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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

スワンプマンの独白

作者: 津永 昂大

 「スワンプマン」という思考実験をご存知だろうか。

 ある男か沼の側にいると、何とも運のないことに、突然の落雷によって死亡してしまった。その上さらなる偶然で、男を死に至らしめたこの落雷が沼の汚泥と化学反応を起こし、死んだ男と全く同一、同形質の生成物が発生した。

 さて、こうして生まれた沼男―スワンプマンは、外見も記憶も知識も、死んだ男と完全に一致している。そしてこれから先、死んだ男として彼の人生を歩んでいくのだ。果たしてこの存在は、死んだ男と同一人物だろうか、それとも全くの別人だろうか。内容としてはこういった所だ。

 今日日インターネットで検索をかければ一瞬にして手に入れることができるような知識を、ここまでつらつらと書き記してきたことには浅からぬ理由がある。

 他でもない僕が、その「スワンプマン」だからだ。

 その事実に気が付いたのは、1、2週間程前のことだった。

 いつからだったか、僕の記憶が示す限りの「普段通り」に従って生活しているというのに、何故か拭いきれない違和感があった。普通に寝て起きて食事をして、家族や友人と何の変哲もない会話をする―そんなよく知っている筈の「自分」を、どうしてもたった今生きている「僕」として受け入れることができない。まるで突然喉に何かが引っ掛かってしまったかのような、正体不明の異物感に苛まれながら生活していた所、この「スワンプマン」という理論と、ある雨の日、幼い頃に遊び場にしていた沼地を訪れたことを思い出したのだ。

 考えてみれば、あの場所には奇妙な曰くがあった。「雨の日に、沼から人が這い出てくるのを見た」なんて気味の悪い噂が、子供たちの間でまことしやかに囁かれていたものだった。そんなこともあって滅多に人が寄り付くことのないその沼は、噂話を信じない僕のような子供にとっては秘密基地といった感じで、恰好の遊び場になったものだ。しかし、いざ自分がその「沼から這い出てきた人間」になってみると、どうしようもなくなく気味が悪くて、自分を構成する全てが心許なく感じて、全くどうすれば良いのか分からないような気持ちになるのだった。

 現在、僕が取り組んでいる至上命題は「自己の確立」だ。

 自分という存在が、他者の複製に過ぎないと分かってしまった以上、新しい「僕」でそれを上書きしてしまわなければならない。この課題を解決するに当たっての最大の障壁は、僕が「今まで通り」の自分として生活することに、一切の支障が存在しないことだった。容姿も記憶も、何もかも全く同じであるのだから、差し障ることなどあるはずがないのだ。

 そうやって生活していると、時折、自分が演じているものと「本当の自分」を隔てる目に見えない壁がどろどろと溶けて無くなっていくような気がして、その度に僕は恐怖と焦燥感に襲われるのだった。

 そうは言っても、僕に限らず大抵の人間にとって、日常生活なんてものは自分で用意したかも分からないような予定調和めいたものに則って進行していくものであって、つまるところそう簡単に変化させられるようなものではない。そういう訳で僕は今日も、僕ではない誰かとして学校に通うのだった。


 自ら望んで通っている訳ではないものの、学校というコミュニティは、僕が目指している「自己の確立」においてかなり有用であった。自己というものは往々にして、他者との関わりがあって初めてその形が見えてくるものだ。そういう意味で、この日常的かつ密接なコミュニティは、生まれて間もない僕にとって大変都合が良い場所なのだった。

 しかし、彼らが言葉を交わしているのは、結局のところどこまで行っても僕ではない。彼らは、眼の前に居座っているのが只の泥人形であるとはつゆ知らず、とうの昔に死んだ男と会話をし続けているのだ。そのような会話を、タイムマシンよろしく、苦もなく成立させてしまっている自分が何より腹立たしかった。

 いよいよ腹に据えかねて、2、3日前から僕はある強硬手段に出ていた。複製された記憶の中にある僕の行動―普段通りの僕の行動を、尽く裏切ってみる、というものだ。

 このような強引なやり口はあまり望ましくはなかったのだが、いい加減四の五の言う余裕も無くなってきていた。

 効果は覿面だった。周囲の人間の向けてくる目が、僅かに、しかし確実に変わっていくのを感じるのは胸の空く思いだった。まるで人が変わったようだと、図らずも核心を突く者さえ居た。「僕」という個が他人に認知され始めたことが何よりも嬉しかった。

 しかし、例外も居た。そいつは愛という名の女であって、僕の素体となったと言うべき男とは随分長い付き合いだったらしい。 その女は、僕がどれだけ彼女の幼馴染らしからぬ行動をしようとも、決してその見方を変えることは無かった。

 たったそれだけの事であれば、多少は不快ではあるものの、まあ只の例外として受け入れることができたのだ。しかし、何よりも厄介なのは、僕が擬態しているこの男が、どうやら愛に恋をしていたらしいことだった。そして僕は何とも器用なことに、その恋愛感情さえそっくりそのまま模倣してしまっていた。

 諸君、恋というのは実に恐ろしいものである。先程僕は、自己というものは他者との関わりの中で形成されると述べたが、その他者に向ける感情というものは、程度や方向性に違いこそあれ、「好意」かその反対方向の2つに大別できてしまう。恋というのはその「好意」の中でも格別に強力なものであって、その引力は、まだ未完成な「僕」という個の在り方を捻じ曲げるには十分だった。

 嗚呼、悍ましい!彼女のために胸の鼓動を速める度に自分が塗り潰されていくような気がして、僕は盛大に嘔吐した。洗面器に溜まった吐瀉物はまるで僕の身体を構成する汚泥のようで、自分が無くなってしまうことが恐ろしくて、それを喉に流し込んではまた吐き出していた。それほどまでに狂乱していたのだ。

 そうして苦しみの中で生活することに耐え兼ねて、僕は自然と擬態を再開していた。自らを死んでしまったあの男であると偽ることで、僕はうんと生きやすくなった。だから僕は呼吸をするように嘘をつき続けた。嘘をつき続けることで、呼吸ができていた。 

 嘘をついた。何だか元通りになったと言われた。

 嘘をついた。あの男の名前で呼ばれることに抵抗がなくなった。

 嘘をついた。自分という存在がどんどん曖昧になっていった。

 愛に好きだと言った。これは嘘ではなかった。そう思う外なかった。

 こうして僕は愛に身を委ねた。彼女への思慕を己の存在意義として、その他一切の自我を犠牲にした。我ながら、何とも馬鹿げた話である。しかし、これこそが僕が偽りだらけの泥人形として、せめて人間らしい形を保つ最良の方法だったのだ。


 愛との交際を開始してから、僕はあの沼地へと毎晩通うようになっていた。初めの目的は、あの男の死体を探すことだった。しばらく探し回ったものの見つからず、ふと、直感的に、ああ、奴はこの沼の底に沈んでいるのか。といった考えに至った。それからは、毎晩その沼の様子を監視するため、その場所を訪れるようになった。

 僕には恐ろしかったのだ。ある日突然、この沼の底に眠っている男が這い出てきて、僕から彼自身という存在を奪い返しやしないかと思うと夜も眠れなかった。

 所詮、僕は泥から産まれた非人間だ。こんな僕の好意に愛が応えてくれるのは、僕が後生大事に装着しているあの男の仮面があってこそである。それが剥ぎ取られてしまうことは、何としてでも避けなければならない。そして僕のこの危惧は、単なる妄想で終わることは無かった。

 男は本当に、沼から這い出てきた。雷に打たれたその身体はあちこちが焼け焦げ、爛れていて、泥に塗れたその姿はおよそ人間には見えないものであっただろう。しかし、僕には一目で分かった。あれだ。あれこそが「僕」なのだ。

 僕は用意していた金槌で、男の後頭部を執拗に殴りつけた。腕を振り下ろす度に、泥と血が混ざった飛沫が顔や身体にかかって、その不快感を発散するかのように更に力を込めて殴った。しばらくすると、男はぴくりとも動かなくなった。僕はその男の死体が再び沼に沈んでいくのを眺めながら、安心感に浸りきっていた。一連の行為に目撃者がいたことに気付いたのは、その時だった。

 彼なら、もっと早くに気付いたのだろうか。かつて共に遊んだこの思い出の場所を、この日彼女が訪れるということが。

 しかし、それも今となってはどうでもいい。今や彼という存在は完全に僕のものとなった訳であるし、彼女についても今からそうすれば良いだけの話だ。


 それから月日は流れ、僕は愛と家庭を築いた。半年前には子供も産まれ、まさしく順風満帆な生活と言えるだろう。愛には、あの日僕がしたことを目撃された後に、全てを打ち明けていた。彼女は僕を受け入れてくれた。

 この頃、彼女は僕に向かってこのような事を口にする。何も気にすることはない。貴方は、普通の人間として生きて良いのだ、と。

 その度に僕は、そうだね、といった感じで適当に返事をして、隠れて嘔吐した。

 普通の人間!普通の人間!ふざけた事を言うな!!もし僕が「普通の人間」であるのならば、あの日あの男を殺したことも、その後に愛を殺してその泥人形を作り出したことも、全てが不必要であったことになってしまうではないか!

 結局のところ、この生活には偽りしかないことを知っている僕だけが、もだえ苦しんでいた。彼女の身体に触れる度に、本物とは異なる質感を感じ取ってしまうし、初めて交わした接吻なんかはまるで口内で泥を混ぜ合わせているような心地だった。

 いっそのこと、僕もあの男のように雷に打たれてしまえば、そうすれば元の汚泥に戻って、二度と己を偽る必要もないのだろうかと、僕は時折妄想する。そんな自分勝手極まりない妄想をしていると、決まっていつも、遠くに雷鳴が聴こえるような気がするのだった。

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