8月29日(金)① それは澄んだ夏の夜
今日もベッドに腰掛けて、かすみさんを待つ午前二時。
ちなみに日中、社食で原田さんに会うことはなかった。おそらく、自分の机に突っ伏して眠っていたんじゃなかろうか。なので、ひとりで鯖の塩焼き定食を食べた。
しかし午後にちらっと見かけたときには、普段通りの眩しい彼女で、さすがだなと感心しつつ半分呆れた。
『こんばんは』
右側から囁く声。仄白く浮かび上がるかすみさんの姿。
『きのうは、ありがとう』
「うん、たくさん話せたみたいで、良かった」
『あなたのおかげ』
困り顔の口元がほんのわずかにだけど、ずっと微笑んでいるように見えた。
「それでね」
『うん?』
「思い出したんだ」
『…………うん』
記憶の奥に刺さっていた小骨が取れたのは、鯖の塩焼き定食を食べていたとき。実物の小骨と連動したのか、青魚に多く含まれるDHA(ドコサヘキサエン酸)やEPA(エイコサペンタエン酸)が脳機能を活性化させたのかわからないけど、とにかく突然に靄が晴れた。
「かすみさんと原田さん、仲良しだったよね。昔から」
あれは、僕が中学二年の夏だったと思う。
田舎でクラスの人数が少ないこともあって、全員が妙に仲良かった。
まあ僕はあんまりそういう輪には入らなかったけど、それでも特に浮いた感じにはならなかったのは、今思えばクラス委員の原田さんのおかげだったかも知れない。
それで、クラスのみんなで地元の神社の夏祭りに行く話になった。
僕は最初は渋っていたんだけど、けっきょく原田さんに押し切られて行くことになった気がする。どうしても高野くんにお願いしたいことがある、とかなんとか。
待ち合わせの神社の鳥居の前。浴衣姿の女子たちにそわそわと浮足立つ男子たちを、少し冷めた目で眺めていた僕に、Tシャツとショートパンツ姿の原田さんが言った。
「高野くんは男子の中でいちばん優しいから、特別任務をあたえます」
そうして自分の後ろに隠れていた女の子の手を引いて、僕の前に立たせた。
彼女はクラスメイトだけど、体が弱くてほとんど休んでばかりだったから、僕は一度も話したことがなかった。
体力がなくてあまり無理のできない彼女が、独りにならないようにゆっくりエスコートしてあげてほしい、ということらしい。優しいのか、ひどいのか、よくわからない話だった。
「ごめんね、高野くん」
伏し目がちに、小さな声で謝る彼女の困り顔。肩上で切りそろえた黒髪の深い深い黒さと、向こう側が透けそうなくらい青白い肌と、涼やかな水色の浴衣。
もしかしたら、以前からそうだったのかも知れない。クラスメイトたちから遅れて二人、祭りを見て回るなかでそうなったのかも知れない。神社にお参りしようと石段を上る途中で、足元のあやしい彼女を気遣って、いつの間にか手をつないでしまった瞬間かも知れない。
──とにかく僕は、自分が彼女のことを好きだと自覚した。
だけど、結局お互いぽつりぽつりとしか話せないまま、その日は解散になった。別れ際に彼女と言葉を交わす原田さんが、妙に満足げだったのを覚えている。
彼女が大学病院に通院するため隣の県に引っ越すという話を聞いたのは翌週だった。
そのまま二度と登校することなく、転校していった。
こうして僕は幸の薄い困り顔の女の子が大好きになった。
さすがに当時は「未亡人系美少女」なんて語彙力はなかったけど。
そんな、彼女の名は──
「──夏澄ちゃん。きみだったんだね」