絆
その夜、アパートに戻ってきたら、服も着替えないまますぐ当主様に電話した。泉実も吹奏楽部も気持ちを持ち直して、すごい演奏を聴かせてくれて、当主様やあやめさんの目論見は見事に成功した。今は当主様が相手でも不思議と緊張せず、元気に報告することができた。当主様は嬉しそうにコンクールの結果を楽しみにしていると言ってくれた。また、泉実の父親からもお礼の電話があって、コンクールが終わったら、改めてあたしや当主様に直接会ってお礼がしたいと話していた。当主様にもお礼の連絡をしなくては、と慌てていて、ちょっぴり申し訳なく思った。当主様が出資している企業に勤めているから、粗相があってはいけないと敏感になっているのかもしれない。
電話が終わってスマートフォンを見てみると、暗くなったディスプレイに映る自分と目が合った。
「お礼、か」
泉実の両親は、あたしのことを娘の友達と見ているはずだ。友達以上の深い関係にあるなんて、想像もしないだろう。帰り際に交わした泉実とのキスを思い出して、欲望が燃え上がる感覚と一緒に、とてつもない罪悪感が押し寄せてきて、ずしり、と胸の奥を軋ませていった。痛みにも似た罪悪感がディスプレイに映るあたしの顔を歪ませる。これから泉実と過ごす学校生活は、楽しいものにしていこうと思っていたのに。どんな壁も乗り越えてやろうと、心に決めていたのに。
あたしたちを取り巻く問題が解決しようとしている。それは喜ばしいこと。しかし、あたしが想いを寄せて愛情を注いでいる相手は、あたしと同性、女の子だ。あたしの通う学校では女子生徒も多く、今まで引け目を感じることはなかった。それがいざ、愛しい人の両親と関わると、罪悪感に押し潰されそうになって、心に決めていた決意が揺らいだ。泉実が好き。泉実を心から愛している。泉実もあたしの気持ちに応えてくれる。相思相愛、互いを想い、愛し合っているのに、どうして、こんなにも苦しいのか。あたしが泉実を愛することで、泉実の家族や泉実自身が周囲から蔑まれると思うと。
ああ、どうしたらいいのか。
スマートフォンを床に放り投げて、ちゃぶ台に突っ伏した。
しばらくちゃぶ台でだらしなくうなだれていたら、疲れていたのか、意識がぼんやりとなって、まどろんだ。そういえば、まだ着替えていなかった。夕食も食べていないし、お風呂も入っていない。そんなことを寝ぼけた頭に浮かべながらも、身体は動こうとしなかった。身体が重たくて、心も沈んで、眠たくて、無気力だった。目を閉じてうとうとしていると、泉実の笑顔が浮かぶ。夢うつつ、泉実の唇と抱き締めた時の感触が身体に戻って切なくなった。
(風邪を引くよ、蓮華)
懐かしい声が聞こえて、ちゃぶ台に突っ伏したまま唸った。ふてくされたように、幼いあの頃に戻ったように、甘えた唸り声が出た。動きたいけれど、動けない。気だるくて、瞼も開かない。泉実のことばかり思い出して、苦しくて、閉じた瞼から涙がこぼれた。温かい涙は肌の上を通るとすぐに乾いて、ひんやりと冷たくなった。
(お姉ちゃんは蓮華の気持ち、嬉しかったな。大好きって、いつも信じてくれたから)
返事をしなくては。目を開かなければ。寝ぼけた頭がどこかで焦り、聞こえてくる声になにかを求めている。でも、瞼は頑なに開こうとしない。かろうじて動いた喉から、また猫のような唸り声が漏れた。冷えた肌の上を、もう一度温かい涙が流れて、冷たく乾いた。悲しくて、苦しくて、ひっく、ひっくと喉が震えていた。それでも、眠たくて、頭もぼんやりとうつろだった。
(好きでいていいんだよ。私を愛してくれたのと同じように、愛してあげればいいの。自分の気持ちと、あの子の気持ちを信じて。蓮華一人で未来を作らなくていいの。あの子と二人で、作っていけばいいの)
「はん、はんぶ、ん」
(そうだね。あの子、半分、持ってくれたんだもんね)
話の終わりが見えてきた。このままでは、声の主に置いていかれてしまう。呼び止めようとして、口を開こうと、出ない声を絞り出そうとした。
(ひとりぼっちにはしないよ。ずっと、ずうっと、守るから。ずっと一緒だよ、蓮華)
「ねえ、さ……」
かすれた声が出ると同時に、パタリ、と右腕に固いなにかが当たってハッとなった。身体をびくりと震わせて飛び起きたら、ちゃぶ台の上で枕にしていた右腕に、小さな四角いものが寄りかかるように倒れていた。反対の左手でそれを取ったら、寝ぼけていた頭が一瞬にして覚めていった。
時の止まった姉と、幼いあたしが写った、あのフォトフレームだった。
「姉さん!」
フォトフレームを取って、胸に押し当てる。硬くて冷たいフォトフレームの感触を確かめながら、あたしを見守る温かい存在を確信した。
あの声は、間違いなく姉の声だった。
遺書にあった言葉どおり、すぐ近くで、ずっと見守ってくれていた。目を開けば姉の姿が見えただろうか。手を伸ばせば触れることができただろうか。眠気と気だるさに負けてまどろんでいた自分を悔しく思い、十数年ぶりに聞いた姉の声に喜びを感じ、笑えばいいのか、泣けばいいのか、分からなくなった。
覚えている。大好きな姉がくれた言葉は、耳に残っている。あたしは、泉実を好きでいていいのだ。そして、不安なこれからも、あたし一人で解決しようとせず、泉実と一緒に作っていけばいいと教えてくれた。泉実はあたしの運命を半分持ってくれた。その気持ちを信じよう。大好きなら、愛しているのなら、泉実を信じて、二人の道を二人で作っていけばいい。あたしと泉実なら、それができる。揺れかけた決意がもう一度固まろうとしていた。
誰かを殺したわけでもない。
物を盗んだとか、壊したとか、そんなこともしていない。
だから、後ろめたさなんて感じなくていい。
本当の愛を殺して生きるより、本当の愛を育てて生きる。
例え女の子同士でも、この恋は、この愛は、本物だから。
日曜日も朝から晴れていた。フルートを渡して一安心したはずなのに、泉実のことが気になってよく眠れず、結局早起きしてしまった。仕方なく開き直って、思い切り洗濯と部屋の掃除をしてやった。部屋の掃除を終えた頃には日も上がってきて、窓際に干されたブラウスやパーカーを柔らかい日差しで照らしてくれた。家事を終え、ちゃぶ台の上に置いたスマートフォンに手に取ると、泉実からメッセージが届いていた。
『おはよう! コンクール、行ってきます! 蓮華、大好き』
短い文章には笑顔とハートの絵文字が添えられていた。夜は眠れないほど心配していたけれど、この様子なら大丈夫かもしれない。文章から伝わる明るい愛しさに、口元が緩んで笑顔がこぼれた。泉実へ返信を送り、もう一度窓に目をやる。
全て、手を打った。コンクールへ挑む泉実を支えるために、手を尽くした。あとは、泉実たち吹奏楽部次第だ。昨日、あたしに聴かせてくれた心に響く音楽を、コンクールで十分奏でることができれば、きっと栄光に辿り着ける。洗濯物の向こうから差し込む日差しと、ビルの隙間に見える青空。泉実たちは今頃、演奏をしているのだろうか。それとも、順番を待っているのだろうか。吹奏楽部の演奏を見届けることができなかったのは残念だけれど、どこか、この晴天と同じ、晴れやかな気持ちでいる自分がいた。
「……へへ。ファイト、泉実」
笑顔でうなずいて、紅茶を淹れて一息つこうと台所へ向かった時だった。玄関の戸が控えめに四回、ノックされた。このアパートには呼び鈴もインターホンもついていないから、誰かが訪ねてくるといつもこうだ。しかし、ここに引っ越してから訪ねてくる人といえば、勧誘やセールスばかりだから、大体は居留守を使うようにしている。郵便受けから部屋の中を覗かれないように、と祈りながら静観していたら、戸の向こうから呼びかける声が聞こえてきた。
「おーい、蓮華ちゃん! あやめだけど、起きてるか!」
「あ、あやめさん? 今開けます!」
驚いた。聞こえてきた声はスーパー執事、あやめさんのものだった。朝からこんなアパートに来るなんてどうしたのだろう。しかも、部屋を掃除し終わった後に来るなんて、タイミングがよすぎる。玄関の戸を開けると、背の高い美人が笑顔で立っていた。今日はスキニージーンズに黒のレザージャケットを着ている。あやめさんは足が長くて背も高いから、女刑事というか、やり手のエージェントというか、そんなカッコよさがあった。
「よっ! 悪いな、朝早くから来ちゃってよ」
「おはようございます。どうぞ、上がってください」
戸を開いて招き入れようとしたら、あやめさんは笑顔のまま手を横に振った。
「お邪魔します、と言いたいところだけどな。今日は紅羽の指示で蓮華ちゃんを連れ出しに来たんだ。用事がないなら、一緒に出かけようぜ」
「と、当主様の指示で……? どこへ行くんでしょうか?」
聞くと、あやめさんが不敵に笑って、親指を立てた。
「コンクールさ」
支度してきな、と言われて、大慌てで着替えてきた。夢を見ているようだった。フルートのことだけでたくさんお世話になったというのに、コンクールにまで連れて行ってもらえるなんて。当主様は「夢を追う若者を、理不尽な重圧に殺されるわけにはいかない」と話していたけれど、お世話になりすぎてだんだん不安になってきた。でも、コンクールには行きたかったから、疑いや不安はなるべく考えずに部屋を出た。玄関の鍵を掛けて、アパートの階段をバタバタと駆け下りる。階段を下りた先の道端に、大きな羽がついた漆黒のスポーツカーが停まっていて、すぐ隣であやめさんが棒つきキャンディを頬張って待っていてくれた。
「おう、支度できたか。乗ってくれ」
あやめさんがドアを開けて促す。あやめさんが開けた方は運転席側で、おかしいな、と違和感を感じていたら、左ハンドルだったことに気がついた。この車は海外の車なのだ。
「あやめさん! これって、外車ってヤツですかっ!」
「おうよ。ドイツの車さ」
朝から大富豪家の執事に連れ出されて、行き先が行きたかったコンクール、おまけに迎えに来た車はドイツのスポーツカー。車に乗り込みながら、あたしは嬉しいというよりも、気味の悪さすら感じてしまった。ルームミラーに映るあたしの顔は、自分でも情けないくらいに青ざめていた。助手席側のドアを丁寧に閉めて、あやめさんが運転席に乗り込んでくる。シートベルトをしながら、あやめさんは前を見たまま呟くように言った。
「紅羽は、蓮華ちゃんの信頼に応えたいだけだ」
エンジンは掛けず、キャンディの棒を指先で撫でながら、あやめさんが続けた。
「昨日も言ったろ。後ろめたいことはなにもない、ってな。棘科家はただ、信じてくれる人のために、手助けをしてるだけさ。蓮華ちゃんが棘科家を信じ続けてくれれば、紅羽はいつだって力になる。もちろん、執事さんもだ」
ウインクして、不敵に笑う。あやめさんがエンジンを掛けると、太くて低い音が車体の底から響いて、あたしの身体を揺らしてきた。
そうだった。後ろめたいことはなにもないと、言われていたじゃないか。あきちゃんも、信じてもらえるからこそ、守ることができると話していた。恩返しや見返りを期待しているわけではない。当主様をはじめ、棘科家のみんなは、守護者として信じてくれる人に応えたいだけなのだ。
当主様たちの善意を気味悪がったりして、なんて失礼なことを。
「……すみませんでした、あやめさん」
「謝るなっての。困惑するのが当然ってところだしな」
あたしがベルトをしたのを確認したら、あやめさんがゆっくりと車を動かした。車から聞こえる低い唸り声が、不思議と心地よく、安心できるように感じられた。
「もう大丈夫だな? 泉実ちゃんの戦いを見届けるぞ」
「は、はいっ」
うなずいて、あたしもしっかり前を見た。漆黒のスポーツカーはアパート前の路地から広い道路に入り、南へ鼻先を向けた。
コンクールの会場がある町は、あたしの住む町から車で一時間ほどの場所だった。当主様が守る町よりも人や車が行き交っていて、建物も隙間を残さないくらい詰め込まれて建てられているように思えた。見慣れない風景や大勢の人波が新鮮で、最初のうちは窓の外へ釘付けになったけれど、背が高くて様々な形をしているマンションやビルが視界の中にずっといて、だんだんと頭を押さえつけられる感覚がしてきた。ただ、息苦しさは感じても、この町を蔑んだり、嫌う気持ちにはならない。きっとあたしは、苦手なだけなのだ。
「昨日のうちに演奏順を確認しておいた。泉実ちゃんたちは午前の一番最後だから、十分間に合うはずだ」
赤信号で停まった時、あやめさんが後ろの座席から薄い冊子を取って手渡してきた。光沢のある紙で印刷されたそれは、コンクールのプログラムだった。泉実たちの演奏が終わった後に、午前の部の表彰式と結果発表があるらしい。
「ありがとうございます。そういえば、当主様やあきちゃんは来ないんでしょうか? 泉実たちの演奏、聴いてほしかったな」
「ああ……。紅羽も輝羽も行きたがってたんだけどな。紅羽は温泉街に用事があったし、輝羽はテストが近いから勉強させてる。館を出る前、輝羽に紅茶を差し入れしてやったんだけどよ、ふくれてたぞ、あいつ。蓮華ちゃんと出かけたくて仕方なかったみたいだな」
いたずらっぽく笑うあやめさん。あきちゃんの話になると声色も明るくなって、途端に嬉しそうになった。口では投げやりに話しているけれど、やはりあきちゃんが可愛いのだろう。当主様とあやめさんにとって、あきちゃんはそれだけ大切な存在なのかもしれない。
「なんだか嬉しそうですね、あやめさん」
「なんでだろうな。輝羽は妹でもあって、娘でもあるっていうか。ただの家族じゃない、不思議な感じがするんだよ。紅羽も同じこと言ってたな。すげぇ可愛くて、たまらないんだとさ」
信号が青に変わる。車が再び低い唸り声を上げて走り出した。
「あきちゃん、愛されてますね。頼りになるお姉さんが二人もいて、うらやましい」
「蓮華ちゃんだって、頼りになる姉貴がいるだろ。蓮華ちゃんの心をずっと支え続けてる、最強の姉貴がよ」
とても優しい、穏やかな声であやめさんが言った。
姉は、ずっと昔に亡くなっている。でも、姉が遺した想いは今もまだ、あたしの心を支え続けている。それは、姉があたしのそばで見守ってくれていることと同じ。まだ、生きていることと同じ。胸に手を当てて、うなずいた。
しばらく車を走らせて、灰色の景色の中に、日の光を受けて銀色に眩しく輝く巨大な四角い箱が見えた。箱の周囲は色を失った木々や芝生に囲まれ、広い公園として整備されているように見える。市街地の中に突如として現れた、自然の空間だった。黒い車はあたしを乗せたまま、銀色の箱に向かって進んでいく。あの、科学実験が行われていそうな箱の中で、泉実たちは戦おうとしているのか。
「あの建物だ。眩しいな、おい」
「目が痛くなっちゃいますね」
「泉実ちゃんの方がもっと眩しいだろうよ」
「あ、あやめさんっ!」
くっくっくと笑いながら、黒い車が公園の敷地内に入った。建物の隣にある広い駐車場は満車の看板が立てられていて、ひしめくように車が詰め込まれていた。激しい予約合戦を潜り抜けて、チケットを手に入れた人たちの車なのだろうか。あやめさんは「一般車両」と書かれた看板を素通りして、建物の裏手へ入っていく。そのまま「関係者用」と書かれた区画に入り、なんの迷いもなくそこへ車を停めてしまった。
「おっし、到着。お疲れさんっ」
あやめさんはベルトを外して車を下りると、すぐに助手席のドアを開けてくれた。さすが、執事さんなんだ、と思った。
「こ、ここ関係者用ですよ! 大丈夫なんですか?」
「おうよ。当主様と妹様のご友人はVIPだぜ。心配するな」
あやめさんの言葉は本当だった。あたしが車を下りた直後、建物の「関係者用出入口」と札が掛かった扉が開いて、スーツ姿の大人たちが数名、慌てながら駆け寄ってきた。
「ようこそお越しくださいました! お出迎えが遅くなり、申し訳ございません!」
髪の毛を後ろにまとめて、お団子にしている三十代くらいの女性が頭を下げてきた。こんな扱いをされるのは生まれて初めてだから、どうやって振舞えばいいのか分からずに立ち尽くしてしまった。一方であやめさんはいつもどおりだった。棒つきキャンディを咥えたまま、片手を挙げてニカッと笑っている。
「ご苦労さん。こちら、棘科姉妹のご友人、針ノ木蓮華嬢」
「こ、こんにちは」
嬢、なんて紹介される日が来るとは思わなかった。ああ、今日は朝から驚くことばかりで、思わなかったことばかりな気がする。あたしが頭を下げると、スーツ姿の女性は真っ直ぐあたしに向き直って、もう一度頭を下げてきた。
「針ノ木様、ようこそお越しくださいました。棘科家と親しい方にご鑑賞いただけることを、主催共々心より喜んでおります。どうぞ、こちらへ」
スーツに囲まれて、緊張するほど丁寧な案内をされた。関係者用の出入口から赤い絨毯が敷かれた館内に入ったら、遠くから吹奏楽の演奏が聞こえてきた。座り心地のよさそうなソファーや椅子がいくつか並んでいて、ここは開場を待ったり、休憩するような場所なのだろうと思った。四階まである高い吹き抜けと、細かく煌びやかな照明が館内を上品な色に染めている。こういう施設の専門的な言葉は知らなかったけれど、あやめさんが「ホワイエ」と呼ばれる空間だと教えてくれた。てっきり「ロビー」だと思っていた。実際、なにが違うのだろうか。当主様やあきちゃんの友人としてVIP扱いを受けているというのに、知識も疎くて世間知らずで恥ずかしくなった。でも、せっかく当主様のおかげでコンクールに来ることができたのだから、せめて明るく、堂々としていよう。すぐ悲観的になるのはあたしの悪いところだ。
「本日は満席ですので、こちらの親子室を貸切でご用意させていただきました」
ふと、先導していた女性が足を止めた。壁に灰色の細長い扉が一枚埋まっている。小さな文字で「親子室」と書かれていた。親子室は、演劇やコンサートなどの鑑賞中に、子供が泣き出したりした場合に使用される部屋らしい。部屋全体が防音になっていて、子供が騒いだり、泣き出したりしたらこの部屋に連れて来て、周囲の迷惑にならないようにするわけだ。ガラス張りになっているのでステージは見えるし、室内にはスピーカーが設置されているから、ホールの音はそちらから聞こえるようになっているとか。
「無理言って悪かったな。午前の部を見届けたら、お暇するからよ」
「とんでもございません。会場の維持やコンクール開催には、いつも棘科グループ様からご協力をいただいていますから。さすがに演奏の審査まで融通はできませんが」
冗談めいたように、苦笑いを浮かべる。あやめさんはそこは仕方ないだろ、という風に笑ってみせた。
「くくっ。安心しろ、そこまで無理は言わねぇさ。ジャッジはフェアでなくちゃコンクールの意味がない。なぁ、蓮華ちゃん」
言われて、ごく自然にうなずいた。
泉実たち吹奏楽部は、心に響く音楽を目指して頑張ってきた。金賞という栄光を自分たちの手で掴み取ってこそ、吹奏楽部の努力は認められたことになる。そこに審査の融通や根回しがあっては、泉実たちの努力を踏みにじるも同然だ。あたしも、泉実たちに金賞をください、とまでは言わない。泉実を支えるためにできることは全てしたのだから、あとは、泉実たちを信じて見守るだけだ。みんなの努力が、正しく評価されるように。
案内してくれた人たちと別れ、あたしとあやめさんは貸切になっている親子室に足を踏み入れた。薄暗い室内には一人掛けのソファーが二つ置かれていて、正面には大きなガラス窓があった。その先にずらりと並ぶ座席と、眩しくライトアップされたステージが見えた。満席の言葉は嘘ではない。所狭しと並ぶ座席には漏れなく誰かが座っている。あたしたちは一階座席の一番奥から見ているような形になり、ステージ上で懸命な演奏をしている他校の生徒たちが遠くに見えた。しかし、スピーカーはあたしたちの頭上、すぐ近くから力強い音楽を投げつけてくる。演奏者は遠いのに、音はとても近い。
「ステージは遠いが、音はよく聴こえるな。スピーカー越しとはいえ、こいつはレベルが高いぞ……」
腕組みをして、あやめさんがガラス窓に寄りかかりながらステージを見つめた。音が外れず、まとまったまま、曲という川を流れていく。時折、照明で楽器たちが煌き、泉実たちの金賞を祈るあたしを不安にさせる。楽器の煌きは演奏者の心を見せているよう。壮大で美しい吹奏の裏で、楽器と演奏を矛に、火花を散らして戦っていた。栄光は自分のものだと言わんばかりに、奏で、輝いている。耳と身体を震わせる演奏が心地よい。だからこそ余計に不安になってきた。
泉実は、こんなすごい人たちと戦っているの?
「泉実ちゃんたちはまだまだ先か。……ん? どうした、蓮華ちゃん」
「い、いえ。泉実たちを応援しにきたのに、他校の演奏に圧倒されちゃって……」
昨日、フルートを届けた時に泉実たちの演奏を聴いて、心に響く音楽が完成したのだと確信していた。しかし、目の前で繰り広げられる力強くも繊細な演奏は、泉実たちに負けないくらい、あたしの心を響かせようとする。他校の演奏が放つ力に圧倒されて、息を呑んでしまった。
「しっかりオーディエンスしてるじゃないか。蓮華ちゃんがあの吹奏楽部の演奏をきちんと聴いて、評価してる証拠だ。泉実ちゃんたちの演奏こそが絶対、ってひいきをしてない。フェアでいい。最高だ」
あやめさんがガラス窓から離れて、室内に並べてあるソファーに腰を下ろした。
「圧倒されたからって弱気になるなよ。泉実ちゃんたちが、この演奏以上に蓮華ちゃんを感動させてくれるかもしれないぞ」
足を組んで、あやめさんが隣のソファーを指差した。座れ、ということらしい。
「……ふふ。じゃ、泉実たちに期待しちゃおうかなっ」
ソファーに座って、真っ直ぐステージを見つめた。
あたしの不安を解すためか、あやめさんがジャケットのポケットから、棒つきキャンディを何本か取り出して差し出してきた。「ピーチ」とプリントされたものを一つもらって、あたしもキャンディを頬張った。
貸切の室内で、あたしとあやめさんはたくさんの演奏と向き合った。泉実たちの演奏を早く聴きたいと願う一方で、学校ごとに様々な形を見せる音楽に心が躍っていた。自分と同じ高校生が、たくさんの音を重ねて、音の波をぶつけてくる。演奏が始まるたびに、あたしは言葉を失って、ステージに意識を奪われた。激しさ、静けさ、奏者たちは自らの楽器で様々な場面を作り上げていく。感嘆のため息が何度も、何度も漏れた。
これが、吹奏楽。これが、音楽。泉実たちの目指すもの。
中野との最悪な別れ、泉実のフルートが壊されたこと。悲しくて悔しい、思い出したら暴れたくなるほどの出来事が、コンクールの演奏たちに打ち砕かれるようだった。このステージに立つ吹奏楽部員には、絆がある。信頼がある。彼らの演奏を通して、あたしと泉実を結ぶ愛情と同じくらいに強くて、固い結びつきが伝わってくる。
そして、ついに午前の部、最後の演奏を迎えた。
「いよいよか。衣装も揃えて、気合入ってるじゃないか」
あやめさんの言葉にうなずいて、ソファーから立ち上がった。純白のジャケットに、スカートやスラックス。上下真っ白な衣装に身を包んだ吹奏楽部員たちが、指揮台を基点に扇状に整列している。あたしはガラス窓に貼りつくように近づいて、すぐに泉実を探し出した。指揮をする先生の右側に、ゴールドフルートを抱えて着席していた。泉実もちゃんと、白いジャケットとスカートを身につけている。コンクール用の衣装を着て金色の輝きを携える泉実は、いつもと雰囲気が違う。可愛くてふわふわとした「高瀬さん」ではなく、軽々しく触れられない、高潔な奏者「高瀬泉実」だった。遠目から見ても分かるほど、泉実は神々しかった。泉実だけじゃない。吹奏楽部全員が気高い奏者として、ステージにいる。
「泉実っ……」
ガラス窓に触れていた手を、力強く握り締めた。おとといの光景が脳裏に瞬く。フルートが壊され、悲嘆に暮れていた泉実。あの日泣いていた泉実が、たくさんの想いが詰まった金色のフルートを持ち、凛々しい奏者の顔つきでコンクールに臨んでいる。
アナウンスが流れ、先生がオーディエンスへ向かって一礼した。ホールの中が、ひりひりと肌を凍えさせる静寂に包まれる。しん、と、耳の奥底まで音が届かない。自分の呼吸すら聞こえなくなるほど、空間が黙しているようだった。
部員たちに向き直り、先生が両腕を広げる。腕が持ち上がり、振り下ろされた。
柔らかい音が静寂を優しく破り、濁りのない、澄んだ音色が徐々に重なっていく。ソファーに座っていたあやめさんがふらりと立ち上がって、あたしの隣へ肩を並べた。あやめさんを見上げると、瞳を大きく見開いて碧眼を輝かせていた。
「…………」
無言のまま、口を半開きにして、キャンディの棒がだらしなく飛び出していた。
優しい曲調から始まり、音を重ねて激しくなる。他校の吹奏楽部同様、あたしの身体を響かせて震わせる。音の震えに合わせて、あたしの気持ちも高揚していく。握り締めた手の中で、じわり、と熱を感じた。激しい場面が緩やかに落ち着いてきたら、フルートのソロパート。金色のフルートを持つ泉実に顔を向け、先生がタクトを振る。大勢の観客へ、あたしが届けた新しいパートナーの音色が響き渡っていく。
泉実が音を生み出す。旋律に身体を揺らし、全身を使って、音楽を奏でている。純白の泉実と、黄金に輝くパートナー。
「泉実……。綺麗……」
音も、存在も、なにもかもが、眩しかった。
フルートが壊され、共に悲しんで涙したあの日。互いの運命を背負い、悲しみの中で結ばれた恋人が、こんなにも活き活きと、大好きな音楽を奏でている。恋人の神秘的な美しさに、震えたため息が漏れた。
昨日と同じように、他のフルートパートの子が旋律を重ねた。泉実が奏でる音から、たくさんの楽器が結ばれていく。音色が重なって、圧力を増す。力強くまとまった旋律が、希望を想像させる穏やかさを咲かせた。曲はどんどん盛り上がり、穏やかな希望の向こうに、栄光を見せ始めた。清らかで、厳かで、悲しみなんて、これっぽっちもない。
ステージの奏者全員が、先生の指揮に合わせて全身で音を奏でる。曲が速くなり、先生の指揮にも力が入っていく。音が乱れない、濁らない。これだけ力強くて激しくても、音はまとまったままだ。まとまったまま、曲が終わりへ向かう。大きな川を下り、眩しい光の向こうに大きな音が流れていく。泉実の音から結ばれた絆の音色は、あたしの心を響かせるどころか、あたしの心を呑み込んでしまった。心が、音の流れに溶けて、一緒に流れていく。
言葉を失って、ただそこに立ち尽くした。他の座席に座るオーディエンスも、隣にいるあやめさんの存在も、霞んで消える。流れる音に満たされた空間で、あたしだけが浮かんでいる。
旋律が、静寂に消えた。
瞬間、割れんばかりの拍手喝采がホールを満たした。ガラス越しからも聴こえるほどの、大きな拍手と「ブラボー」という声。純白の奏者たちが一糸乱れずに立ち上がり、姿勢を正す。先生がオーディエンスへ向いて一礼しても、拍手と歓声は鳴り止まなかった。演奏終了を告げるアナウンスも、オーディエンスの喝采にかき消されて聞こえない。
あたしのすぐ隣でも、一人の大歓声があった。
「おい! なんだありゃあ、すっげーじゃねぇか! おい、蓮華ちゃん!」
あやめさんがあたしの頭を腕で抱え込んですごい勢いで撫でてきた。出かける前に整えてきた髪がものの数秒でぐしゃぐしゃにされてしまった。あやめさんに頭を抱え込まれて、やっと、呆けていた意識が戻ってきた。
「とびっきりのフルートを用意したかいがあった! ご機嫌だぜ!」
「落ち着いて、あやめさん! か、髪がっ」
あやめさんの腕から、遠くのステージに立つあたしの天使が見えた。
泉実は、笑っていた。
その後、何度かアナウンスが呼びかけて、ようやくオーディエンスが落ち着いた。泉実たち吹奏楽部も退場し、休憩時間を挟んだ後に表彰式を迎えることになった。学校名と審査結果を演奏順に発表していくという。ステージに各校の代表者が並び、ステージの真ん中では背広の偉い人が、審査結果を発表しながら、賞状とトロフィーを渡していた。ほとんどが銀賞、銅賞と続き、金賞と呼ばれる校は出てこない。
貸切の親子室では、あたしもあやめさんもソファーに座らず、ガラス窓の前でステージを食い入るように見つめていた。スピーカーから聞こえてくる声は、なかなか金賞、と言ってくれない。
『――銀賞』
歓声は起こらず、拍手だけが鳴る。我が校の名前は、まだ呼ばれない。
「なかなか金賞が出ないな。さすがに最大規模のコンクールだと、審査もシビアか」
本日何本目になるのか、あやめさんがまたキャンディを口に咥えながら言った。審査発表を見守るあたしも、緊張と不安で震えている。泉実たち吹奏楽部も同じ気持ちか、それ以上に緊張していることだろう。でも、今日、泉実たちが聴かせてくれた演奏は、オーディエンスの喝采が鳴り止まないほどすばらしいものだった。あたしやあやめさんの心にも響いた、最高の演奏だ。
自分自身の目と耳と、身体で聴いた演奏を、信じたかった。
『棘森高等学校』
ついに、我が校の名前が呼ばれて、肩がぴくりと震えた。あたしもあやめさんも息を呑むように押し黙る。ガラス窓の向こうに座るオーディエンスも静まり返っている。一瞬か、数秒か、短いような、長いような、もどかしい瞬間の沈黙を挟んで、背広の偉い人が口を開いた。
『ゴールド。金賞』
「きん――」
『わあああっ!』
あたしが理解する前に、ホールの方で大歓声が起こった。叫びにも似た声と、演奏終了後と同じくらいに大きな拍手が、スピーカーからも、ガラス窓の向こうからも聞こえてくる。あたしとあやめさんも、親子室で二人、大声で叫んだ。胸にこみ上げてくる喜びの熱、怒りとは異なる、眩しい感情の波。我慢できなくて、腹の底から、喉が枯れるくらいに全力で喜んだ。飛び跳ねて、ガッツポーズを取って、思い切りあやめさんとハイタッチ。パチン、と音がして、掌に心地よい、軽い痛みが弾けた。
各校の受賞と、偉い人の話が終わり、午前の部が幕を下ろした。親子室を提供してくれた主催の人たちに挨拶をして、あたしとあやめさんは早々に退場することにした。駐車場から見上げる秋晴れの空が眩しく、冷たく澄んだ空気が、金賞の喜びをますます尊いものに感じさせてくれた。
「最高の音楽が聴けて、最高の結果を拝むことができたな!」
あやめさんはご機嫌だった。もちろん、あたしも心から喜んでいた。このコンクールでの栄光は、泉実と恋人になれたことと同じくらい、キラキラと輝いている。悲しい出来事が続いた今年の秋を、一気に明るく塗り替えてくれた。当主様たちにフルートを取り戻してもらい、泉実たち吹奏楽部がつらい事件を乗り越えた。勇気を振り絞って、棘科邸へ走ったことが実を結んだ。みんなの役に立てたことが嬉しくて、胸がいっぱいだった。
泉実たちはこの後、どうするのだろう。会場でまだやることがあるのだろうか。少しでも話せる時間があるのなら、金賞の喜びを一緒に分かち合いたい。最高の演奏だったと、大好きな恋人を褒めてあげたかった。あたしたちの町へ戻る前に、金賞を掴んだこの新鮮な気持ちのまま話がしたくて、たまらなかった。
「あ、あの、あやめさん!」
車へ戻る途中、我慢できなくてあやめさんの背中に声を掛けた。大きな声で呼び止めてしまったから、あやめさんが不思議そうに振り返った。
「おう? どうした」
「泉実たちと、話をしたくて。あたし……」
うつむいて言いかけたら、あたしの言葉を遮って、あやめさんが笑った。
「執事さんがコンクールを鑑賞させるだけで帰らせると思ったか?」
「えっ」
顔を上げて聞き返すと、あやめさんは不敵に笑ったまま、運転席のドアを開けた。
「ちゃんと計算済みだ。泉実ちゃんたちは記念撮影も楽器の積み込みも終わってる。ここで待ってれば、あそこの出入口から出てくるよ。……ほら」
口からキャンディを出して、指し棒のように向ける。棒つきキャンディが示す先では、我が校の吹奏楽部が会場から出てくるところだった。喜びに満ちた明るい笑顔の中には、大好きな天使の笑顔もあった。
「んじゃ、執事さんは車で居眠りでもしながら待ってるぜ」
ごゆっくり。
あたしの返答も聞かず、あやめさんはそう言って運転席に乗り込んでしまった。窓から覗き込んだら、キャンディを咥えたまま、腕組みをして目を瞑っていた。本当に居眠りするつもりらしい。あやめさんの気遣いに苦笑しながら、改めて、出入口から出てくる純白の集団に目をやった。出入口から少し離れた場所に、先生が部員たちを集めて、明るい顔でなにかを話している。あたしがここのいるのを知ったら、泉実も先生もすごく驚くだろう。ドッキリをするような気持ちになりながら、ゆっくりとした歩みで吹奏楽部たちに近づいていく。頬が緩んで、自分に優しい笑顔が浮かんでいるのが分かった。学校でオーディエンスをしていた時と同じように、遠巻きでみんなの様子を窺う。部員たちは明るい表情で先生の話に耳を傾けていた。
「今回の演奏、昨日の練習以上に心が伴っていた。指揮をしていて、先生の心にもみんなの音楽が響いていた。厳しく叱ったり、練習で指摘したこともあった。コンクール前の悲しい出来事も乗り越えて、みんな本当によく――」
先生が、離れて見守るあたしに気がついて言葉を切った。先生の視線を追って、部員たちが一斉にこちらを向く。照れくさかったけれど、いつものように、小さく手を振ってみた。
「蓮華!」
誰よりも早く、声を上げたのは泉実だった。先生の話が途中でも構わず駆け寄ってきて、笑顔で、思い切りあたしの胸に飛び込んできた。続いて、フルートパートの子たちや、仲良くなった他の部員たちもみんな周りに集まって、あたしと泉実を取り囲んだ。話を中断されたはずの先生も、眩しい笑顔を浮かべていた。
「針ノ木、来てたのか! 黙って来るなんて、水臭いことを!」
「い、いやぁ。主催側に、その……。例の知り合いがいて、来ちゃいました。へへ」
当主様の計らいで、とも言えず、嘘でごまかしていたずらっぽく笑って見せる。泉実があたしの胸から離れて、瞳を潤ませながら柔らかい笑顔を浮かべた。
「金賞だよ! 金賞、もらったんだよ!」
笑顔のまま、泉実の大きな瞳から涙が流れて止まらない。言葉を詰まらせ、しゃくりあげながらの、受賞報告だった。祝福と慰めの気持ちを込めて、泉実の頭を優しく撫でながらうなずいた。
「うん! 絶対金賞だって、信じてた。泉実とみんなが頑張った成果だよ。あたしも、すごく嬉しい。本当におめでとう!」
「私たちだけじゃないもん! 蓮華だって、ずっと見守ってくれたじゃない!」
泉実の強い言葉に、周囲の部員たちが声を揃えてうなずいた。笑顔を見せる部員、涙を流す部員。フルートを持ってきてくれたから、ずっと練習を聴いていてくれたから、一緒に支えてくれたから――みんな口々に、そう言った。
「蓮華も、吹奏楽部の一員だよ!」
吹奏楽部のみんなは、中野の書き込みなんて意に介していない。みんなも泉実と同じ、自分自身の目であたしを見て、針ノ木蓮華という人間を認めてくれたのだ。心を交わした泉実を見守り、フルートを手に入れようと奔走したことで、あたしも吹奏楽部の仲間だと認めてくれた。中野の書き込みに踊らされていた自分が恥ずかしくなるほど、誠実で温かい心を持っていた。
ふと、川口先生が部員たちの注目を集めるように手を叩いた。
「聞いてくれ、みんな。先生の話は止めにして、針ノ木名誉顧問から一言いただこうと思う。どうだろう?」
「え、ええっ?」
部員たちは和やかに笑いながら先生の提案を歓迎した。賛成、賛成、という言葉の向こうに、誰かが「泉実の女神さま!」なんて野次を飛ばしてきて、平手打ちしたいほど恥ずかしくなった。泉実も涙を拭って、笑っていた。
「くすっ。私も賛成。女神さまの感想、聞きたいな」
泉実をはじめ、部員たちがあたしを見て姿勢を正した。本当、どうしてこんなにも息が合うのか。これだけ息が合うからこそ、演奏も素晴らしかったのか。部員のみんなはあたしを仲間として認めてくれているのだから、恥ずかしいからといって黙っているわけにもいかないだろう。一つため息をついて、部員たちに向き直った。
「し、仕方ないなぁ」
悲しい事件を乗り越えて栄光を手にした、純白の奏者たちを改めて見回した。
「金賞受賞、本当におめでとうございます」
あたしの言葉を聞いて、部員たちが声を揃えてありがとうございます、と頭を下げた。相変わらず、息がぴったりだった。
「川口先生の話していた心に響く音楽が、見事に演奏されていました。例え他校が同じ曲で挑んでも、同じ楽器を使っても、みんなが演奏したあの音楽は、他の誰にも真似できないくらい、最高のものだと信じてます」
先生が口元を綻ばせてうなずいていた。
「ここにいる高瀬さんをはじめ、吹奏楽部のみんなは、部外者のあたしを受け入れてくれました。オーディエンスとして迎えてくれて、友達としても仲良くしてくれました。その、温かくて優しい心が、今日の音楽を生み出したんです。すばらしい音楽を奏でられる人は、誰かを思いやれる心を持った人なんです」
心に響かせるためには、演奏に心が伴わないとダメだと先生が話していた。吹奏楽部の演奏は決して自分一人で作り出すものではない。各パートがみんなで支え合うことで生み出される、絆の芸術。自分だけが頑張っているのだと驕る奏者がいれば、すぐに演奏は乱れてしまうだろう。しかし、みんなが互いを思いやり、心を添えることで、奏でる音が一つとなって、心に響く最高の音楽が生まれるのだ。
吹奏楽部のみんなはそれができる。部外者であるあたしですら、一人のオーディエンスとして認めて、いい音楽を聴かせようとしてくれた。自分の心だけを優先させ、乱暴な言葉や憎しみばかりを振りかざす、中野や兄とは違う。
思いやりという心にもとに結ばれた絆。
それが、今日の演奏だ。
「なんだか、吹奏楽部のみんなに救われたような思いがします。本当にありがとう。これからも、みんなが作る絆の音楽で、たくさんの人を助けてあげてください。金賞と同じ、金色に輝くような綺麗な心で、最高の音楽を作って、たくさんの心を響かせてください」
話している途中で声が震えて、泣きそうになった。でも、泣きたくない。今は、笑っていたい。瞼の向こうに涙を押し込んで、喉から溢れそうな嗚咽を抑えた。穏やかな表情で話を聞いていた部員たちは、眼差しを真剣なものに変えていた。あたしの話が嫌だとか、うざったいとか、そういう顔には見えない。なにかを決意したように、凛としていた。
「……以上、です! 本当に、金賞おめでとうございます!」
お腹に力を入れて、大きめの声でそう言ったら、部員たちが歓声と共に大きな拍手をしてくれた。すぐ近くにいる泉実も涙を止めて、明るく拍手をしてくれていた。
「ありがとう。本当にありがとう、蓮華」
そう言って、泉実がふわっと柔らかい笑顔を浮かべた。
求められた「一言」を話し終えた後、泉実たち吹奏学部と別れて、あやめさんとの帰路についた。泉実たちは一度学校へ戻り、楽器の片付けをしてから解散するそうだ。会場で別れる前に泉実が見せてくれた柔らかい笑顔を思い出して、頬が緩んでしまった。会場へ来る時に感じていたこの町の息苦しさも、泉実たちが金賞を手にした嬉しさで気にならなくなっていた。空も心も晴れて、澄み渡っている。あやめさんも、帰り道のトークは来る時以上に軽快だった。横顔はずっと明るくて、鼻歌も歌っていたくらいだ。泉実たちが最高の結果を出してくれたことで、フルートを手配したあやめさんも嬉しかったに違いない。
栄光の余韻が冷めないまま、あたしはくたびれたアパートに送り届けられた。古臭いアパートの姿を見たら、コンクール会場の華やかな照明や赤絨毯、あたしの心を捕らえたあの演奏が、まるで夢を見ていたように遠くへぼやけてしまった。でも、金賞という事実は決して夢ではない。泉実たちが栄光を勝ち取ったことは変わらない真実だった。
「ありがとうございました、あやめさん。最高の週末になりました」
車から降りて、あやめさんに頭を下げた。あやめさんも車から降りて、改まるようにあたしの前に立った。そして、ぽんぽん、と頭を二度、軽く叩く。
「お疲れさん。この三日間、よく頑張ったな」
いつになく柔和な微笑みだった。
そういえば。あっという間だったけれど、あたしは三日間、泉実を助けたくて走り回っていたのだった。
金曜日、土曜日、日曜日。なんと言葉にするべきか、この週末はたくさんの出来事が詰め込まれた三日間だった。フルートが壊されるという悲劇から泉実と結ばれ、泉実を助けたくて当主様に会いに行った。そしてフルートを受け取り、泉実に届けて、今日のコンクールに至った。学校とアルバイトしか過ごし方を知らないあたしにとっては、例外中の例外、異常とも言えるものだった。以前のあたしなら「疲れた」と一言で済ませたかもしれない。でも、言いたくなかった。どうせ言うなら「頑張った」がいい。
泉実や棘科家のみんなと関わるようになって、あたしは変わった。信じる恋人や仲間に支えられて、前向きになれたような気がする。
「あやめさんたちが協力してくれたおかげです。あたし一人じゃ、なにもできなかった」
「謙虚だなぁ、おい。確かに棘科家は手を貸したけど、泉実ちゃんの心に寄り添ったのは蓮華ちゃん自身だぜ。蓮華ちゃんもつらかったはずなのに、よく頑張ったよ。素直に賞賛する」
あたしの頭から手を離して、漆黒のスポーツカーに乗り込む。運転席の窓を開けて、シートベルトをしながらあやめさんが話を続けた。
「たまには自分を褒めてやんな。蓮華ちゃんだって、金賞だぜ」
「ふふっ。ありがとうございます」
笑い返すと、あやめさんはいつもみたいにいたずらっぽく、不敵な笑顔になった。
「暇な時は泉実ちゃんと一緒に遊びに来いよ。ウマいもん食わせてやる。じゃあな!」
手を挙げて、車が動き出す。頭を下げて、手を振り返した。大きな羽を広げた後姿が唸り声を上げて走り去っていく。ふう、と、優しいため息が漏れた。
自分の部屋に戻ったら、ゆっくり時間をかけて軽いご飯を食べた。ご飯を食べた後、出かける前に紅茶を飲もうとしていたのを思い出して、ティーバッグの紅茶を淹れた。四畳半の狭い部屋で、姉とあたしの写真を見ながら淹れたての紅茶をいただく。コンクールでの結果がよかったせいか、写真に写る姉とあたしの笑顔が、いつもよりずっと明るい笑顔に思えた。
姉も泉実たちの演奏をそばで聴いていたはずだ。姉はあたしと泉実が交わした言葉も、結ばれたことも知っている。ずっと近くで見守ってくれているから、あの演奏を聴いて、一緒に喜んでくれている。だから、写真の笑顔もずっと眩しいのだと思った。
なんとなく、窓に目をやったら、朝から干していた洗濯物が目に入った。もう昼下がりだから、乾いていたら畳んでしまわなくては。
「……おのれ洗濯物め。台無しじゃないか」
今この時だけは、一人暮らしのリズムに慣れた自分が憎かった。
余韻で緩慢になっている身体を無理やり動かし、干していた洗濯物を片付けて、アイロンも掛けた。洗濯物が消えたら、四畳半が見違えるように広くなった。掃除と洗濯もして、コンクールも鑑賞できた。有意義な時間に満足していたら、ちゃぶ台の上に置いていたスマートフォンがバイブレーションと共にけたたましく鳴り響いた。ディスプレイの「高瀬泉実」という文字を見た瞬間、心臓が強く震えて、顔が綻んだ。手に取ったら迷わず応答ボタンを押した。
「もしもし! やっほー!」
妙にハイテンションで電話に出てしまった。小さく笑って、泉実も元気に返してくれた。
『くすっ、やっほー! 蓮華、もう帰ってきたかな?』
「うん、帰ってきたよ。どうしたの?」
聞いてみたら、泉実が急に声のトーンを落とした。
『え、えっとね。今から会えない、かな? 部活も終わって、午後は時間ができたから、蓮華と、その……。一緒に、いたくて……』
照れて、言葉を詰まらせながらの声。一緒にいたいと言われて、胸が叩かれたように波打って、顔が熱くなった。フォトフレームの姉と目が合った。笑いながら「顔赤いよ、蓮華」なんて、思われていたりして。
「もちろんオッケーだよ! 駅集合? それとも、泉実の家に迎えに行こっか?」
『実はもう、駅にいるの。駐輪場のところ』
「了解! すぐ行くっ」
『あ、気をつけてね? 慌てて、転んだりしたらやだよ?』
初めて一緒に帰った時はあたしが釘を刺したのに、今日は泉実に釘を刺された。浮かれて怪我をしないようにしなくては。苦笑いしながら泉実に返事をして、電話を切った。泉実に注意されたから、戸締りと火の元をちゃんと確認してからアパートを出た。玄関の鍵を掛けたのもしっかり指差し確認しておいた。身だしなみも整えたし、ばっちりだ。
アパートの階段を下りて、駅へ向かう。足取りが、すごく軽かった。
アパートから駅は近い。交差点の近くにある踏切を渡ったら、駐輪場はすぐだ。休日でも相変わらずごちゃごちゃしている駐輪場で、泉実の姿はあっさり見つかった。純白のジャケットにスカート。フルートケースを肩に掛け、手提げ鞄を持っていた。今まさに帰ってきたという様子だった。駐輪場に近づくと、泉実もあたしの姿を見つけて手を振ってくれた。
「お待たせ! お疲れさまだよ、泉実」
近づきながら声を掛ける。笑顔でうなずいてくれたけれど、すぐに申し訳なさそうにうつむいて、言葉を詰まらせた。
「ごめんね、蓮華。急に呼び出したりして、わがまま言っちゃったかな」
「わがままなもんか。あたしだって会いたかったから平気だよ。帰ってきたばかりなら、一旦帰って着替えたら? その後、どこか遊びに行こう。そうだ、温泉街行っちゃう?」
泉実はまだ家に帰っていない。コンクールで着ていた衣装のままだし、フルートや鞄も持っている。明るい声で提案したつもりだったけれど、泉実は首を横に振った。あたしの提案が不満だったのかと思って、慌てて謝った。
「あ、ごめん……。泉実、帰ってきたばかりで疲れてるよね」
「ううん、そうじゃないの。今日は、どこでもいいから、蓮華のそばにいたくて」
泉実があたしを見上げて微笑む。微笑んでいるのに、どこか寂しげな笑顔。昔、姉が見せた雰囲気にそっくりだった。泉実の言う、どこでもいい、という言葉は投げやりな言葉ではない。場所は関係ない。ただ、あたしの近くにいたい。切なくなるほど、甘い気持ちが伝わってきた。
「コンクールも終わって、大きな山を越えたんだなって思ったら、蓮華に甘えたくなっちゃって……」
あたしの右手を取って、優しく握った。
泉実の気持ちは、分かる気がする。あたしも泉実もこの三日間、ずっと気を張り詰めて戦っていた。つらい出来事を乗り越えた今、愛する人と一緒に、心と身体を休めたい。どこかに出かけて思い切り遊ぶのも、もちろん楽しいことだ。でも、今はただ、心静かに休みたい。恋人を近くに感じたまま、ゆっくり休みたい。それが、泉実の願いだと思った。
「……それなら、いい場所があるよ」
手を握り返して、踏切の方へ足を向けた。
「あたしのアパート。二人で、ゆっくり休もっか」
「うんっ」
二人で明るく笑って、あたしの住む、貧相なアパートに向かった。
アパートまでの道案内をしながら、泉実の家へ行くよりも短い距離を歩く。複雑な道を通るわけではないから、泉実もすぐ覚えられそうだと話していた。交差点を渡って、ビルの裏に隠れたアパートの前にやってくる。ひび割れ、色褪せ、錆び付いた、あたしの帰る場所。恋人を招くにはあまりにも品のないアパートだ。でも、隣にいる泉実は笑顔だ。アパートが曇るくらい、可愛くて、眩しかった。
「こんなに近いんだ! 会いたい時にすぐ会えそう。やったぁ」
「へへ。距離は近いけど、見た目がね」
「蓮華がいればいいもん。見た目なんて気にしませんっ」
二階へ続く錆びた階段を上り、一番奥の部屋へ。鍵を回し、扉を開けて泉実を先に部屋に入れてあげた。
「ようこそ。我が家へ」
「お邪魔しますっ。あ、バニラの匂いがする」
そんなことを言いながら、丁寧に靴を揃えて泉実が部屋に上がった。泉実に続いて部屋に入り、玄関の鍵を掛ける。一人暮らしの部屋が珍しいのか、泉実は台所を見回したり、洗濯機を見つめたりして、あたしの生活空間を興味深そうに眺めていた。
「あ、あんまりじろじろ見ないの。お茶淹れるから、奥の部屋でいい子にしてなさい」
「くすっ。はーい」
泉実の返事は明るくて、とても嬉しそうにしていたから、あたしも嬉しくなった。部屋に招いただけでこんなに喜んでもらえるなんて思わなかった。例のティーバッグで紅茶を淹れて、ちゃぶ台へ運んだ。泉実はちゃぶ台の前で正座をしていて、あたしと姉が写ったフォトフレームを見つめて微笑んでいた。
「はじめまして、高瀬泉実です。蓮華さんと、お付き合いさせていただいています」
ぺこり。
写真を見て姉だと分かったのか、頭を下げてしっかり挨拶をしてくれた。泉実のすぐ隣に座って、あたしもフォトフレームに声を掛けた。手短に、泉実と姉を紹介する。
「あらら、紹介する前に挨拶されちゃったね。あたしの姉さんで榛花。姉さん、この子が彼女の泉実です」
「よろしくお願いします」
もう一度頭を下げる。
恋人として結ばれたあの日、泉実に姉が亡くなった時の話をした。泉実はあたしの話を聞いて、姉の悲しみも、姉が生きた証も、記憶して生きていくと話してくれた。今、こうして姉に頭を下げて挨拶をしてくれたことは、あの時の言葉が綺麗事ではなく、本心から言ってくれたものだと改めて分かって、胸が温かくなった。泉実は、あたしも姉も大切に想ってくれている。それがすごく、嬉しかった。
「綺麗な人……。蓮華に、似てる」
フォトフレームを手に取って、じっ、と見つめる。栗色の髪が泉実の頬を撫でて、亡き姉に似た横顔が瞬いた。無邪気な笑顔を浮かべ続ける昔の二人を見たまま、泉実が独り言のように呟く。
「お姉さんは、私が蓮華の恋人でも、許してくれるかな?」
紅茶の香りが湯気に乗ってあたしと泉実の前を流れていく。不安げに写真を見つめる泉実の肩に、そっと手を回した。こつん、と泉実の頭がこちらへ倒れる。艶やかな髪の毛と、泉実の匂いが頬に触れた。
「私は蓮華が大好き。本当に信じてる。でも、私と蓮華は女の子同士だから……」
「だから、姉さんが認めてくれるか不安?」
うん、と小さくうなずく。
泉実も同じ不安を抱えていたらしい。あたし自身、泉実の両親にこの関係が知られてしまったら大変なことになるのではないかと、怯えていた。あたしと泉実は同性。同性同士の恋愛。あたしたちの関係を否定する人だって、当然いるだろう。
でも、少なくともあたしの姉は認めてくれている。あの夜聞こえた、懐かしい声。幻聴かもしれないし、夢かもしれないけれど、あたしは姉の言葉として信じている。
「姉さんはあたしのそばで、ずっと泉実を見てきたんだ。半分持ってくれたことも、全部知ってる。だから大丈夫。姉さんは泉実を受け入れてくれるはずだよ」
「……本当?」
「間違いないよ。女の子同士のカップルだから、不安になることもあると思う。でもね、あたしは泉実が本当に好きだから、頑張りたいんだ。つらいことがあっても、乗り越えてやろうって、決めたんだ」
泉実の手から優しくフォトフレームを取って、ちゃぶ台に戻す。あたしの横顔を、天使の大きな瞳が見上げる。
「泉実も言ってくれたでしょ? 一緒に生きようってさ。吹奏楽部がみんなで音楽を作ったのと同じ。あたしたちも二人で、未来を作るんだ」
一緒に生きるというのは、ただ存在を共にするだけではない。互いに支え合うこと。それは、今日のコンクールで泉実たちが聴かせてくれた演奏と同じことだった。思いやって支え合うことが最高の演奏を生み出した。あたしと泉実だって、支え合って生きていくことで、明るい未来を作っていけるはずだ。
「蓮華、そこまで考えてくれてたんだ。私のこと、そんなに想ってくれてたんだ……」
突然、泉実が両腕を首に回して抱きついて、あたしの身体を引っ張ってきた。そのままバランスを崩して、泉実を床に押し倒してしまった。首を腕で捕らえられたままだったから、顔の距離が近くて、胸が鳴った。
「大好き。どうしてこんなに好きなのか分からないくらい、大好き。綺麗で、美人で、カッコよくて……」
愛しい人の甘い声に、息を呑んだ。
ここはあたしの部屋で、あたしと泉実以外、誰もいない。誰にも見られていない。すぐにでも触れそうな鼻と唇。床に倒れた泉実の表情も、身体も、存在の全てが艶かしい。普段の可愛い泉実と違う。「高瀬泉実」という少女が持つ、妖しい魅力にすっかりあてられてしまった。
「泉実……」
「大好き。大好き、蓮華」
我慢、できるわけない。
床に倒れる泉実に、そのまま唇を重ねた。泉実の柔らかい唇を何度も挟んで口づけて、頬に両手を添えて、絶対に逃がすものかと貪った。そして泉実も拒まず、あたしの唇を強く求め続けてくれた。唇が熱くなるくらい、何度も、何度も。床を転がり、時折口を離して息継ぎをして、抱き締めながら、また口を合わせる。嬉しいのに寂しくて、満たされていくのに満たされない。意味の分からない、たまらない感情が胸の中を埋め尽くしていた。
泉実の小さな唇に触れるたびに、その柔らかさを確かめるたびに、唇の先から気持ちのいい痺れが身体中に走り抜ける。頭と胸に、お腹に、足を通って、つま先へ。初めて泉実とキスした時と同じ、あの感覚が全身を満たしていく。ピリピリと、あたしの全てを幸福と切なさの海へ溺れさせた。
「蓮華、教えて。どうしてこんなにっ」
「分からないよ」
息継ぎの合間に答える。泉実の質問も、この溢れる気持ちも、答えも正体もなにも分からないくらい、頭も胸もぐちゃぐちゃだった。もう一度唇を合わせて、離した。
「蓮華、どうして」
「分かんないっ」
分からない。あたしだって分からない。
何回もキスをしているのに、こんなに触れ合っているのに、胸が満たされた瞬間、すぐに切なくなる。泉実の柔らかさも、匂いも、体温も、あたしを満たしては飢えさせて、また満たしていく。幸せなのにまだ足りない。もっと泉実がほしい。
ごろごろと傷んだ床を転がって、あたしの寝床に辿り着く。心臓が波打って、全力で走ったみたいに息が上がる。頭が熱っぽく、呆けていた。泉実がゆっくりとあたしの上に馬乗りになって、胸に顔を埋めて縮こまった。服を両手でしっかり握り締めて、あたしの全身にしがみつくように身を縮める。しがみつく泉実を離すまいと、両腕が細い背中を抱き締めた。あたしも泉実も胸が激しく鳴り続けている。額には汗が浮かんで、泉実を抱き締める腕も熱くて湿っていた。
「どうして、こんなに……」
胸に聞こえる甘くかすれた声は、その先の質問を口にしなかった。
心地よい疲れを感じながら、頭の片隅に悲しい想いが巡っていた。
それは、大好きな泉実に話せていない、あたしの薄汚れた過去のこと。今、この瞬間を幸せに感じているからこそ、思い出してしまったこと。兄があたしにした「いじめ」の真実。そして、あたしが女の子を好きになるきっかけとなった出来事。
もし話したことでこの温もりが消えてしまったら。兄に汚されたあたしを知って、泉実に嫌われてしまったら。
考えるだけで恐ろしくて、ひゅっ、と裏返った息を吸った。
あたしが変な息をしたのに気づいて、しがみついていた泉実が慌てたように身体を起こした。さっきまで艶やかな雰囲気を纏っていた泉実が、普段の可愛い泉実に戻っている。
可愛い泉実も、色っぽい泉実も。
全部、あたしのもの。
あたしだけの、天使さま。
「ご、ごめんなさい。苦しかった?」
疲れた笑顔で首を横に振って、もう一度泉実の身体を自分の胸に押し当てた。
「大丈夫。そのままで、平気」
息も絶え絶えに、やっと言葉を絞り出した。キスだけでここまで疲れるなんて思わなかった。そして、その疲れが本当に心地よく、幸せだった。つらい過去も、中野の陰口も、どうでもいいと、麻痺していく。
「私、いい子になんてできないよ。蓮華に甘えたくなっちゃう……」
「……嬉しい」
二人で抱き合ったまま、徐々に、胸の鼓動が静まっていく。激しく交わしたキスの熱が、まどろみと一緒に冷えていく。
まどろみの中、泉実を胸に抱いたまま、ずっと祈り続けた。
あたしの薄汚れた過去を聞いても、泉実が離れませんように。
泉実が、変わらぬ愛をあたしに与えてくれますように。
胸の中の天使に、ただ、祈り続けた。