第1話 魔壊のリーシュ
陽はすっかり高い。薄雲のかかった空を、空挺団の飛行船が駆け抜けていく。
その眼下にて。メタトロンの首府【エデン】は浮遊島を基盤とし、地上より約500mの位置に悠然と浮かぶ。
そこは王宮や神事の一切を司る大神殿、最大人口の街など重要施設が集中し、軍や大掛かりな結界によって守られている。従って招かれざる者の脅威にも直接は晒されていない。
一方、人口の大半を占める地上はエルフやドワーフ、竜族など人間以外の種族も多く暮らす。
エデンからは「下界」と蔑まれているが、逆に彼らは、エデンを「偽りの楽園」と揶揄する。両者の溝は決して浅くはなかった。
そしてこの日。皮肉にも呼び名の通り、色とりどりの花たちで幻想的に演出された、エデン王宮の中庭でのこと。
貴族の淑女たち、数名の輪の中にその青年はいた。
リーシュ=フォレスト。二つ名を【魔壊のリーシュ】。その存在を知らぬ者はエデンに居ない。
季節こそ動かないが、正確に刻を追えば今年で26歳になる。切れ長の目に覗く茶褐色の柔らかい瞳。
風に遊ばせたままの、緩くウェーブのかかった鮮やかな金色の長髪。しかし髪の1本1本が動きを定められたかのように、自然体でありながらそれは一分の隙も無い。
そして180cm近い身長と引き締まった体躯は、細身ながら英雄譚の主役であるかのような印象を与える。
そのまま額にでも飾ることが可能なら、さぞかし見栄えがするだろう。但し、黙ってさえいれば。
「君ってさ、本当に綺麗な瞳をしてるよな。このままずっと見ていたいくらい」
「まあ、嫌ですわ。本当にお上手ですこと」
頬に両手を当て、「嫌だ」と言いながら少しも嫌そうではない淑女A。するとすぐさま、淑女Bが割って入った。
「リーシュ様ったら! 以前、私にも同じことを仰っていたではありませんか」
「えっ? そうだっけ……」
ほんの少しだけ慌てた素振りは見せるものの、リーシュにフォローの意思は無い。その時はその時で、恐らく本当にそう思って発言したのだ。
普通なら、軽薄な男として避けられるだろう。しかしこの美青年には計算高いとか、粘着質なところが全く無い。
誰からも等しい距離にいて、裏表のない人柄が、異性を惹き付けるには充分な魅力を備えているのだ。
加えてこの容姿。彼女たちにしてみても、リーシュへの好意は偶像へのそれに似ている。
「リーシュ様は、蒼色がお好きなのですか?」
彼女たちに負けじと淑女C。リーシュの身に付ける軽装鎧を指しての質問だ。
リーシュの所属する騎士団【焔】は精鋭部隊であり、象徴とも言える赤備えの装備品が全ての兵士の憧れである。
ところがリーシュのそれは、蒼を基調にした物。更には左右非対称で、例えば肩当ては右側にしか付いていない。
「まあね。赤だらけの中に赤でいると、目立たないし」
「そう言えば、ご出陣の際に髪留めに使われている布も蒼色でしたわね。御守りか何か?」
「これ? バンダナだよ。本来は頭に巻いたりするんだけど」
リーシュは懐からそれを取り出した。かなり古い物で、蒼とは言ってもかなり色褪せてしまっている。
「御守りとは違うかな。何て言うか、〈誓い〉みたいな物で」
懐かしむようにリーシュが目を細めたところで、歩みを寄せた1人の男が、凛とした声で彼らの談笑を瞬時に凍らせた。
「探したぞ、リーシュ」
【鋼血のヴィクトール】。焔の団長にして、軍務の全てを預かる男。
軍人らしく短く刈り上げた髪は、黒に少しだけ白が混じる。招かれざる者出現以降、第3級未満にフェーズが落とされたことがないため、平時でも真紅の全身鎧を纏う。
身長はリーシュの上をいき、横幅もがっちりとした体型。戦場では指揮を採る側だが、剣を振るえば比肩する者無し。長年〈最強〉の評を守っていた戦士である。
そして何より、大事のためなら小事を切ることをまるで厭わぬ、熾烈なまでの決断力はメタトロン中に轟く。
淑女たちは慌ててドレスの裾を持ち上げ、礼を尽くすと、逃げるようにその場を去っていった。
それを見送った後、再び騎士団長が口を開く。
「まったく、こんな時に。お前という奴は……」
「別に構わないだろ。俺だって鋭気を養いたい時くらい──」
リーシュは最後まで反論できなかった。金属が擦れる音。ヴィクトールが不意に剣を抜いたのだ。
そして、頭上高くから振り下ろされる白銀の剣戟。
しかしリーシュは、それを〈剣〉で受け止める。直前まで空いていたはずの左手に、彼の愛剣【セラフクライム】が握られていた。
「──随分な挨拶だな、師匠」
「今のを防ぐか。〈召剣〉のスピードが更に早くなったようだ」
ヴィクトールは、リーシュの剣術の師でもある。騎士を志して18歳でエデンにやって来たリーシュは、類い稀な才能を発揮し、すぐに歴戦の士たる彼の目に留まった。
やがて自分を追い抜く逸材──ヴィクトールもそう感じていたはずだ。しかし僅か2年で、彼らの力関係はあっさりと逆転する。
それも一夜にして。余りに唐突に。
リーシュに〈魔壊〉などという物騒な呼び名が付いたのも、それからである。
「冗談じゃねえ。アンタ今、本当に殺す気だったろ」
「殺す? 両手持ちの私を、片手で止めた男を?」
「そうじゃねえよ。『これで死ぬならそれはそれで構わない』って……まるで道を賽子に委ねたみたいな──俺はそう感じたぜ?」
リーシュは腕が立つだけの青年ではない。そしてヴィクトールもまた、武功だけで今の地位を手に入れた男ではない。
「曲解だな。それはお前の問題だ。私はただ、その化け物染みた力を国のために捧げよと言っているのだ」
「またその話かよ……」
何処かにいるはずのプレイヤーを探し出す。その任に就けと、前回と同じ事を上官は言うのだろう。
「やだよ。どうせログインしたものの、どっかの村娘が気に入って楽しくやってんだろ。わざわざ〈下〉に降りて、そんな腑抜けを1件1件探して回るのか? 冗談じゃねえ」
リーシュはうんざりしていた。任務とはいえ、そんなことのために騎士になったのではない。
そして彼の目的は未だ果たせないままだ。
「そもそも本当に居るのかよ、プレイヤーなんて」
「今、こうして我々の会話が成立していることが何よりの証拠だ。最低でも1人はログインしていなければ、この世界は一切が閉ざされているはずだからな」
ヴィクトールはより詳細な事実を知らされている。5年前、創造主からもたらされた最後の情報。
それによると、余多と存在したはずの平行世界は殆どが消え失せ、残るはここひとつ。そしてプレイヤーも僅かに1人。
もう猶予は無いのだ。しかし武骨な騎士団長も、今日はいつものように不毛な押し問答をしにきた訳ではない。
用意していた一言で話を先に進める。
「大神殿の巫女様が動く」
その瞬間、リーシュが一瞬だけ肩を震わせ、全身を硬直させた。
「何……だって?」
「旧知の仲なのだろう? 紅涙のイリア様が、いよいよ出立されるのだ」
「──やめろ! いや、頼むからやめてくれ。その呼び方……あいつは泣き虫だった。今でも、きっと……」
表情を一変させ、悲痛な面持ちで上官に訴えるリーシュ。対するヴィクトールも二度は言わず、静かに応えを待つ。
「それこそ、マジで冗談じゃねえ……他の奴になんて任せられるかよ」
即答と言っていいレベルでの了承。ヴィクトールはようやく笑みらしきものを浮かべ、しかし鋭く命じた。
「……決まりだな。出発は3日後だ。必要な物はこちらで用意する。お前はそれまで、第1級の戦闘準備に専念しろ」
第1級戦闘準備。それは最前線に身を投じるため、この世の全ての執着を捨てること。
だがその意に反して、リーシュの心はある一点に集中していた。強く。抑え切れぬほど強く。
「イリア……」
右手のバンダナを握り締め、リーシュは神殿のある西方の空を仰ぐ。