番外編 最低の幼馴染は覚悟を決める
初めて訪れたボクシングジムの扉は、とても重厚で神聖なものに感じた。
ボクシングジムなんて、よほどの覚悟がなければ軽い気持ちで入ってはいけないような場所だと思っていた。
鬼コーチに怒鳴られながら、己を限界まで追い詰めて、ライバルを打倒するために血の滲むような努力を重ねる。
地面に這いつくばっても弱音を吐かず、泣きそうになっても歯を食いしばって耐えながらトレーニングをする……そんなイメージ。
そんな覚悟を胸に、僕は重い扉を開けた。
「し、失礼しますっ」
「あっ、君が今日体験コースを予約してくれた大迫くん? 学生かい? 歓迎するよ」
響いたのは怒鳴り声ではなく、拍子抜けするほど爽やかな声だった。
「あ、ど、どうも」
目の前に現れたのは筋骨隆々の強面の男……ではなく、細身でモデルのような体型の優しそうなお兄さんだった。
ボクシングのイメージとはかけ離れた人だけど、この人が本当にトレーナーなのかな?
「トレーナーの内藤です。今日はよろしくね。緊張してる? 大丈夫、ボクシングは楽しいものだから」
本当にトレーナーだった……モデルでもやっていると言われた方が信じられるような外見だから驚いてしまう。
握手をする。初っ端からフレンドリーに接してもらえて、安心したやら肩透かしを食らったやら、複雑な気持ちだ。
ボクシングジムに入った瞬間に熱気と汗の匂いに圧倒されかけたけど、想像より優しそうだ。僕みたいな未熟者、いきなり叩き出されてしまったらどうしようかと考えていたから、まずは受け入れてもらえて良かったと思っておこう。
「着替えはあるんだよね? もしなかったら言って。トレーニングウェアの貸し出しもやってるからさ。更衣室はあっちだよ。着替えたら僕に話しかけてね」
内藤さんにまくし立てられるまま更衣室へと入った。
着替えて、更衣室を出ればトレーニングが始まる……っ。
自分の腐った性根を叩き直すために、ボクシングジムがうってつけだと思った。
覚悟はできているつもりだ。それでも、心臓が大きく鼓動するのが止められない。
「少しくらい、痛い思いをしなきゃだ……」
少しの高揚があるものの、ほとんどは恐怖心からくる緊張だろう。
ボクシングなんて、漫画の真似事でシャドーボクシングをした程度だ。ただの一人遊びでしかない。
それに運動神経も悪い方だ。今までの体育の授業で、自分が男子の平均を下回っているのは身に染みている。
……だからどうした!
「コウヘイくんだって、苦手なことに取り組んできたんだ。自分を変えることから逃げちゃダメだ」
僕は自分に言い聞かせながら、新品のトレーニングウェアに袖を通した。
◇ ◇ ◇
ボクシングは「木の葉を掴んでみせろ!」だとか「丸太を叩いてみろ!」だとか「熊と戦え!」など、とんでもないトレーニングがあると思っていた。
……いや、さすがに今のは漫画の見すぎだって自分でも思うけれど。
それでも、身体をいじめ抜くほどの厳しさを想像していた。
「まずは基本の構えからやってみようか。左足を前に出して……そう、上手いね! 筋がいいよ」
まさか、立っているだけで褒められるとは思わなかった。
内藤さんの第一印象から薄々感じてはいたけど、ボクシングジムに僕の想像していた厳しさはなさそうだ。
構えて、ジャブの打ち方を教わった。
「じゃあ実際に鏡に向かってジャブを打ってみようか」
「は、はい」
教わったことを丁寧に実行する。大きな鏡に映る自分が拳を突き出しているのが不思議な感じだった。
「おおっ! 最高だよ! 拳の戻しが速くて素晴らしいね。今の感じで、次はミットを叩いてみようか」
め、めちゃくちゃ褒めてくれる……っ。
照れるやら恥ずかしいやら。おだてられすぎて、逆にこれでいいのかな? と心配になる。
「あの、僕初めて来たばかりなのに、いきなりリングに上がっていいんですか?」
ミット打ちのためにリングに上がるように促されて、ちょっと早すぎやしないかと不安が口に出た。
「もちろん問題ないに決まってるじゃないか。それに、リングでミット打ちをするのはとっても気持ちいいよ」
内藤さんは爽やかスマイルで僕の不安を吹き飛ばそうとしてくれる。
ボクサーにとってリングは神聖な場所……というのも漫画でのイメージか。
周りの練習生も、僕がリングに上がるのに気にした様子じゃなさそうだ。
「それじゃあジャブを打っていこうか。右ストレートも指示するから、好きに打ってきてね」
内藤さんが両手のミットをバシバシと叩きながら、僕のやる気を高めてくれる。
構えたミットに向かって、ジャブを放っていく。
バシッと小気味のいい音が響いて……拳に伝わる感触が、僕の心をスカッとさせた。
「いい音だ! 今のはプロ顔負けのジャブだったよ。さあ、どんどん打ってみようか」
「は、はい!」
「今度は右! いい踏み込みだよ。肩の力も抜けていて完璧。次はワンツーいってみよう。大丈夫、僕がしっかり受け止めるから怖がらないで」
言葉に乗せられるまま、パンチを放っていく。
内藤さんは僕の動きを全肯定してくれる。
おだてられているのはわかっている。お客さん扱いされているんだ。
それでも、ミット打ちは確かに気持ち良かった。
◇ ◇ ◇
「最後はサンドバッグ、三十秒全力で打ってみよう。疲れたら止まってもいいからね」
スタートの合図とともに、僕は全力で拳を振るった。
無我夢中で教えてもらったジャブとストレートを打ち続ける。
たったの三十秒が長い……。すぐに腕が重たくなり、息が上がる。
(もう無理だ……っ)
弱音が口から零れそうになる。
だけど、それだけはしないと最初から覚悟を決めていた。ぐっと歯を食いしばる。
「頑張れ! あと五秒! 大迫くんならできる! あとちょっと!」
内藤さんの温かい大きな声に背中を押されて、僕は最後の力を振り絞って、拳を突き出した。
「──終了! お疲れ様。すごいよ大迫くん! 初日でこんなに動ける人は滅多にいないよ!」
内藤さんに優しく肩を叩かれて、息も絶え絶えになりながらも、僕は達成感で心がいっぱいになった。
◇ ◇ ◇
僕は体験コースのトレーニングが終わって、シャワーを浴びて着替えた。
「ボクシングって、自分を痛めつける競技だと思ってた?」
内藤さんに笑顔で尋ねられて、自分がどういうつもりでここに来たのか見破られた気分になった。
「はい……もっとこう、地獄みたいな場所かと」
素直な感想を口にする。
そんな僕の反応に、彼はうんうんと首を振る。
「ははっ、今の時代そんなの流行らないよ。自分を好きになるためにやるのが、一番のトレーニングなんだ。今日の大迫くん、ものすごく格好良かったよ」
「自分を、好きになるために……」
「それで、できれば入会してもらえると嬉しいんだけど──」
「あのっ」
声が裏返りそうになった。
でも、言葉は止めない。
「このジムにプロボクサーの方がいますよね? 同じ練習をさせてくれとは言いません。でも、それに近いくらい厳しい練習をさせてもらえたり……しますか?」
真剣な気持ちで内藤さんを見つめる。
僕みたいな初心者で運動神経のない奴なんて「舐めてんのか!」と怒られても仕方がないのかもしれない。
「……どうして?」
内藤さんから笑顔が消えた。
けれど、バカにした様子でもなかったから。
「自分を、好きになりたいからです」
僕は迷わず答えた。
しばらくの沈黙。
内藤さんがふっと息をつく。
「……最近の子は厳しくするのがNGって聞いてたんだけどな。なかなか良い目をしやがる」
彼の口角が上がり、優しそうだった印象が一気にひっくり返る。
「いいだろう。その代わり、弱音を吐くことは許さねえからな」
「はい! よろしくお願いします!」
絶対にやり切ってみせる!
そんな強い思いを胸に、僕は深く頭を下げたのだった。
こうして、自分を変えるためのボクシングが、本格的に始まったのだ。
──それが本気でプロボクサーを目指すことになろうとは、この時の僕は想像もしていなかったのだけど。
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