女がうなずくのと、同時に狐火が一斉に動いた。それら全ては僕に向かって飛来していた。
──て、えええッ!?
キシシシッ!
「くっ、こいつッ!」
勝ち誇るようなヒャックリさんの嗤いと、原田さんの苛立つ声。僕はベッドから転がり落ちつつ部屋の隅に逃げる。しかし狐火は軌道を曲げ追尾してくる。逃げられない、そう思った瞬間に僕の眼前に立ち塞がったのは、半透明な巫女装束の背中だった。
──だめだ! それはだめだよ夏澄さん!
ほぼ無意識だった。僕は二度と、何もできずに彼女を喪うのは嫌だった。
「高野くん!?」
原田さんの悲鳴じみた声が響くけど、僕は目の前の夏澄さんの背中を通り抜けてその前に立ち、両手を広げる。迫り来る無数の狐火に、思わず目を閉じてしまった。
「…………ん?」
何も感じない。おそるおそる目を開けた僕は、その光景にぎょっとした。夏澄さんをかばって立つ僕の前に、僕をかばうように並ぶのは二つの背広姿の背中。青白く半透明の彼らは、ところどころ狐火の燃え移った上着を空中に脱ぎ捨て、こちらを振り向き並んで親指を立てた。
左は苦虫を噛み潰したような表情で、右は穏やかに微笑みを浮かべた、二人の中年男性だった。
「もしかして、僕の前の住人?」
彼らはうなずいてから、天井を見上げる。
「高野くんに憑いてたよくないものは、彼らの無念だったみたい」
混乱する僕に、原田さんが解説する。そういえば彼らを夢の中で見たような気がする。
「取り込まれてた霊魂がさっき猫にまぎれて離脱して、そのまま高野くんの守護霊になったのね」
ふと横を見ると、夏澄さんがものすごく不満そうに頬を膨らませながら、涙をためた瞳でこっちを睨んでいた。うん、あとでめちゃくちゃ謝ろう。
キシシシシキシシシシ
それでも天井から嘲笑うヒャックリさん。自分たちの命を奪った仇敵を見上げていた二人のおじさんは、互いにうなずき合う。その体の輪郭が揺らいで、霊体がぎゅっと凝縮されるようにソフトボール大の青白い火の玉──人魂に変化していた。よく見ると真ん中にうっすらと彼らの顔が浮かんでいる。
「力を貸してくれるって。うん、それなら高野くんの無駄に強い基礎霊力を活かせる!」
「……え?」
呆然とする僕の左右に飛来した人魂は、そのまま左右の手に吸い込まれ消えていった。両手がぼんやりと青白い光をまとっていて──よく見ると、手の甲にうっすら彼らの顔が浮かんでいる……右手は微笑、左手は苦虫……。
そんな僕を見て、原田さんは「よし」と大きくうなずく。
「こうなったら順序変更! 霊路ごとずらして、引きはがす!」
そして彼女は玉串を天井に向け、高らかに言い放った。
「──覚悟しろ、ヒャックリさん!」