29(カモメの勇気)
皆、不幸だった。
呪われた街だった。
真っ赤な街だった。
そのほとんどが殺人事件による血、それ以外は虐待による血だった。
カモメは父親から虐待を受けていた。
否、カモメ「も」虐待を受けていた。
この街の子は全員が平等に虐待を受けていた。
この街の子の父親は全員が酒乱で暴漢だった。
この街の子の母親は皆腑抜けていた。
ある日、連続殺人事件のニュースがカモメの耳に届いた。担任は事務的に皆にそれを伝え、教室から出ていった。
カモメは驚かなかった。
他の子も驚かなかった。
人が人を殺すことは当たり前だからだ。
間もなくしてこの地の外も真っ赤に染まり、地球は全て血まみれになるのだと思っていた。
その日もカモメは父親から暴力を受けた。
いつものように灰皿で殴られ、タバコの火を押し当てられたのだ。
父親の虐待が終わると、カモメは机に向かった。高校受験が近いのだ。
カモメは勉強が好きだった。
知らないことを知ることが出来るからだ。
勉強をしている時だけがカモメの生きがいだった。
否、カモメ「たち」の生きがいである。
この街にはゲームやテレビなどの娯楽は存在せず、大人になって初めて「子」という娯楽を手にすることが出来るのだ。
カモメは笑顔で勉強を続けた。
この国には深い歴史があり、素晴らしい景色が広がっている。そう書いてあった。
楽しい楽しい学びの途中、不意に涙が流れた。
カモメにはその意味が分からなかった。
勉強の邪魔になるので止めようと思った。
しかし、溢れるばかりで一向に止まる気配はない。やがてカモメは声を上げて泣くようになった。
その声を聞きつけて父親がやってきた。
「泣いたのか。いけないことだ」
そう言って父親はカモメの顔をバットで殴った。カモメはいつものように部屋の隅に吹き飛んだ。
翌日も担任は連続殺人事件の話をした。殺人鬼がいるから、帰りは寄り道をせずにまっすぐ家に帰りなさいと言うのだ。
皆適当に聞いていた。寄り道などしようものなら皆父親にカッターナイフで切られるからだ。
家に続く血溜まりの上を歩きながらカモメは考えた。
「昨日の涙はなんだったんだろう」
カモメには分からなかった。涙とは悲しい時に出るものだと本に書いてあったが、あの時は別に悲しくはなかった。悲しい⋯⋯
悲しいってなんだっけ。
カモメは涙の理由が分からなかったのではなく、悲しいという感情が分からなくなっていたことに気がついた。
カモメはただ、疲れていた。それ以外は分からなかった。
だから今日もまた家に帰る。
父親はまた機嫌が悪かった。血まみれになった母親の髪を引っ張りながら、帰ったばかりのカモメの名前を叫んでいた。
「カモメ。こっちへ来なさい」
カモメは言われた通り父親の前まで歩いた。
「座りなさい」
いつものように大きな手がカモメの頬を張った。それが十五回繰り返された。
虐待が終わり、カモメはまた勉強をしに二階の自室へ向かった。
その途中、階段を上るカモメのスカートを何かが掴んだ。バランスを崩し、階段を転げ落ちる。
「お母さんはもう使い物にならないから、今夜からお前が相手になりなさい」
カモメは父親に近づき、持っていたペンで父親の胸を刺した。父親が倒れた隙に勉強道具を持って家を飛び出した。
「その本がいけないのか」
家を出る直前、そんな言葉を聞いた。
教科書には、この国の法律が書いてあった。
人を殺してはいけないらしい。
我が子を虐待してはいけないらしい。
外の世界では、今の自分たちのような環境は異常なのだと知った。
誰かの足音が聞こえた。父親が追いかけて来ているのかもしれない。
カモメは走った。どこへ続くかも分からない、血膿のぬめるこの道を、ただただ走った。
青い世界が見えてきた。
カモメは走った。目の前に広がるこの青の一部になることさえ叶えば、全ての苦しみから解放されると思えたからだ。
あと少しというところで、カモメは父親に捕まった。殴られ、蹴られ、うずくまっているところに、近くに落ちていた石を投げつけられた。
薄れゆく意識の中、父親が飽きたような顔をして去っていくのが見えた。
助かった、と思った。
いくらかの時間を血の海で過ごし、意識がしっかりした頃に、1人の男がやってきた。その男は、ナイフと首を持っていた。
カモメはゆっくり目を閉じた。
やはりここは、呪われた街だった。
真っ赤な街だった。
皆、不幸だった。




