再起
朝はセットしておいたスマートフォンのアラームが鳴る前に目が覚めた。棘科邸で宿泊することになって緊張しているつもりだったけれど、思ったより熟睡できていたようで、目覚めはすごく気持ちよかった。大きなベッドから抜け出すと、朝の冷えた空気がパジャマを貫いた。椅子に引っ掛けておいたガウンを取って羽織ると、暖かさに安心して小さなため息が漏れた。赤いカーテンを開けると露のついた窓ガラスの向こうに、色を失った芝生、黄色や橙色に彩られた棘の森、そして遠くまで広がる青空が見えた。すっきりとした目覚めと美しい景色。想い人とも結ばれ、暗い過去を話して重荷が下りた今、フルートの問題を解決するために、昨日以上に真っ直ぐな気持ちで戦える気がする。今日はフルートの到着を待ち、届いたらすぐに泉実に渡して、励まさなくては。この澄んだ気持ちなら、必ず泉実の心を支えられる。絶対に、負けない。
熱いシャワーを浴びた後、髪を乾かしながら、丁寧にブラシを入れる。歯も磨いて、リュックの中に入れていた安物ばかりで揃えた化粧ポーチを持ってきて、薄く化粧をした。ハンガーにかけておいたブラウスと制服のスカートを、鏡を見ながらいつも以上にしっかりと着て、腕時計をし、黒いパーカーを羽織った。
「……よしっ」
いつもより、ほんの少しだけ元気のある、針ノ木蓮華ができあがった。
八時四十五分を少し過ぎた頃、昨日夕食をとった使用人食堂へ赴いた。食堂に入ったら、既に輝羽さんが昨日と同じ席に座っているところだった。入ってきたあたしに気づいて、寝る前に見せた明るい笑顔を向けてくれた。
「おはようございます。あやめ、針ノ木さんが来たよ」
「おう、おはようさん! 今運ぶから、座ってな」
キッチンからあやめさんが手を振っていた。おはようございます、と二人に返しながら、昨日座っていた席に腰掛ける。もうすぐ朝食の時間なのに、当主様の姿は見えない。まだ眠っているのだろうか。
「よく眠れましたか?」
「おかげさまで。ぐっすりでした」
本当によく眠れた。アパートで寝る時よりもいい睡眠が取れたかもしれない。輝羽さんと話をしていると、あやめさんが黒塗りの四角い大きなトレイを二つ持ってキッチンからやって来た。トレイの上にはお味噌汁、白米、焼き魚、卵焼きなどの定番メニューと、見慣れない和食の入った小鉢が所狭しと並べられていた。目の前に置かれた豪華な朝食に、輝羽さんも驚いたようだった。
「ちょっと、あやめ……。こんなにたくさん、どうしたの」
「わりぃ。昨日、蓮華ちゃんが綺麗に食べてくれたのが嬉しくてな、気合入っちまった」
頭をかいて、楽しそうに笑うあやめさん。昨日の夜も豪華な食事で、朝もこれだけの量をいただいてしまったら、さすがに太るのではないかと、変な不安を感じた。
「ま、昨日も言ったけど、メシは楽しく、美味しく食うもんだ。ちと多めに作っちまったけど、慌てないでゆっくり食ってくれ」
手を合わせて、「いただきます」をしようとしたところで、思い出した。そうだ、当主様の姿が見えない。当主様がまだ起きていないのに、先に朝食をいただいてしまっていいのだろうか。
「そうだ、当主様は……」
「ああ、紅羽は仕事に行ったぜ。先に食べたから、遠慮すんなって」
ぽすっ、と頭を軽く叩くように撫でられた。当主様は講演会の日も忙しそうにしていたし、なかなかお休みが取れないのかもしれない。それほど多忙なのに、突然の来訪に嫌な顔一つせず、当主様は力になってくれた。必要以上に遠慮したり、申し訳ないと考え込むより、当主様の厚意に対して素直に感謝するのが、なによりの心配りになるような気がした。
朝食を済ませた後、あやめさんからフルートの手配と犯人調査の進捗について報告があった。フルートは既に確保できて、泉実が出場していたコンクールの音源や映像をもとにチューニングを施し、現在は棘科邸へ輸送中だという。予定では、午後三時前後にはこちらに到着するそうだ。報告に安堵していると、あやめさんが手元の資料を眺めながら驚いたように小さく声を上げた。
「ほう。すげぇんだな、泉実ちゃんって」
「どうしたんですか?」
「技量の話だ」
棘科グループを通じてフルートを手配させる際、棘科グループとも関わりがある著名なフルート奏者数名に協力を仰いだらしい。過去に泉実が出場したコンクールの映像を見せて、泉実の技量について聞いたところ、協力を仰いだフルート奏者全員が泉実の演奏を非常にすばらしいと評価したそうだ。もちろん、泉実のフルートが壊されてしまったからと、情けで評価したわけではない。奏者たちはコンクールの映像を見て、色眼鏡なしで泉実を認めてくれたのだ。
「将来有望、だとさ。弟子に取ってみたいと言ってる奏者さんが三人ほどいるな。それだけ泉実ちゃんの技量は高い」
「す、すご……」
「フルートを手配するなら、本当は本人が試奏して、相談しながらチューニングしてもらうのが一番なんだけど……。ま、専門的な話はひとまず置いとくか。手配したフルートについては早すぎるって意見もあったけど、そのフルートをずっと使って演奏を続ければ、すばらしいフルート奏者になれるだろう、って。これはイギリス出身の有名な先生からいただいたご意見だ」
「イギリス!」
棘科グループが世界に進出しているのは聞いていた。しかしまさか、あたしのずうずうしい頼みごとが海を越えて、明確な意見を伴って帰ってくるなんて思わなかった。そして、泉実のフルート奏者としての技量が、有名な人たちに認められるほどのものだったと知って、自分のことのように嬉しかった。
「ちなみに、その、手配したフルートっていうのは、おいくらくらいの……」
「聞かないほうがいい。ぶっ倒れるぞ、多分」
棒つきキャンディを咥えたまま、あやめさんがいたずらっぽく笑った。ふと、静かに話を聞いていた輝羽さんがあやめさんの手にある資料を覗き込んだ。釣り目がちな瞳を見開いて、もう一度確認するように指差ししながら数を数えている。
「も、もうちょっとで、八桁になります。ぎりぎり、七桁です」
言われて、一、十、百、と頭の中で数えていく。もうちょっとで八桁、ぎりぎり七桁ということは、約一千万円の代物になる――。
「マジ、で……?」
全身からさーっ、と血の気が引いていくのが分かった。
せいぜい数十万程度だと思っていたのに、想像より何倍も上のフルートが手配されていた。その数十万でもあたしにとっては大金なのに、頭の中が真っ白になりそうだった。あやめさんの言うようにぶっ倒れるまではいかなかったけれど、椅子に座ったまま、身体が固まって、悪い汗がふつふつと腕や背中に浮かんだ。あたしが青ざめたことに気づいたのか、あやめさんが慌てたように苦笑いした。
「おいおい、落ち着けって。無理やり高価なものを手配させたのはこっちだ。蓮華ちゃんや泉実ちゃんに払わせようなんて、最初から思ってないっての」
「で、でも、お願いしておいてアレですけど、気にするなっていう方が無理です! 一千万ですよ、一千万! あたし、アルバイトしてますし、一人暮らしもしてますから、多少なり金銭感覚はあるつもりです!」
「むぐっ。た、確かにそうだけどな……。余計な気を遣わせちまったか」
固まった身体を無理やり動かして椅子から立ち上がったら、あやめさんが苦笑いのまま身を引いて言葉を詰まらせた。反論するあたしとたじろぐあやめさんを交互に見て、輝羽さんが首を傾げる。あの綺麗な声で、静かな疑問が投げかけられた。
「そもそも、高価なフルートにしようって提案したのは誰? 針ノ木さんは高価なフルートがいいなんて、一言も言ってなかったよ」
あたしと輝羽さんが、揃ってあやめさんを見据えた。手に持っている報告書で顔を隠しながら、のろのろと片手が挙がった。
「……はい、執事さんの提案です」
「こら、犯人」
輝羽さんがむっ、とふくれてあやめさんを指差す。あたしたちの顔色をうかがうように報告書の端から目だけ出して、執事さんの小さな反論が飛んだ。
「ま、待てよ。超一級品を用意するとは言ったけど、このフルートを手配する許可をくれたのは紅羽だぜ? 昨日言ってたろ? 全力で当たらせてもらう、ってさ。紅羽が手加減抜きでやって、こうなったんだよ」
あやめさんの言っていることは本当だった。当主様は昨日、確かにそう言った。それを言われてしまえば、あたしもこれ以上の反論はできなかった。フルートを壊した犯人に対する反撃として、当主様が高価なフルートの購入を許可した。おまけに、あたしや泉実にそのフルートの代金を請求するわけでもない。都合のよすぎる話だけれど、これは全て当主様の思いやり、厚意なのだ。今更フルートを取り替えてくれ、なんて話もできない。有名なフルート奏者の人に意見まで聞いて、泉実にふさわしいフルートを探してくれたのだから、もうわがままを言うわけにもいかないだろう。
ため息をつきながら椅子に座って、食後に出されていた緑茶をすすった。
「当主様の許可があるなら、もう、文句は言いません。ずうずうしいお願いをしに来たあたしにも原因がありますし、正直、金銭のことは助かりますから……」
ゆっくりと報告書をテーブルに置いて、あやめさんが柔らかく笑った。棒つきキャンディを指し棒のようにあたしに向ける。
「信じてくれよ。後ろめたいことはなにもないからさ」
「……はい、信じてます」
「よし。んじゃ、次の報告だ」
楽器庫の施錠やフルートが壊されたことについては、結局、学校から警察には相談をしていないらしく、棘科グループの調査員が事態を把握している先生に連絡を取り、夜の段階でフルートの破損状況や第一音楽室や楽器庫の現場を確認した。協力してくれた先生は、顧問の川口先生、生徒指導の先生、保健の先生だ。棘科グループが調査をしにきた理由については、グループ傘下の人物から匿名で相談があったからと、ごまかしておいてくれたようだ。
「蓮華ちゃんの名前は出してないから安心しろ。生徒が外部に相談したなんて、教頭に知られたら面倒なことになりそうだしな」
棘科グループの調査力は凄まじいものだった。既に楽器庫の施錠とフルートを壊した道具まで特定できたと聞いて、心底驚いた。警察並みの仕事ができるなんて、棘科グループはどこまでの力を持っているのだろうか。
「犯人については確定かもしれない。保健の先生に中野美晴の写真を見せたら、マスクをしていたから顔は分からないけど、髪型がよく似てると話したらしいぞ」
「……髪の毛、きっちり手入れして整えてますから、あいつ」
中野のマッシュルームボブは綺麗に整えられていて、丸くて特徴的だ。印象に残るから、見間違えということはないだろう。風邪で学校を休んだいたはずの中野が不自然に一人で校内を歩き、北校舎へ向かったことになる。もう、間違いない。
「今朝の報告は以上だ。この土日は調査を続行して、月曜に調査結果を生徒指導の先生と、教育委員会に提出する。情報提出には紅羽に直接行ってもらうことにした。棘科家当主が直接行けば、部外者でも邪険にはできないはずだ。あとは、学校が事件解決に向けて動いてくれるかどうか、だな」
あやめさんがテーブルに広げた報告書などの資料を拾い上げ、トントン、と揃えた。
校内の問題だから、校長も教頭も外部には関わってほしくないのが本音だと思う。しかし、当主様自ら教育委員会にも赴けば「部外者が余計なことをしないでください」とは言えないだろう。当主様には、それだけの影響力があるのだ。短時間でここまでの情報を集められる棘科グループ。当主様だけでなく、棘科グループという名前にも強い力があるのだと、思い知らされた。
「ありがとうございます。泉実のためにここまでしてもらえて、本当に嬉しいです」
「高瀬さんの件だけではありませんよ」
ふと、輝羽さんがいつから用意していたのか、別の報告書を差し出してきた。受け取った報告書の見出しには「SNSサイト調査報告書」と印刷されていた。あやめさんも席を立って、あたしの肩に手を乗せながら一緒になって報告書を覗き込んでいた。
「んー? フルートの件以外に調査依頼は出してなかったはずだぞ」
「私から調査依頼を出したの。調査というより、悪口集めになっちゃった」
なんと、フルートに関する調査の傍ら、中野が行ったあたしに対する誹謗中傷について、輝羽さんが動いてくれていた。万が一、投稿された文章が削除された時に、中野が言い逃れできないよう、SNSサイトのページを保存してくれたらしい。更に、スクリーンショットや書き込みに使用された端末情報なども収集し、証拠としてデータをまとめておいたそうだ。
「最初は針ノ木さんのお兄さんをどうにかしようと思ったのですが、冷静に考え直して、今一番近くで発生している書き込みの件から攻めました。こちらの情報も紅羽に渡して、いじめに該当する可能性があるものとして、問題提起します」
「輝羽さん……」
「事件の発端は、さかのぼれば中野の悪意ある書き込みに辿り着きます。決して無関係ではありません。併せて解決するべきです」
赤い瞳が険しくあたしを見据えた。
書き込みの件については、フルートの事件ほど深く考えていなかった。というより、考えないようにしていた。考えれば考えるほど、つらくて、悔しくなるから、中野の書き込みと向き合うのが嫌だった。先生に相談しようにも、しっかり相談に乗ってもらえるかどうか不安で、直接嫌がらせをされなければいいと消極的な姿勢でいた。でも、こうして輝羽さんが解決のために手を差し伸べてくれて、道を作ってくれた。泉実と一緒に楽しい学校生活を送るためにも、逃げずに向き合わなくてはいけない。
あやめさんがキャンディを咥えたまま腕組みをして、うなずいた。
「前向きな話ができたな。蓮華ちゃん、解決までもうすぐだ」
「はいっ」
あたしも、元気よく返事をしてうなずいた。
フルートが届くまで、まだ時間がある。スマートフォンを見ても、泉実からのメッセージや着信は来ていない。どうしているのか心配だったけれど、きっと、自分にできることをしながら、コンクールに向けて頑張っているはずだ。
泉実、もう少しだけ待っていて。
あたしと、あたしが信じる人たちの想いが詰まった、最高のフルートを届けるから。
時を刻む針の音が、とても遅く、のろまに感じられた。
森林に囲まれ、黒いかわらぶきに白壁の古い建物が連なる。入り組んだ石畳の路地は、外湯や土産屋を巡る大勢の観光客で賑わっていた。たくさん立てられたのぼり旗、ぶら下がる提灯、香ばしい匂いを漂わせる屋台。時が止まった、あたしの好きな懐かしさを心に浮かばせる和の町並み。そこは明るく、楽しい笑顔に溢れていた。
正午前、あたしは輝羽さんと一緒に棘の森温泉街を訪れていた。フルートが到着するまで時間がかかるため、あやめさんに息抜きをしろと言われてしまったのだった。泉実が必死に頑張っているのに、あたしだけ遊びに出ていいのだろうか。でも、棘科邸で悶々とフルートを待つよりは心に優しいかもしれないと思って、結局あやめさんの言うことを聞くことにした。泉実との約束を守るために、下見を兼ねてのんびり散策しよう。
「たまに羽を伸ばしたって罰は当たりません。気を張ってばかりいては、疲れてしまいますから」
「ありがとうございます、輝羽さん」
隣を歩く、黒髪の美少女に目をやる。中学三年生とは思えない大人びた横顔だった。泉実よりも小柄で華奢な彼女は、この賑やかな往来ではすぐに見失ってしまいそうだ。商店や屋台の前を通り過ぎると、時折、お店の人が輝羽さんに頭を下げたり、声を掛けて手を振ったりしていた。輝羽さんもそれに応え、足を止めてお店の人と話したり、手を振り返したり、まるで城下町を歩くお姫様のようだった。観光客も輝羽さんを認めるや否や、デジカメや携帯電話を構えて写真を撮ろうとして、歩く後ろをぞろぞろとついてくる人もいた。これがもし当主様だったら、もっとすごい騒ぎになりそうだ。棘科邸である棘の館を城に例えるなら、棘の森温泉街はまさに棘科家のお膝元であり、城下町なのかもしれない。
「ま、まるでアイドルの追っかけみたい」
「私が温泉街に顔を出すのが久しぶりだからかもしれません」
輝羽さんが苦笑する。あたしたちは観光客にすっかり囲まれ、前に進むことができなくなってしまっていた。輝羽さんだけでなく、あたしにまで好奇の眼差しを向けられ、「お嬢様のご友人」としてちゃっかり写真を撮られていた。朝起きた時、化粧も身だしなみも整えておいてよかった。でも、撮られた写真が万が一泉実に見られたら「浮気!」とか言われてしまうのだろうか。輝羽さんと一緒に温泉街に出かけたことは、後でしっかり泉実に話すことにしよう。
「ごめんなさい、みなさん。友達を案内したいので、ごめんなさい……」
苦笑いを浮かべたまま、ゆっくりと歩き出す。人の壁が崩れて、石畳の道がやっと開かれる。輝羽さんを見失わないように、すぐ隣を歩いた。
「でも、嬉しいな。ずっと憧れてた当主様の妹さんと、こうやって出かけられるなんて」
石畳の先を向いたまま、知らず、声の調子が上がっていた。静かに石畳をすり抜けていく秋風は冷たく、寂しくても、賑わう町並みには寂しさなんてなかった。色褪せた季節の中で色鮮やかに溢れる活気。商いをする人も、観光客も、みんな活き活きとしている。
「私も嬉しいですよ。新しい友達ができたので」
「やった、友達認定ですか!」
「くすっ、認定しました。あ、認定したので私に対して敬語はやめてください。針ノ木さんが先輩ですから」
当主様の妹だから敬語を使っていたけれど、本人は気に入らなかったらしい。それなら、と、あたしの心が少しいじわるに動いた。
「じゃあ敬語はやめて、いっそ、あきちゃん、って呼ぶ」
「あ、あきちゃんっ?」
青白い肌がみるみる赤く染まる。まじまじと見つめながら笑顔を浮かべたら、視線を切るようにふいっと顔を背けてしまった。当主様と違って、輝羽さん――あきちゃんは内向的な印象があった。家族以外の人間にこういう気楽さを向けられるのは慣れていないように見える。
「ちょっとあきちゃん、そっぽ向かなくてもいいじゃん」
「だ、だって」
「友達、でしょ。ほら、蓮華先輩と呼びなさい」
黒髪の隙間からほんの少し、にらむように赤い瞳が覗いた。しかし、口元は笑っていて、怒っているのではなく、照れくさくて困っているようだった。
ぎゅっと目を閉じて、意を決したあきちゃんが半ばやけくそに声を飛ばした。
「蓮華先輩っ」
「おぉ、可愛いっ。よくできました!」
えらいぞー、と褒めながら、あきちゃんの綺麗な黒髪を撫でてあげる。嫌がるそぶりは見せず、照れくさそうに頬を赤らめたまま頭を傾けてくれた。
「なんだか、三人目の姉ができたようです」
両手を頬に当てながら、あきちゃんがため息をついた。どうやら当主様とあやめさんに続いて、あたしも姉に就任したらしい。友達認定とは言ったものの、あたしたちは友達よりももっと近い距離にいるような気がした。
「その内、四人目ができるよ」
「あ、高瀬さん――いえ、泉実先輩のことですね?」
「さすが、鋭いね。泉実を紹介したら、あきちゃんの姉さんは四人になる」
ふと、棘科五姉妹と想像して、どこかのコメディードラマみたいな世界を思い浮かべてしまった。その話をあきちゃんにしたら、肩を震わせ、満面の笑顔で笑ってくれた。
その後、二人で温泉街のそば屋さんに入って天ぷらそばを食べて、あきちゃんが温泉施設や土産屋さん、歴史館にアロマサロンなど、たくさんのお店を紹介してくれた。アロマサロンは当主様が毎月必ず利用するらしく、あきちゃんも時折当主様に誘われて、一緒にトリートメントを受けに行くそうだ。当主様が講演会で話していた、趣味のアロマテラピーと繋がって、ちょっぴり嬉しくなった。棘科姉妹から漂う心の軽くなるあの匂いは、このアロマサロンのものだったようだ。
どのくらい温泉街を散策しただろう。腕時計は既に十四時半を回っていた。歩き疲れたあたしたちは、石畳の途中にある茶屋に入って一休みすることにした。提灯の形をした暖色のライトが天井からぶら下がり、赤い布が敷かれた茶屋椅子が一定間隔で整然と並んでいた。外湯帰りらしく、首にタオルを下げている観光客もいた。あきちゃんと並んで椅子に座ると、奥から手ぬぐいを頭に巻いた若い女性の店員さんが点てたばかりの抹茶と、お茶菓子を持ってきてくれた。
「ここではこうして一服もできますし、お土産に抹茶を使ったスイーツを買うこともできます。抹茶パフェとか、棘の森ジェラートなんてものも食べられますよ」
「ちょ、ちょっと、そんなに食べたらさすがに太っちゃう」
二人で笑いあいながら抹茶を口へ運ぶ。温かくて舌触りのいい、優しい苦味が口から喉へ抜けていった。温泉街を歩いて息抜きをしながらも、泉実のことは片時も忘れていなかった。泉実は今、どうやって練習しているのだろう。どんなフルートで練習しているのだろうか。心は負けていないだろうか。あたしの激励や応援は、間違っていなかっただろうか。ずっと、頭の中で泉実のことが巡り続けていた。触れ合った唇の感触、結んだ手の温もり、抱き寄せた柔らかい身体と、泉実の匂い。思えば思うほど、フルートの到着が待ちきれなくて、苦しかった。
あやめさんの提案は正解だった。棘の館にいたままでは、フルートが届くまで心配ばかりして、今以上に落ち着かなかった。あきちゃんとこうして出かけていても考えが頭を巡り続けるくらいだから、頭を抱えて沈んでいたかもしれない。
「やっぱり、気になりますか?」
「顔に出てたかな」
「はい。蓮華先輩、時々、上の空でしたから」
せっかく案内をしてくれたのに失礼なことをしてしまった。それでも、あきちゃんは嫌な顔をしない。穏やかな横顔は、茶屋で休む人々や通りの往来に向けられていた。
「うらやましい。お互いを強く想い合える秘訣を知りたいものです」
そう言って、あきちゃんがお椀を口に運んで傾ける。当主様もそうだけれど、動きの一つ一つが上品で、余裕があった。棘科家という家系の血が、あたしよりも年下で小柄な彼女に存在感と雰囲気を持たせている。見れば見るほど、あたしがとは違う次元を生きてきたのだと思わされた。そんな彼女に聞かれた、お互いを想い合う秘訣。秘訣らしい秘訣を実践しているかどうか自覚がなかったから、考え込んでしまった。
「うーん、そうだなぁ……。自分の想いをしっかり話すことと、相手の想いをしっかり聞くこと、かな」
あたしも茶屋の外にひしめく賑やかな人波へ視線を向けた。視界の端であきちゃんがあたしを見たのが分かってから話を続けた。
「あたしと泉実はクラスも違うし、特別に仲良しだったわけじゃない。ただ、選択授業が同じで、席が隣同士になっただけの、偶然だった」
泉実を意識するようになったきっかけも偶然だった。中野との最悪な話し合いの後、たまたま昇降口で一緒になっただけだ。偶然に偶然が重なったその上で、最初に想いを言葉にしてくれたのは泉実だった。
『一緒に、帰ろう』
一緒に帰りたい。泉実はあたしを見かけて、そう願った。それを言葉にして、あたしに伝えてくれたことで、仲良くなることができた。想いを伝えることがきっかけになって、あたしたちの距離はみるみる縮まっていった。泉実がアルバイト先に顔を出してくれたこと、電話をして、たくさん話し込んだこと。感じていた不安を泉実に話して、泉実が自分の意思を答えてくれたこと。相手を知ろうとして、自分も知ってもらおうと、何度も言葉を交わして、想いを伝え合った時間があった。考えを真っ向から否定するのではなくて、ちゃんと聞いて、考えて、伝える。それが秘訣なのかもしれない。
「なるほど……。お互いを理解するためにしっかり話し、しっかり聞く。だからこそ、心を開いて距離を近づけることができたわけですね」
「うん、そうだと思う。あたしたちの間に交わされた言葉は、一方通行じゃなかった。だからこそ、分かり合えたと思ってる。でも、元カノは、そうはいかなかった」
中野と付き合っていた頃にも自分の想いを話して、心を開いてほしいと伝えた。しかし、中野はただ、蓮華に不満はない、理解してあげられなくてごめん、と話すだけで、あたしへの想いを口にすることはなかった。歩み寄っても受け流されて、お互いを理解する必要性も感じられなくなった。結局、最後の最後まで、あたしは中野を理解することができないまま、別れを告げることになった。
「言葉にできる想いがなかったのかもしれない。中野から告白してきたのに、愛情なんて、最初からなかったんだ」
肩を落としたら、あきちゃんが昨日の夜と同じようにあたしの背中を優しくさすってくれた。小さな手から、健気な温もりが伝わる。
「ひょっとしたら、中野にとって、蓮華先輩はステータスだったのかも。蓮華先輩が好きだから付き合ったのではなく、自分には恋人がいる、というステータスほしさに告白したのだと思います」
「……ステータスか」
「愛情よりも、価値やステータスを得られること。それが中野の喜びだったのかもしれません。高級な代物を恋人からプレゼントされる自分はすごい、と、他の人より優位に立ちたかった」
それが、中野がスキンシップを許さなかった理由。あたしからの愛情は不要で、ただ、ステータスや付加価値がほしかっただけなら、キスもハグもいらないわけだ。SNSサイトに罵倒や陰口を書き込んだ動機も、やはりプライドが傷つけられたことが憎くて、悔しかっただけだったのだ。
「蓮華先輩は魅力的な方です。恋人にしたらさぞ幸せでしょう。しかし、恋人として近くに置くことは愉悦であっても、愛情はいらない。厳しい言い方をしましたが、それが中野の求める愛の形だったのだと思います」
背中からあきちゃんの小さな手が離れたら、少し肌寒く感じられた。魅力的と言われても喜べないほど無念な気持ちが胸の中に広がって、空いた手を強く握り締めた。もくもくと、灰色の煙が心の空洞を埋め尽くしていく。
「あたし、そこまで考えられなかったよ」
「無理もありません。今は憎い相手とはいえ、当時は想いを寄せて付き合っていたのですから。蓮華先輩は分かり合おうと頑張っていただけです」
「頑張ったのは、大失敗だ」
情けない自分に嫌気がさして、乱暴にお椀を傾けた。熱の残る抹茶を一息で喉に流し込むと、苦味と熱で瞳にじわりと涙が滲んだ。別れの言葉を選べば、まだマシな別れ方ができただろうか。今となっては過去のことだけれど、悔しくて、たまらなかった。
「やり直しましょう。泉実先輩や、私たちと一緒に」
やり直す。悔しさに霞んだ思考に響き渡り、目が覚めるようだった。
兄を恐れる日々。姉を失って悲しむ日々。恋人と分かり合えなかった日々。つらい日々はあっても、あたしはまだ、生きている。泉実のフルートが壊されてしまっても、泉実の中に音楽が生きているのと同じように、あたしもまだ生きている。生きていて、やり直せるチャンスがまだある。どうして、そんな簡単なことに気がつかなかったのだろう。理解するために言葉を交わし、心を通わせた人たちがすぐ近くにいる。その人たちが支えると、力になると励まし続けてくれている。
あたしも、人生というステージに立ち続けなくては。
「ありがとね、あきちゃん。ただの友達じゃなさそうだ、あたしたち」
「そうみたいです。友達よりももっと内側にいるような気がします」
あきちゃんと知り合って、過ごした時間はまだ僅かだ。恋人ではない、でも、友達よりもっと近い。先輩後輩の関係や友情以上の奇妙な繋がりを感じて、二人で笑いあった。
ふと、スカートのポケットが震えた。お椀を置いてスマートフォンを取り出すと、泉実からメッセージが届いていた。休憩中なのだろうかとメッセージを開いたら、短い文章と汗をかいた絵文字が添えられていた。
『蓮華、大変だよ! 昨日棘科グループの人が調査に来たんだって!』
あたしが当主様に頼んだから、とも返信できず、どうしようかと苦笑いを浮かべた。隣で抹茶を飲んでいたあきちゃんが遠慮しがちにディスプレイを覗き込んできた。
「泉実先輩からですか?」
「うん。棘科グループの人が調査しに来たこと、聞いたみたい」
ディスプレイを見やすいように向けてあげる。素早く目を通すと、優しく微笑んで、あたしの顔を見上げた。
「どうやって返信しますか、蓮華先輩」
「話すなら、フルートを渡す時に話したいけど。泉実、身構えちゃいそうで」
「棘科家がフルートを買ったことを知ったら、緊張してしまうかもしれない?」
「そゆこと。泉実のお父さん、トゲモリ製薬工業で働いてるしさ。お父さんが勤める会社に出資してるお偉いさんが、フルート買ってくれたわけでしょ? きっと遠慮しちゃう」
言われてみれば、とあきちゃんが苦笑する。
ここはひとまず真実には触れないようにするべきか。棘科グループが調査に来た理由やあたしがフルートを手に入れた経緯については、コンクールが終わってから話そう。当たり障りなく、それでも丁寧に文を打ち込んでいたら、あきちゃんがスマートフォンを取り出して声を上げた。
「あやめから電話です。もしかしたら、届いたのかも」
「えっ! マジ?」
あたしの問いかけに微笑み返しながら電話に出る。三回か四回、言葉が往復したらあきちゃんはすぐに電話を切った。
「フルートが届きました。温泉街入り口の広場に来ているそうです。戻りましょう」
「オ、オッケー」
返信途中のままディスプレイの表示を消して、スマートフォンをスカートのポケットに突っ込んた。慌てて席を立つと、温泉街の風情にまどろんでいた心が目を覚まして、物足りない、寂しい気持ちになった。
リュックのベルトを握り締めながら、前を走るあきちゃんの背中を追いかけた。小柄で大人しい印象だったけれど、あたしよりも足が速くて驚いた。長い黒髪がマントのように揺れて、泉実みたいに「カッコいい」と呟いていた。石畳を走り続けて、温泉街の入り口まで戻ってきた。観光バスが何台も停まれそうな広い駐車場と、花壇に囲まれた円柱の噴水。西に少し傾いた日差しを受けて、水飛沫が虹色にキラキラと輝いて散っていた。
「二人とも、こっちよ!」
横から呼ばれて振り向くと、駐車場の一番端に真っ赤なセダンと、真っ黒なスポーツカーが並んで停まっていて、その前で当主様とあやめさんが手を振っていた。赤い車は当主様のものだろうと、すぐに分かった。走るのをやめて、息を整えながら二人のところへ向かった。
「ふう、ふう……こんにちは、当主様」
「あらあら、全力疾走で戻ってきたのね。温泉街は楽しんでいただけたかしら」
にこっ、と首を傾げる。短い時間だったけれど、あきちゃんと過ごした息抜きは心から楽しいと思えるものだった。素直にそう言ったら、当主様も満足そうに笑ってうなずいた。
「コンクールが終わったら、ぜひ泉実さんと一緒に来てちょうだい。この町に住む人にも楽しめる場所だって、自負してるから」
さすが、当主様だと思った。
温泉街の話が切れたところで、あやめさんが茶色の細長い鞄を差し出してきた。肩に掛けるベルトがついた、革製のフルートケースだった。
「待たせたな。泉実ちゃん専用の特注フルートだ」
「これが……」
「ああ。とびっきりの、超一級品だ。保証する」
手渡されたフルートは重たいとは思わなかったけれど、違う重みがあった。手や腕に伝わる、特別な感覚。脆いガラス細工を触るように、指先が敏感になっていた。泉実の心を支える大切なものだと意識すると、腕が震えそうだった。
「蓮華さんからしっかり渡してあげて。蓮華さんから渡されることで、泉実さんはきっと心を持ち直すはずよ。そのフルートの真価だって、引き出せると信じているわ」
「……はい!」
絶対に落とすまい、離すまいと、大切に抱きかかえた。
「よろしい。じゃあ蓮華さん、赤い車に乗ってもらえるかしら。私が送っていくわ」
「と、当主様が!」
「ええ。フルートが届いたって聞いたから、仕事を抜け出してきたのよ。仕事に戻るついでよ、学校まで送るわ」
ウインクして、当主様が慣れた動作で赤いセダンの運転席に乗り込む。助手席に向かおうとして、慌てて踵を返した。学校へ行く前にしておくべきことがあった。あきちゃんとあやめさんに真っ直ぐ向き直って、二人を見つめた。ずうずうしい相談を真剣に聞いてくれた可愛い妹様であるあきちゃんと、たくさんお世話になった凄腕執事のあやめさん。たった一晩だったのに、一晩以上に言葉を交わして、心を通わせた二人。しっかり頭を下げて、お礼を言った。
「あきちゃん、あやめさん。お世話になりました。本当にありがとうございます」
「おお? あきちゃん、だって?」
あやめさんがニヤリと笑う隣で、あきちゃんが寂しそうにこちらを見つめていた。どうして寂しそうなのかは、なんとなく分かる。恋人とは違う。でも、友達とも違う。昨日の夜と今日の息抜きで、あたしたちは近いけど、近すぎない、不思議な距離にお互いを置いていた。距離を縮めて温泉街を歩いた楽しい時間はあまりにも短すぎて、物足りない。
「……また、遊びましょうね。泉実先輩も紹介してください。絶対ですよ」
「もちろん。あたしたちの仲でしょ。またね!」
笑顔で返して、赤いセダンに乗り込んだ。よろしくお願いします、と声を掛けようとしたら、先に当主様が声を掛けてきた。キーが回る音がして、静かにエンジンが息を吹き返した。
「輝羽があんな顔をするなんて」
「えっ?」
「蓮華さんったら、罪な人ね」
赤いセダンが動き出す。前を見ながら、ふっ、と優しい微笑みをこぼす。とても優しいそれは、小さい頃にあたしの姉が向けてくれたものと同じ、懐かしい匂いがした。
車の窓を開けて、あきちゃんとあやめさんにもう一度お礼を言う。あきちゃんは寂しそうな笑顔で、あやめさんは照れくさそうに、手を振ってくれた。赤いセダンが静かに速度を上げて、駐車場を離れていく。サイドミラーに映る二人の姿がどんどん小さくなって、ついに見えなくなった。
幹線道路を穏やかな速度で流れていく。胸にフルートを大切に抱えながら、短い移動距離で当主様とたくさんの話をした。それはあたしの過去のことだったり、あきちゃんのことだったり、将来のことだったり。講演会を聞いた時もそうだったけれど、当主様は厳しい現実と、その中で見出せる希望を話してくれる。ただ人を傷つける兄の言葉とは性質の違うものだった。兄は、当主様の言葉を聞いても否定するのだろうか。なぜか、そんなことを考えてしまった。
赤いセダンが見慣れた通学路を曲がり、レンガ造りの校門をくぐった。校門のすぐ脇にある来客用の駐車場に停めて、当主様が小さく息を吐いた。
「さて。心の準備はいいかしら?」
「大丈夫です。泉実の中に生きる音楽とこのフルートがあれば、きっと……」
シートベルトを外して、車から降りる。当主様はこのまま仕事に戻るから、運転席に座ったままだった。ドアを開けたまま、姿勢を正して当主様に向き直った。頼りになる横顔に、お姉ちゃん、と呼んでしまいそうだった。
「本当に、本当にありがとうございますっ」
今、あたしの口から出た短い言葉には、溢れんばかりの想いが含まれていた。誰にも話していなかった過去、中野との確執と、それに巻き込んでしまった愛しい泉実。あたしを取り巻いていた様々なものから救い出そうとしてくれた当主様への、たくさんの感謝。恋人である泉実とはまた違う形の、心から信じられる存在を、泉実と同じくらいに大切にしたいと思った。
「あなたの道が暗くて不安なら、私たちは道を照らす光でありましょう。この土地の守護者として、私はあなたを絶対に見捨てない」
慈しみに満ちた微笑みが、再び、姉の面影を感じさせた。
血の繋がった兄には虐げられ、嘲罵され、針ノ木蓮華を否定されたというのに、血の繋がらない当主様は、違う視点からあたしを見つけて、手を差し伸べてくれた。兄もあたしを心配していると言ったけれど、口から出る言葉の色合いも、温度も、なにもかもが当主様と全く違う。
それは、思いやり。聞こえがいいからとか、憧れの存在だからというだけではない。あたしの過去を知り、あたしがなにを抱えて苦しんでいるのか、なにを不安に感じているのか考えて、解決のために歩み寄ってくれた。当主様は思いやる心を持って、寄り添ってくれたのだと、信じられた。
「あなたの苦しみと、苦しみに対して抗おうとする姿勢は見させてもらった。近い内に具体的な将来の話をさせてもらうから、そのつもりでね」
「ぜ、ぜひっ。よろしくお願いしますっ!」
フルートを抱きかかえたまま、深く頭を下げた。
助手席の扉を閉めると、赤いセダンが静かに動き出し、校門を出て行った。去り際に運転席から当主様が手を振ってくれた。棘科一家の温もりから離れ、校舎を吹き抜ける秋風に身体が震える。当主様たちと過ごしていた時間は、泉実と一緒にいる時間に匹敵するくらい温かく、優しい時間だった。そんな心地よい時も過ぎ去り、いよいよ、愛する恋人と一緒に、戦う時が訪れた。
フルートを渡し、泉実に心の伴った演奏をしてもらう。
この反撃は、中野への反撃だけではない。姉とあたしを罵倒し、他人を見下して否定し続けた兄に対する反撃でもあるのだ。例え弱くとも、情けなくとも、あたしの心は腐っちゃいない。終わっちゃいない。確かにフルートを買ったのは当主様だ。でも、当主様に勇気を出して願いを伝えたのは他でもない、あたし自身がしたことだ。あたしにだって、できることがある。
あたしは、あんたが思っているほど、堕ちちゃいない!
中野に刻まれた悔しい恋愛を、兄によって刻まれた恐ろしい記憶を思い出す。目眩がしそうになっても、吐きそうになっても、憤りを抱こうとも、歯を食いしばって抗った。腕にある、フルートの存在。生まれて初めて、自分の意思で見出した武器が、あたしに力を与えてくれる。
「負けるもんかぁぁぁっ!」
腹の底から校舎に怒声をぶつけて、駆け出した。
バタバタと校内に入り、真っ直ぐに音楽室へ向かう。休日の学校は静かで、吹奏楽部の演奏もよく聞こえた。耳に届く演奏はパートごとに散らばった音ではなく、音と音が重なった、結びつきを強く感じさせる旋律だった。全体練習――コンクールに向けた厳しい練習も、いよいよ大詰めだ。フルートを届けるタイミングはぎりぎりになってしまったけれど、泉実の心を立て直せると信じている。校舎を震わせる旋律と、冷たくも清らかな秋の空気を身体に受けながら、渡り廊下を走り抜け、第一音楽室前の廊下に滑り込んだ。
「はあっ、はあっ……」
音楽室の廊下側に窓はなく、中の様子を知るには扉の小窓を覗くしかない。肩で息をしながら、静かに歩み寄って窓を覗き込む。ワイシャツを腕まくりして、真剣な面持ちでタクトを振る川口先生と、旋律に身を揺らし、演奏に心を込める部員たちが見えた。でも、その中に愛しい泉実の姿は見えない。窓から見えない位置にいるのだろうか。それとも、やはり演奏できるフルートがなかったのだろうか。そう考えたら、演奏を中断させてでもこのフルートを泉実に渡したくなって、たまらなかった。
練習の真っ只中。このまま乗り込むのは無礼で、なにより練習の邪魔だ。理性では、そう分かっている。
でも。今は、迷う時間すら惜しかった。
「泉実っ!」
意を決して、横引きの扉を勢いよく開いて、音楽室に飛び込んだ。
先生が驚いたように手を震わせて、タクトを止めた。部員たちの演奏も止まり、大勢の視線が一気にあたしへ突き刺さるのを感じた。演奏が空気に消え、しん、と静まり返る音楽室に先生の足音が響く。早足であたしに歩み寄り、先生が腕組みをして、怒ったように見下ろした。
「練習中だぞ!」
短く、簡潔なお叱りだった。大きな声に肩が震えたけれど、恐れずに頭を下げて、しっかり自分の考えを伝えることにした。
「ごめんなさい、先生! でも、泉実にどうしてもこれを渡したかったんです!」
胸に抱きかかえていた茶色の鞄を先生に見せる。険しかった先生の眼差しに、明るい光が瞬く。期待の眼差しだと、すぐに分かった。
「針ノ木、まさか」
「はい。泉実が使えそうなフルートを、持ってきました!」
フルート、と聞いて先生の表情が明るく一変する。整列している部員たちへ目を向けると、端に立っていた泉実が譜面台を横にどかして、駆けて来た。彼女が手に持つフルートには小さな錆やへこみが見られる、傷んだフルートだった。
「蓮華……」
一日ぶりに出会う、恋人の姿。あたしを呼ぶ声は震えていた。いつか中野と言い争いをしていた時と同じように、泣き笑い。十分な練習ができていないのは明白だった。泉実が握り締めるフルートを顎で指して、聞いてみた。
「それは?」
「学校の、備品。ちょっとだけでも、使えそうだったから……」
目を伏せる。先生も申し訳なさそうに、低い声でうなずいた。
「借りられるフルートが見つからなくてね……。どこもダメだったんだ。結局、備品を使う羽目になってしまって、高瀬にはつらい思いをさせてしまった」
そんな状況の中でも、泉実は練習に臨んだ。今日の練習では手ごたえを感じられなくとも、抗おうと、泉実なりに頑張っていたようだ。
「なら、これを使って」
目を伏せる泉実に押し付けるように、茶色い鞄を差し出した。困惑しているようで、大きな瞳が茶色の鞄とあたしの顔を交互に、何度も行ったり来たりした。見ているだけで、抱き寄せて、キスして、安心させてあげたかった。たった一晩、たった一日離れただけなのに、まるで数年ぶりに再会したように焦がれる心。愛しい泉実を目に焼き付けるように見つめた。
「昨日、知り合いに頼んで、泉実が使えそうなフルートを探してもらったんだ。泉実が出場してきたコンクールの映像や音楽を参考にチューニングした、泉実用のフルートだよ」
泉実の白い喉が動いた。決して落とすまいと、大切に抱えてきた新しいパートナーを手渡す。音楽室の脇へ除けてあった机に傷んだフルートを置き、震える指先が鞄が開く。フルートの手配をお願いしたあたしも、まだフルートの姿を見ていない。あやめさんの話す超一級品が一体どんなものなのか、固唾を呑んで見守った。静かな音楽室に、鞄の開かれる音だけが響き渡る。
そして、ついに新しいパートナーが、その姿を見せてくれた。
「わあっ……!」
泉実が口を押さえて、大きな瞳を更に大きく見開いた。
開かれた鞄の中には、眩しく光を照り返し、金色に輝くフルートが三つのパーツに分かれて整然と収まっていた。
「ゴールドフルート! し、しかもこれは、一流メーカーのものじゃないか! 針ノ木、一体どこでこれを……」
姿を見せた美しい輝きに興奮して、先生の言葉が途切れ気味になっていた。泉実も先生も、輝くフルートに目を奪われて、それ以上の言葉が出てこない様子だった。部員たちもぞろぞろと泉実の背後に集まって、光り輝くフルートにざわめいた。
「あたしと、あたしが信じる仲間からの贈り物だよ」
「ダ、ダメだよ! こんなっ、こんなすごいもの、受け取れないっ」
栗色の艶やかな髪を揺らし、首を横に振る。
泉実の言うとおり、確かに、すごいものだ。一千万近くの、超一級品。大富豪が認める、とびっきりのフルートだ。でも、このフルートが持つ価値は金銭や一流メーカーの名前だけではない。泉実を救いたいと願ったあたしの想い、あたしの想いを汲んでくれた当主様たちの想い、そして、泉実の音楽を認めてくれた、フルーティストたちの激励も込められている。たくさんの心がこの金色の輝きに込められているのだ。理不尽な暴力に抗うために、立ち向かうために。泉実の中に生きる音楽をもう一度呼び起こすためにも、受け取ってもらわなくてはいけない。
「……姉さんを亡くして、兄貴に散々にされて、中野にも嫌なことされてさ。こんな壊れかけのみじめなあたしを、泉実はずっと見てくれたよね。中野の陰口を鵜呑みにしないで、自分自身の意思で、見てくれた。泉実のおかげで、あたしは救われたんだ。まだ頑張れるって、思えたんだ」
昨日、恋人として結ばれた時に、泉実は一緒に生きようと言ってくれた。中野には陰口を言われ、兄には人生が終わっていると、腐っていると罵られた。泉実のくれた言葉は、中野や兄のせいで冷え切ってしまった心を温かく解きほぐしてくれた。泉実はあたしにとって、希望。神から遣わされた天使。心に差し込んだ、光。
「あたしは泉実から生きる希望をもらった。だからあたしも、このフルートにたくさんの想いを込めた。泉実が音楽を続けられるように。大好きな音楽を、大好きでいられるように。泉実の希望でいられるように、たくさんね」
不安に潤む瞳があたしから外れて、金色のフルートに落ちた。
「だからお願い、泉実。受け取って」
白い横顔にもう一度、言葉を掛けた。泉実は話の通じない中野とは違う。他人を見下して蔑むばかりの兄とも違う。あたしが言葉に込めた想いを必ず受け取ってくれる。鵜呑みにもせず、一方的な拒否や否定もせず、自分の意思で考えること。自分自身の目であたしを見てくれた泉実にはそれができる。
きっ、と泉実の大きな瞳が鋭くなった。息を呑むように喉を動かし、短くうなずく。鞄の中に添えられていたクロスを手に取って、三つに分割されていたフルートを丁寧に組み立てる。あたしと大勢の部員が見守る中、音楽室にフルートが組み立てられる小さな音だけが響いた。
やがて三つの輝きが一つになり、泉実が小さく息をついて鞄を閉じた。
「できた」
金色のフルートが、天使の白い手にそっと握られた。まだ口元には運ばず、フルートの感触を確かめるように細い指が管の上を動く。鋭い眼差しをしていた泉実が目を見開いた。何度も指を開いて、閉じる。不安になって、声をかけた。
「だ、大丈夫かな? 重たいとか、持ちにくいとか……」
「ちょっとだけ重たいけど、なんだか、大丈夫な気がするの。全然違うものなのに、あの子と同じ感覚がして……」
手に持った感覚は、ひとまずよさそうだった。あとは、実際に演奏してみて、泉実がどう感じるか。でも、あたしはきっと大丈夫だと、信じていた。有名なフルート奏者からアドバイスをもらって、更に泉実の演奏を見て、聴いて、チューニングされたもの。きっと、間違いないはずだ。
口元へフルートを運び、短く息を吸う。目を閉じて、泉実が静かに金色の輝きを奏で始めた。澄んだ風の音色が静寂が破り、一気に音楽室を満たしていく。濁りや乱れのない、清澄な水や空気を思わせる音が、胸をくすぐり、心を掠めていく。先生も目を閉じ、腕組みをして泉実の奏でる音に聴き入っていた。
ふと、フルートパートの一年生が泉実の隣に並んで旋律を重ねた。音楽に身体を揺らしながら泉実と顔を見合わせてうなずく。残りのフルートパート部員たちも駆け寄り、音色を重ねる。他の楽器を受け持つ部員たちもフルートの旋律に導かれ、譜面台へ戻ってそれぞれの演奏を加えていった。先生の指揮なしで、泉実が奏でる一つの音から、多くの音が結ばれていく。先生は驚いたように目を開けて、指揮なしで見事な旋律を作り出していく部員たちを見回していた。
「な、なんという……」
泉実の奏でる音色に、たくさんの心が繋がっていく。重なる音があたしの肌を揺らし、心に響かせていく。吹奏楽部員の心が一つになった瞬間だと、はっきり分かった。先生が話した心の伴った演奏が、完成しようとしている。あたしが届けたフルートで、泉実が部員たちの心を結んでくれたのだ。奏でられる音楽を聴きながら、涙を流した。静かで、優しい涙だった。愛する恋人のフルートが壊された悲しみや悔しさが、涙と共に流れて消えていく。あたしと中野の確執に巻き込んでしまった泉実が、愛用のフルートを失った悲しみを乗り越えて、これだけの音楽を作り上げてくれた。兄に罵倒され、中野に貶められたみじめなあたしが、愛する恋人の心を救うことができた。嬉しくて、涙が止まらなかった。
姉さん。この音楽が聴こえる?
あたし、大好きな人を助けることができたよ。
少しくらい、強くなれたかな。
――そして、フルートに導かれた壮大な演奏が美しく終わり、静寂に霧散した。
その瞬間、部員たちが大歓声を上げて泉実たちフルートパートを囲んだ。手ごたえを感じたのか、「いける」、「金賞もらえる」と口々に話し、部員たちの顔には金色のフルートに負けないくらい、輝く笑顔が咲いていた。
「とんでもないことをしてくれたね、針ノ木。これじゃあ、本当に名誉顧問にしなくちゃいけなくなるだろう」
先生も心底嬉しそうに、明るい声色でそう言った。
泉実が大歓声を背に受けながら、新しいパートナーである金色の輝きを携えてあたしに歩み寄った。大きく、綺麗な瞳があたしを見つめている。彼女の瞳に、不安や恐怖は見えない。確かな自信に後押しされた、希望に満ちた光が宿っていた。
「演奏してて、蓮華の言ってたことが分かったの。壊されたあの子と一緒に作ってきた音楽は、ちゃんと私の中で生きてる。蓮華がくれたこの子が教えてくれた」
そっと金色のフルートを握り直す。優しく、赤子を抱くように。
「ありがとう、蓮華。蓮華の想い、受け取ったよ」
待ち望んでいた、大好きな恋人の笑顔。涙の止まらないあたしは嗚咽で声が出なかったけれど、一生懸命笑顔を返して、何度も何度もうなずいた。
「よし、みんな! もう一度最初からだ! 針ノ木名誉顧問の涙を止めてやれ!」
おーっ!
先生の声掛けに、演奏と同じくらい力強い声が音楽室を震わせた。
金色のフルートが泉実の心を支え、吹奏楽部全員の心を束ねた。涙を拭いながら、あたしも確かな手ごたえを感じていた。泉実のフルートが壊されたことで不安になっていた部員たちの心も、支えることができた。言葉にはならない、とても大切ななにかを取り戻せた気がした。
吹奏楽部の懸命な練習は日が落ちるまで続けられ、途中、体育館に場所を移して、より本番に近い形での練習も行われた。先生からオーディエンスを頼むと言われて、大勢の部員を前にたった一人で向き合い、壮大な演奏を何度も何度も聴いた。洋楽アーティストの歌ばかり聴いていたあたしには異質なものに感じられたけれど、決して耳障りに思ったり、嫌悪感を覚えたりするようなことはなかった。むしろ、性質の異なる音楽に胸が躍り、目の前で演奏される臨場感、耳や肌、身体を直に揺らしていく音の波に心が高ぶった。曲の盛り上がり、緩急。部員たちの動きが変わる。全身を使って、部員全員が互いを感じながら演奏している。あたしは吹奏楽に詳しくないし、この曲のタイトルや作曲者も分からない。しかし、それでも演奏される曲の中に、ドラマを見ることができた。曲調に合わせて、映像や場面が頭に浮かぶ。部員たちが音楽を奏でることで、あたしの中にドラマを作り出しているのだ。
音楽に目を、心を奪われている間、あたしの悲しみや苦しみは、真っ白になって姿を消していた。負の感情に代わって姿を見せたのは、泉実たちが奏でる音、音、音。心の中を跳ね返り続ける、反響して止まらない心地よい音。
これが、心に響く音楽。
涙は止まっていた。
本日最後の演奏が終わり、体育館を響かせていた鮮やかな音色が消える。先生と部員たちがたった一人のオーディエンスに向き直り、頭を下げた。体育館の床に座っていたあたしは慌てて立ち上がって、手が痛くなるほど全力で拍手した。ブラボー、なんて言葉が出そうになったけれど、気恥ずかしくて、息と一緒に呑み込んだ。
その日の帰り道は、いつにも増して賑やかな帰路だった。一緒に帰宅する部員たちがあたしと泉実を取り囲んで、ゴールドフルートはどこから調達したのかとか、高級なものを調達するなんてすごすぎるとか、とにかく、フルートの話で持ちきりだった。あたしの話す「知り合い」が何者なのかという話題も出たけれど、当主様たちのことを話したら泉実に負担がかかると思って、吹奏楽方面にも顔がきく人だと濁しておいた。部員たちも知り合いの正体より、泉実が大切そうに抱える茶色い鞄――フルートの方に気を取られていたから幸いだった。
「そうだ、泉実。コンクールってあたしでも見に行けたりする?」
吹奏楽やコンクールについて全く知識がないあたし。もし見に行けるのなら、せめて泉実たちの演奏だけでも見届けたいと思っていた。聞いてみたら、泉実は申し訳なさそうに小首を傾げて苦笑した。
「鑑賞できるよ。でもね、チケットが売り切れちゃったの」
今回泉実たちが参加するコンクールは非常に大きな規模で、地方選抜を勝ち抜いてきた強豪が集まり、演奏を競い合う舞台だという。吹奏楽ファンも毎年注目しているコンクールで、チケットは完全前売り制だから競争率も高い。その熾烈な競争を潜り抜けた猛者のみがオーディエンスとして入場できるとか。コンクールに参加する人たちも、鑑賞する人たちも、まさに選ばれた人、というわけらしい。
「毎年、チケットの受付が始まった途端、一時間くらいですぐ完売しちゃうの。本当にレアチケットなんだって」
「なんてこった……。完全に出遅れてるじゃん」
泉実と近しい関係になるのが遅すぎた。しかし、想いを込めたフルートは泉実に渡してある。他の吹奏楽部員も気を持ち直してすばらしい演奏を聴かせてくれた。あたしにできることは、泉実と吹奏楽部員のみんなを信じて、結果を待つことだ。
駅で他の部員たちと別れて、隣町へ向かう電車に乗るためにホームへやって来た。すっかり日も暮れて、ホームから見えるレールの先は暗闇に飲み込まれていた。触れ合う肩の温もりに気づいて、泉実に視線を向けると、愛おしそうに微笑んだまま、胸にフルートケースを抱えていた。まるで母親か、姉のような、慈しみに満ちた優しい表情だった。
「今日、連絡くれたよね。すぐに返信できなくてごめん」
思い出して、一言謝った。
フルートを待つ間、あきちゃんと温泉街で一休みしていた時。泉実から棘科グループの調査員が来たというメッセージが届いていた。その後すぐにあやめさんから連絡があって、返信していなかった。
「大丈夫、怒ってないよ。きっとこの子を私に届けようとしてたんでしょう?」
「うん、ダッシュしてた」
あやめさんから連絡を受けた後、足の速いあきちゃんを追いかけて全力疾走した。泉実の予想は当たらずも遠からず、いや、この場合は正解でいいだろう。
「嬉しい。本当に嬉しい。たくさん嬉しくて、胸がいっぱい」
穏やかな表情のまま、泉実が深いため息をついた。彼女のため息は少し白くなって、ホームの闇に消えていった。
「へへ」
照れくさくて、嬉しくて、小さく皮肉な笑い声がこぼれた。
泉実の言葉に嘘はない。部員たちと奏でてくれたあの演奏を聴けば、絶対に間違いないと信じられる。フルートが壊された悲しみと悔しさ、そして怒りを乗り越えた。
あたしは泉実の手助けをすることができた。支えになることができたのだ。
「……壊されたあの子のためにも、新しいこの子と頑張らなくちゃ」
レールの先、闇の向こうに眩しい光が見えた。あたしたちを隣町へ運ぶ電車だった。
隣町へ向かう電車の中で揺られている間、あたしに寄りかかるように立つ泉実の穏やかな横顔をずっと見つめていた。電車に乗ってから会話はなくて、ただ、沈黙の中に確かな愛情を感じていた。この横顔が、あたしが心の底から求めて、愛して、守りたいと願い、守った存在。まだ明日のコンクール本番が残っているけれど、全てをやり遂げたような安堵が心と身体を心地よい疲れに沈めていた。泉実から視線を外して、車内を照らす眩しいライトを見上げた。
思い返せば。
兄に虐げられ、罵倒された。
姉が自殺をした。
信じた恋人が信じられなくなった。
心から愛せる人を見つけて、結ばれた。
十数年という短い人生でたくさんの時を経験して、今に辿り着いた。姉の遺書を心の芯にして、兄や中野への憎しみと怒りを燃やし、泉実への愛で自分を慰めながら、たくさんの言葉や声、音や色に、温もりに、冷たさに心をかき回された。かき回され、翻弄されて、掴み取ったこの瞬間。こうして泉実にフルートを届けたことで、過去に対する清算が全て終わった気がした。姉の遺書に遺されていた言葉を叶え、兄の言葉に対する反撃と、泉実のフルートを壊した中野へ反撃ができた。
でも、そこにきて、不安に感じることがあった。
愛する人を救うために走り回ったことは、本当に愛情だったのだろうか。自分の過去に復讐するためのきっかけとして、泉実の悲しみを利用しただけではないのか。自分の復讐を泉実への愛情だと正当化しているだけだったとしたら。
もう一度、隣にいる天使に目を向けた。
目が合ったら、笑い返してくれた。
これが復讐ならば、あたしは兄や中野と同じ、醜く卑怯な人間だ。でも、あの二人には絶対にないものがあたしの隣にはある。あたしたちが信じて、望む愛情の形がある。正当化しているわけじゃない。天使の笑顔を見れば、真実の愛なのだと、胸を張れる。理不尽な悪意に振るわれた重圧に抗って、愛する人との幸せを掴もうすることの、どこが復讐なのか。
あたしは、運命を切り拓いただけだ。
胸の中で呟いて、あたしも天使に微笑み返した。
隣町の駅で電車を降りて、泉実と短い帰り道を歩いていた。昨日と同じように泉実が自転車を押し、その隣をあたしが肩を寄せて歩く。短い道のりを少しでも長くするために、あたしたちの歩みはゆっくりとしていた。規則正しく並ぶ街灯が照らす帰り道は昨日と同じなのに、昨日とは正反対の気持ちでいる。フルートが壊された悲しみや不安は消え去り、希望が胸を満たしていた。
「昨日の帰り道はすごく不安だったのに、今日は違うね」
全く同じことを考えていて、驚いた。泉実を見て目を見開くと、笑顔が返ってきた。
「あっ、蓮華も同じこと思った?」
「思った」
「繋がってるね」
また笑う天使がたまらなく可愛かった。恐れも不安も取り除かれた今、泉実に向ける愛情はとても高潔で、美しいものだと感じられた。泉実に近づいて、自転車のハンドルを支える腕にあたしの腕を絡めた。泉実の視線が頬に当たるのを感じたけれど、目は合わせずに一本道の先を見つめた。
「ね、蓮華」
「うん」
「フルート、当主様からもらったの?」
「ぎくっ」
大きな鼓動が一回、あたしの身体を揺らした。腕を絡めたのは失敗だった。いや、腕を絡めなくても気づかれていただろう。深いため息をついてから、うなずいた。
「ま、参ったなぁ。泉実には隠し事できないじゃん」
「私、蓮華の恋人だもん」
泉実は昨日から何度も恋人と言葉にして繰り返していた。中野との中途半端な関係に傷ついたあたしに気を遣ってくれている。申し訳なさと、嬉しさと、いつか感じたような複雑な気分になった。
「先生から、棘科グループの調査員が学校に来たって聞いて、すぐに蓮華の顔が思い浮かんだの。講演会の後、蓮華が当主様に呼び出されたのも知ってるから、もしかしたらって思ってた」
「はぁ……。名探偵ですか」
棘科グループがフルートの事件で調査に来たことで、既に気づかれていたようだ。観念して、あたしが昨日の夜から今日までなにをしていたのか、短い帰路を無駄遣いしないように簡潔に話した。泉実を送ってからすぐに当主様に頼みに行ったこと、当主様がフルートの手配と犯人調査のために快く協力してくれたこと。そこで出会った当主様の妹、あきちゃんと、スーパー執事さんのあやめさんのこと。あきちゃんと一緒に温泉街に出かけたことも、隠さずに正直に話した。泉実は怒らず、うん、うん、とうなずきながら、いつもの笑顔で話を聞いてくれた。
「本当はコンクールが終わった後に話すつもりだったんだ。当主様からフルートを買ってもらったって聞いたら、泉実が遠慮すると思ってさ。温泉街もフライングしちゃって、ごめんね」
「ううん、謝らないで。蓮華に愛されてる実感がして、すごく嬉しいの。温泉街だって、フルートを待つ間、当主様の妹さんが案内してくれただけでしょう? 蓮華のこと信じてるから、責めたりしないよ」
でも、ちょっとだけヤキモチ焼いちゃった。
顔を伏せて、照れたように泉実が呟いた。それを聞いたら、明るくて軽い笑い声が漏れて、顔がいつになく綻ぶのを感じた。
「へへ、ヤキモチかぁ。嬉しいかも」
一本道の突き当たり、白いガードレールを見つめる。優しい泉実はやはりあたしのことを信じてくれている。信じる愛情を確認できて、胸が温かくなった。あきちゃんは可愛い子で、友達以上に心を許すことができたけれど、あたしが恋人として愛情を注ぐ人はこの世にたった一人、高瀬泉実だけだ。
「でもね、あんまり束縛しないようにしなくちゃ。蓮華に嫌われたくないもん」
「嫌わないよ。今度しっかりあきちゃんも紹介するから、仲良くしてよ?」
「うん、もちろん。ああ、ヤキモチってこんな気持ちなんだ。恥ずかしいなぁ」
可愛らしいジェラシーを嬉しく思いながら、一本道の突き当たりから逸れる。細くうねる道、泉実の家に続く道だ。少し歩いたら、屋根が斜めに切れた家が見えた。駐車場には、昨日見かけた青い軽自動車の隣に、くすんだ銀色のワゴンがあった。泉実のご両親は二人とも在宅中らしい。昨日と同じように、泉実は青い軽自動車の隣に自転車を停めた。小走りに戻ってきて、あたしの胸に飛び込む。飛び込んでくるのが分かったから、泉実の柔らかい身体をしっかり受け止めて、抱き締めた。
泉実はあたしの身体を強く抱き寄せて、離さなかった。夜の闇に沈んだ住宅街、人気のない駐車場の陰。見ている人は誰もいない。冷たい秋の空気も気にならないほど、泉実に意識を奪われた。泉実があたしの胸から顔を上げたら、すぐに口を合わせた。一晩離れていた寂しさを埋めるように、学校で我慢していた欲望をぶつけるように、深いキスをした。泉実もあたしの激しい愛情を受け止めて、応えて、返してくれる。心から愛する人に受け入れられる喜び。嬉しくて、気持ちよくて、唇を、舌を交わし続けた。
キスを止めたら泉実は家に帰ってしまう。腕の中の温もりを、唇の感触を失いたくなくて、息が続かなくなるくらいに欲した。付き合ったばかりとか、もう、そんなこと、関係ない。あたしにはこの人しかいない。泉実があたしの恋人。泉実があたしの天使。泉実以外の恋人なんて、考えられない。切なくて、くるおしいまでの「好き」が涙と一緒に溢れて止まらない。
何回、キスをしただろう。唇を離したら、二人揃って水底から這い上がったように荒い呼吸をした。目眩と共に、気持ちのいい倦怠感がぼうっと、頭を揺らしていく。細い肩で息をしながら、泉実があたしの胸に額を当てた。泉実を胸に押し当てるようにして、抱き寄せた。頬に当たる髪の毛が気持ちいい。電車の中で知った泉実の優しい匂いを胸いっぱいに吸い込んだ。あたしの身体を抱く泉実の手が、なだめるように背中を撫でていく。
「蓮華、寂しかったんだね。キスの仕方で、なんとなく分かっちゃった。心細かったんだね。勇気、出したんだね」
昨日も今日も、泣いてばかりだ。泣いて、慰められて、泣いて、慰められて。子供のように同じことを繰り返していた。それでも泉実は受け止めてくれる。あたしの寂しさを理解して、涙と夜の寒さで鼻をすする情けないあたしを慰め続けてくれた。今朝、棘科邸でしっかり整えた化粧も、きっと目も当てられなくなっているだろう。日が沈んでいてよかった。
「……ありがとう。もう、大丈夫」
あたしの言葉に小さく返事をして、泉実の腕から力が抜けた。一つにはなれない身体の隙間を、秋の冷たい夜風が抜けていく。どんなにきつく抱き合っても、口づけても、共に過ごす時間は永遠にならない。子供みたいなわがままが、泉実の温もりと柔らかさを求めたけれど、あたしの中にいる大人が子供のわがままを叱って、泉実を抱き締めている腕を静かに解いた。涙を拭って、頑張って笑いかけてみた。
「あんまり、フルートのことで気負わないでよ」
「うん、分かりました。実は、蓮華と一緒にステージに立てる感じがして、幸せなの」
もう、あたしたちを惑わせる霧は晴れて、歩くべき道を見出すことができた。残るはコンクールというゴールを目指すだけ。あたしは過去という重荷を乗り越え、泉実もフルートを失ったつらさを乗り越えた。泉実との愛情を育てるのは、ゴールに辿り着いてからでも遅くない。これからゆっくり、二人で育てていけばいい。
「明日、しっかりね。応援してるよ」
天使は力強くうなずいて、変わることのない大好きな笑顔を見せてくれるのだった。