御山のかみさま
くつくつと油揚げの煮える甘辛い香りが、台所から漂ってくる。ぱたぱたとうちわであおぐ音がしはじめた頃、青年も必要なものをリュックに詰め込み準備を終えた。台所へと向かう。
エプロンをして台所に立つのは、小麦色の髪の女性。年齢は三十路前後。青年とそう変わりはしなかった。長い髪の毛先を上へ跳ね上げるようにして軽くバレッタでとめた彼女は、炊き立てのご飯をすし桶に移し、片手にはしゃもじ、片手にはうちわを持っていた。れんこんやかんぴょう、ごぼう、人参などを入れ、しゃもじでさっくりきり混ぜる。あら熱をとるために片手のうちわで仰ぐことも忘れない。
「手伝おうか」
声をかけられた彼女はふとこちらに視線をやった。その濃茶の目が細められ、小さく頬がほころぶ。
「……えぇ、お願いしようかな」
冷ました袋状の油揚げの中に、作り上げた酢飯を詰める。みるみるうちに、そこにはいなり寿司が出来上がる。
出来上がったいなり寿司を二人で食べる。けれど作り上げたいなり寿司は、二人で食べるには少々多い。女性は残りをお弁当箱に詰める。渡されたそれを青年はリュックに入れて、玄関まで見送りにきた女性を振り返る。
「いいのかい?」
「……えぇ。いってらっしゃい」
女性はそうこくりと頷いた。私が行けば、きっとあの子は怒るでしょう、と。そう寂しそうに笑った。彼が誘い、彼女が断る。いつも通りのやりとりだった。
草の生い茂る、人がかろうじて一人通れる程度のけもの道を、青年は一人あがっていく。背には先ほどのリュックがある。それほど荷物を多くは持ってきていなかったが、それでもやはり息は上がる。こうして上がるのももはや何度目になったか、青年はすでに覚えていない。初めて山へ上がったのはもう相当昔の話だ。
その頃は目に見えるものすべてが大きく生き生きとして、きらめいて見えた。歩めば知らない世界が広がっているような、期待と希望に満ち溢れていたその世界。
別に今の生活に不満があるわけでもなかったが、やはりあの頃の純粋さというか世界をありのままに見通す力は、失われてしまったなと思ってしまう。
だから、きっと今から行く先でも意味は無いのだろうと、思ってしまう。それでも、やはり希望は捨てられず。
いつか、分かり合えるその時が来れば。
青年はどうしても、そう思ってしまうのだった。
そんなことを考えながら白木造りの鳥居をくぐり、たどり着いたのはひとつの古ぼけた祠。雑草の生い茂るそれの近くへリュックをおろし、中からとりだしたのは軍手とタオル。タオルを首にかけて軍手をはめ、まずは周囲の雑草を抜き始めた。
ただ黙々とやること一時間。季節は初夏。はじめはじわりじわりと額に浮いた汗も、このころになるとすでにふき取るタオルをぐっしょり湿らせるほどになっていた。
あらかた雑草を抜き終えて地面の整備を終えたところで、祠を磨き、傾いた祭壇を直し、人目に見られるように直す。彼自身がそこまで詳しくないため、あくまで素人芸ではあるが。
そうして整えた祭壇の前へ、青年はリュックの中から弁当箱に詰めたいなり寿司を取り出し供えた。その正面の地面に座り、自分の分のそれを取り出した。
「君は今でもそこにいるのかい?」
青年はそう口火を切る。そう語りかける先には物言わぬ祠。
「彼女も、随分君を気にかけているのに。どうしても、会うことは出来ないのかな?」
そう語りかける青年は、どこか痛々しげな、そして懐かしげな瞳を向けていた。語る者は青年のみ。そよぐ風が木々を揺らし、木漏れ日が揺らぐ。
*****
時は戻り、季節は初夏。十歳の少年が一人山の中へと分け入った。この祖父母の住む町へ転居してきたばかりで、探検だと意気込んでいた。
木々の間をすり抜けて、道なき道を歩み進めて、どんどん上へと歩んでいった。今ならどこまでも行けるような気がした。
けれど、そんな彼もふと我に返る。随分歩いてきたけれど、果たして家はどちらだったか。周囲を見渡せば、同じような木々が立ち並んで目印などあるわけもない。
少し立ち止まって首を傾げた彼だったが、とりあえず先へ進むことにする。頂上まで行けば、自分の家も見えるかもしれない。
白木造りの小さな鳥居を潜り抜けたその先には、小さな祠。
そこへ、少年少女二人の子どもがいた。祠の前へ座り込んで、何やら楽しげに話をしていた。その二人はそっくりな顔立ちで、おもわずまじまじとその顔を見つめた。少女は長い小麦色の髪をお下げに結い、少年はともすれば少女と見まがうような中性的な顔立ちをしている。髪は少女と同じ小麦色。
そのうち、二人のうちの一人、少女の方がこちらに視線をやった。濃茶色の瞳と視線が合う。驚いて目を見開き、そっくり顔の少年と顔を見合わせた。
「どうする?」
「どうするもないよ、姉さん」
「そうだね。こーんにちは!」
にっこり笑って少女が言うので、少年はどこか戸惑いながらも返事をした。二人とも見たことのない顔だった。
「こ、こんにちは」
「こんなところまで珍しいねー? お散歩?」
「散歩っていうか、探検っていうか……」
半分くらい迷子になっている自覚はあったが、もう小学三年生だ。迷子になっているなど少し恥ずかしくて言いづらい。
「探検! いいね! 私もやりたーい」
そう少女はにっこりと笑う。その対のような少年もやんわりと同じように。
「初めてあったときは、初めましてと挨拶するんでしょ? 私は陽菜。この子は宵。初めまして!」
そう告げた少女に促され、少年も戸惑いながらも言葉を返す。
「初め、まして。おれは郁也。……君たち、兄弟?」
そっくりの顔立ちをした彼らに、分かりきったこととはいえそう尋ねていた。少女はこっくり頷く。
「うん、私達はきょーだいだよ」
「僕が弟、彼女が姉。そっくりでしょう?」
それはまるで双子のようであった。「男女の双子は珍しい」という知識だけはあったので、少年――郁也はまじまじと彼らを見た。確かに、これだけ容姿が似ていて姉弟でないと言われた方が、逆に驚くことなのだが。
「何で、こんなところにいるの?」
「何でって……ねぇ?」
「そうだね、僕たちはここにいることが普通、だから」
彼女らはそう顔を見合わせるが、郁也にはよく分からない。二人は「何て言ったらいいのかな?」などと首を傾げていたけれど、待っていてもどうやら答えも出ないらしい。それなら諦めるよりほかにない。
「それじゃあ、またここに来たら、君たちと会えるの?」
「……郁也は、逢いたい?」
郁也はこっくりと頷いた。興味をひかれた。出来れば仲良くなりたいと。
「それじゃあ、キミがここに来るときは、私と宵はここにいるよ! 私たちも、キミとお話ししたい」
そう彼女らは笑った。待ち合わせはこの祠の前。いつ来てもいいよ、と無邪気に言われた。少し首を傾げながらも、郁也はそれを承諾した。
そこから、彼らの交流が始まった。時間があれば少年はこの山を登って祠までやってきたし、そうすれば必ず彼女らがいた。
朗らかに屈託なく笑う彼女と、優しく穏やかに笑う彼。どこか対照的でありながら、それでもやはり揃えのような彼女らと、郁也がその精神の距離を詰めるにはさして時間を必要としなかった。
「郁也、がっこうはどうしたの?」
「今日は土曜日だからお休み。一日ふたりと一緒に遊べるよ」
郁也の言葉に万歳をして喜ぶ陽菜に、郁也も心の中がポカポカする気がした。その花の咲きほころぶような笑顔が、郁也は好きだった。
そんなある日。友達と遊ぶのだ、というと、母は少し困ったようにも見える笑みを浮かべて郁也の頭を撫でた。遊びに行くのは少し待ちなさい、と言われ、少し不満に思いながらも郁也はそれに頷いた。
そうして母の準備も終え、リュックを背負って郁也は山へと向かう。
案の定、祠に彼女らは座っていた。いつも通りに楽しげに話をしながら。郁也の気配を察したのか、こちらを向いてにこりと笑んだ。
「そろそろ来るころだと思ってたよ」
にんまりと笑む陽菜に、返すように郁也も笑う。けれど、どうして彼らが自分の来るタイミングが分かっているのかは謎であった。以前聞いたことはあったけれど、その時ははぐらかされてしまったのだ。
やはり、今回も郁也は尋ねてみたのだが、答えは無いままだった。
それでも、郁也はやはりこの二人が好きだったし、楽しく過ごせるこの時間が好きだった。
彼らはこの山の中での出来事を郁也に話し、郁也は学校や家族のことを話した。何ということもない話ではあったが、やはり楽しいことだった。
そうして話をしているとき、郁也のお腹が低く鳴った。
「そうだ。ごはん、持ってきたんだった」
そう郁也は背中のリュックを降ろすと、その中から四角い二段の箱を出した。陽菜と宵が興味深げにそれを見つめる。郁也が蓋をあければ、上段には黄色に輝くほどの卵焼きから、ハンバーグ、ゆでた野菜にたこ型のウインナーといった定番のお弁当の具材が入っていた。下段をあければ、三角形のおにぎりがたくさん入っている。
「すごぉい!」
「お母さんが作ってくれたんだ。みんなで食べよう?」
そうして郁也がずいっと弁当箱を出すと、陽菜はそれをじぃっと眺めながら、それでもじきに視線をそらした。その目は弟の宵へ向く。その視線を受けて、どこか困ったように、宵は笑んだ。
「ごめんね、僕たちは食べられないんだ」
「おいしそう、なんだけどねぇ。残念」
「……?」
そう首を傾げたが、二人ともただ曖昧に笑むだけで答えを告げることはなかった。郁也は「ダメなら仕方がないね」と、自分が食べられる分だけを食べてリュックへしまった。
「嫌い、だった?」
「うぅん! そうじゃないの。だけど、ダメなの。郁也が食べて。私達はそれでじゅーぶん」
そう口の前に人差し指を立てて、陽菜は困ったように笑った。郁也は首を傾げたが、それでも彼女らは語ることはなかった。
ふたりが食べ物を拒んだのはこの弁当が初めてではなかった。まともな食事に関わらず、軽いお菓子などであっても彼女らは食べることはなかった。
そうして月日は流れていった。特に変わることもなく、けれど確実に互いの距離を詰めながら。
*****
その日は昨晩から雨が降っていた。やまないそれを見つめながら、陽菜は吐息を漏らす。それはどこか焦がれるようで、彼女を見る宵は少し視線を逸らした。
雨が降っている間は、郁也は来ない。自分達も、外へ出ることが出来ないことはよく分かっていた。
心が離れていくその感覚を、陽菜は気づくこともなく、宵は確かに胸に刻み、互いに今を生きていた。
*****
いつものように祠へ向かえば、そこには陽菜だけがいた。どこか落ち着かないように、彼女はその両手を組んで座っていた。
郁也が声をかけるよりも前に、彼女がこちらに気づく。にこりと笑う彼女のそれはいつも通りではあったけれど、何となくどこか焦っているようにも見えた。
「珍しいね。宵は一緒じゃないの?」
「宵は、向こうで待ってるの。こっち」
彼女は郁也の手を引き、祠の裏から山の奥へと進んでいく。どこに行くのかと尋ねても、彼女から明確な答えは返ってこない。
注連縄の巻かれた二本の大木の間を通り抜け、道なき道をただひたすらに手を引かれて登る。
周囲の鳥の声や風に梢がさざめく音はいつの間にか聞こえなくなっていた。一歩歩みを進めるごとに、大気が震えるような気がした。
そうしてたどり着いたのは大きな虚のある木の前。立派な注連縄が飾ってある。
「郁也、あのね――」「陽菜」
陽菜の後方から、少年特有のボーイソプラノが響いた。陽菜が彼を振り返るのと、郁也が彼女越しに彼を見るのは同じとき。そこに立つ少年――宵は、まるで自分の想像が当たったことを嘆くように、やんわりだがしっかりとかぶりを振った。
「――きっと、主様だって許してくれるわ。郁也はすごく良い人だよ? 御山のことだってちゃんと――」
「ダメだよ。それは、姉さんがよく分かってるはずだ」
先の見えないその話に、郁也は思わず問いかけていた。
「君達は、一体――――」
何者なのか。それは郁也が今まで問おうと思いながらも問いきれずにいたことだった。問いかけて、もし彼らとの関係がここで終わってしまうのが怖かったのだ。
少し困ったように陽菜が目を伏せた。宵は首を横に振った。陽菜は郁也の方へ向き直る。
「ここは、双子神の棲まう山」
「代々神は双子で生まれ、この地に根ざして空を木々を獣をヒトを見守り生きていく。それが定め」
ニコリと二人が見せたその笑みは、歳にそぐわぬ慈愛を帯びていた。
「私たちは、まだ『そう』じゃないけどね」
「僕たちはまだ、神でもなく人でもない。御山の狐神の御許で育ち、現世を生きる、『あわい』の存在」
そうどこか謳うように告げる彼らは、自分が生きてきたその世界には居ない神聖さを持っているような気が、少年にはしていた。彼らの身にはそぐわぬ大人びた、どこか老獪ささえ感じさせるようなその言葉は郁也の身には難しかったが、それでも二人のまとう空気が郁也に状況を理解させた。
この山には神が棲むという。それはこの町に住む子どもたちは皆言われていることのようで、少年もこの町に越してくるよりも前から、祖父母のところへ遊びに来たときには幾度か言われていることであった。勝手に入って怒らせては大変だから、と。
けれど、かつて郁也は少しくらいなら大丈夫だろうという子ども特有の無邪気さと無警戒さで、山へ入ったのだった。
「神様に、なるの?」
「うん。狐神さまも私たちも、今その準備をしてる。そのために、私たちには出来ないことがたくさんあるの」
その一つが、彼らが頑なに拒んだ「食事」であった。
「郁也は『ヨモツヘグリ』って言葉、聞いたことある?」
そう陽菜は問うた。郁也は首を横に振る。陽菜と宵はそうだよね、と笑んだ。元々は君たちの言葉なのだけどね、と、告げるのは宵だった。
ヨモツヘグリ。それは古く古事記に記述のある「黄泉の国の食べ物」の意。異界の物をひとたびその身に取り込めば、決して元の世界へは戻れない。その戒めを込めて、人々は「ヨモツヘグリ」という言葉を使う。
「私たちも同じ。この世のものを内に入れれば、御山の狐神さまのところには戻れなくなってしまう。だから、食べ物はダメなの」
美味しそうなんだけどねぇ、と陽菜はどこか寂しげに笑んだ。現在神でもなく人でもない彼らには、食事という概念そのものが希薄らしい。
陽菜と宵は、この御山に今起きていることを少しだけ説明してくれた。
御山の神は弱まるその身の力を感じ、このままにしてはおけないと思ったのだという。
「昔はね、郁也みたいにここへ迷い込んできた人々を御山の奥へと引き寄せてた。ホントはここに来ちゃダメだって言われてたでしょ? 『連れていかれる』から」
「けれど、人をよんだところで狐神さまの力は元に戻らなかったし、昔は御山を狩る話までされ始めた。それは、狐神さまも悲しんだ」
そうして見出した方法が、この地に溶け込み楔の如く眠りにつくということ。
四季が巡るように、生きゆくすべての物が眠りにつき休息を得るように。この土地の神はこの世界へ殉じる如くにその身を投じて眠りにつき、この町を、世界を見守ることを選んだ。そして神がその身に力を再び蓄えるまで、その間の空座を埋めることとなったのだという。
それじゃあ、と郁也は首を傾げる。
「その神さまが眠って二人が神様になったら、もう会えない?」
「――僕たちのことは、見えなくなると思うよ」
「……じゃあ、それまでたくさん遊ぼう?」
郁也の言葉に二人は一度顔を見合わせて、「ありがとう」と笑った。けれどそれは、いつもの笑みではなくどこか痛みをはらんでいるように、郁也には見えていた。
郁也が二人と出会ってから六年、十六の夏。今日が最後になる、と困ったように告げたのは宵の方だった。
その時が来たのだと、彼はどこかさびしげに告げた。陽菜は郁也の方を見ずにその顔を俯けていた。握られた拳は微かに震えていて。
そんな中、口火を切ったのは宵だった。
「ねぇ、郁也。――姉さんを連れて、外へ帰ってあげて」
その言葉に、弾かれるように彼の方を見たのは陽菜だった。酷く怖いものでも見たかのように、震えるようにかぶりを振った。
「っ違う、嫌よ」
「姉さん」
そうどこかなだめるように、青年は微笑む。
ぼろぼろと流れる彼女の涙をその手で拭い、彼は彼女が聞く気を持たない言葉を紡ぐ。
「二人いるということは、僕たちには選ぶことが出来るんだよ。残るか、降りるか」
彼女の願いと彼の覚悟は、郁也にも分かっていた。けれど、郁也がそれを言い出すことなど出来はしなかったし、手を差し伸べることもまた出来ないことだった。
きっと彼らはこれまでずっと一緒に生きてきたのだろうし、これからも一緒にいたかったのだろうから。
宵は額を陽菜と合わせた。どこか満足げな、そして彼女を安心させるようにと祈りを込めた笑みを浮かべた。
「僕たちがはじめから御山を守る守神もりがみとしてこの地に降ろされなかったのは、きっと僕たちが選べるようにとのお心だよ。姉さんは、好きな方を選べばいい」
宵は既に覚悟が出来ていた。泣きじゃくる彼女の手を取ったまま、宵はこちらを向いた。
「郁也。姉さんを、よろしくお願いします」
彼から、彼女の手を取った。彼はそのまま郁也と彼女に背を向けて、御山の奥へと姿を消した。彼を追おうとする彼女の手をただ握ったまま、郁也はその場に立っていた。
鳥居の前で、陽菜は足を止めた。この先を、彼女が歩んだところを郁也は見たことがなかった。いつも見送りはこの場所だった。片手はつないだまま、陽菜はその左手を硬く握った。郁也が先に鳥居をくぐる。それにつれられるように、陽菜がその両目を硬く瞑り、その鳥居をくぐる。
何も起こることもなく、鳥居をくぐり出でた。鳥居の向こうを幾度も振り返る彼女の手を引いて、郁也は山を下る。陽菜はただ硬く郁也の手を握っていたが、その手が震えていたことに、郁也は気づかないふりをした。
山を降りてみれば日はとっくに暮れていて、郁也が体感するよりも随分と時間が過ぎていた。
ここは小さな町だ。早々人がいなくなることなどない。暗闇の町を捜索隊の懐中電灯がちらりちらりと照らしていた。彼らがその捜索隊に発見されるのもすぐのこと。郁也の後ろに隠れる陽菜を見て、町人の一人が震える声で彼女の名を呼んだ。
それはかつて、我が子を山で失った女だった。あの御山がまだ人を隠すと言われていたときのこと。山を遊び場にしていた彼女ら姉弟は、ある日突然に山へ誘いざなわれてその姿を隠したのだった。
陽菜は女に抱きすくめられ、当時共にいなくなった宵の行方を問われた。陽菜はかぶりを振る。彼女が告げるつもりがないなら、郁也が言うことはできなかった。陽菜は狐神の元で過ごしていた日々のことを告げることはなく、覚えていないとしか口にしなかった。
この日以来郁也はずっと彼女の代わりに山へ登り、彼女や自分の近況を話し続けていた。いつか、彼が彼女と再会できるその日まで。
そうして八年。郁也は宵の代わりに、そしてある意味宵よりも近くで、陽菜と共に歩んでいった。
彼女との婚礼の日。天気雨が降り続く中、白無垢の彼女は一度だけ御山へと目を向けた。けれどその目はすぐに伏せられ、それ以降、彼女が御山に目を向けることはなかった。
どうしても、会うことはできないのか。郁也は祠にそう問いかける声に応えは無い。彼女が本当は今でも彼に逢いたがっていることを知っている。そして、同じ片割れだ。彼もそうなのではないかと思っている。
けれどそんな機会は訪れない。何度あの祠へ向かおうとも、宵の姿は無かったし、その気配すらも感じ取ることは出来なかった。
*****
幼い少年が、道ともつかないけもの道を上がっていた。季節は初夏。背の高く幹の太い木々が生い茂るこの道は、見知っている道ではあったが一人で歩むのは初めてだった。
そうして脇道を進んでみたい気持ちと幼いながらに葛藤しながら、いつもやってくる白木造りの鳥居をくぐる。ひとりでやってこられたことに達成感を抱きながら、周囲を見渡す。
「きみ、どうしたの?」
後ろからの声に、少年はびくりと身体を震わせ振り向いた。そこに立っていたのは、一人の青年。長い髪を細い紐で結わえた初めて出会う顔の彼は、不思議そうな、そしてどこか優しい目をしてこちらを見ていた。歳は大体両親と同じくらいに見える。
「あ、えっと、ごめんなさい」
勝手に御山へは行かないように、というのがこの町の決まりだった。てっきり、この山のお世話をしている人かと思ったのだ。
いつもは父と一緒にくるのだけれど、今日は仕事が忙しいとかで少年は家に一人だった。学校で言いつけられていた宿題も全部終わり、やることもなくなってしまっていた。
そこでやってきたのがこの御山。好奇心には勝てなかった。いつも同じ場所を通る父の後についていくのは、正直少しだけ退屈だったのだ。
けれど、勝手に入ったことが分かればきっと怒られる。頭を必死に回して出した答えは、次のようなものだった。
「おうち帰ろうと思ったんだけど、道、わかんなくって」
そう言っておけば、仕方がないと許してもらえるような気がした。
「キミも迷子か」
「……お兄さんも?」
この山に来るとき、父は母に一緒にいこうというのだけれど、母は首を横に振るばかりで、一度もこの山へ足を踏み入れたこともなければ、こちらの方へ近づくのも嫌なようだった。
「僕は違うよ。ここは僕の家だから」
「家……? 住んでるの?」
「そんなものだよ。――ここをまっすぐ進んでお行き。そうすれば君の家は目の前だ」
そう彼が指さした先を見て、少年は彼の方を仰ぎ見る。
「早くお帰り。暗くなると危ない」
「うん、ありがと」
そう少し歩みを進めて、少年は振り返った。
「また、来て良い?」
そう尋ねれば青年は少し困ったような笑みを見せた。
「会えるかどうかは、分からないけど。それで良いなら」
「やった! それじゃあまた来る!」
「――あぁ、そうだ。お父さんとお母さんに、よろしく」
その言葉に、少年は首を傾げた。けれどすぐに「うん!」と元気に頷き、山を下りていった。
了