《老いらくの恋》と呼ぶべからず。
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具体的ではありませんが残酷シチュエーションがあります。
ご注意の上お進みくださいませ。
馬車が傾いたと思った次の瞬間には座席から投げ出されていた。
夜、しかも闇夜。貴族の馬車が旅するには相応しからぬ状況ではあった。ただでさえ多くなかった護衛は来襲した盗賊によって突破され、下卑た声とともに馬車の扉が破られる。女主人を守る侍女たちが絶叫した。
馬車から連れ出されたジュリエットは、その後の記憶が曖昧だ。
聞き取りにくい言葉がいくつも掛けられ、盗賊の根城のような場所へ連れ去られ、慰み者にされた。それがどれほどの時間だったのか、まるでわからない。
気がつけば、探し、追ってきた生き残りの護衛と、このあたりの自衛兵団によって救い出され、保護されていた。
メロン伯爵の領地からヴェルメイユ宮殿までは、遠い。まだ行程を半分も過ぎてはいない地点だった。
同乗していた乳母は殺され、もう一人いた侍女は犯された挙句どこかへ連れ去られ、行方知れず。
ヴェルメイユに詰めていた父メロン伯爵が急ぎ迎えに戻り、ジュリエットと再会したが、虚ろで記憶も曖昧、茫然としたまま言葉も発さない娘をかき抱いてむせび泣き、我に返ってからは傷つけれられた娘への対応に苦慮するばかりだった。
その後ジュリエットの妊娠が確認されると、それを知った婚約者の父は婚約の解消を通告してきたという。
結婚前に父親の知れぬ子を孕み、貴族の娘として傷物になってしまったジュリエットは、もうメロン家にはいられない。遠く、聖地サンタンジュ修道院へと送られ世間から隠された。事件を知らされてから泣き叫ぶばかりだった母も、ともに修道院へと向かった。
遠い昔、この世を造った女神が顕現したという、聖地サンタンジュ。女子のみの修道院は山奥にあり、とても素朴だけれども温かい場所であった。
夫もないまま子を孕んでしまったジュリエットは、修道女見習いとして、ひっそりと匿われた。それから14歳の誕生日を過ぎる頃、苦痛を訴えたジュリエットは小さな小さな男児を死産したのだった。
身軽になったとはいえ、いまさら実家へは戻れないだろう。
そう考えたジュリエットは、愛しい娘ひとりを残してはいけぬと縋りつく母をメロン家へと送り出してから、修道院の細々とした作業に精を出し、聖地を訪れる巡礼たちの支えとなろうとした。
サンタンジュ修道院は代々、高貴な出自の女性が院長に就いた。この代の院長もまた、苦境にあったジュリエットを引き受け、守り、いたわり、支えた。
修道女見習いジュリエットが18歳になった頃、修道院長の私室へと呼ばれた。厳粛な佇まいの中、緊張するジュリエットへの下問があった。
「お年を召したおかたが後添いをお探しです。とてもお年を召しておられますが、昨今、奥方と離縁なさったそうな。お子様はなく、豊かなご領地と爵位をお持ちです」
「後添いでございますか」
「貴女のご実家、メロン伯爵領のお近くにもご領地がおありのモンテーニュ伯爵閣下が、後添いを求めていらっしゃいます」
「モンテーニュ伯爵……」
名前だけは知っていた。国内の貴族、特に近隣家門については幼い頃から教育されていた。
確かパーニャに長く赴任していた大使で、国王の信任篤いということだけは漏れ聴いていた。
「じき58歳におなりだとか。先頃、大使として赴かれたパーニャ王国からご帰還なさいました。どうでしょう。お目にかかるおつもりはありますか?」
「わたくしは、悪魔の子(=私生児)を産んだ女子です。わたくしのようなものを伯爵夫人になど、お求めになるでしょうか?」
「貴女の事情を伯爵閣下はご存じです。離縁あそばした奥方はまだお若いおかたでしたが、閣下を裏切って別の殿方のお子を産まれたそうですの。それを見届けてご離縁なさったと」
「あのう……そんなお年のおかたが、お子を求めていらっしゃるのですか? わたくしのような者でもお子を産むことはできるのでしょうか?」
盗賊たちに汚され、死産したこともあり、新たな懐胎は難しいかもしれないとも聞かされた。
「それは神のみぞ知るところでしょう。お年ではあっても伯爵閣下です。求めればいくらでも妻のなりてはあるでしょう。貴女のご実家も、閣下であれば嫁ぐに不足はないとお考えですよ」
「……ご支度金でも弾んでいただけるということでしょうか?」
「否定はしませんが、閣下は心根の優しい、度量の大きなおかたであるとわたくしは考えます。宮中の噂なども、ここへは届くのですよ」
当代修道院長が王家の出であったことをジュリエットは思い出した。
「見習いでございますし、半端なわたくしで差し支えないのでしたら、モンテーニュ伯爵閣下へお仕えいたしたく、お口添え下されたく」
修道女に似つかわしくないカーテシーでもってジュリエットは応えた。
「よろしいでしょう。貴女の支度は任せなさい。嫁ぐ日まで健やかであるように」
「畏まりました」
ジュリエットは見たこともないモンテーニュ伯爵へと嫁いだ。19歳になる少し前だった。
小さな肖像画を互いに取り交わしてはいたが、初めて逢う老貴族はがっしりと大柄で、小さなジュリエットは見上げるばかり。
だが、そのキャリアからすれば意外なほどモンテーニュ伯爵は物静かで、威圧感が少ないとジュリエットは感じていた。若い娘を怖がらせない配慮のできるおかたなのだと思った。
58歳の新郎は、若すぎる新妻をいたわり、穏やかに微笑んで迎えてくれた。
馭者や馬丁以外では久方ぶりに見る異性に緊張して、ジュリエットのからだは強張ったが、なんとか挨拶を交わす。
「ジュリエット・ド・メロンでございます。なにとぞよろしくお導きくださいませ」
「よく来てくれました。年若い貴女がこんな年寄りの妻になるなど、恐ろしかったでしょう」
「いいえ閣下、わたくしは瑕疵のある身。閣下がお望みでしたら、わたくしは閣下の御意のままでございます」
「そうではない。そうではないよ、ジュリエット。貴女は妻として、私の身近にいて、毎朝毎晩、私と言葉を交わしてください。家政のことや、領地のことで気になることがあれば、いつでも相談してほしい。私は貴女を、子を産ませるための道具として買ったのではない。ましてや閨を愉しむために求めたのでもない。貴女の身の上は聞いているが、それは貴女の罪ではないのだ。貴女は充分に苦しんだだろう。こんな、貴女の父よりも年上の男ではあるが、貴女をひとりの女性として慈しむつもりはある。どうか私の妻になってはもらえないだろうか」
「……はい、閣下。わたくしは閣下をひとりの殿方として、お支え致しとう存じます」
「無理はしないでほしい。まだ貴女は男が恐いだろう。触れれば寒気がするやもしれぬ。だから、私は貴女にはこちらからふれないし、貴女を寝室に呼びつけたりはしない。朝、顔を合わせたら私を見て言葉を交わしてくれるだけでよいのだ」
「それでは伯爵夫人の勤めが果たせないのでは」
「仕事など、いくらでも務めてくれるものはいる。いや、庶子を儲けようというのではないぞ。貴女は、心安らかに、モンテーニュの館で暮らしてくれればよい」
「閣下のお仕事はよろしいのですか?」
モンテーニュ伯爵はパーニャ大使として、パーニャ王国へと長らく赴任していたはずだ。解任されたのだろうか。
「そうだな。私の前の妻のことは、知っているのかな?」
「……ご離縁なさったとだけ……」
「そうか。最初の妻は初めての産褥で死んだ。赤子が大きすぎたのだそうだ。私よりかなり若かったのだが、互いに初めてのつれあいだった。大切に思う相手に、なすすべもなく先立たれたら、心残りもあろう。それからしばらくは妻を娶らなかった。国王陛下の勧めで次に娶ったのは、高貴な家系の女性だった。わがランセー王室にも近く、隣国アングリア王家の血を引いた高貴な姫というものだった。私は妻を亡くしたやもめで、しかも年の離れた組み合わせだ。陛下からの勧めで、あちらも断れなかったことだろう。私に従い赴任先のパーニャへついて来てくれたのだが、どうしたものか、あちらの国王陛下と昵懇になってしまってね。わが王家とは祖を同じくするお血筋、あちらの陛下の御意には逆らうわけにはいかなかったという、まあ言い訳であるな。妻がパーニャ国王の庶子の母になってしまっても、私には苦情さえ具申するすべがない。妻は貴女より少し年上だったが、私から見ればはるかに年の離れた若い若い娘だったのだよ。互いに望まなかったとは言い切れないが、それでも望んで結んだ縁ではなかった。この家も、私を最後に途絶えるのもまた宿命かと思うと、祖先に申し訳なくはあるが、たかが伯爵家がひとつ断絶したとて、なにほどのことがあろうか。子など神の思し召し次第。私はまだ余生とは思わぬが、言葉を交わすのが家臣や召使だけというのも侘しかろうと、サンタンジュの修道院長臺下にお知恵を拝借したところ、貴女を紹介された。身内はいないが、どうか私の話し相手になってほしい」
「喜んで務めます、閣下」
「その閣下は改めて、ぜひ私の名を呼んでもらいたいのだ。どうかシャルルと」
「……ではシャルル様」
「ジュリエット、貴女をたいせつに思う。よく来てくれた。無理だと思うところは、絶対に拒んでくれ。教育された時代も世の常識も、恐らくなにもかもが違うだろう。私には姉妹も姪もいない。貴女の話し相手として近づけられるのは、母の姪リュンヌ子爵夫人とその娘、クレマン男爵夫人くらいだろう。貴女よりかなり年嵩で、気が合わぬと思えば遠ざけて構わない」
「シャルル様、こんな小娘にそこまでお気遣いは無用ですわ。リュンヌ子爵夫人ともクレマン男爵夫人とも、お近づきになりますわ。わたくしには戻る家はございません。このモンテーニュ伯爵家こそが、わたくしの終の住処でございます」
「……ありがとうジュリエット、私は随分と臆病になっているようだ」
「わたくしも臆病ですわ。初めて夫と呼ぶ殿方と巡り合ったのですもの。神とサンタンジュの院長臺下へ感謝の祈りを捧げねばなりませんね」
「私が恐ろしくはないのか」
「サンタンジュでの暮らしで、貴族でない殿方とも知己を得ておりますの。信仰の篤いかたがたでした。パーニャからもエステルライヒからも巡礼は参りますわ」
「貴女はまるで聖女のようだ、ジュリエット。私は神の恩寵篤き聖女を世俗の巷へ引き摺り下ろしたのではないだろうか」
「シャルル様、わたくしジュリエットはごくごくありふれた女子です。どうか貴方様の妻にしてくださいませ」
ひたむきに見上げれば、モンテーニュ伯爵はうろたえたように視線を彷徨わせた。
「これほどの熱い求愛を受けたことがないのだ。私はどうすればよいのだろう」
「わたくしも初めてでございます。どうか妻に、お情けを賜りたく存じますわ」
それから一年と少し。
モンテーニュ伯爵夫人ジュリエットは懐妊し、つわりの苦しみに伏せっていた。
暴漢に犯され孕み死産した記憶に苦しむジュリエットを、シャルルは慈しみ支えた。
「我が子を抱く喜びに勝るものがあろうか」
「まだ当分生まれませんわシャルル。わたくしが死のうとも、貴方の子を生かすために尽くしてくださいませね」
「貴女を喪ったら私は生きてゆけぬ!」
「大袈裟ですわよ閣下。わたくしも命を懸けますが、貴方も命を懸けて我が子を守ってくださいましね。約束ですよ?」
「無論だ! 命懸けで我が子を産んでくれる貴女が無事に生き延びられるよう、毎朝毎晩、女神へ請願する。我が神、我が精霊、どうか我等に無事な子を与えたまえ」
ほぼ初産である。華奢なからだのジュリエットの産みの苦しみは長く、絶叫し何度も失神を繰り返す妻にシャルルはつきっきりで励まし続け、祈った。
陣痛が始まって二日目の朝、生まれたのは健やかな男児。やつれても気高く美しい妻に夫は涙を流して感謝の言葉を繰り返した。
「なんという神の恩寵であろう! この年で我が子を抱くことができようとは、もういつお迎えが来ても悔いはありません、神よ!」
「いけませんわシャルル、大事な妻と息子と幸せになるのでしょう? あっさり手を放されては困ります。天使よ、どうか当分ご遠慮くださいませね」
「む、むろんだとも。貴女を置いて、我が子を置いて逝くなど心残りすぎる。貴女はわがモンテーニュ伯爵家へ遣わされた天使だったのでしょう? 正直に言いなさい」
「冗談ばっかり。ではわがモンテーニュ伯爵家の新しいお世継ぎにアンジェリクとでも付けましょうか?」
「そ、そうだ、それがよい! そなたはアンジェリクだ、そうしよう!」
産婆と侍女の手で清められ、捧げられる赤子を抱き上げてシャルルは叫んだ。
「え、本気ですの? シャルルではございませんの? 嫡男ですわ」
「なにを言うのだ。息子ならジュリアン、娘ならジュリエットと決めていたのだぞ」
「わたくしはシャルルがよろしいですわ。いつか貴方に置いてゆかれても、いつでも名を呼べますもの」
「む、……で、ではアンジェリク・ジュリアン・シャルルだ。決めたぞ。もう変えんぞ」
「あらあら……」
そういうことで長い名を持つ男児が、新しくランセー貴族の仲間入りを果たしたのだった。
ジュリエットはその翌年には娘を産み、夫を泣き崩れさせた。モンテーニュ伯爵家に実に75年ぶりに生まれた女児はアンジェリーヌ・シャルロット・ジュリエンヌと命名された。75年前の女子はシャルルの父の妹だという。
孫ほど年の離れた若妻との睦まじい鴛鴦夫婦ぶりはヴェルメイユ宮廷にも噂が流れ、モンテニェーズという流行語をもたらした。極端に年の離れた熱々カップルのことを指すそうである。
仮想18世紀前半くらいの平均寿命を考えると、いいお年ですシャルル様。
補足:今回登場のサンタンジュ修道院長様はファリア様ではございません。数代前の院長様ということで。