決着
短くも長い週末を終えて、新しい週が始まった。まだ日も昇らないうちから顔を洗って、歯磨きを済ませた後、朝食と昼食のサンドイッチを作っていた。慌しかった週末から月曜日を迎えるのは違和感があって、いまいち今日が月曜日だという実感が持てなかった。そんな奇妙な感覚と一緒に、あたしの心を温かく、嬉しく支えてくれるものがあった。深く考えなくても、その正体はすぐに分かる。
泉実だ。
紅茶を作るために火にかけていたやかんが甲高い泣き声を上げる。火を止めてやかんを手に取ったら、銀色のやかんに微笑むあたしが映りこんでいた。今日は月曜日、学校もあって、アルバイトにも行かなくてはいけない。更に、当主様がフルート事件に関して教育委員会や学校に情報を提出する予定だから、中野や先生と話し合いになるだろう。それだけ気分を落ち込ませる要素があるのに、あたしは笑っていた。
紅茶を作って、水筒を満たす。甘い香りが温かい湯気になって鼻を掠めていった。
戦える。泉実や当主様たち、そして、姉の想いがあたしのそばにいてくれる。中野にどれだけ忌々しいことを言われようと、立ち向かっていけそうだった。
「姉さん、ありがとう。今日はちょっと緊張するけど、姉さんが応援してくれたおかげで、戦える気がするんだ」
キッチンから、四畳半のちゃぶ台へ視線を投げる。ちゃぶ台のフォトフレームでは相変わらず、あの日から変わらない姉と、幼いあたしが笑っている。馬鹿みたいに明るくて、キラキラとした、楽しい笑顔だった。
「姉さんのことはずっと忘れない。泉実や当主様たちと一緒に、姉さんのことを記憶して、生きていくよ」
過去を引きずることと、過去を記憶することは、少し意味が違う。今までは姉の自殺を暗く、悲しいこととして引きずっていた。しかし、たくさんの出会いと出来事を経て、姉の自殺を引きずるのではなく、記憶して生きていくということを覚えた。過去と向き合い、そこから糧を得て、未来を切り拓いていくこと。姉が遺書に遺した「強くなって、生きてください」という言葉を、もう一度心の中で繰り返した。
今日は家を出る時間を早くした。放課後はあたしも泉実もお互い忙しくて会えない場合があるから、せめて朝は一緒に登校しようと、昨日のうちに決めておいたのだった。黒いリュックを背負ってアパートを出ると、まだ薄暗い町並みと、懐かしさを感じる強烈な冷え込みが迎えてくれた。あたしが生まれた地元でも、こんな冷え方をしたことがあった。身体を切りつけてくるこの冷えと、凍てつく空気の匂い。
雪が、近い。
震える手で鍵をかけて、少しでも身体を温めるために駅に向かって駆け出した。
踏み切りを渡って、泉実の姿を探しながら駅の駐輪場を横切る。すると、駐輪場の出口付近でちょうど泉実が自転車を停めている姿が見えた。その肩にはしっかり茶色のフルートケースがある。泉実の姿とフルートケース、両方が揃っていて、安心した。
「泉実!」
声をかけたら、天使が小さく肩を震わせて振り返った。驚いた顔が、笑顔に変わる。
「蓮華! おはよう!」
自転車にチェーンをかけると、泉実はすぐに駆け寄って、胸に飛び込んできた。柔らかい天使の身体を受け止めて頭を撫でたら、胸の中で可愛らしい唸り声が聞こえた。
「うぅ、このまま帰って蓮華と一緒に寝るぅ」
「夜更かしでもした?」
「眠れなかったの。……昨日のこと、思い出しちゃって」
胸から離れて、泉実がうつむいた。気持ち、頬が赤く見える。
昨日は泉実とたくさんキスをして、日が暮れるまでずっと抱き合っていた。キスだけで息切れしたことを思い出したら、あたしも少し恥ずかしくなった。あれだけたくさん触れ合った後だったから、余計に寂しくなってしまったのだろうか。
「……おいで、泉実」
早朝の駐輪場は、人通りがほとんどない。もう一度泉実を抱き寄せて、頬に短いキスをしてあげた。これだけじゃ物足りないかもしれないけれど、少しでも泉実が感じていた寂しさを軽くしてあげたかった。
「学校、休みたくなっちゃうもん……」
「我慢して? ちゃんとそばにいるからさ。ね?」
可愛らしく唸り続ける泉実を促して、とりあえず電車に乗ることにした。朝の改札は人も少なくて、電車の席もいくつか空いていた。暖房のよくきいた車内で並んで座ったら、肩に泉実の頭がこつり、と寄りかかった。
「もう。甘えん坊なんだから」
「えへへ。このまま寝ちゃおっと」
眠たいせいだろうか、いつも以上に泉実の笑顔が穏やかなものに見える。初めて一緒に帰った時と同じ、今の泉実はあの時のふわふわした「高瀬さん」だった。それほど時間が経ったわけではないのに、遠い昔のような懐かしさを感じた。
「あ……。そうだ、泉実」
「どうしたの?」
寄りかかっていた頭をゆっくり起こして、大きな瞳があたしを映す。
「今日、フルート事件のことで呼び出し食らうかもしれない」
お互い明るい気分で朝を迎えられたのに、つらい事件のことを話すのは残念だった。でも、今日の戦いは避けられない。泉実と過ごすこれからを作っていくためにも、覚悟を決めて向き合わなくてはいけないことだった。
「土曜日に話したけど、当主様が棘科グループを通じて、フルートを壊した犯人のことを調べてくれたんだ。月曜日に当主様が学校と教育委員会に情報を渡すって言ってたから、多分、二人で呼び出されると思う」
「……分かりました。気持ち、作っておかなくちゃいけないね」
目を伏せて、また肩にこつん、と泉実の頭が寄りかかる。電車の心地よい揺れに身を委ねながら、話を続けた。
「お節介だったかな?」
「ううん。私も泣き寝入りはしたくないって思ってたの。当主様が味方なら、きっと教頭先生も話を聞いてくれるよね」
あの学校は面白いもので、校長よりも教頭が厚かましくでしゃばる。校長は生徒や先生に優しすぎて、そのせいで教頭がなんでもかんでも仕切ってしまい、泉実も泣き寝入り寸前まで追い込まれたのだ。今日は絶対に教頭の思い通りにはさせない。きっちり学校に動いてもらう。
「ありがと、蓮華。大好き」
眠たそうに目を細めて、かすれそうなほど小さい声でそう言った。大好き。恋人からその言葉をもらえることは本当に幸福だった。微笑み返して、泉実の髪に頬を寄せた。
「少し寝なよ。駅に着いたら起こすからさ」
「うん、そうする……。お願い」
長い睫毛がついた瞼が、静かに閉じられる。この愛しい寝顔と一緒に、これからを楽しく生きていく。そう、決意した。心に決めたのだ。
だから今日、中野と全ての決着をつける。
電車に揺られている間、様々な出来事を思い出していた。中野と付き合っていた頃のこと、別れた日のこと。改めて呼び出して、話し合いをしようとした日のこと。泉実と中野が言い争いをしていた日のこと。中野はあたしの名前を聞きたくないとか、名前を聞いたら吐き気がするとか、そんなことを言っていた。思い出すたびに胸の奥が痛み、悔しくて顔が熱くなる。あの時言い返せば、一度殴ってやればよかったかと思ったこともある。でも、それを今まで我慢して、強く生きようと頑張ってきたからこそ、当主様たちという大きな味方を得ることができたのだと思おう。
これで、よかった。
うなずいて、眠る泉実の手をそっと握った。
動きがあったのはお昼だった。三時間目、体育の授業が終わり、着替えて教室に戻ろうとした時、先程まで体育館で熱心な指導をしていた体育教師が、更衣室から出てくるあたしを待ち構えていた。
「針ノ木、少しいいか」
背が高く、癖の強い長い髪が特徴の体育教師。真っ白なジャージが眩しい。保健体育と生徒指導を担当し、空手有段者の鬼教師と恐れられる、八坂麻子先生だ。八坂先生は低い声であたしを呼び止め、瞳を鋭くした。更衣室から一緒に出てきた希が言葉を詰まらせながら「先にご飯食べてるよ」と逃げるように立ち去った。別に悪いことをしているわけではないのだから、堂々としていればいいものを。そんなことを思いながら、先生に向き直った。
「はい。なんでしょうか」
「昼食を持って生徒指導室まで来い。話がある」
「話? ……あ」
閃いて、声が出た。教育委員会か当主様が動いたのかもしれない。恐らく、昼食を食べながらあたしと話し合いをするつもりなのだろう。分かりました、と返事をしたら、先生は黙ってうなずいて校舎の方へ歩いて行った。八坂先生に呼び出されたのなら、速やかに行動するべきだ。のんびりしていれば指導されてしまう。あたしも一旦昼食を取りに行くために教室へ戻ることにした。
教室へ戻ったら希に詮索されたけれど、八坂先生から呼び出されていることを話して解放してもらい、黒いリュックを持って急いで生徒指導室にやって来た。ベージュの引き戸には「八坂 在室」と書かれたマグネットシートが貼り付けられていた。一度息を呑んで、控えめに戸を叩いた。先生の返事を聞いてから、引き戸を開ける。こじんまりとした部屋、壁際にグレーのデスクが一つ。その上にデスクトップパソコンと、様々な色のファイルやバインダーが並んでいた。反対側の壁には薄いガラス扉がついた棚があって、そこにも青い背表紙の分厚いファイルが詰め込まれるように並んでいた。デスクの前には銀色の弁当箱を広げた八坂先生と、パイプ椅子に座る泉実の姿があった。
「あ、あれっ、泉実?」
「蓮華!」
ぱっ、と眩しい笑顔が返ってきた。泉実の膝にも弁当箱が広げられている。どうやら、泉実も呼び出されていたらしい。更衣室の前では鋭い眼差しをしていた八坂先生も、今は険が取れていて、微笑んでいた。
「突然呼び出して驚いただろう。楽しい話ではないが、ひとまず入れ」
先生が立ち上がり、壁に立てかけてあったパイプ椅子を泉実の隣へ開いた。失礼します、と一言断って部屋に入り、戸を閉めて静かに椅子に座った。黒いリュックから朝作ったサンドイッチの入ったランチバッグを取り出していたら、先生が「さて」とため息混じりに改まった。
「食事をしながらでいいから聞いてくれ。今朝、教育委員会と棘科紅羽氏から、お前たち二人がいじめられている疑いがあるとの報告を受けた。高瀬はフルートを壊されたこと、針ノ木は学校の生徒に一方的な陰口を書き込まれているという報告だ。フルートが壊された件については私も知っていたが、針ノ木の件は初耳だった」
教育委員会から電話があった後、授業中に当主様が学校を訪れて、棘科グループが調査した報告書を提出していったのだという。警察ではない棘科グループが調査したという報告書に対して、教頭は信頼するに値しないと話しているそうだが、校長と八坂先生は違った。この町の守護者であり、国内のみならず世界各地で慈善事業を行う棘科グループの代表が、冗談半分やいい加減な気持ちで行動を起こすわけがない。事実、泉実のフルートが壊された日の夜、棘科グループの調査員が学校に来たことは生徒指導担当である八坂先生も知っていることだから、十分信頼できるものだと判断したそうだ。
「今回は珍しく、校長が教頭をけん制してくれた。この後、授業日課を変更して全校アンケートを実施する。その結果を加味した上で、調査報告書に挙がっていた中野美晴を呼び出し、放課後に話し合いを行うぞ」
当主様が直接動いたことで校長も問題の重大さを理解してくれた。安堵して、泉実と顔を見合わせた。
「よかった。蓮華も、これで助かるんだね」
「う、うん。でも、その……。先生は、あたしと中野が付き合ってたってこと、知ってるわけなんですよね?」
同性同士の恋愛。陰口のことよりも、そちらの方に気が取られてしまった。泉実も、あっ、と小さな声を上げて、不安そうに八坂先生へ視線を向けた。八坂先生は箸を置いて、腕組みをした。
「なにを怯えている。針ノ木の件で重要なのは、不特定多数の人間が目にするインターネットに、学校名と実名を、不名誉な陰口と一緒に書き込まれているということだろう」
「そうですけど……」
「では、こう言えば気が済むか。生徒の色恋沙汰に興味はない。私の指導対象となるのは、あくまでも問題を起こした生徒だけだ」
さすがは鬼教師、というべきか。先生の率直な意見を聞けたから、かえって安心することができた。あたしと中野が恋愛をしていたことは先生にとって問題ではない。問題にするべきことは、もっと違う部分だった。
「本来であれば、色恋沙汰は当事者同士で解決するのが望ましい。しかし、今回はそうも言っておれんのだ。学校名も実名もネット上に書かれ、他の生徒にも嘘か本当か分からんようなたわ言を吹聴していると聞いた。更にはそれを咎めた高瀬を恨み、フルートを壊すなど、度を越えている。中野美晴の行為は、指導対象と認識する」
食べていたサンドイッチの飲み込みが悪くなった。喉と胸の間で詰まりそうだったから、慌てて温かい紅茶で押し流した。息をつくと、泉実が悲しそうな声色で口を開いた。
「中野さんとは同じクラスだから、毎日のように聞こえました。蓮華が引っ越してきたのは中学の時に問題を起こしたからだとか、人に言えないような汚いアルバイトをしているとか……。講演会の指名だって、裏で仕組んであったって……」
泉実が悔しそうに眉をひそめた。八坂先生も調査報告書を読んで事情を把握していたようで、うなずいていた。
「分かっている。アンケートで調査報告書の裏づけを取り、しっかり中野と話をしよう。お前たちは大丈夫だと思うが、くれぐれも問題を起こさず、学校生活を全うしてほしい。私に授業以外で指導されることのないように」
泉実という大好きな恋人がいるから、今まで以上に楽しい学校生活にしたい。もう、悲しい思いはしたくないし、させたくない。
先生の言葉に、二人でうなずいた。
放課後に話し合いがあるから、今日のアルバイトは休ませてもらおうとCDショップに連絡をして、正直に事情を説明した。先週の分を含めると長い連休になってしまうから、店長に怒られるかと思ったけれど、どうもあたしは出勤しすぎていた上に、事情が事情だから大丈夫だと快諾してくれた。いじめられていることを心配して、無事に解決してほしいとも言われた。電話をした後、今回の事件について先生からいくつか質問を受けて、泉実と過ごす初めての昼休みがお開きになった。
昼食を終え、生徒指導室から二学年棟へ向かいながら、あたしと泉実は肩を並べてゆっくり歩いていた。
「初めて泉実とお昼ご飯食べたのに、話の内容が残念だったなぁ」
「私は一緒にいられて嬉しかった」
あたしの顔を覗き込みながら、そう言った。顔の距離が近かったから、思わず足を止めて周囲を見回してしまった。歩いている生徒や窓際で立ち話をしている生徒もいるから、キスはできそうになかった。泉実はあたしのしたいことをもう見透かしていて、ころころと笑っていた。
「えへへ。学校が終わったらね」
「ちぇーっ」
仕方ないとはいえ、ちょっと残念だった。ふてくされて窓を見たら、白い曇り空が目についた。あたしが生まれ育った山奥の町では、寒い時期にこんな天気になると大体雪が降った記憶がある。今朝も感じた冷えた空気の匂いがまた蘇り、自然と足が止まった。隣を歩いていた泉実がどうしたのかとあたしを見上げる。
「どうしたの?」
「あ、うん……。雪、降りそうだなって」
泉実と初めて一緒に帰った日はここまで寒くなかった。泉実に惹かれて、悩んで、吹奏楽部に関わるようになって、気がつけばすぐそこに冬が来ていた。秋から冬へ、この数ヶ月、たくさんの出来事がありすぎた。でも、もうすぐあたしと泉実を縛りつけていた苦しいものを取り除ける。この白い曇り空のように、まっさらなページに、これからあたしたちの青春を作り出していけるのだ。カビの生えた忌々しい一ページとは違う。真っ白で、まっさらな一ページを。
頭の上から、チャイムの音がした。
放課後になった。六時間目の最中は放課後の話し合いが気になってしまい、ろくに集中できなかった。ひとまず、黒板に書かれたことはノートに写せたから大丈夫だろう。そう思いながらアルミ製の四角い筆箱をリュックに入れようとして、固まった。
「…………」
筆箱がカタカタと嗤っている。手が、震えていた。
朝は笑っていられた。昼も大きな不安を感じることはなかった。でも、放課後という時間を迎え、いよいよ中野と対するのだと思うと、気分が悪くなるほど嫌だった。季節の寒さとは全く別物の嫌な冷えが、背中と、両腕の上を撫でていく。中野を呼び出した日に知った、嫌悪感に似たあの恐怖が戻ってきた。気を緩めれば歯が鳴りそうだった。中野に怯えているなんて思われたくないし、こんな姿を泉実に見せたら、泉実まで不安にさせてしまう。それに――。
(ずっと、ずうっと守るから。ずっと一緒だよ、蓮華)
幻か、寝ぼけて見た夢だったのかもしれない、あの声。気を持ち直すにはとても心強い激励だった。しっかりしなくちゃ、と思った矢先、見慣れたポニーテールがスマートフォン片手にやって来た。
「どうしたんだい、蓮華ちゃん。難しい顔しちゃって。のんちゃんが相談に乗るよ」
分かっているくせに、と言いたくなる。希の不敵な笑みを横目にしながら、震える手と一緒に筆箱をリュックの口に突っ込んだ。
「蓮華ちゃんはこれから戦いに行くのだよ」
リュックの口を閉じて、背負う。背中にリュックの重みがあると、不思議と心が落ち着き、安心する。希はスマートフォンとあたしの顔を交互に見つつ、不敵な笑みのまま聞き返してきた。
「誰と戦うの?」
「元カノと」
ふぅん。と生返事をして、そのまま希が言葉を続けた。
「あいつの書き込み、『やばい、吐きそう』で止まってるよ。全校アンケート取るほど大きくなっちゃったし、不安だろうね」
あのアンケートを見てもネットに書き込みできる余裕は見習いたいところだ。しかし、話し合おうとしたあたしに一方的な暴言を投げつけ、更には泉実のフルートを壊して余計にこじれさせたのは他でもない、中野自身だ。吐きそうだなんて言われても、そんなのは自業自得だ。
「あたしも大きくしたくなかった。でも、フルートが壊された以上、放っておけない」
「……変わったね、蓮華。いや、元に戻ったって言うべきかな」
希がため息交じりに、どこか呆れたような声色でそう言った。
「ちょっと前までは悩み事のせいでクールな美人になってたけど、ホンモノの蓮華は、きっとそっちなんだよね」
スマートフォンをブレザーのポケットにしまって、希が後ろ手を組んで笑った。
「アンケート、ちゃんと書いといたから。負けるなよ、蓮華」
「へへ。ありがと、希」
親友から見送られること。心強くて、嫌悪感や恐怖が薄らいだ。希に手を振り、廊下に出る。一組の方に目をやったら、他の生徒たちに混じって、泉実が不安げな面持ちで教室から出てくるのが見えた。泉実もあたしを見つけて、すぐに駆け寄ってきた。お互い、そばに存在を感じないと不安で仕方がないらしい。友達以上に肩を寄せて、触れ合う肩を強く意識した。
「ねぇ、蓮華。中野さん、六時間目の前に呼び出されて、教室に戻ってきてないの」
「……先に話し合いしてるのかな。泉実、平気? 怖くない?」
「平気だよ。蓮華が一緒だから」
大きな瞳は不安に揺れても、天使は微笑む。朝早くから夜遅くまで吹奏楽部で練習をして、勉強もしっかりこなすほど、泉実は強い。こんな時に笑顔を浮かべられるのも、きっと泉実の心が強いからだろう。
いつもより肌寒く感じる校舎の廊下を歩き、生徒指導室へ向かった。
話し合いの不安を感じながら、生徒指導室にやってきた。引き戸には昼休みと同じように「八坂 在室」とマグネットが貼られていた。泉実はやはり不安そうだったから後ろに控えてもらって、あたしが引き戸をノックした。
「入れ」
戸の向こうから聞こえる八坂先生の声は低くて、不機嫌そうだった。失礼しますと一言断って引き戸を開けると、八坂先生とマッシュルームボブのあいつが向かい合って座っていた。顔を上げた中野と目が合った時、視線に含まれているざらついたなにかを感じた。この状況でもまだ、あいつの中には憎しみが燃えている。手に取るように、容易く分かった。
視線を切って、八坂先生に目と意識を向ける。先生の細い瞳は氷のように冷えていて、昼休みに話していた穏やかな雰囲気や余裕は一切感じさせない。口にする言葉の一つ一つに気を遣わなければ、辛辣なお叱りが飛んできそうだった。先生は中野を見て、嘆くような深いため息をついた。
「話し合いの前に中野の気持ちを少しでも共有しようと思ったが……。お前が話してくれなければ、私はお前の痛みも知ることができない」
「…………」
「会議室へ行くぞ。ついて来い」
短く、簡潔だった。あたしと泉実が引き戸から離れたら、八坂先生が先に出てきた。先生の後に続いて出てきた中野は、あたしたち二人からわざとらしく距離を取るように廊下の端に立った。生徒指導室に入った時に感じたあの憎しみは間違いなさそうだ。
会議室は南校舎の一階、職員室の隣にある。白い壁には教室の黒板と同じ大きさのホワイトボートがあり、蛍光灯の光を受けて濡れたように照り返していた。コの字に並べられた茶色の長机とパイプ椅子は妙に整然としていて、あたしたちの間に流れる沈黙を余計に冷たく、無情なものに感じさせた。会議室の広い窓からは相変わらず白い曇り空が見える。
雪の気配が、近づいている。
「座れ」
簡潔な先生の指示に従って、コの字の向こう側、窓際に中野が座り、手前の廊下側にあたしと泉実が座った。机の間には、書類やファイルを抱えた八坂先生が立ち、冷えた瞳であたしたちを見回した。
「どうしてお前たちが呼ばれたのかは、各々がよく分かっているな」
隣に座る泉実はうつむいたままだ。先生を見ているのは、あたしと中野。中野は全くの無表情だった。あたしと泉実に全く目を向ける様子は見られなくて、平静を装いつつも、全身からあたしたちを拒絶するという意思が溢れているのが見て取れた。
「今朝、教育委員会から、我が校の生徒がいじめに遭っている可能性があると連絡があった。匿名で外部に相談した者がいるらしい。相談された件は二つ。針ノ木蓮華に対する誹謗中傷がSNSサイトに書き込まれていることと、高瀬泉実のフルートが壊されたことだ。今日の午後に調査のため、匿名のアンケートを――」
「もう、いいじゃないですか。みんなウチがやったんだって、決めつけてるんでしょ」
先生の言葉を遮って、向こうから投げやりな言葉が飛んできた。薄情な言葉が投げられたせいか、うつむいていた泉実がゆっくりと顔を上げて、目元を曇らせた。会議室の空気がもっと冷たく、痛くなる。先生は机に書類とファイルをそっと置いて、暗い横顔を中野に向けた。細めた瞳は睨んでいるようにも見える。
「違うな。決めつけではなく、告発だ。少なくとも、針ノ木の誹謗中傷についてはお前が書き込んでいると、複数の生徒たちがアンケートに記入している。私怨による決めつけとは思えん」
低い声。寒さとその場の空気に、肩がひく、ひくと震えた。気まずさで口が渇く。
「私はこの話し合いをもって、お前たちが学校生活をやり直せるようにしたいだけだ。針ノ木や高瀬だけでなく、中野も学校で孤独にならないよう努める。不満だろうか?」
「……いいえ」
「では、場を乱す真似は慎め」
平静にしていた中野の顔が醜く歪んだ。「場を乱す」と聞いて、中野と話し合いをしようと呼び出した日を思い出した。あの日も、ネットに悪口を書き込むのはやめてほしいという言葉には耳を貸さず、高圧的で乱暴な言葉ばかりをぶつけてきた。あたしは立ち向かうことができなかったけれど、先生は違う。先生が正面から中野に向き合えるのは、大人だからとか、厳しいからとか、そういうものではない。あたしたちの学校生活をいいものにしてやり直させようと、固い信念を持っているからだと思えた。
やり直す。そういえば、あきちゃんも言っていたっけ。
先生が机の上に置いた書類の中から、数枚アンケートを取り出して、目を通しながら話を続けた。
「今日の午後にアンケートを実施した結果、今話したとおり、針ノ木に対する誹謗中傷については、中野によるものだとする回答が複数あった。書き込みが行われたSNSサイトで中野が使用しているユーザー名、書き込み日時、文章、スクリーンショットの有無まで詳しく回答した生徒もいた」
希のニヤニヤした顔がちらついた。そのアンケートは希が書いたものかもしれない。
「確認する。中野、書き込んだのはお前で間違いないか」
「…………」
醜く顔を歪ませたまま、誰とも目を合わせないようにうつむいていた。悔しさやつらさが、行き場のない憤りとなって、中野を苦しめているのだと分かる。先程までの平静な表情と、あたしたちを拒絶する気配は完全に消え去っていた。あれほど憎いと思っていたのに、今この瞬間だけはかわいそうだと、哀れに思ってしまった。
しかし、その情けはいとも簡単に崩れ去るのだった。
黒い顔が忌々しそうにぎりぎりと持ち上がり、あたしや泉実の方を見据えた。まるで、ホラーやサスペンスのワンシーンだった。パイプ椅子が床に擦れる大きな音がして、中野がのっそりと立ち上がる。なにかを握った手が、振りかぶられていた。
なにかを、投げつけようとしている。
そう思った瞬間、パイプ椅子から立ち上がっていた。泉実を庇って前に出たら、視界が虹色に煌いて、衝撃が弾けとんだ。まるで硬く尖った歯で噛みつかれたような激痛が左目の上、瞼から目の奥を通って、頭の後ろへ突き抜けていく。なにをされたのかすぐに理解することができず、ただ、走り抜ける激痛に声が漏れた。
「うわあっ!」
左目を押さえて、床にうずくまった。泉実の叫び声と、先生の怒声が遠く聞こえた。小学生のあの日、あたしにおぞましい暴力を振るった兄が刻んだ恐怖と痛みが、脳裏に一瞬だけ蘇る。奥歯を噛んで、縮み上がりそうになる身体にぐっと力を入れて、震えを押さえ込んだ。憎い相手に、憎い過去を呼び起こされるなんて。
「蓮華!」
悔しさと痛みで滲んだ視界に、真っ青になった天使の顔が見えた。先生もすぐに駆け寄り、左目を押さえていた手をそっと取って、あたしの目を覗き込んできた。いつも厳しい先生が不安そうにしているのはどこか悲しくて、残念だった。
「目を見せろ。私が見えるか」
「み、見えます、大丈夫です」
「高瀬、保健室へ連れて行け。医者に診せろと伝えろ。教頭の許可などいらん」
「はっ、はいっ! 蓮華、行こう」
泉実の手を借りて立ち上がる。歩き出そうとしたらつま先に硬いものがぶつかった。視線を落とすと、見覚えのある、派手なスマートフォンが転がっていた。ピンク色の下地に、大小様々な宝石がちりばめられたケースは、中野のスマートフォンだった。でもこれは、宝石じゃなく、プラスチックの張りぼてだ。付き合っていた頃に、中野が綺麗だろうと自慢してきたのを覚えている。
これを、目にぶつけてきたのか。
「…………」
口を開かず、黙ったまま中野を見やった。色黒の顔に醜い皺が走り、丸い目玉がぎょろりとあたしを睨み返して、叫び声が会議室を跳ね回った。
「先生を味方につけて満足か! アンケートなんて回りくどいことして、言いたいことがあるなら直接言ってこいよ!」
濁った甲高い声を聞いたら、抑えていた憎しみに一気に火が走った。左目に波打つ痛みに耐えながら、はらわたにたぎっていた怒りを思い切り吐き出した。
「あたしは何度も言ったじゃないか! 付き合ってる時にも、別れ話をした時にも! 自分の想いを、悩んで考えたことを、何度もあんたに話した! それを受け止めなかったのはあんたの方だろう!」
「自分は悪くないって言うのか! あんたがウチをここまで追い詰めたんだ! 恋人だったらウチの気持ちくらい察しろよ、クソが!」
「人には言いたいことがあるなら言えとか言っといて、あんたの気持ちは察しろ? 自分に都合のいいことばかり言うんじゃないよ!」
「なにぃ」
思い切り言い返してやったものの、中野の醜悪な目玉はまだやり合うつもりだ。反論してこなくても、その目は怒りと憎しみに満ちていて、憎いあたしをなんとしても否定しようとぎらついていた。
はっきりと分かる。
中野はあたしを理解するつもりなんて、微塵もない。あいつは、自分の憎しみや不満をあたしに突き立てることができたら、それで充足するのだ。
また、話し合いの場を乱された。自分の憎しみを最優先して、その場をめちゃくちゃにする。先生がいるのにも関わらず、平気でこんな真似をする中野が許せない。左目に留まり続ける痛みと相まって、背中から熱い怒りが燃え上がってきた。暴力は振るわなくとも、もう一言、切り裂くような言葉をぶつけてやりたい。
その時、憎しみで歪むあたしの胸に、柔らかい匂いが飛び込んできた。
「ダメだよ、蓮華」
時が止まったようだった。
溢れる憎しみを止められて、会議室に流れる全ての時間が静止画になった。
背中に回される腕。頬や首元に触れる、艶やかな髪の感触。
はっとなった。身体中を走り回っていた火が、音もなく、煙も出さずに消える。熱く煮えたぎっていた怒りが、すうっと冷めていく。この飛び込み方、この感触。負の感情が、消えていく。
「……い、泉実」
愛しい恋人、あたしの天使。憎い相手を前にして怒り狂うあたしを、抱き締めて、なだめていた。身体を捕らえた両腕は力強くも優しくて、怒りを瞬く間に静めていく。泉実の健気な想いを受けて、胸を埋め尽くしていた怒りは次第に愛しさに変わり、震えたため息が漏れてしまった。
かつて付き合っていたとはいえ、中野にはできなかった愛情表現だ。机の向こうに立つ醜い顔が、また、忌々しそうに皺を寄せていた。
「お願い蓮華、怒らないで」
顔を埋めたまま、泉実が声を震わせた。声だけではない。泉実の細い肩も、小刻みに震えている。胸から伝わる心臓の鼓動は早く、怯えているのが分かった。恋人を、怯えさせてしまった。大きな罪を犯したようで、心が軋むように痛んだ。
黙って見ていた八坂先生が、あたしと中野の視線を遮って間に入った。張り詰めた顔には陰があって、その瞳はやはり冷たい。
「……よく、分かった。さあ、早く行け」
静かで、嘆きに満ちた、一言だった。
泉実に腕をつかまれたまま会議室を出る。廊下の冷えた空気が、またあたしたちを包み込んだ。放課後になってから、まだ一時間も経っていない。そんな短い時間で、話し合いを下りることになろうとは。
「目を見せて」
言われて、照れくさかったけれど、左目を押さえていた手をどけた。
あの悪意がどちらに向けて投げつけられたかは分からない。でも、泉実が傷つくのは嫌だった。泉実に痛い思いをさせたくなかった。だから、身体が自然と動いて庇ったのだと思った。憎むあたしに怪我を負わせて、中野は満足だろうか。少なくともあたしは、泉実を守ることができたから満足だった。
「泉実が止めてくれなかったら、兄貴みたいな嫌なヤツになるところだった」
止められなかったら、醜い言葉を中野にぶつけていたかもしれない。他人の心を切り裂き、全て否定するような言葉を。あたしの兄も、そういう言葉をぶつけて、何度もあたしを苦しめた。危うく、大嫌いな兄と同じ行為をするところだった。
「すごく、怖かった。いつも優しい蓮華が、あんなに怒るなんて……」
「泉実が止めてくれたから、もう大丈夫。何度も見せたりしないよ」
笑顔を浮かべると、左目の上がズキッと痛んだ。痛みに顔をしかめたら、泉実に早く行こうと促されてしまった。
若くて美人な保健の先生に事情を話すと、すぐに病院へ行くことになった。スマートフォンの当たり方がよかったらしく、大事には至らなかった。目の保護という意味で、生まれて初めて眼帯をすることになった。恥ずかしくて外そうとしたら、心配した泉実に軽く怒られた。
病院から学校へ戻ってくると、もう日は沈んで、校舎もずいぶん静かになっていた。ほんの少し離れていた間に外は暗闇に塗れ、反対に南校舎の中は白い蛍光灯に眩しく照らされていた。窓から見える中央校舎には明かりの灯っていない教室もあって、目を凝らせば幽霊や妖怪を見つけてしまうのではないかとおかしな不安を覚えた。会議室へ戻ろうと南校舎の廊下を歩いていたら、来客用の玄関で八坂先生が誰かと立ち話をしていた。腕組みをして、指をトントンと動かし続ける明るい茶髪の美女は、通りかかったあたしと泉実に気がつくと目を見開いて声を上げた。
「ああ、蓮華さん!」
「当主様!」
八坂先生と立ち話をしていたのは当主様だった。先生と一緒になって駆け寄ってくると、眉間に皺を寄せてあたしの顔を覗き込んだ。ひどく不安そうにしている。
「様子が気になって学校に寄ってみたら、蓮華さんが目を怪我したって聞いて、心配していたところだったのよ。ああ、眼帯までして……。痛くない? 大丈夫?」
「はい、大事無いそうです。ご心配をおかけしました」
当主様も八坂先生も安堵して、強張らせた表情を緩めた。その場にいながら止められなくてすまなかったと、八坂先生が頭を下げてきた。鬼教師が自分に頭を下げるなんて考えもしなかったからたじろいでしまった。
ふと、当主様が隣に立つ泉実に目を向けて、申し訳なさそうに微笑んだ。
「はじめまして、高瀬泉実さん。もう少し、明るい場で会いたかったわね」
「は、はじめまして。蓮華から、たくさんお世話になったと聞きました。本当にありがとうございます。父も連絡したと思いますが、改めて、しっかりお礼をさせてください」
「ええ、喜んでお受けするわ。まずは、今ある問題を解決しましょう」
肩をすくめて、当主様が八坂先生を見た。
病院で診察を受けている間、八坂先生が中野と一対一で話をしたという。六時間目の前に呼び出した時にはなにも語らなかった中野が態度を一転させ、インターネットへの書き込みと泉実のフルートを壊したことをしっかり認めた。八坂先生が厳しく問い詰めるまでもなく、動機も、書き込んだ内容も、フルートを壊した時のことも、正直に話したらしい。
「中野の話をざっと聞き終えたところで、棘科さんが来てな。事情を説明していたら、お前たちが戻ってきたというわけだ」
先生から状況を聞いていて、なんともやりきれない気持ちになった。中野の急な心変わりが、あくまでもあたしたちの前では罪を認めるつもりがないように受け取れて、心の底からじわりと怒りや憎らしさが滲み出てきた。顔に出ていたみたいで、先生が腕組みをして小首を傾げた。
「疑問が?」
「……いえ。中野は会議室ですか?」
「そうだ」
答えを聞いてうなずき、会議室へ歩き出した。先生の止める声が飛んできても聞かず、会議室の扉を開けて、窓際に座る中野へ硬い視線を向けた。外が暗くなったせいか、会議室は真っ白な蛍光灯が点けられ、机や椅子が夕方よりもはっきりとした輪郭で整列していた。扉の開く音を聞いて中野が顔を上げ、あたしの姿を認める。顎を少し上に傾け、馬鹿にしたように唇の端を下げて、目を丸くした。
反省している様子は、ない。
無言で、ゆっくり歩きながら中野の前に立った。手が届きそうな位置で立ち止まり、見下ろす。後ろの扉から先生と泉実が慌てながら入ってくるのが聞こえた。先生か、泉実か、誰かがあたしの肩に手を置いたけれど、気にしないで中野を見つめ、そのまま口を開いた。
「あんたはいつもそうだ。本当にほしい言葉はあたしの前じゃ喋ってくれない。どうして一言、謝ることもできないんだ」
丸くしていた目があたしから外れて、宙を泳ぐ。表情が曇る様子はなく、馬鹿にしている口元から、怒鳴りも泣きもせず、呆れた言葉が流れてきた。
「ウチ、振られたんだよ? 振ったヤツを傷つけたくなるのは当然でしょ。振られた人間の気持ちも分からないくせに」
その言葉を聞いた瞬間、右手が素早く中野の頬をぶっていた。冷たい破裂音が会議室に短く響いて、中野の首が真横を向く。頬を押さえ、中野が睨み上げてきた。
「針ノ木、落ち着け!」
肩に置かれた手に力がこもり、あたしがそれ以上前に出ないように押さえ込んだ。すぐ後ろにいるのは先生だったらしい。先生があたしを後ろへ引こうとしたけれど、その場に踏みとどまって、中野を睨み返した。
「あんたはやっぱり、自分のことしか考えてない。あたしだってあんたに散々傷つけられたんだ。他人を思いやることもしないで、自分のプライドばっかりじゃないか!」
悔しくて涙が出そうになった。瞬きをして無理やり涙を押し込んで、中野を打った右手を強く握り締めた。
「あんたから愛情なんて一つももらえなかった。心を開いてほしくて何度も話をしたのに、あんたがほしがるのはあたしじゃなくて、いつもいつも、高価なモノだった! あたしは、あんたのプライドを満たすための道具じゃない!」
「愛情? エッチしたかっただけじゃないの?」
眉を上げて、口の端を下げる。とぼけた表情をしながら、悪意のある言葉を持って嘲笑する。人間とは、ここまで醜いことができるのか。あたしや泉実の前では絶対に罪を認めず、反省する姿勢も見せない。言葉にならないもやもやとした不愉快な感情が、胸の中に膨らんでいく。どれほど想いを乗せても、いくら言葉を並べても届かないのか。一度だけ頬を打ったけれど、これ以上手を出すわけにもいかない。せっかく当主様たちが解決のために手を貸してくれたのに、あたしは結局、中野に屈するしかないのだろうか。
「……場を乱す真似は慎めと言ったはずだが」
低い声と共に、あたしの肩に置かれていた手がそっと離れた。
ピン、と空気が張り詰める感覚。会議室は水を打ったように静まり返った。後ろから飛んできた冷たい怒りは八坂先生のものだった。驚いて振り向くと、先生が眉と目じりを吊り上げて中野を見下ろしていた。
「いいか。お前のプライドを満たすために話し合いをしているのではないぞ」
鬼教師の厳しい言葉。先生の声と言葉は会議室を震わせるだけでなく、あたしたちの身体と心も底から揺さぶるようだった。中野も先生を直視できず、視線が次第に下がっていった。話し合いを始めた時と同じ、全くの無表情になる。いや、僅かに、口の端が下がっている。先生の言葉を受け止めるつもりはなく、ただ受け流して、この場をやり過ごそうとしているのだと分かった。中野は先生の思いすら、馬鹿にしているのだ。
静かな怒りを湛えて、先生は淡々と続けた。
「別れる選択を提示したのは確かに針ノ木だ。しかし、その選択を受け入れたのは他ならぬお前自身だろう。選択を受け入れた後に一方的な誹謗中傷を書き込み続けるなど、筋が違う。それを注意した高瀬を恨んでフルートを壊すのも、決して正当化できる行為ではない。高瀬の言葉に意見があるのなら、お前も言葉にして意見すればいい。そうだろう?」
「……ちっ」
中野の舌打ちが聞こえた。理解できる部分があって、悔しかったのか。
「生まれる場所と時は選べないが、ひとたび人生を歩き出せば、人は意識せずとも選択を迫られ、道を決めている。選択の失敗や成功を繰り返して、学びながら、人は成長していくものだ。一時的な憎しみにとらわれ、自らの選択を棚に上げてはならん」
吊り上がっていた先生の目元が、ふっ、と下がる。怒りから、悲しみへ。中野の選択を嘆くようだった。
「お前が選択したことの、なにが誤りだったのか。お前自身がよく分かっているはずだ」
声色も静かに、先生がそう諭した。先生もあたしも、それ以上語らず、言葉を待って沈黙した。中野の顔は伏せられたままで、表情をうかがうことはできなかった。中野が今、なにを思っているのか。先生の言葉が届いたのか。少しでも自分がしたことを反省してくれているのか。なに一つとして、聞くことも、感じることもできないままだ。会議室を暖めるストーブの音だけを聞きながら待ってみても、結局中野が言葉を発することはなく、時間がただ過ぎていくだけだった。中野も意地を張っているのか。自分のしたことが間違いだと分かっていても、もう、あたしや泉実には謝るつもりはないのか。
苛立ちと疲れで諦めかけた時だった。会議室の入り口から、大きめで、はっきりと通った声が投げかけられた。
「見苦しいわね」
辛辣な言葉を放ったのは、当主様だった。腕を組み、いつものように腕の上で指先をトントンと動かしていた。優雅な振る舞いでこちらに歩み寄りながら、当主様は表情を固くして話を続けた。
「部外者だけれど、一言よろしくて?」
「と、棘科紅羽! ど、どうしてっ」
意固地になってだんまりを決め込んでいた中野が声を上げた。あたしが怒鳴っても、先生の説教でも揺れなかったのに、有名人、町の守護者として慕われる当主様が来て、さすがに驚いた様子だった。
「どうして、ですって? ……私はこの町を、土地を守る守護者よ。私はこの土地に生きる命を守るためにここにいる。棘科家の当主として、代々平穏を守ってきた一族の末裔として、誇りを持って、ここに立っている。希望を掴むためにこの土地を訪れた若者の未来を、私利私欲のために壊そうとするなんて、見過ごせないわ」
冷静な口調ではあったけれど、言葉の中には火傷をしそうなくらい、熱い怒りが含まれている気がした。当主様は本気だ。土地に生きる命を乱そうとする存在がいるのなら、それが学生でも、真剣に戦うつもりなのだ。棘科一族としての誇り。中野の持つプライドとは違う、もっと強く、気高く、別のもの。
当主様の言葉に押されて、中野が立ち上がった。机を叩いて、色黒の顔を歪めて唾を飛ばした。
「じゃあ、ウチはどうなるんです! ウチの気持ちは! ウチの未来は!」
「少なくとも先生は、あなたの気持ちと未来を考えてくださっているわよ。学校生活をやり直せるように、この話し合いの場が設けられたのだから。あなたが心を入れ替えるというのなら、私も手助けができたかもしれない」
しかし、と当主様が目つきを変える。赤い瞳が鋭くなった。
「あなたはやり直すための話し合いを乱すことを選択した。あくまでも、蓮華さんと泉実さんの心を殺すことを選択した。……解決しようと歩み寄った心を踏みにじって、人の努力を蹴落としておきながら、自分だけ赦されると思うのか!」
一瞬の、怒り。温和な当主様が怒る姿は寒気がするほど恐ろしく、身体が震えた。先生に叱られる時とは違って、本当に取り返しのつかないことをしてしまったと思わされる。当主様の言葉には圧倒されるほどの重みと厳しさがあった。
中野が身を引いて目を見開く。口元を震わせて、その瞳に涙が浮かんだ。
「学校名と実名を晒されて、ありもしない中傷を受けた蓮華さん。学校名まで書かれれば、蓮華さんだけでなく、学校に通う他の生徒や、この土地に生きる人々も悪い人間だと見られてしまう。土地全体の印象が悪くなってしまったら、人々は蓮華さんのせいだと責めて、攻撃するかもしれない。最悪の場合、蓮華さんが社会的に殺される可能性もあるのよ」
あたし自身も危ういけれど、もう、あたしだけの問題じゃない。学校全体の印象も、学校があるこの土地の印象も、ことごとく悪くなっている可能性がある。棘科家を慕ってくれる人々の印象が悪くなることは、土地の守護者である当主様が当然、悲しむことだった。
「そして、蓮華さんを庇ってフルートを壊された泉実さん。ご両親がフルートに込めた大切な娘への愛情、今まで積み重ねてきた泉実さんの努力、コンクールを目指して共に頑張ってきた部員たちの心。あの日、あなたはフルートと一緒に全てを壊したのよ。金賞をもらったとはいえ、その事実は変わらない」
すぐ後ろで立っていた泉実が手を握ってきた。あたしも柔らかく手を握り返して、泉実の親指を優しく撫でてあげた。中野は自分の憎しみを優先したせいで、あたしや泉実以外の、たくさんの人を巻き込んでしまっていた。
「あなたの憎しみが巻き込んだ運命は、蓮華さんや泉実さんだけじゃない。あなた一人が満たされるために、多くの歯車が狂おうとしている。自覚しなさい。あなたが一体、なにをしたのかということを」
当主様はそこまで言って、あたしと泉実に視線を向けてきた。赤い瞳は鋭くしたまま、小さくうなずく。
――言ってやりなさい。
当主様の瞳はそう言っていた。
「中野っ、さん」
先に口を開いたのは泉実だった。愛しい恋人の声が震えている。結ばれた手をもう一度握り返して、怯えないように励ました。
「本当に、蓮華をネットに晒すしか方法がなかったの? 本当に、フルートを壊すしか方法がなかったの? ……そんなこと、ないよね? きっと、中野さんも、どうしたらいいか分からなかったんだよね」
愛用のフルートを壊されたというのに、泉実は中野を責めようとしない。本当に、騙されてしまいそうなほど甘くて、優しい。だからこそあたしは、泉実に惹かれたのだろう。
天使の優しい声に、中野が一つ、嗚咽を漏らした。机に雫が落ちる。
涙で乱れた、中野の顔が持ち上がった。涙を流して赤く染まった目は、睨んでいるようにも、許しを乞うようにも見える。でも、今この時、中野の心にどんな感情が渦巻いているのか、察することができなかった。きっと、これがあたしと中野の限界なのだ。あたしの想いは本心でも、中野はあたしの想いを疑う。中野が本心から反省しても、あたしにはそれを信じることができない。
もう、遠すぎる。想いを寄せていたはずなのに、分かり合えない。
でも、それじゃダメだ。
せめて最後だけは、もう一度想いを寄せて、言葉を尽くそう。
「……美晴」
泣き続ける中野を名前で呼んで、真っ直ぐに、顔を硬くして見つめる。あたしが名前で呼んで驚いたのか、正面にいる中野も、隣で手を握る泉実も、ぴくりと身体を震わせた。
「今はお互い憎しみあっても、一度は想いを寄せた相手なんだ。あたしは、確かにあんたのことが好きだった。一度愛した人を必要以上に苦しめるような非情は、あたしにはできない。あたしは、あんたを責めるようなことはしないし、言わないよ。だから……」
付き合った時、嬉しかった自分がいた。望む愛情の形をもらえなくても、楽しかったこと、幸せに感じた微かな思い出があった。例え微かでも、あの時、あの瞬間、あたしは確かに中野美晴を愛していた。
だから。
「蓮、華……」
涙と嗚咽に溺れた中野があたしを呼ぶ。
呼ぶ声にうなずいて、中野に向ける最後の思いやりを言葉にした。
「だから……。もう、やめよう。やめに、しよう」
言い終えた直後、真っ青になって中野が崩れ落ちた。あの中野が、唸るように低い声で、肩を震わせながら泣いている。すすり泣く中野の姿を見つめていたら、肩から重たいなにかが抜け落ちていった。最後の最後で、あたしの想いを乗せた言葉が中野に伝わった瞬間だった。付き合って、別れて、悲しい出来事を経た先で、ようやく想いを伝えられた。
中野が流し続ける涙は、あたしたちの悲しみやつらさを理解してくれた証拠。きっと、そうなのだ。そう、信じたい。
今は憎むべき相手。元、彼女。
それでも、一度心寄せた人が悲しむ姿は、どうしてもつらかった。
長い話を経て、ついに中野があたしたちに頭を下げて謝った。あたしの中傷を書き込んだ動機、泉実のフルートを壊した動機や方法も話してくれた。中傷を書き込んだ動機は、あたしに振られたことが悔しかったから。泉実のフルートを壊したのは、中傷を注意されたのが悔しかったから。その悔しさが、行動を起こすだけの大きな憎しみに変わったのだ。
単純だけれど、とても恐ろしく、強い動機だった。
途中、先生が中野の両親を呼び出して、事件の全てが話された。中野と付き合っていた頃、両親とは何度か顔を合わせたことがあったせいか、話し合いの場で再会することが残念に感じられた。同性カップルだったことは内緒にしていたから、真実が説明された時は心配だったけれど、中野が自分から告白したことを話して庇ってくれたから、中野の両親があたしが責めることはなかった。中野の両親は終始不安そうにしていて、あたしや泉実に頭を下げて謝る姿は弱々しく、逆に中野たちをいじめてしまっているような感覚すらして、気が咎めた。
泉実の両親には後日改めて謝罪をする約束をして、あたしと泉実は先に帰宅することになった。中野とその両親は八坂先生と今後について話をしなくてはならないらしく、まだ時間がかかりそうだった。当主様が退学ではなく、登校謹慎をしてもう一度やり直してみてはどうかと提案していた。中野の学校生活も、やり直せるだろうか。
「うん、大丈夫。これから蓮華と一緒に帰るね。うん、うん……。うん、それじゃ」
夜の昇降口に泉実の声がよく響く。校舎の喧騒も消え、真っ白な蛍光灯がねずみ色の下駄箱を静かに照らしていた。昇降口が明るすぎて、ガラス戸の向こうは暗闇しか見えなかった。自分の下駄箱から黒いブーツを出して、足を入れる。靴紐を結んでいると、いつかと同じように泉実が柔らかい笑顔でこちらを眺めていた。
「これから帰るって連絡しておいたよ。お母さんがね、蓮華ちゃんが一緒なら心強いし、安心だって」
「へっ」
くすぐったくて、変な笑い声が漏れた。
「でも……。またヤキモチしちゃった」
「な、なんで?」
驚いて顔を上げると、泉実が手提げ鞄を後ろ手に持ちながら、口先を尖らせてうつむいた。なにかを軽く蹴飛ばすような仕草で、右足と左足が交互に動いていた。
「中野さんのこと、名前で呼んでたもん。……あの時の蓮華、私の恋人じゃないみたいで、ちょっとだけ、悔しかった」
泉実の言葉が的確すぎて、靴紐を結ぶ手が止まった。
説得するために一瞬だけ、もう一度だけ中野に心を寄せた。そうすれば、きっと中野にも言葉が伝わると思ったからだ。中野が謝ってくれた今となっては、しっかり気持ちも切り替わっている。あたしが恋人として愛する人は高瀬泉実だけ。中野への憎しみや未練は、全く存在しない。
「あの瞬間だけ、あいつと付き合ってた頃の自分に戻って、言葉を伝えたんだ。そうすれば、中野も分かってくれると思ってさ。大丈夫、あたしの恋人は泉実だよ。安心して」
「……うん。誠意を持って話すために、気持ちを切り替えただけだよね。疑うようなこと言って、ごめんなさい」
「謝らないで。ヤキモチさせた分、泉実のこと、もっと大切にするよ」
優しい笑顔を意識して微笑む。泉実が分かりやすく目を見開いて、頬を赤くした。
「れ、蓮華ったら……。なんでそんなに、カッコいいの……」
息が混じった声だった。胸のリボンを握り締めて、切なそうにあたしを見つめる。靴紐を結び終えて立ち上がったら、遠慮しながら胸に倒れ込んできた。いつもは勢いよく飛び込んでくるのに、学校だから加減しているのだろうか。泉実の頭を抱いて、綺麗な髪に指を滑らせた。撫でるたびに、泉実の甘い香りが舞って、鼻をくすぐる。
「泉実だって、可愛いじゃん」
まだ少し、暖かかった頃。外も明るくて、眩しいのに物悲しげな夕陽が出ていた。初めて泉実と一緒に帰った日に交わした言葉とそっくりだった。全てが終わった日に、始まった日と同じ言葉を交わす。泉実が言い出さなくても、あたしたちはあの瞬間から、お互いの運命を半分ずつ持ってしまったのかもしれない。
運命を、半分ずつ持つ、運命だったのだ。
「半分、か」
まだ泉実に話していないことがあった。
それは、半分持ってくれた過去に隠された真実。
あたしの呟きを聞いて、泉実が顔を上げた。
「どう、したの?」
「大事な話をしたいの」
泉実の肩を柔らかく持って、そっと自分の胸から離す。不安げに揺れる大きな瞳を見つめ返しながら、大好きな恋人に隠していた真実を記憶から呼び起こした。
薄汚れたあたしの過去。
どうして、あたしが女の子を好きになるのか。
「……泉実。大好き。本当に、本当に大好き」
溢れる想いを言葉にするあたしの顔は、自分でも分かるほど、硬くて険しい表情をしている。言葉にふさわしくない表情はますます泉実を不安にさせたらしい。両手を胸の前できつく結びながら、一度、強くうなずく。
「私も、大好きだよ。信じて」
泉実の言葉は懇願するようにも聞こえる。不安に怯える泉実を安心させたくて、笑顔を浮かべそうになった。綻びかけた表情を慌てて硬く戻して、話を続けた。
「信じてるよ。……だから、もう一つ。もう一つだけ、泉実に半分、持ってもらいたいものがあるんだ」
そっと、肩から手を離す。愛しい天使の瞳から視線を切って、うつむいた。
「周りの人は、言い訳だって言うかもしれない。でも、聞いてほしいんだ……」
頭の中に浮かび上がる、暗い部屋。ひたひたと迫る、素足の音。暗闇の中、布団がゆっくりとめくり上げられ、口を大きな掌で押さえつけられた。耳元に囁かれる声は、あたしが恐れ、憎む存在のもの。暴という力を振りかざし、幼いあたしを征服しようとした、兄のものだった。
生暖かい舌と大きな手が、あたしの頬を、唇を、胸を、這いずり回る。大嫌いな、唾液の臭いが鼻の奥に突き刺さる。本当に気持ちが悪かった。その行為が一体どんなものだったのか、兄があたしになにをしようとしていたのか。その意味を知ったのはそれから少し後だった。恐れ、嫌い、好意なんてこれっぽっちも存在しない相手に身体を弄ばれること。
苦しみでしかなかった。
「れ、蓮華……。嘘、本当に? 蓮華が、まだ、小さい頃でしょう?」
そこまで話したら、泉実が言葉も途切れ途切れに、そう言った。なんとも、形容しにくい表情をしていた。嫌悪感や、嘆き、怒り。様々な感情に受け取れる。いつも泉実が見せる穏やかで柔らかい笑顔とは違う。嫌な違和感を覚えて、話さなければよかったかと、後悔してしまった。天使の指先があたしに触れようとして、引っ込む。表情を硬くしたままだったから、遠慮したらしい。
「そう、小さい頃。まだ小さかったから、最悪のことはされなかった。それだけは、不幸中の幸いってヤツだったかもね」
つらくて、苦しいだけでしかない日々がしばらく続いた。でも、両親に話したり、感づかれるような真似をすれば、兄に暴力を振るわれると怯えて、誰にも打ち明けることができなかった。そうでなくても、拒絶すれば殴られ、声を上げようとすれば首を絞められるのだから、あたしは支配され続けるしかなかった。痛みと苦しみで満たされた夜から逃れようと、助けを求める心の声は、いつも大好きな姉を呼んでいた。
「どのくらい経ったかな……。姉さんが、気づいてくれたんだ」
仲がよかった姉は、元気がなくなったあたしの異変に気づき始めていたらしい。ある日、姉とお風呂に入った時に、兄の行為でつけられた痣や傷跡について質問をされたことがあった。体育の時間にぶつけたと嘘をついたけれど、もう、その時点で姉は分かっていたのかもしれない。
その日の夜。兄があたしの部屋で行為に及ぼうとした時、姉が両親を連れて部屋の中に飛び込んできた。父はあたしに覆いかぶさる兄を見て、今まで聞いたことのない、強烈な怒声を上げた。青ざめて狼狽する兄を引き剥がして、部屋の外へ引きずっていったのを覚えている。あたしは姉に泣きついて、姉もあたしを優しく抱き締めてくれた。母は相当ショックだったのか、しばらく呆然としていて、あたしの部屋から動かなかった。
「夜遅かったけど、もう一度、姉さんがお風呂に入れてくれたんだ。姉さんに抱かれたまま温かい湯船に浸かって、ずっと姉さんに甘えてたっけ。……助けてくれたことが嬉しくて、姉さんが大好きになったよ」
昇降口を出て、すぐ脇に置かれている青いプラスチックのベンチに二人で座った。昇降口から蛍光灯の眩しい光が外に漏れて、向かい側にある駐輪場を暗闇からうっすらと浮かび上がらせていた。
「そんなこと、されてたんだ……。だから、女の子を好きになるんだね……」
「……多分、ね。小学校でも、中学校でも、気になったのはいつも女の子だった。今も、それは変わらない」
右隣に座る泉実に顔を向けて、やっと、硬くしていた表情を崩した。あたしのはじまりに隠されていた真実を大好きな恋人に話せたことで、また一つ、重荷を下ろすことができたのだと、心が軽くなった。でも、その重荷は、針ノ木蓮華という存在がひどく汚らわしいものであると伝えたことにもなる。大好きな恋人だからこそ、話すことをためらい、打ち明けるべきか悩んだ真実だった。
「これが、隠してた、もう一つの荷物。あたしは、血の繋がった兄貴に、そういうことをされた。泉実が本当に好きだから、嫌われるんじゃないかって、不安でさ……。だから、すぐに話せなかったんだ。黙ってて、ごめん」
「…………」
あたしから視線を外して、泉実がうつむいた。白くて悲しい横顔は、今、なにを思っているのだろうか。あたしの伝え方は間違っていなかっただろうか。伝えたことで、泉実があたしを嫌ってしまったら。真実を隠していたことが、泉実にとって裏切りだったら。沈黙を続ける泉実の横顔に、不安しか、感じることができなかった。付き合ってから一週間も経っていないのに、あたしたちの関係は終わってしまうのではないかと、怯えた。
泉実の言葉を待って、数分。突然、泉実が静かに立ち上がってあたしの前に立った。
そして。
「ありがとう、蓮華。話してくれて」
あたしの頭が泉実の胸に抱き寄せられて、両腕で強く抱き締められた。
「嫌うわけ、ないじゃない。私のことを想って、話すべきか悩んでくれたんだもん」
柔らかい胸から、泉実の鼓動が聞こえる。昔、姉に抱かれた時も、こうやって心臓の音を一つ一つ聞きながら、大好きな姉の匂いと温もりに甘えていた。
「大丈夫。その荷物も、私が一緒に持つよ。思い出して怖くなったら、私がそばにいて助けてあげる。蓮華のこと、大好きだから」
また、泉実はあたしの望む形を見せてくれた。自分の想いを言葉にする。自分の想いを、行動で見せてくれる。こうして泉実の胸に抱かれ、言葉を聞いて、泉実の想いが真実なのだと、改めて信じることができた。嬉しくて、あたしも座ったまま、天使の背中に腕を回して抱き締めた。胸に顔を埋めたまま、甘えるように。
「……こんなに、汚れてるのに、いいの?」
「蓮華が汚れてるなんて、誰が決めたの。私は、そんなこと思ってない。ただ、目の前にいる針ノ木蓮華が好き。針ノ木蓮華は高瀬泉実の恋人で、高瀬泉実は針ノ木蓮華の恋人。それだけだよ」
力強い言葉に、優しく諭された。
決して、見捨てるつもりはない。真実を知っても、共に背負い、支え、あたしに変わらぬ愛情を注ぐ。泉実は、そう言ってくれたのだと思った。
外は寒い。でも、泉実の温もりがあるから、平気だった。
泉実に頭を撫でられて、髪の毛にキスをされて。本当に愛する恋人にたくさんの愛情をもらえることは、身体が震えるくらい幸せで、嬉しかった。
おぞましい過去が、遠くに消えていく。心から愛する一人の少女によって、あたしの穢れが洗い流されていく。
「あっ」
ふと、泉実が可愛らしい声を上げた。どうしたのだろうと、胸からゆっくり離れたら、頬に冷たいなにかが触れて、消えた。暗闇の空を見上げてみると、遠い闇の向こうから小さな雪がふらふらと落ちてくるのが見えた。昼頃から感じていた雪の予感は、どうやら当たっていたらしい。
「雪……。蓮華の言ったとおりだね」
首を傾げて、穏やかに微笑む。微笑み返して、もう一度泉実の胸に顔を埋めた。
雪がれている。天使の愛と雪によって、雪がれていく。
静かな夜だった。近くに大きな道路があるというのに、車の走る音も聞こえない。今ここにあるのは、ただ、愛しい温もりだけ。心から愛する存在の鼓動だけ。
「あたし、幸せ。あの日、泉実が一緒に帰ろうって言ってくれたおかげだ」
「私だけじゃないよ。蓮華も、いいよ、って言ってくれたから」
胸の中で顔を上げて、泉実の深い瞳を見つめた。うなずいて、桃色の唇があたしの口先を捕らえた。優しくて温かい泉実の唇を、愛おしく、何度も楽しんだ。
もう、おぞましい過去や、恐ろしい存在に怯えることはない。これからは、大好きな姉との思い出を支えに、大好きな泉実との未来を、あたしたち二人で作っていく。例え同性同士の恋愛でも、あたしたちは決して孤独じゃない。当主様やあきちゃん、あやめさん、希、吹奏楽部のみんな。あたしたちの周りには、あたしたちを支えてくれる大切な存在がいる。
だから。
あたしも、泉実も、きっと大丈夫。
秋から冬へ、物悲しい色は枯れ落ちて、春を待つ木々に白い羽が降り注ぐ。白い羽は次第に大地を覆い、人々の足跡を刻んでいく。刻まれた足跡は解けて水となり、そして、水を受け取った大地が新たな命を咲かせる。季節は、時はそうして移ろいでいく。
あたしと泉実の時間も、季節と似た色や温度を持った。
願わくば、悲しい秋が繰り返されないことを。
願わくば、これから天使と歩む時間が、春のように暖かい日々であることを。
口を離して、もう一度、泉実を見つめた。
「大好きだよ。あたしの、天使さま」
舞い落ちる雪の中で微笑む泉実は、純白の羽に包まれる、天使そのものだった。