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反撃



 駅に駆け込んで、発車直前だった電車に滑り込んだ。駆け込み乗車はご遠慮ください、とアナウンスで怒られた。これからあたしは、帰り道を逆走して学校のある町へ戻る。この週末はアルバイトが休みで幸運だった。アルバイトがあれば、こんな無茶もできなかっただろう。電車に揺られている間は妙にもどかしくて、時間の流れ方がいつもより何倍も遅く感じられた。夕方の帰宅ラッシュが終わった後だったから、座席がいくつか空いていた。全力で走ってきたから疲れてしまって、座席に尻餅をつくように倒れた。落ち着いた車内で一人、息を切らして座席に座り込む。おかしくて、うつむいたらよく分からない笑顔がこぼれた。

 駅に着いたら、大急ぎで電車を下りて、改札を抜けた。夜の帳が下りたこの駅前は隣町よりも輝いていて、たくさんの色に瞬く鮮やかな電灯や看板が、いつも以上に駅前を彩っていた。週末だから人通りも多く、近くの飲食店からは賑やかな声が聞こえてくる。流れる人ごみを縫って、ロータリーに停車している青汁みたいな色をしたタクシーの窓を叩いた。人の流れが多すぎて気がつかなかったのか、窓を叩かれたのに驚いて、運転席に座る真っ白な頭をした六十代くらいのおじさんが慌てて後部座席の扉を開けてくれた。

「はいはい、どうぞ」

 くしゃっと皺の寄る笑顔。愛想のいい、優しそうな人だった。リュックを肩から下ろして座席に置いて、自分も腰かけながら行き先を告げた。

「棘科邸までお願いします」

「はい、棘科邸ね――って、ええっ!」

 タクシーを出そうとして、おじさんが慌ててブレーキを踏んだ。

「お、お嬢ちゃん、富豪様とお知り合いなのかい?」

「ええ、一応」

 そう言って、ずっと手に持っていた紅色の名刺を見せた。よくよく考えてみれば、あたしのような学生が大富豪の自宅に行こうとするなんて奇妙な話だ。おじさんは名刺をまじまじ見つめると、心底驚いたように深いため息をついた。

「はあ、こいつはたまげた! 富豪様がくれる紅色の名刺は親交の証だと聞いたが、初めて見たよ。こりゃしっかり送り届けないといけないねぇ」

「親交の証?」

「おや、お嬢ちゃんは聞いたことないかい。富豪様が紅色の名刺をくれたら、親交の証。その人は幸せになれるって、ちょっとした噂話になってるんだよ」

「幸せに……」

 紅色の名刺を見つめた。名刺をくれた時に当主様が言っていた「個人的な」とは、そういう意味だったのだろうか。

 あたしの質問に愛想よく答えつつ、おじさんは混雑するロータリーを器用に抜け出して、タクシーを車線に合流させた。タクシーが流れに乗ったら、おじさんが無線を取って、号車と行き先を伝える。行き先は、棘の森。

 片側二車線の大きなバイパス道路に出たら、北西の山側へ向かう。タクシーは徐々に華やかな街の光から離れ、住宅街を通り過ぎ、薄暗くて深い森の中へ入っていった。背の高い木々が静かに窓の向こうを通り過ぎていく。観光バスが通るために整備された広いアスファルトが、闇の中へどこまでも延びているように見えた。去年引っ越してきたばかりで、アルバイト三昧だったあたしには、未知の領域だった。山側は棘科一族の所有する棘の森が広がり、その一部が森林公園や、棘の森温泉街と呼ばれる観光地として開発され、この町に活気を与えている。温泉街と聞くと、旅館やホテルを連想して、どうしても姉の死を思い出してしまう。でも、当主様のお膝元なら、きっとそんなこともないはずだと言い聞かせて、胸に浮かんだ余計な不安を散らせた。

「棘科邸は広い洋館でねぇ。中央に富豪様たちが暮らす本館があって、本館の四隅には尖った塔が伸びているんだ。見た目が棘のような塔があって、おまけに住んでいるのが棘科一族だから、昔からとげやかたってね、呼ばれているんだよ」

「棘の館、ですか」

「ああ、もうすぐ見えてくる……。ほら! 左側のあれだよ、お嬢ちゃん」

 おじさんが指差した先に、シルエットが見えた。深い森の中で、不気味に佇む注射器のように尖った屋根。日もすっかり落ち、街灯もない薄暗い森の中だから全体は見えないけれど、ところどころ窓に明かりが映っていて、おじさんの話す尖った塔がどんな形をしているのか、うっすら見ることができた。当主様が森の中に大きな館を構えて住んでいるとは聞いていたけれど、実際目にした洋館の輪郭は、テレビや映画の中で見た中世ヨーロッパの砦や城とよく似ていた。暗闇にそびえる巨大な館は、ホラー映画さながらの恐怖を感じる。

 今からあたしは、当主様にずうずうしいお願いをしにいく。叶うか分からないし、当主様に嫌われてしまうかもしれない。嫌われてしまえば、泉実を救うどころか、あたしの夢までも危うくなる。それでも、泉実を救う可能性が少しでもあるのなら、それに賭けてみたかった。やっておけばよかったと悔やむより、やらなければよかったと悔やんだ方が、今のあたしにはいい気がする。

 暗い道の途中で、左側にポツリと一つだけ電柱にぶら下がった白い電灯が見えた。タクシーはゆっくりと速度を落とし、電灯の手前を左に曲がった。車一台分の並木道が真っ直ぐ伸びており、その先に、尖塔に守られた洋館が佇んでいた。暗くてよく見えないけれど、洋館の周囲は綺麗に整備された芝生になっているようだった。ひょっとしたら、この道路のぎりぎりまで棘科家の庭なのだろうか。小さい頃に姉と出かけたアスレチック公園よりももっと広い。洋館が近づくにつれ、徐々に身体が緊張で強張っていくのが分かった。現実離れした広大な土地、目の前にそびえ立つ巨大な富豪の館。手に持っていた紅色の名刺が震えて、息を呑んだ。

 並木道が途切れたら、開けた場所に出た。灰色の石で組み立てられた背の高い塀と、開かれた黒い格子状の門扉があった。タクシーは左側のドアが門扉の前に来るように停まった。あたしが紅色の名刺を持っていたせいか、お会計の時に端数分をまけてくれた。

「すみません、ありがとうございます」

「当主様のお友達だからね、他の人には内緒だよ。いい週末を、お嬢ちゃん」

 やはり愛想の良い笑顔で、おじさんは並木道を戻って走り去っていった。タクシーのテールランプが遠ざかるのを見送って、改めて棘の館を見上げた。

 開かれた門扉から整然と白い敷石が並んで、敷石の先にこげ茶色に艶めく重厚な両開きの玄関扉らしきものがあった。扉の両脇にオレンジ色のランプがぶら下がっていて、玄関扉を闇の中に妖しく浮かび上がらせていた。館の周辺は芝生になっていて、遠くの闇にようやく森の木々が確認できるかというほど広大な庭だった。右手の指に名刺を持ったまま、もう一度息を呑む。開かれた門扉を踏み越えて、一歩ずつ玄関扉に近づいていく。日の落ちた森の中は寒くて、足元を冷たい風がすり抜けていった。

「……姉さん、あたしを守って……」

 緊張と気温で肌の表面から熱が飛んでいく。震えながら辿り着いた玄関扉の横に、白い小さなブザーがあった。呼び鈴らしい。ブザーに手を伸ばそうとして、止めた。泉実がしていたように、胸に手を当てて、何回か深呼吸した。出てくるのは執事さんだろうか、それとも、メイドさんだろうか。ひょっとしたら当主様本人が出てくるかもしれない。どうやって説明しようか、なにから話すべきだろうか。棘科邸を目の前にして、ぐるぐると思考が巡り、頭の中が回り出す。ブザーに伸ばしかけた手を止めたまま固まっていると、玄関扉の鍵が外れる音がして、驚いて飛び退いた。ぎい、と重々しい軋みが聞こえて、こげ茶色の片側だけが開いた。

「こんばんは」

 すうっと胸を抜けていく、透き通った声。現れたのは、小柄で華奢な少女だった。腰まで伸びる切り揃えられた黒髪、長い睫毛がなぞる釣り目がちな赤い瞳、青白く見える色の薄い肌。冷たくも感じる神秘的な雰囲気の彼女は、可愛らしく小首を傾げ、自然な微笑みをあたしに向けていた。詰襟の黒い長袖ワンピースを着て、長いスカート部分が秋風に揺れていた。

 とんでもない、美少女。

 ありふれた言葉かもしれないけれど、人形を見ているようだった。

「あああ、あのっ、あの、あたし、あたしはっ」

 赤い瞳の目力と美しさに気圧されて、頭が真っ白になった。めちゃくちゃな言葉しか出てこないあたしを見て、一度微笑みが消えて、その赤い瞳がきょとん、となったけれど、すぐにまた笑顔を戻した。

「針ノ木蓮華さん、ですね。ようこそ、棘科邸へ」

「えっ! ど、どうして、あたしのことを」

 名乗っていないのに、少女に名前を言い当てられた。少女は微笑んだまま、重たい玄関扉を開ききって、あたしを迎え入れてくれた。促されるまま、あたしも巨大な館へ足を踏み入れた。


 オレンジ色のランプが壁からぶら下がっている、灰色のタイルが続く細い道。少女の小さな背中に連れられて真っ直ぐ進むと、ギラギラと輝く豪奢なシャンデリアが吊り下げられた大きなエントランスホールについた。シャンデリアの光を受けて、床や壁が真っ白に輝いて、目が痛くなるほど眩しかった。正面には広い階段があって、途中で左右に分かれて二階へ続いていた。タイルの床との境目に、真っ赤な長方形の絨毯が敷かれていて、その上に茶色のふわふわしたスリッパが置かれていた。

「この絨毯からはスリッパでお願いします。汚すと執事がうるさくて」

「は、はいっ。すぐ履き替えます!」

 急いで紐を解いてブーツを脱ぎ、タイルの上に並べた。スリッパに履き替えたら、少女が「こちらへ」とエントランスホールの右奥にある小さな部屋に通してくれた。

「お茶を持ってきます。座ってくつろいでいてください」

 部屋に通されたら、少女はすぐに出て行ってしまった。

 この部屋はどうやら客間らしい。ベージュ色の壁紙と、赤色のカーテン、床にはやはり赤い絨毯。当主様は名前のとおり、赤色や紅色が好みなのだろうか。部屋の中央に小さな丸テーブルが置かれていて、テーブルを挟むように二つの椅子が置かれていた。少女の言葉に甘えて椅子に座ったら、深いため息が漏れた。そして、またぐるぐると頭の中に考えが巡り始めた。

 どうしてあたしの名前を知っていたのだろう。講演会の後、当主様があの少女にあたしのことを話したのだろうか。それに、あの少女は一体誰だろう。あたしよりも年下に見えるけれど、メイドさんなのだろうか。泉実を助けるために当主様に話をしに来たのに、まだ用件も伝えられていない。名乗ることだって、できていない。

「こんなことで大丈夫かなぁ……」

 天井を見上げたら、チューリップのような形をした綺麗な電灯が六つ、花が開くように並んでいた。憧れる当主様の邸宅に来ているというのに、嬉しさも喜びもなく、ただ不安と緊張に埋め尽くされて気が滅入ってしまっていた。

「失礼します」

 ドアの向こうから声が聞こえて、少女が銀色のトレイを持って入ってきた。真っ白な陶器のティーカップがテーブルに置かれ、綺麗な琥珀色をした紅茶が湯気を立てていた。紅茶と一緒に、小皿に入った五百円玉くらいの大きさをしたクッキーも出てきた。大富豪の家に連絡もなしに訪ねて、お茶とお菓子まで出してもらっている。用件も伝えていないのにいいのだろうかと、ますます不安になった。少女はあたしに紅茶とクッキーを出し終えると、トレイを胸に抱えたまま、あたしと向かい合う形で椅子に座った。さて、という風に小さくため息をついて、少女が口を開いた。

「自己紹介します。私、棘科輝羽とげしな あきはといいます。紅羽の妹です」

 ぺこり。綺麗な黒髪が動きに合わせてさらさらと動いた。

 自己紹介されて、あっ、と声が出た。昔、棘科グループの特番を見た後、一生懸命当主様のことを調べようと、雑誌や書籍を読み漁った。その時に妹が一人いるというインタビュー記事を読んだことがある。混乱して思い出せなかったけれど、まさか、当主様の妹にお茶を出してもらうなんて。恥ずかしさと申し訳なさでいっぱいいっぱいになってしまって、椅子から立ち上がって何度も頭を下げた。

「うわああ、ご、ご、ごめんなさい! 妹様にお茶っ、お茶出してもらうなんてっ」

「輝羽、で結構ですよ。そんなにかしこまらないでください。来客にお茶を出すのは当然じゃないですか。座ってください、大丈夫ですから」

 くすくすと、やはり綺麗な声で笑う輝羽さん。容姿も神秘的で不思議な雰囲気があったけれど、話してみると意外と明るくて、可愛らしい女の子だった。

「タクシーが走ってくるのを窓から見たので、お迎えに行きました。驚かせてしまって、ごめんなさい」

「そ、そうですよね。てっきり超能力かと思いました」

 そんなおかしなことを言いながら、もう一度椅子に腰を下ろした。

 以前、講演会の後に当主様と話した時、直感の話をしていた。ひょっとしたら輝羽さんは当主様の話す直感で来客を察し、迎えに来てくれたのか、とも思ったけれど、そんなことはなかったらしい。あたしが針ノ木蓮華であることも直感ではなくて、当主様から話に聞いていて分かったのだろう。

「姉は今、執事と出かけています。じきに帰ってきますが、私でよろしければ、ご用件をおうかがいします」

「あー、はい。えっと」

 話しづらくて視線を落としたら、琥珀色の海が見えた。紅茶の香りが湯気に乗ってあたしの鼻をそっと撫でる。泉実は今、どうしているだろう。泉実の両親はフルートが壊されたと聞いて、どう思うだろうか。泉実のことを心配していたら、輝羽さんのお出迎えで混乱していた頭が落ち着きを取り戻してきた。しばらく無言で話したいことを整理していたら、輝羽さんが心配して声をかけてくれた。

「……つらいことですか?」

 透き通った、優しい声にはっと顔を上げた。赤い瞳が心配そうにあたしを見つめている。

「姉に連絡しましょうか?」

「いっ、いえ。あたし、すごく、ずうずうしいお願いをしようとしていて……」

 泉実を救うためにフルートが必要。泉実の心を支えるフルートを手に入れる方法を考えて、思い浮かんだ「武器」が当主様だった。当主様しか、頼れる人がいなかった。あたしの話を聞いてくれるかもしれないと、唯一希望が持てた存在。でも、話すことで最悪の結果に終わってしまったら。泉実のフルートも手に入らず、あたしの夢も潰えてしまったら。そう考えると急に恐ろしくなった。

「話してみてください。針ノ木さんの中ではずうずうしく感じられても、我々が聞いてみれば、そんなことはないかもしれません。まずは気を楽にして、相談してみてください」

 ふっ、と、穏やかに微笑む輝羽さん。

 まずは、相談する。そう考えたら、恐れを感じていた心が僅かに落ち着いてきた。

 そうだ、黙っているよりも、話さなくては前に進まない。いきなり結果は求めず、なにが起きたのか話してみよう。その後で、あたしの願いを伝えればいい。同情を求めることになるかもしれない。悲劇のヒロインぶったような話をしてしまうかもしれない。それでも、どうしても泉実を助けたい。あたしが愛する大切な人の心を、支えたい。

 息を呑んで、輝羽さんの赤い瞳を見つめ返した。彼女の目力は、強い。強いその瞳に負けないようにしっかり見据えて、口を開いた。

「今日、あたしの大切な人のフルートが壊されてしまったんです」

「大切な人?」

「はい。吹奏楽部に所属してる、フルート奏者。あたしの、とても大切な人なんです」

 今までの出来事をさかのぼり、話を聞いてくれる輝羽さんが混乱しないように言葉を選んで、一生懸命説明した。あたしが中野と付き合っていて、悪い別れ方をしたこと。それ以来因縁をつけられて、陰口や悪口を言われるようになったこと。講演会の後に中野と争った泉実のこと。そして、今日、泉実のフルートだけが壊されて、コンクールを前に、泉実が追い詰められてしまったこと。全てを正直に、脚色もせず輝羽さんに伝えた。輝羽さんはあたしの目を見ながら、時折うなずいたり、心配そうに眉をひそめたり、親身になって話を聞いてくれた。泉実を救うために、頼れるのが町の守護者である棘科一族しかいない。細い縁の糸で結ばれた、あたしと棘科一族の儚い縁。それにすがるしかなかった。

 一通り話し終えて、小さく息をつくと、輝羽さんが微笑んだ。

「起こった出来事を理解しました。ひとまず、冷めないうちに召し上がってください」

「あ、は、はい、すみません。いただきます」

 促されるがまま、ティーカップを口に運んだ。話し疲れた口と喉には、少し熱を失った紅茶は飲みやすかった。落ち着く香りと一緒に温かい熱がお腹に下がっていって、優しいため息が漏れた。輝羽さんは考えを巡らせるように、抱えている銀のトレイを指先でコンコンと叩きながら宙に視線を投げていた。当主様も腕組みをして指をトントンしていたのを思い出して、なるほど、姉妹なんだ、と口元が綻んだ。

 あたしが紅茶をもう一口飲んだところで、輝羽さんが口を開いた。

「最初に一つ、安心してください。私は針ノ木さんの恋愛対象について、否定するつもりはありません。私の近くにも針ノ木さんと同じ愛の形を取る人がいますので、理解できます。それについては気後れや不安は感じないでくださいね」

 向けられた微笑みに、嘘は感じられない。安心して、話を続けることにした。

「ありがとうございます。……これがずうずうしいお願いだというのは分かっています。でも、大切な人がしてきた努力を卑怯者に壊されたまま、無駄にしたくないんです! あたし、頑張って棘科グループに就職します! どんなにお金が必要になっても、しっかり働いて、必ず、返していくと約束します! だからっ」

 立ち上がって、深く頭を下げた。

「泉実のフルートを、どうか、取り戻してくれませんか! お願いします!」

 愛用していたフルートは壊されて修理できない。学校の備品であるフルートは整備不良で使えない。先生が方法を考えるとは言っていたけれど、楽観できない。だからこうして、直接お願いしにきたのだった。これが、フルートを壊した犯人と戦うための、泉実を救うための武器。本当は当主様に直接話したかったし、話したところでこの願いが叶うかどうかも分からない。しかし、叶う、叶わない以前に、言葉にして想いや考えを伝えなければ状況は変わらない。輝羽さんはそのチャンスをあたしに与えてくれた。だから、全てを正直に、自分の願いと想いも含めて、輝羽さんにぶつけた。

 輝羽さんが口を開くまで、両目を瞑って頭を下げたまま、じっと動かなかった。どれくらい沈黙しただろうか、短くも長くも思える時間が過ぎて、澄んだ声があたしを貫いていった。

「顔を上げてください。……理不尽な暴力に抗う、真っ直ぐな想い。大切な人のために、姉を信じて、頼ってくれたのですね」

「はい……。講演会の日、あたしと話がしたいって声をかけてくれて、あたしの将来の夢に耳を傾けてくれた。一人でこの土地に出てきたあたしにとって、心の底から信頼できる人だったんです」

 顔を上げたら、輝羽さんは穏やかに微笑んだままだった。泉実があたしに向ける微笑みとは違う。今まで戦ってきたあたしや泉実を労わり、慈しむ、深い情。それは、棘科一族として、町の守護者の末裔として、守るべき人々に向けられる微笑みだと感じられた。

「守護者の一族として、姉も私も嬉しい限りです。守りたい人に信じてもらえるからこそ、私たちは町を守ることができる。……となれば、当然応えなくてはいけません。針ノ木さんと、針ノ木さんの大切な人を守るために」

 輝羽さんはうなずくと、ワンピースのポケットから黒いカバーのスマートフォンを取り出した。手馴れたように画面をタップして、耳元に運ぶ。少し間があって、誰かと話し始めた。

「もしもし。今、大丈夫? ああ、よかった。実は今、針ノ木さんが来てて――」

 電話の相手は、どうやら当主様らしい。輝羽さんが、当主様に話をしてくれている。まだ叶うか分からないけれど、当主様に話が伝わったことがすごく嬉しくて、期待で胸が詰まりそうだった。短い会話の後に、輝羽さんがスマートフォンをしまった。あたしに微笑み、うなずく。

「今、執事の車で帰っていて、あと数分で戻れるそうです。大丈夫、姉は力になってくれます」

「よかった! ありがとうございますっ!」

 もう一度、深く頭を下げた。下を向いたら、涙がこぼれてしまった。今日は学校でも泣いて、ここでも泣いて。泉実も泣いていたし、泣いてばかりの一日だった。輝羽さんは涙を拭うあたしを気遣って、新しいフルートを用意するだけでなく、フルートを壊した犯人も突き止められるように協力すると話してくれた。

 しばらくして、外出から戻った当主様が客間に飛び込んできた。本当に今帰ってきたばかり、というように、紅色のジャケットを着たままで、森の匂いを纏っていた。あたしも慌てて椅子から立ち上がって、二度、三度、頭を下げた。

「と、当主様、すみません。いきなり押しかけてしまって」

「いいのよ、そんな。楽器が壊されたとか、穏やかじゃないわね。なにがあったの?」

 輝羽さんを交えて、もう一度事の顛末を説明した。あたしの話を聞きながら、当主様は学校で見せたように腕を組んで、指先をトントンと動かしていた。輝羽さんと話した時よりも早足の説明になってしまったけれど、輝羽さんのフォローもあって、当主様はすぐに事件の流れを飲み込んでくれた。着ていたジャケットを脱いで、自分の腕にかけながら呆れたようなため息をつく。当主様と輝羽さんが顔を見合わせて、同じ動作で肩をすくめた。

「指名したの、仕込みだって言われちゃった。お姉ちゃん泣いちゃう」

「またまた、気にしてないくせに」

 輝羽さんが笑いながら言うと、当主様も人懐っこい笑顔を浮かべて輝羽さんの頭を撫でた。昔、あたしの姉が生きていた頃も、こうやって頭を撫でてくれた。当主様と輝羽さんはとても仲が良く、あたしが失ったものを持っているようで、うらやましかった。

「蓮華さん。フルートは必ず間に合わせるわ。壊したのは蓮華さんじゃないんだから、お金のことは考えなくていいからね。でも、用意したら、泉実さんのところに持っていって、しっかり励ましてあげるのよ?」

「はいっ! ありがとうございます!」

「よろしい、いい子ね。フルートを壊した犯人についても情報収集をしましょう。そう、教育委員会や学校にも動いてもらえるように、とことん情報を集めてやるのよ。泣き寝入りも隠蔽もさせないわ」

 話しながら、当主様は客間の入り口近くにある壁掛けの白い電話を取った。内線らしく、執事さんに泉実が使っていたフルートの調査、代替品の手配と、壊した犯人の調査を棘科グループを通じて大至急行わせるように指示を出していた。最初は無茶な行動かと思ったけれど、勇気を出してここまで来てよかった。新しいフルートのことも、フルートを壊した犯人のことも、解決に向かって前向きに進もうとしている。紅色の名刺は、タクシーのおじさんが話したとおり、あたしに幸福を運んでくれた。

「さて、蓮華さん。あなたはもう一つ、大切なことをしなくてはいけません」

「大切なこと?」

 当主様が腰に手を当てて、あたしと輝羽さんを交互に見た。そして、にこっ、と笑う。

「夕飯。ご飯って、すごく大切なのよ」


 太い黒革の腕時計を見たら、夜の七時半をとうに過ぎていた。学校が終わって、泉実を送った後、慌てて棘科邸を訪れたから、時間をすっかり忘れてしまっていた。当主様はあたしが一人暮らしだということを覚えてくれていたみたいで、家に戻らず、食事も取らずに奔走していたあたしを気遣って、今夜は棘科邸で休んでいくよう言ってくれた。もちろん最初は遠慮したけれど、フルートを手配したらすぐにあたしに預けられるから一石二鳥だと言われて、観念して当主様の厚意を受け入れることにした。

 夕食のために案内された食堂は、なんとキッチンの裏にある、使用人食堂だった。こげ跡や傷のついた木目のダイニングテーブルと、一昔前の古ぼけた小さな冷蔵庫が、天井から頼りなく照らす暖色の蛍光灯に浮かび上がっていた。食器が並んだ木の棚や、冷蔵庫に貼り付けられた中学校のプリントなど、あの眩くて豪奢なエントランスホールからは想像できないほどに家庭的な空間だった。この棘科邸には来客用の巨大な食堂もあるらしいけれど、住んでいるのが当主様、輝羽さん、そして執事さんの三人だけだから滅多に使わないそうだ。「広すぎて寂しいから」、そんな当主様の言葉は町を守る大富豪とは思えないほど、人間らしいような気がした。

「おう、来たか。もうちょっと待っててくれよ」

 食堂に入ったら、小気味良い調理の音と肉の焼けるいい香りがして、忘れていた空腹感が急に強くなった。キッチンと食堂を隔てるカウンターから、ショートカットの金髪で碧眼の、背の高い女性がニコニコと笑ってこっちへ出てきた。腕まくりされた黒い長袖のシャツと、スキニージーンズを履いて、青いチェックのエプロンを身につけていた。

居谷里いやりあやめだ。棘科家の執事をしてる。よろしくな」

 片手を挙げて、にかっ、と笑う。執事さんとは思えないほどラフな感じの印象を受けたけれど、嫌味や悪態には全く見えない。むしろ、彼女の砕けた物言いはあたしの緊張を解してくれるようだった。あたしも失礼のないように頭を下げて名乗った。

 あやめさんはこの巨大な洋館を一人で切り盛りする凄腕の執事さんで、当主様と輝羽さんが絶大な信頼を寄せている人。食事や洗濯はもちろん、館内の掃除や維持、棘科姉妹のスケジュール管理、時には当主代理として他企業との会合にも参加するそうだ。

「フルートのことだけじゃなくて、夕飯や寝床までお世話になるなんて。本当にありがとうございます」

「なぁに、気にするな。フルートは超一級品を手配してやる。ぶっ壊したヤツが腰抜かすほど、とびっきりのフルートだ。正面からぶつかってやろうぜ」

 くっくっく、と目をぎゅっと瞑って笑いながら、あやめさんがキッチンに戻っていった。あやめさんの言うとおり、壊した犯人に正面から戦って、驚かせてやりたい。見返してやりたい。フルートを壊すなんて卑怯な方法で、あたしたちは負けない。

「さ、座って座って。あやめの料理は当主様公認なんだから、期待していいわよ」

 当主様に言われて、大人しくダイニングテーブルの席に着いた。座ってカウンターの方に目をやると、あやめさんが思い出したように声を上げた。

「あ、そうだ。おい、輝羽、お前テスト近いだろ? ちゃんと勉強してるか?」

 ガチャガチャとフライパンを動かす音と一緒に、そんなことを言った。席に着きながら、輝羽さんは苦笑いを返した。

「してるよぅ。毎回、テスト結果も通知表もしっかり見せてるじゃない」

「疑ってるわけじゃないって。油断してるといけないから、一応な」

「油断してませんよーぅ」

 あたしと向き合って話していた時の凛としていた輝羽さんはどこへやら。ごく普通の家庭で、姉にたしなめられる妹を見ているようだった。当主様も頬杖をつきながら楽しそうに輝羽さんの顔を眺めていた。懐かしい母性すら感じる優しい眼差しは、姉として心から輝羽さんを大切にしているのだと分かる。あたしの姉も、命を絶つ直前まであたしにこんな眼差しをくれていた。自分の考えが絶対的に正しいと他人を否定し続け、見下し続ける兄と違って、姉は他人を慈しみ、思いやれる人だった。人一倍敏感で優しく、周囲の人に気を遣いすぎてしまったから、姉は思い詰めて死を選んでしまった。兄に言わせれば、姉のような人は根性なしで甘い人らしいけれど、あたしはそうは思わない。隣にいる人を大切にできる、思いやれる人こそ、強い人だと信じている。当主様も身近な人である輝羽さんを思いやり、大切に守れるから、大きなものだって守ることができるのだ。それは棘科グループで働く人たちだったり、この土地に生きる人たちだったり。だから、当主様はみんなに慕われているのだ。

「あら? やだ、蓮華さん。そんなに見つめないで」

 いつの間にか視線を注ぎすぎてしまったようだった。当主様は頬杖をついたまま笑って、優しい眼差しをあたしに向けた。ドキッとして、顔が熱くなる。頬に両手を当てながら急いで言い訳を探した。

「すっ、すみません! あの、その、む、昔を思い出してしまって! あたしにも姉がいたので、懐かしいなぁって、ははは」

「……いた?」

 乾いた笑いでごまかそうと思ったけれど、さすが大富豪の当主様。そう簡単には引き下がらず、笑顔のまま首を傾げた。続きを促すように聞き返されたけれど、そこへステーキ皿を器用に三枚持って、あやめさんが割り込んできた。

「おら、メシができたぞ」

 熱いステーキ皿が奏でる肉の焼ける音、そして香ばしい匂い。私たち三人の前に手早く並べられたのは、シンプルな盛り付けのステーキだった。良い色に焼けたステーキの上に溶けかかった丸いバター、付け合せはポテト、いんげん、キャロットグラッセ。食欲をそそるステーキに見入っていると、あやめさんが更にポタージュスープとライス、サラダを持ってきた。まるでレストランで出されるような食事だった。

「今日はハンバーグじゃなかったの?」

 食事を並べ終えて満足げにうなずくあやめさんを見上げて、当主様がそんなことを言った。ハンバーグ、と聞いて、あたしの肩がぴくりと震える。あやめさんは真剣な表情で腕組みをした。

「そんなひどい真似ができるかっての。蓮華ちゃん、緊張しないで自分のペースで食えよ。メシは落ち着いて、楽しく、美味しく食うべきだ。残したら食ってやるから心配すんな」

「は、はい。ありがとうございます」

 ひどい真似とは、どういうことだろう。別にハンバーグはひどい食事ではない。あたしにとっては苦手な食べ物になってしまったけれど、失礼でもなんでもない、普通の肉料理のはずだ。

 ひとまず、あやめさんの心遣いに感謝しながら、三人で「いただきます」をして、豪華な夕食に手をつけた。食事中は姉の話も中断されて、あたしの通う高校の話や、輝羽さんが通う中学校の話が中心になった。他愛ない、穏やかな会話と美味しい食事。大富豪の家に来ているのに、この家庭的な雰囲気があたしに懐かしい心地よさを感じさせた。でも、その心地よさの隣に、あたしは奇妙な引っかかり、痞えを覚えていた。

 本来の夕食だったハンバーグ。

 そして、あやめさんの「ひどい真似」という言葉。

 あやめさんはまるで、あたしの苦手なものを知っているようだった。内心、ハンバーグでなくてよかったと思っている。ハンバーグを食べれば、あたしは多分、戻してしまうかもしれないし、戻さなくても食べ切れなかっただろう。せっかく出された食事を粗末にする可能性があったから、あやめさんのメニュー変更は本当に助かった。

 最初に夕食を平らげたのはあたしだった。自分でも驚くほど、綺麗に皿の中身がなくなっている。会話も弾んで、料理も美味しくて、本当に楽しい夕食だった。フォークとナイフをステーキ皿の端に揃えていたら、あやめさんが空いた皿を下げにきてくれた。あやめさんはニコニコと、心底嬉しそうに笑っていた。

「嬉しいねぇ。こんなに綺麗に食べてもらえると、もう一枚焼きたくなっちまうぜ」

「すごく美味しかったです。こんなに美味しいステーキは初めてですよ」

「よせよ、照れちまう。デザートもあるからな、待ってろよ」

 鼻歌を歌いながら、あやめさんがあたしの食器を持ってキッチンに消えた。当主様と輝羽さんももう少しで完食というところだった。気持ち、当主様より輝羽さんの方が食べるペースがゆっくりに感じられた。

 しばらくして、当主様と輝羽さんも夕食を食べ終わり、あやめさんも交えて、デザートのシャーベットをいただきながらまた楽しい会話になった。当主様とあやめさんは心底輝羽さんが可愛い様子で、気がつけば話題の中心は輝羽さんになっていた。輝羽さんは何度も「私のことはいいから」と話を変えようとしていたけれど、すぐに輝羽さんの話題に戻ってしまうのだった。

「輝羽ってすごいんだぞ。小さい時から小難しい小説とか実用書を何冊も読み漁ってな。紅羽の書斎にある本なんて全部読み終わっちまったんだ。テストじゃいつも満点取ってくるしさ、学校の先生も参ってるらしいぜ」

「私の妹だもの」

 あやめさんが興奮した面持ちで話し、当主様が自慢の妹だと言わんばかりに胸を張っている。あやめさんの口にはいつから入っていたのか、棒つきキャンディが頬張られていた。

「も、もう、お客様の前で私の話ばかりしないでよ。ごめんなさい、針ノ木さん」

「全然、気にしないでください。あたしも輝羽さんのことが分かって、楽しいですよ」

 笑いながら、謝る輝羽さんに答える。輝羽さんは余計に照れてしまったのか、赤くなった顔を長い髪で隠すように深くうつむいてしまった。ミステリアスな美少女が見せる、年頃の女の子らしさが可愛かった。

「で、でも……。あ、そうだ。あやめ、フルートは? フルートはどうなったの?」

 思い出したように、ぱっと輝羽さんが顔を上げた。あやめさんは食器棚の上にかかった鳩時計を見上げた。つられて時計を見ると、時間は九時を回っていた。

「おう、そうだな。そろそろ一次調査が終わる頃か」

 そう言った次の瞬間、キッチンの方で電話の呼び出し音が鳴り響いた。あやめさんはあたしにウインクすると、電話を取りにキッチンへ走っていった。一次調査、ということは、棘科グループを通して行う手配には段階があるのかもしれない。なんにせよ、学校の備品より、泉実が使っていたフルートに似ているもの、近いものが手に入れば、きっとコンクールでも泉実は戦えるはずだ。

「すみません。お願いしにきたのはいいけど、あたし、泉実のフルートについて、なにも知らなくて……」

「それだけ切羽詰っていたのよ。コンクールも近くて、大切な人も追い詰められているのなら、壊されたフルートのことを冷静に調べる余裕なんてできるわけないわ。大丈夫、あなたが慌てていたのは理解できるから、気に病まないで」

 シャーベットを口に運びながら、あたしを安心させるように微笑む当主様。本当にどうしてここまで優しくしてもらえるのか、あたしにはさっぱり理解できなかった。個人的な名刺をくれた理由も分からない。町を守る守護者としての心意気なのか、それとも、あたしになにか対価を求めているのか。考え込んでいると、当主様がスプーンを置いて急に姿勢を正した。

「そろそろ、正直な話をしましょうか」

「えっ」

 当主様と輝羽さんの赤い瞳が、頼りない蛍光灯に照らされて深みを増す。

「あなたとはしっかり話をするべきだって、講演会の時に言ったけれど、覚えてる?」

「覚えてます。名刺もいただきましたから」

「ええ。紅の名刺を渡す人は、私にとって特別な人。あなたが講演会で私に向けていた視線と直感で、このまま放っておくわけにはいかないと思ったの」

 ティーカップを口に運ぶ。優雅に流れる動きで一口。

「放っておいたら、蓮華さんはなにかに殺されてしまう。それが人なのか、環境なのか分からないけれど、とにかくそう思ったのよ」

「こ、殺される?」

「輝羽」

 当主様が声をかけると、輝羽さんがうなずいて立ち上がり、食堂を出て行った。彼女はすぐに戻ってきて、当主様に真っ黒なリングファイルを手渡した。ファイルの背表紙に「針ノ木蓮華」とラベルが貼られているのを認め、背中がぞわりと恐怖になぞられた。手渡されたリングファイルを開きながら、当主様は静かに話を続けた。

「全く失礼なことだとは思うけれど、棘科グループを通してあなたの生い立ちを調べさせてもらったわ」

「そ、そんな、どうして」

「守護者の末裔として、あなたの心の闇は見過ごせない。棘科グループを目指したいと夢を追う若者を、理不尽な重圧に殺されるわけにはいかないのよ」

 赤い瞳が鋭くなって、あたしを貫いた。余裕を持って穏やかに話していた当主様の口調が、急に低く、身体を底から揺らすように恐ろしく感じられた。声色は恐ろしかったけれど、その言葉は使命感に後押しされた、力強いものだった。当主様の言葉に続いて、綺麗に透き通った声で輝羽さんも口を開いた。

「勝手に針ノ木さんの過去を調べたことは謝ります。でもこれは、針ノ木さんを疑っているのではなく、針ノ木さんを救うためになにができるのか調べるためです。たった一人でこの町に来て、大叔母さんの仕送りと自分のアルバイト代で生活する。それだけ必死に棘科グループを目指すのには、深い理由があるはずだと思って……」

「そう。あなたが抱えている心の闇……。あなたの口から真実を、あなたの苦しみを、教えてほしいの。それとも、勝手に調べたりした私たちは、信頼するに値しないかしら?」

 当主様と輝羽さん、姉妹揃って赤い瞳をこちらへ向ける。二人の視線からは逃れられそうもなかった。あたしのことを調べる。それは姉の自殺と、兄にいじめられて育った過去を知っているということだった。あたしの過去を調べた理由は、この町の守護者として、心の闇を見抜いて、助けようとしているからなのだ。あたしに救いの手を差し伸べてくれて、泉実のフルートも手配して、夕食や寝床まで用意してくれた。そんな人たちを、悪だと疑うなんて、できるわけがなかった。

「当主様や輝羽さんのことは信頼しています。泉実のフルートも手配してくれて、夕食も、寝床もお世話になって……。でも、同情してほしいだけだと思われてしまうのが怖くて、話せないです。ごめんなさい」

 自分を庇うための材料にはしないと心に決めていた。しかし、講演会の時、あたしは当主様に救いを求めるような視線を送ってしまった。あの時話したことがあたしの過去ではなくとも、あれではまるで、大富豪の当主様という、違う次元に生きる人に同情を求める行為だ。特別なことをしてもらえると期待するようで、自己嫌悪しそうだった。

「針ノ木さんは、同情を求めずに話すことができるはずです」

 ふと、輝羽さんが静かに口を開いた。あの透き通る声が、またあたしを貫いていく。

「フルートを取り戻したいと話した針ノ木さんの言葉は、同情を求めるものとは違いました。大切な人を救うために、自分ができることをしたい。理不尽な暴力に抗おうとするものでした。それと同じように、話していただければいいのです。紅羽が、姉が紅の名刺をあなたに渡した意味を、信じてください」

「意味……」

 輝羽さんから視線を外して、当主様を見た。先程の鋭い瞳は消えて、落ち着いた様子で紅茶を口に運んでいた。

「蓮華さん。あなたに同情を求められたから、この話をしたわけじゃないの。私たちは、自分の目で蓮華さんを見て、判断しているのよ。自分の目で見て、蓮華さんの苦しみを見つけたから、自分の意思で助けたいと思ったの」

「見て、くれた……。あたしを……」

 講演会で当主様があたしに向けた哀れみの視線は、そういうことだったのか。棘科グループを目指すと語るあたしの中に見つけた心の闇、苦しみ。当主様は守護者として、それを見過ごすことができなかった。だからあたしを呼び出して、特別な名刺を渡して、あたしが苦しみに潰されないように頼れる場所を作ってくれていたのだ。泉実と同じ、あたしを見て、判断してくれた。あたしを見つけてくれた。中野とは違う。恋人だったのに、理解しようと言葉を交わさなかった、行動にしなかったあいつと全然違う。こんなにもみじめで甘ったれたあたしを、見つけてくれたのだ。

 うつむいたら、溶けかけたシャーベットと、湯気が立ち上る美しい紅茶が見えた。痩せこけた姉の笑顔、変わり果てた姉の姿、兄にぶつけられた言葉と、幼い頃にされたいじめを思い出して、悔しくなった。根性なし、腐っている、人生が終わっている――自分が価値のない人間だと、姉を追って自殺してやろうと追い込まれるほどにぶつけられた、罵詈雑言。幼い頃に受けたおぞましいいじめの日々。叩かれ、蹴られ、痣ができた腕、折られた指、口の中の痛みと血の味。

 大嫌いな恐ろしい兄に投げつけられた言葉と身体中を触れられる感覚が瞬く。

 かつて、あたしの幼い身体を這い回った、唾液の温度、臭い――。

 真実を思い出した瞬間、腕の先から背中まで、肌の上を見えない虫が駆け抜けた。全身が粟立ち、涙が滲んだ。

――たすけて、おねえちゃん!

 気持ち悪くなって、思わず口元を押さえた。慌てて席を立ったら、足がもつれて床に尻餅をついてしまった。

「蓮華さん!」

 当主様が駆け寄って、あたしの肩を支えてくれた。気持ち悪さよりも尻餅をついた痛みが上回って、戻さずには済んだ。涙が溢れて、歯がカチカチ鳴って、身体も震えて止まらなかった。記憶の底に隠しておいた、兄があたしにした「いじめ」の真実。大好きな泉実にも話せていなかったことが、まだあった。泉実を信頼できなかったわけじゃない。大好きだからこそ話せない、汚れた過去だった。

「ごめんなさっ、ごめんなさい! ごめんなさい!」

 息が上がって、涙が溢れて止まらない。両手が湿っているのにすごく冷たくて、粟立つのが止まらない。子供に戻ったようにしゃくりあげて、何度もごめんなさいを繰り返した。

「大丈夫、大丈夫……。ここに怖い人はいないわ、大丈夫よ。謝る必要なんてないの。誰にも謝らなくていいのよ」

「うぐっ、うああっ、うああああっ!」

 泣きじゃくるあたしを、当主様が幼子をあやすように抱いて、頭を撫でてくれた。思い出した過去が怖くて、すがりつくしかなかった。


 幼いあの日、あたしは兄にいじめられていた。

 そのいじめの真実は、性的虐待と呼ばれる、そういうものだった。




 当主様の胸に抱かれ、すがりついて、どのくらい経っただろうか。輝羽さんも隣に来て、震える身体を落ち着かせるように背中をさすってくれた。冷静になったら、取り乱した自分が情けなくて、悔しくて、最初とは違う涙が滲んできた。当主様と輝羽さんからは甘くて胸が軽くなるような匂いがして、深呼吸をゆっくり繰り返すと、その匂いのおかげもあって、波立っていた胸の中が穏やかになっていった。

 棘科姉妹の温もりと優しい香りに包まれながら、あたしはぽつぽつと自分の過去を話し始めた。幼い頃、兄から受けていたおぞましい「いじめ」の真実。いじめから助けてくれた、大好きな姉の自殺。中学になって、兄があたしに浴びせた罵詈雑言の数々。そしてそれらが形作った、針ノ木蓮華という人間。大好きな恋人である泉実に話せたことと、話せなかったこと。当主様の腕の中で、姉に抱かれた懐かしさを感じながら、全てを話した。

 両親はあたしが兄から受けていたいじめを知っていた。あのいじめの真実を世間に知られたくない両親は、あたしが棘科グループへ就職したいという夢にかこつけて、一人暮らしを許し、兄の知らない土地へあたしを逃がしたのだった。兄が分からないよう、両親と大叔母は今もあたしが引っ越した先を言わないでいてくれている。あたしの連絡先や居場所を知れば、虐待をせずとも、兄は言葉であたしを追い詰めてくる。手を出さなくなった代わりに、よりひどい悪意と独善的な考えを持って、あたしの心を、壊しにくる。

 これは、あたしが生き残るための逃避。兄から逃れるための、避難。

 全てを話し終えた後、あたしの頭を優しく撫でながら、当主様が小さくうなずいた。

「ありがとう。私たちが恐ろしい過去を掘り返してしまったのに、全部話してくれたわね。本当にありがとう」

 穏やかにあたしを慰める当主様とは対照的に、先程まで落ち着いた様子を崩さなかった輝羽さんが、あたしの背をさすりながら険しい声で呟いた。

「許せない。自分の妹になんてことを。今すぐ探し出して――」

「輝羽」

 静かで短い喝が当主様から発せられて、輝羽さんが押し黙った。彼女はあたしの代わりに怒ってくれたのだと思ったら、少し嬉しくて、あたしの身体をさする華奢な手を自然と取っていた。泉実よりも小さい手で、本当に、人形みたいだった。

「あんな兄のために怒らないでください、輝羽さん」

 顔を上げて、頑張って微笑んでみた。当主様の胸からゆっくりと身体を起こして、床に座ったまま深いため息をついた。輝羽さんは長い髪を揺らしてあたしの顔をひどく心配そうに覗き込んできた。向けられる赤い瞳には、やりきれないという悔しさと、僅かな怒りが残っていた。

「どうして……。そんなにつらいことがあったのに……」

 また泉実の真似をした。胸に手を当てて、深呼吸。二人に慰められて、話せなかったことを吐き出すことができて、兄のおぞましい感覚は薄らいだ。鼻の奥に残っていた唾液の臭いも、棘科姉妹の甘い香りに流されて消えている。もう少し、懐かしさを感じる当主様の胸に甘えていたかったけれど、理性を強く持って、折れかけた心の芯を立て直した。

「姉さんの遺書に書いてあったから。強くなって、生きてくれって。あたしは、大好きな姉の言葉を守っただけです」

 姉を追って死のうと考えたこともあった。兄を殺してやろうと考えたこともあった。それでも思いとどまれたのは、大好きな姉の言葉があったからだ。姉の自殺は苦しい記憶でも、姉と過ごしてきた思い出はそれ以上に眩しい。夕陽のように眩しく、物悲しい、姉との優しい思い出が、味方のいなかったあたしの心を支えてくれた。だから、あたしは生きようと思った。大好きな姉が天国で安心できるように。悲しむことのないように、強くなろうと心に決めたのだ。

 あたしから視線を外し、輝羽さんがうつむく。長い黒髪がサラサラと流れ落ちた。

「……針ノ木さんの気持ちは、理解できました。でも、あなたの過去を知った以上、棘科一族として放ってはおけません」

 顔を上げた時、彼女から嘆きが消えていた。最初にあたしを迎えてくれた時と同じ、可愛らしい微笑みが目の前にあった。

「私たちはあなたを支えます。覚悟してくださいね」

「くすっ、そうね。蓮華さんが明るい未来を歩けるように」

 棘科姉妹が顔を見合わせて、可憐に笑った。

「おい、執事さんも忘れるなよ」

 電話をしにキッチンに戻っていたあやめさんが温かいおしぼりと、新しいティーカップを持って戻ってきた。床に座り込むあたしの前にしゃがんで、おしぼりを広げて差し出す。

「ほら。せっかくの美人なんだから、泣いたままだともったいないぜ」

 おしぼりを受け取って目元を押さえた。温かくて、ほっと落ち着いた。続けて、新しいティーカップを差し出す。漂う湯気に乗って、ハーブの香りが鼻を掠めていく。あたしが落ち着くようにハーブティーを用意してくれたようだ。

「ハンバーグが中止になったわけが分かりました」

 おしぼりを返しながら笑いかけると、ばつが悪そうにあやめさんが頭をかいた。

「悪かったよ。蓮華ちゃんのことを調べてたら、ハンバーグが苦手だって分かったからさ。執事としちゃ、お客様の苦手な食べ物を出すわけにはいかないだろ?」

「……ふふ」

 差し出されたハーブティーを受け取って、一口飲んだ。程よい温かさとハーブの澄んだ香りに、また深いため息が出た。ため息が出たら、一緒に重たいなにかが吐き出されて、胸の奥が軽くなった。

 知らない土地に来て、出会った恋人。目指す夢の途中で出会った、信頼できる人たち。姉を失ってから一人で抱えていた暗い記憶を受け止めてくれた。儚く結ばれていた縁の糸が、より強いものになってあたしたちを繋いでいく。愛する恋人と、支えてくれる仲間がいる。あたしはもう、一人じゃない。


 あたしが少し落ち着いてから、またみんなでテーブルを囲んで、お茶を飲みながらあやめさんの報告に耳を傾けた。泉実が過去に出場したコンクールの映像や写真をもとに、壊されてしまったフルートの特定はできたそうだ。現在、泉実の技量で演奏可能なフルートを調査中だという。既に愛用のフルートは生産が終わっており、後継のフルートなら用意できるということだったが、それだけでは壊した犯人への反撃には足りないと「超一級品」を手配させているそうだ。

「必ずコンクールに間に合わせる。落ち着かないかもしれないけど、待っててくれ」

「待ちます。泉実のために頑張ります」

「……強いんだな。嫌なことを思い出しても、大切な人のためなら立ち直ろうとする。芯が強い証拠だ」

 続いて、犯人の調査。電話の後に送られてきた調査報告書をテーブルに広げて、あやめさんが詳しく説明してくれた。疑っている中野と、学校での目撃情報だった。中野は午後二時前後に自宅から外出していることが分かった。その時間帯、中野の家族は仕事などで全員外出していて、自宅には中野一人だった。病院に向かった可能性もあたってみたけれど、今日、近隣の病院で中野が受診した記録は残されていなかったそうだ。

「で、これがまた愉快なんだ。午後三時ごろに学校前のパン屋さんが、マスクをつけた女子生徒が学校へ向かう姿を見てるんだよ。ほぼ同時刻、学校では保健の先生が、マスクをつけた女子生徒を目撃してる」

「午後三時ごろだと、六時間目の最中……」

「そうだ。その時間帯、北校舎で行われていた授業は一年生の生物、二年生の化学のみ。顧問の先生は職員室にいて、一階の第一音楽室は無人だったそうだ」

「壊す隙はあったんですね」

「残念なことだけどな。犯人については、もう少し詳しい聞き込みと現場の確認を頼んである。追って報告するから、待っててくれ」

「分かりました……」

 限りなく怪しい中野が、ますます怪しくなった。どうしてそこまでしなくちゃいけなかったのだろう。仮病を使って、危険を冒してまで楽器庫を破り、泉実のフルートを壊すなんて。どうして、そこまで人を憎まなくちゃいけないのか。元恋人の狂気を、あたしは信じることができなかった。

「元カノだからって考えすぎるなよ。いくらなんでも、やっちゃいけないことってのはあるだろ」

 あやめさんが優しい微笑みをこぼした時、スカートのポケットに入れていたスマートフォンが震えた。当主様たちに一言断って取り出すと、着信画面に「高瀬泉実」と出ていた。

「あ、い、泉実から電話だっ」

「えっ! 噂の泉実さん?」

 泉実だと聞いたら、当主様が声を上げて立ち上がった。輝羽さんもあやめさんも当主様につられるように立ち上がって、あたしの周りに集まった。「早く出て」と笑顔でジェスチャーする当主様に苦笑いを返して、緑色の応答ボタンにタッチした。耳にスマートフォンを押し付けると、三人も耳を寄せてきた。

「もしもし」

『もしもし、蓮華? ごめんね、夜遅くに。今、平気?』

「あ、あぁ、うん。平気だよ」

 答えながら、聞き耳を立てる三人を見回す。当主様がまたもやジェスチャーで促すので、観念して話を続けることにした。

『お父さんとお母さんに話したの。怒られなかったけど、ちょっぴり、寂しそうで』

「……そう、だよね。娘がいじめられたようなものだし……」

 電話の向こうで、悲しげにうなずく声が聞こえた。泉実にとってフルートと音楽は大切な存在だと理解してくれているのだから、泉実の両親も残念に思っただろう。

『あと、川口先生からも電話があって、なにがあったのかお父さんに説明してくれたよ。先生、私が使ってたフルートと同型か、後継モデルをどこかで借りられないか調べてくれてるみたいだけど……』

 泉実はそこで言葉を切った。あまり、芳しくなさそうだった。

「用意できるか微妙、って感じか……。明日はどうする?」

『予定どおり、練習には行くつもりだよ。先生が見つけてくれるかもしれないし、備品のフルートも、ひょっとしたら使えるかもしれないから。蓮華がたくさん励ましてくれたんだもん、意地でもステージに立つよ!』

 明るく、元気な決意だった。泉実はまだ諦めていない。フルートが壊された悲しみと恐怖を乗り越えて、ステージに立つつもりでいる。泉実の前向きな言葉と声を聞いたら、あたしにも元気が戻ってきた。恋人である泉実と、あたしを囲う信頼する三人。改めて、一人じゃないと、あたしの心に太い芯が通った気がした。

「さすが。不安になったらすぐに言って。嫌になるくらい応援してあげる」

『くすっ、ありがと! ね、明日、練習見に来ない? コンクール前は一日中練習だし、時間はいつでも大丈夫だから』

 聞き耳を立てていたあやめさんが時計に目をやった。そして小声で「午後に行くって言いな」と囁いてきた。その頃までに、フルートを手配するということだろう。うなずいて、明るい声で返事をした。

「オッケー。じゃ、午後に行こうかな。いい?」

『もちろん! コンクール前だし、思い切り甘えちゃおっと』

 本当に可愛らしい。あたしが笑みをこぼすと、聞き耳を立てていた三人も同じように優しく笑ってくれた。あたしと泉実を見守ってくれているようで、安心する。

『……今すぐ会いたいくらい。ずっと一緒にいたいよ』

 スマートフォンを耳に押し当てているあたしですら、聞き取れないくらいにか細い声だった。遠くに聞こえる声にはあたしへの想いが込められている。愛する人に想われていることを改めて知ると、胸の奥に温かく、優しい波が寄せてきた。あたしも会いたい。ずっと泉実の感触と温もりに触れていたい。同性なのに受け入れてもらえて、こんなにも想ってくれる泉実。大好きで、大切な、あたしの天使。

「コンクールが終わって部活が落ち着いたらさ、休みの日に一日中、泉実と一緒にいる。棘の森温泉街とか、出かけてみない?」

『あっ、行きたい! コンクール頑張るから、約束だよ?』

「ん、約束」

 初めて一緒に帰った日の指切。結ばれた小指の感触が浮かんで消えた。

『声が聞けて良かった。なんだか、安心するの』

「あたしも。ほっとする」

 棘科家の三人に聞かれているのも忘れるほどに、心地よい沈黙があたしと泉実の間に流れた。電話が繋ぐ互いの存在感は、愛しい恋人が隣にいるように錯覚させる。それだけ、あたしと泉実の想いは繋がっているのだと、信じられた。

「しっかりね」

 先に沈黙を破ったのはあたしだった。電話の向こうで、可愛らしくうなずく声を聞きながら、手配してくれているフルートに大きな期待を寄せた。泉実の技量で演奏できる、超一級品のフルート。新しいパートナーを泉実に届けて、泉実ができる最高の演奏をしてほしい。それが、壊した犯人に対する最大の反撃になる。

『ありがとう、蓮華。それじゃ、おやすみなさいっ』

「うん。おやすみ」

 短い会話が終わって、あたしと泉実を繋いでいた電話が切られた。通話の切れたスマートフォンの画面を見つめていたら、頭が優しく撫でられた。見上げたら、当主様が柔らかく目を細めて、微笑んでいた。

「蓮華さん、いい恋人してるじゃない」

「いっ、いえいえ、いや、あの」

「照れなくていいのよ。まったく、泉実さんといい、二人とも可愛いんだから、もう」

 明るく笑う当主様の傍らで、あやめさんが一次調査の報告で届いていたファックスの紙を読み返していた。

「えーっと、高瀬泉実ちゃん……。トゲモリ製薬工業に親父さんが勤めてるな。身内のフルートがぶっ壊されたようなもんだぞ、こりゃあ」

 泉実の父親は棘科グループが出資している製薬会社に勤めている。あやめさんの報告を聞き、当主様が腕組みをして、また指をトントンと動かした。

「……遠慮する必要はないわけか。いいでしょう、全力で当たらせてもらうわ」

 当主様があたしを見て、不敵に笑った。


 食事が終わって、あたしは棘科邸の一階にある、来客用寝室に通された。当主様とあやめさんはフルート手配と犯人調査に注力するようで、輝羽さんが案内をしてくれた。最初に通された客間と同じ作りの部屋に、赤い掛け布団が置かれたダブルサイズの大きなベッドが置いてあった。ベッドの上には明るいグリーンのパジャマと、暖かそうなブルーのガウンが置かれていた。

「パジャマやガウンは来客用の新品なので安心してください。奥のバスルームも自由に使っていただいて構いません。バスアメニティは一通り用意してあります」

「うひゃあ……」

 高級なホテルに招かれたような待遇。入り口で棒立ちになったまま呆けてしまった。

 棘科邸に来客はあっても、宿泊までする人は滅多にいない。しかし、万が一宿泊することになった場合、客人に不便をかけたくないと、あやめさんが毎日手入れと準備を欠かさないのだという。ずうずうしいお願いをしにきたのに、気がつけばおもてなしをされて立派な客人として迎えられている。恋人が大変な目に遭っているというのに、こんな思いをしていいのだろうか。少しだけ、気が咎めた。

「……お世話になりすぎかな。当主様にも、恩返しできるか分からないのに」

 苦笑いがこぼれた。

 仮に当主様があたしを認めてくれて、棘科グループ傘下の企業に就職することができたとしても、この恩に報いるような仕事ができる自信はなかった。フルートの手配、犯人探し、夕食と寝床の用意、更には、あたしの過去を調べて救おうとしてくれた。あたしは今、CDショップで責任の少ない仕事をしている、ただの学生アルバイトだ。資格の勉強もせず、高校を卒業してすぐに就職するから、誇れるものなんてなにも持っていない。当主様の期待に応えられるかどうか、心配で仕方がなかった。

「恩返しがほしくて針ノ木さんに協力しているのではありません」

 あたしを見上げて、安心させるように輝羽さんが微笑んだ。

「棘科グループを目指したいと夢を追う若者を、理不尽な重圧に殺されるわけにはいかない。紅羽がそう、言っていたでしょう?」

 話しながら、輝羽さんは部屋の中に入って、ベッドの横に置かれた丸テーブルから椅子を引き出した。入り口の前で棒立ちになっているあたしを見て、首を傾げて微笑む。

「さ、休んでください。今日はたくさん考えることがあって疲れたはずです」

「……はい」

 輝羽さんの言うとおり、今日は少し疲れたように思う。泉実と結ばれたこと、フルートのために隣町からここまで戻ったこと、そして、泉実と当主様に話した、あたしの汚れた暗い過去。とても長い時間、思いを巡らせて、気を張り続けていた。肩に掛けたリュックも、いつもより少し重たく感じられる。十数年間抱えていたあたしの過去も話して、張り詰めていたものが一気に抜け落ちたのかもしれない。部屋に入って、輝羽さんが引いてくれた椅子に腰掛けると、身体が下に沈んで骨が軋んだ気がした。

「明日の朝食は九時に、夕食と同じ場所で。洋食と和食、どちらがいいですか?」

「え、えっと、ハンバーグさえなければ、どちらでも……」

「くすっ、分かりました。では、明日のお楽しみということで」

 静かに椅子から離れて、入り口へ向かう輝羽さん。部屋から出ようとしたところで、思い出したように振り返った。

「そうだ、針ノ木さん。私、来年は針ノ木さんの高校に入学する予定です。受験に合格したら、ですけど」

「えっ」

「その時はよろしくお願いします。……先輩」

 おやすみなさい。そう言って、輝羽さんは可愛らしくウインクを投げた。静かにドアが閉まって、あたしと輝羽さんを隔てた。

「……ふふっ、そっか。輝羽さん、中学三年生だもんねぇ」

 リュックを机の上に置いて、椅子から立ち上がる。誰も見ていないのをいいことに、思い切りベッドの上に飛び込んだ。大きなベッドはあたしの身体を弾ませて、柔らかく包み込んでくれた。

 吹奏楽部の一年生からも「先輩」と呼ばれる。でも、今ここで輝羽さんに呼ばれた「先輩」はとても可愛らしくて、してやられたような照れ臭さがあった。その照れ臭さは先程まで感じていた当主様への遠慮や不安、心配事を綺麗に拭い去って、あたしの心を明るくしてくれた。講演会の時も、泉実に応援されてすぐに気を持ち直したことを思い出した。

「あたしってホント、可愛い女の子には弱いんだなぁ」

 単純だと呆れて、苦笑いがこぼれた。

 大好きな恋人、泉実。そして、あたしの後輩になる予定の輝羽さん。これからの学校生活は、きっと楽しいものになる。いや、楽しいものにする。これでフルートの事件も解決して、犯人が本当に中野だと分かれば、あいつがネットに書いたあたしへの陰口や悪口も明るみになるかもしれない。その時こそ、中野は気づいてくれるだろうか。針ノ木蓮華が本当にほしかった、愛情の形を理解してくれるだろうか。

 中野とよりを戻すつもりはない。でも、付き合っていた頃感じていたあたしの寂しさを、一部だけでもいいから理解してほしかった。あたしに悪いところがあれば直す、だから、もっと心を許してほしいと、何度も話をした。そしてその話はいつも「蓮華に不満はない」、「理解してあげられなくてごめん」と終わり、次の日も変化しない関係が続くだけだった。磨り減っていくのは、あたしの心と、僅かなお金だけだった。

 空っぽになったあたしが別れ話をした時、中野はこう言った。

『一生懸命悩んで考えた結果で、別れることで学校生活が充実するならそれでいい』

 確かに、そう言ったのだ。今までありがとう、とも言っていたのに。

 その夜だ。希から連絡があって、あたしに対する陰口や悪口を、呪詛や怨念を向ける勢いでSNSサイトに書き込んでいると知った。中野は、最後の最後まで、あたしを理解してくれず、ただあたしに暴言や罵倒を繰り返すばかりだった。もう、あたし自身も中野がなにを考えているのか理解することができなかった。

「へっ、女々しいのは、あたしも一緒か」

 中野とのやり取りを途中まで思い出して、考えるのをやめた。過ぎたことはもう、変えられない。それよりも今は、新しい恋人である泉実とのこれからを考えるべきだ。泉実と楽しい思い出を作っていくためにできることを考えよう。中野と付き合っていた頃に感じていた寂しさを、泉実には感じさせないようにしよう。同性同士の恋愛だから、悩むこともあるかもしれない。でも、だからこそ、泉実を幸せにしてあげなくちゃ。不安や悩みばかり考えていたら、前になんて進めない。

 身体を起こして、ベッドから下りた。シャワーを浴びたら、もう寝よう。

 あたしは、あたしができることをしよう。泉実にできる、精一杯を。


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