第6話 スラム街の少年達
〈下界〉において交易の中心となっている巨大都市【アラクニード】。
やや緊張したように、イリアは面を引き締めた。
〈下界〉の地を踏むのは8年振りとなる。故郷まではまだ遠いが、それでも何となく懐かしい匂いがした。
街の中心部を目指して歩きながら、イリアはキョロキョロと視線を動かす。エデンへ連れて来られた時に抱いた街の印象と、何処か違っているような気がしたためだ。
「まだ昼間のはずなのに、何だか暗い……」
「アラクニードは、地殻変動によってエデンの真下へと移動したのです。ずっとエデンの陰にあることから、眠らない街──【不夜城】という呼び名まで定着したようですな」
ウォルトの説明を受け、イリアは天を仰いだ。空一面を覆うように、確かに巨大な岩の塊が浮いている。
理屈として理解はできるものの、つい先程までその上にいたのだという実感はまるで無かった。
まるで夕暮れのようだが休むには時間が早い。ウォルトの提案で早速二手に分かれ、彼らはプレイヤーについての情報収集にあたることにした。
「イリアは俺と」
「イリア様はワシと」
ほぼ同時に放たれたその言葉。そこでまた、いがみ合いが勃発する。
3人で仲良く行動したいと思うイリアなのだが、2人とも『自分こそがイリアを守りたい』という気持ちが譲れない所為か、なかなか協力し合う気になれないようだ。
「大丈夫かよ、爺さん。もう息上がってんじゃねえのか」
「フン、口の減らない若造が。今すぐヴィクトールの所に送り返して、その性根を叩き直してもらうとしよう」
「冗談じゃねえ、団長はストイック過ぎて……」
つまらない口論から徐々にヒートアップし、取っ組み合いになりかけたその時、はっとしたようにリーシュが大声を上げた。
「イリアが居ねえ?!」
「何と……しまった!」
「くそっ、あのバカ。すぐ迷子になるくせに、フラフラと」
「バカとは何じゃ! 好奇心が旺盛なお方故、目を離したワシらが悪い。ええい、探すぞ」
護衛である2人が守るべき対象をいきなり見失うなど、とんでもない大失態である。
アラクニードだけに限らず、街や村は基本的に〈結界〉で守られている。
場所によってその力に差はあれど、エデンが近いアラクニードのそれは強力だった。従ってまだまともに招かれざる者の襲撃を受けたことはない。
とはいえ安心する材料としては脆弱である。エデンに比べれば治安も悪く、世間知らずなイリアが何か事件に巻き込まれないとも限らない。
人の波を押し退けるように、2人の騎士が街中を駆け回った。
「それにしても、地殻変動のことさえ知らねえなんて……」
リーシュはそれに、イリアが置かれていた境遇を読み取る。
エデンどころか神殿からも出られず、外の情報すら満足に与えられず、ひたすら巫女としての修行をさせられてきたに相違ない。
ウォルトが言ったように、6年前の地殻変動で〈下界〉は歪に形を変えてしまっていた。
元々楕円形に広がっていたメタトロンは、それにより西側を抉られるように失い、三日月形へと変わったのだ。
海に呑み込まれた陸地部分は今でも黒い渦を巻き、迂闊に近付くことさえできない。何が起こったのか、現在どうなっているのかなど全てが不明のままである。
それも招かれざる者との関連を疑うのが自然だろう。
各地に散った学者達が血眼になって、地殻変動のことや、招かれざる者とは何者で、何処からやって来たのか、その目的は何なのか調査を続けている。
しかし、初めてその存在が確認された20年以上前から、ほぼ何も進展していない。
スラム街の方に足を向けていたリーシュは、派手な看板の店が立ち並ぶ通りへとやって来た。
「あらぁ、素敵なお兄さん」
あちこちの店で聞き込みをしていると、黒髪の美女に呼び止められる。
どうやら彼女は客引きをしていたようだ。ならば、前を通った人間はよく観察していたはず。
「君さ、白いローブを着た女を見なかった?」
焦る気持ちを抑え、リーシュは柔らかい眼差しで優しく尋ねる。一枚の絵のように美しいリーシュの姿に、女性は頰を赤く染めながら自分の口元に手を当てた。
「さぁ……見なかったけど、もし貴方の来た方角ではないのなら、スラム街の方ではなくって?」
「助かる」
イリアが絡むと〈天性の女たらし〉もすっかり影をひそめるらしい。
せっかく情報を与えたのにすぐに去ろうとするリーシュを引き止めるべく、女性は「待って」と腕を引いた。
エデンの淑女とは違い、〈下界〉の女性は積極的だ。オフショルダーで深いスリットの入った真紅のドレスに、赤いハイヒールを履いている女性は、その豊満な双丘をリーシュの腕に押し当てて小声で囁く。
「──ねぇ、もう少しいいでしょう。エデンの騎士様」
「悪いけど、今は急いでいるんだ。また今度──ゆっくりな?」
女性の腕をやんわりと引き剥がし、リーシュはウィンクを残すとスラム街の方へと足を向けた。
そのマントが風に揺れる姿を見送った女性は唇を引き、ぽつりと呟く。
「──本当に、あの女しか見ていないのね……」
────
昼夜問わず街に光を提供する〈魔光灯〉。
魔法使いが戦闘以外の職業としても成立しているメタトロンでは、その製作が彼らの収入源ともなっている。
自然の光に頼れないアラクニードにいると、時間の概念を失念してしまいそうだった。
「どうしよう……迷った……」
煌びやかな中心部を抜けて、いつの間にか寂れた街外れまで来ていたイリア。
すぐにリーシュ達の所へ戻るはずだった彼女は、一人途方に暮れていた。
「そうだっ! 迷子の時は下手に動くなってリーシュが言ってたっけ」
ぱんと両手を合わせ、名案を思いついたとばかりに、イリアはとりあえず目立つ場所を探して歩き出した。
すると、細い裏通りを通過した所で横から飛び出してきた少年とぶつかってしまい、彼女は派手に尻餅をつく。
「きゃあっ!」
「お姉ちゃん、邪魔だよ。気をつけなきゃ!」
ケラケラ笑う少年は、イリアにぶつかった事を詫びるでもなく足早に去って行った。
「あ、あれ……袋!」
ゆっくりと立ち上がったイリアは、少し身体が軽くなったような気がした。まさかと思い、ローブの上からパタパタと腰の辺りを探り、ざぁっと顔色を無くす。銀貨を入れた皮袋が無くなっていたのだ。
それは旅の資金で、基を辿ればエデンの民から預かったとも言える、大切なもの。
治安が悪いとは聞いていたが、早速自分が被害に遭うとは思ってもみなかった。
イリアは慌てて、先ほどぶつかった少年を追って走り出す。
細い路地を抜けた先で、盗人の少年は仲間達と思いがけない収穫に歓声を上げていた。
「お願い、返して! それは大切なものなのよ」
イリアの声に少年達はゆっくりと振り向き、逃げるどころかこちらを睨みつけてくる。
「嫌だね。その格好……あんた、エデンから来たんだろ。俺達の事をお花畑から見て笑ってる奴らの言う事なんて、聞くもんか」
「そんなこと……思ってないよ! 私も〈下〉の出身だもの」
「嘘つけ。あんたに、貧乏人の気持ちなんかわかんねえだろっ!」
少年達は手に持った木の棒をイリアに向けてきた。 彼らは暴力を駆使してでもこの収穫物を手放す気は無さそうだ。
「その銀貨は私のものじゃないのよ。……お願い」
余りに切実なイリアの声に、少年達は一瞬顔を見合わせていたが、すぐさま態度を戻す。
「もうすぐボスが来る時間だぜ」
「これだけの収穫だ。今日はきっと褒美が出るぞ」
ニヤニヤ笑う少年達はイリアに木の棒を向けたまま、その場から離れようとする。
「ま、待って! 本当に困るのよ、それは」
イリアの哀願を無視した少年達は路地から出ようとした所で、横からスッと入って来た赤髪の青年とぶつかる。
少年達は、赤髪の青年に気づくと嬉しそうに皮袋を掲げて見せた。
「ケイさん、収穫ですよ! 褒美が出たらあいつらに美味い飯を食わせてやれますね」
「銀貨? そんな大金、一体どうやって──」
ケイと呼ばれた青年は、訝しげに足元で笑っている少年達から顔を上げる。そして項垂れるイリアを翡翠色の瞳でじっと見つめてきた。
「こら。幾ら貧しくても、人様の物には手を出しちゃいけない。いつも言ってるだろう」
「だけど、あいつはエデンの……」
軽くケイに小突かれた少年はやや興奮気味に振り返り、イリアをまるで異質な者とでも言いたそうな顔のまま睨みつける。
エデンと下界。両者の溝は昔から少しも埋められてはいないのだと、イリアは痛感した。
「白いローブ……エデンの巫女なのか」
ケイがゆっくりとイリアの前に進み出る。その表情には、少年たちとはまた違う複雑な色が浮かんでいた。