悲劇
「順調に高瀬さんと仲良くなってるねぇ。のんちゃんは嬉しいぞぉ」
講演会が終わって、数日後。週末の昼休み、あたしの席で自称のんちゃんこと、希と一緒に昼食をとっていた。早起きして作ったサンドイッチを頬張りながら、ニヤニヤと嫌な笑い方をする希の話に頭を抱えていた。
「やめろぉ、からかうなぁ、ううう」
うなりながら机に突っ伏すと、希が頭を何度もつついてきた。
「ふっふっふ。放課後に吹奏楽部の練習見に行ってるんでしょ?」
「行ってますけど」
「すっごい仲良さそうに話してたよねぇ」
講演会後の出来事以来、あたしと高瀬さんは今以上に距離を縮めていた。高瀬さんとはいい友達でいようと恋心を抑えていたはずなのに、彼女の柔らかさと温もりを覚えてから、自制ができなくなってきていた。高瀬さんに触れられる隙があれば、すぐに手を繋いだり、指に触れたりしてしまう。高瀬さんも嫌がったりしないから、あたしの気持ちを受け入れてくれるかもしれないと期待して、彼女への想いがますます強くなっていた。あたしの恋愛対象が同性――女の子だということは高瀬さんも知っているはず。実際、高瀬さんはどう思っているのだろう。
「しょうがないじゃん。……好きなんだし」
顔を上げてふくれると、綺麗に手入れをされた目元がぎゅっと笑った。
希はあたしの恋愛対象を理解してくれている、大切な友達だ。希には、今年の夏から付き合い始めた彼氏がいる。時々、彼氏の愚痴もこぼしたりするけれど、なんだかんだで付き合い続けているから、不満はあっても心の底では想い合っているようだ。
「で、どうなの? 脈あり?」
「分かんない。手を繋いだり、触ったりしても嫌がらないけどさ。別れた後だからあたしが勘違いしてるのかもしれないし、あんまりベタベタしない方がいいのかな」
高瀬さんが表面には出さないだけで、本当はあたしにベタベタ触られるのが嫌だったらどうしよう、と考えたこともある。一方的過ぎる好意は時として嫌悪感を生む。高瀬さんを信じているからこそ、不安だった。
「ん? 蓮華が勘違いしてるってどういう意味?」
「ほら、傷心してるところに優しくしてもらったから……」
緑色の水筒を開けて、家で淹れてきた温かいレモンティーを一口飲んだ。スーパーの在庫処分コーナーで安売りされていたティーバッグは、意外と美味しかったりする。ほうっとため息をつくと、希が頬杖をついて眉を上げた。
「優しくされたのが嬉しくて、それを恋だって勘違いしてるかもしれないってこと?」
「そんな感じ。高瀬さんはすごくいい人だから、あたしの勘違いで関係を壊したくないし。この気持ちも勘違いだったら、お互い嫌だしさ」
「いやいや、蓮華。勘違いかもしれないから遠慮するってよりも、高瀬さんと今までどおり仲良くしながら、自分の気持ちと向き合えばよくない? その方が、勘違いかどうかもはっきりするでしょ」
希が学校の自販機で買ってきた温かいココアをそっと口に運ぶ。ココアの甘い香りがあたしの鼻先を掠めていった。
「……うん。そうだね。そう思う」
希の言うとおりだと思った。高瀬さんへ抱くあたしの感情が、恋愛なのか友情なのか心配なら、今までどおり接しながら考えて、見極めていけばいい。勘違いかもしれないから遠慮して、無理に距離を置いたり、態度を変えたりなんかしたら、高瀬さんに余計な不安をかけて関係をこじれさせるかもしれない。
「ま、見た感じ、蓮華の気持ちは本物だと思うけどね。中野と付き合ってた時よりも、毎日楽しそうじゃん」
「そう見えるかい」
「見えるね。中野と付き合ってた時、デートの態度が変だとか、メッセージの内容がそっけなさ過ぎるとか、電話もろくにしないとか、よく相談してきたじゃん。お互いに好きなのか分からないって落ち込んでたし。それに比べればねぇ」
希も高瀬さんも、本当によく見てくれているのだと思った。知らない土地に引っ越してきて不安もあった。この土地で仲良くなった友達は僅かでも、すばらしい友達を持てたことが、すごく誇らしくて、嬉しかった。
「気があるのかないのか、分からないヤツとダラダラ付き合うより、環境を変えてよかったんじゃない?」
「……かも、ね」
希がくれた、率直で前向きな言葉。水筒片手に気の抜けた笑顔がこぼれた。
「おっ……。蓮華、やっぱ美人。うらやまし」
「はいはいありがとう。褒めてもなにも出さないよ」
「高瀬さんが褒めたら出るかな?」
「こら」
いつもの軽い、蓮華チョップをしてやった。
六時間目が選択授業だった。いつもどおり、廊下で希と話をして、予鈴が鳴ったら一組の教室に入った。入るなりすぐに高瀬さんと目が合った。声には出さなくても、その穏やかな笑顔を見れば歓迎してくれているのは分かる。中野の姿が見当たらなかったけれど、あまり気にしないようにして真っ直ぐ高瀬さんの隣へ向かった。
「やっほぅ」
高瀬さんの声は小さかった。元気がない、というより遠慮しているみたいだった。あたしも小さい声で返事をして席に着いた。なんの話をしているのか、教室の端から甲高い笑い声が聞こえた。
「あいつ、いないじゃん」
あの特徴的に丸く整えられたマッシュルームボブは見間違えるはずもない。しかし、一組の教室にはきのこ頭をした背の低い女子が見つからなかった。念のため、廊下の方にも目を向けたけれど、やはりいなかった。
「中野さん、風邪でお休みだって。今朝のホームルームで先生が言ってたよ」
穏やかな眼差しが暗く伏せられ、悲しげに笑った。
あの日以来、中野とは口をきいていないらしい。もともと高瀬さんと中野は特別仲良しでもなかったし、あたしとの約束を守るためにも距離を置いているそうだ。接点がなかった二人の縁を繋いだのはあたしだ。大好きな高瀬さんに中野というつらい縁を繋いでしまったのは、本当に悔やまれることだった。
ふと、机の上に置いていたあたしの手に、高瀬さんの右手が触れた。いつもならあたしから手を取りに行くのに。
「今週の日曜日、コンクール、なんだ」
あたしの指を見つめながら、どこか上の空でそう言った。指の感触と体温を確かめながら、撫でて、挟んで、自分の指と絡める。フルート奏者の指は傷一つなく、爪の形も艶やかで綺麗だった。あたしは高瀬さんにされるがまま、抵抗しなかった。あたしを差し出すことで高瀬さんが少しでも満たされるのなら、それで幸せだった。
「不安なのはコンクール? それとも、中野?」
弄ばれる自分の指を見ながら、優しい声色で聞いてみた。
「……両方」
桃色の唇からこぼれた声と、絡められている指が震えていた。
目だけ動かして他の生徒の動きを追った。あたしたちに目を向ける生徒はいない。あたしも高瀬さんもすっかり疑心暗鬼だ。あいつが姿を見せないだけで妙に胸騒ぎがして、落ち着かない。いつもはここまで不安になることはないのに、今日に限っては胸が痞えるように気になる。
先生はまだ来ない。胸騒ぎは消えないけれど、今のうちに高瀬さんを励まさなくては。
「当主様の指名を仕込みとか小馬鹿にする方が悪いんだから、中野のことで不安になる必要はないって。コンクールに集中しよう。大丈夫だって」
きゅっ、と絡められた指に力が入った。高瀬さんの指先はまだ震えている。
先生が来るまでの僅かな時間、高瀬さんはあたしの手をずっと握っていた。今まで吹奏楽部で何度もコンクールに出場しているとは思えないほどの怯え方だった。
コンクールへの不安ではない。この震えはきっと、中野への恐怖だ。
「……大丈夫だから。あたしは高瀬さんの味方だよ」
絡み合った指を見つめたまま、不安に揺れる顔がうなずいた。
放課後、アルバイトが休みだったあたしは吹奏楽部の練習を見学するために中庭に向かって渡り廊下を歩いていた。今週末はパートさんや他のスタッフとの兼ね合いでアルバイトが連休になる。もう少し収入がほしいから、シフトをどんどん入れてほしいとお願いしているものの、高校生アルバイトである以上、それにも限度がある。週末が連休になったのは惜しい気がするけれど、身体も休められ、家のことや勉強をする時間も得ることができたと思って観念しよう。
日に日に秋の気配が深まり、渡り廊下の空気も冷えが強くなっていた。これから本格的に秋から冬へ向かえば、吹奏楽部員たちも外での練習はしなくなる。冬になったらどこで練習を見学すればいいのだろう。音楽室にずうずうしく入り込むわけにもいかないから、今後どうするべきか、悩ましいところだった。
「あれ?」
中庭に着いたら、妙に静かだった。部員は誰一人として練習しておらず、いつも中庭を満たしている音色が欠けている。高瀬さんの姿も探したけれど見当たらない。中庭に身を切るような冷たい風が吹き込んできて、思わず肩を縮める。音楽室の様子を遠目でうかがいながらベンチに足を向けたら、部員の一人があたしに気づいて中庭に出てきた。フルートパートの一年生だった。頭の後ろで短く結った髪を揺らしながら駆けて来る。
胸騒ぎがぐっと強くなった。高瀬さんの匂いと指の感触が切なく蘇る。
「どうしたの、なにかあった?」
一年生の子は半べそをかき、ひどく不安そうにしていた。彼女は音楽室とあたしを交互に見ながら、言葉を詰まらせて答えてくれた。
「泉実先輩のフルートが、壊されちゃったんです!」
「なっ……」
秋の寒さとは違う寒気が走り抜けた。寒いのに、嫌な汗が背中に滲んで、口の中が痺れた。痺れて口元が動かず、聞き返すあたしの言葉も詰まってしまった。
「こわ、壊されたって、えっ、高瀬さんのだけ?」
「そうです。泉実先輩のフルートだけ、叩き壊されていて……」
中野の醜い顔が瞬いた。
吹奏楽部員たちの楽器は第一音楽室の中にある楽器庫に保管されているそうだ。楽器庫には吹奏楽部員の楽器以外にも、学校が備品として所有する楽器も存在する。その中で高瀬さんのフルートだけが狙われるなんて、あからさま過ぎる。今すぐ中野を呼び出して問い詰めたいところだったけれど、それ以上に姿の見えない高瀬さんが心配だった。今日の選択授業でもずっと不安に怯えていたところに、こんな不幸が重なるなんて。高瀬さんの震える指先を思い出して、胸がちりちりと燻った。
「高瀬さんは?」
「音楽準備室で休んでます。針ノ木先輩からも、励ましてあげてくれませんか。泉実先輩、すごく落ち込んでて……」
「もちろん、ソッコーで行く」
一年生の子は他のフルートパート部員たちと相談するらしく、あたしに頭を下げて駆けて行った。あたしも踵を返して、準備室に向かって駆け出した。
音楽準備室は北校舎の二階、第二音楽室の隣にある。廊下には吹奏楽部員が数名残っていて、各々の楽器を抱えて不安そうに話をしていた。「音楽準備室」と白い札が貼り付けられた、窓のないベージュ色の引き戸をノックせずに開いた。左側に先生が使うグレーのデスク、右側に教材やCDが大量に並べられた茶色い棚があった。そして、部屋の奥、ブラインドが半分まで締められた窓の隣で、背中を丸めてパイプ椅子に座る高瀬さんと目が合った。
「針ノ木さん……」
か細い声を聞きながら引き戸を閉めて、準備室に入る。中には高瀬さん以外に誰もいなかった。
「一年生の子から聞いた」
ゆっくり歩み寄って、椅子に座る高瀬さんの隣にしゃがむ。高瀬さんはすぐにあたしの両手を取った。揺れる瞳は合わせないで、ただ指を絡める。無性に悲しい感触だった。
「フルートは?」
「川口先生が生徒指導の先生に相談するって……。連れて行かれちゃった」
「……そっか」
会話が続かなかった。こういう時、なんて言えばいいのか分からなくて、互いの指を絡めたまま、動かなかった。しゃがんだまま見上げると、ブラインドから差し込む日の光で輪郭がぼやけた白い顔が見えた。想いを寄せる人の瞳は、いつか見た時とはまた違う輝きに揺れている。
「私、小さい頃からお母さんとフルート、してたの。お母さんも昔、フルートしててね」
独り言のように、あたしの指を弄びながら呟く。
「一人っ子だから寂しくないように、って、お母さんにたくさん教えてもらって。だから、私、寂しくなかった。フルートがあればお母さんが近くにいる気がして、本当に、フルートが楽しかった」
幼い頃から音楽と、フルートと共に育った。フルートがそばにいた毎日を、これからも続けたい。母が教えてくれたフルートと一緒に、やれるところまでやってみたい。中学生になり、高瀬さんが吹奏楽部に入りたいと告げたら、両親は喜んで新しいフルートを買い与えた。子供用フルートから、一つステップアップしたフルートへ。フルートと音楽も彼女の家族であり、彼女の一部だった。フルートと音楽が娘にとって大切な存在であったことは、両親も分かっていたのだろう。
「それが、壊されたフルート?」
悲しく微笑んで、天使がうなずいた。
「お父さんがね、中学に上がったら吹奏楽部に入りたがるだろうからって、新しいフルートのお金、お母さんと一緒に貯めてたみたい。応援してくれるのがすごく嬉しくて、ずっと、ずっと大切に使ってきた、私の家族なの」
胸が詰まりそうだった。娘のやりたいことを応援しようと、高瀬さんの両親が一生懸命積み上げてきた想い、そして、両親の応援を無駄にはしないと大切にしてきた高瀬さんの努力までもが、フルートと共に壊された。
なんてことだ。あたしのせいで、高瀬さんの心も、両親の応援も砕いてしまった。
「お父さんとお母さん、なんて、言うかなぁ……」
今にも泣き出しそうな声。それでも高瀬さんは微笑んでいる。
綺麗だった。美しい人は、悲しむ姿までも、美しい。
右手だけ離して、白い頬に触れた。慰めるように、親指で優しく撫でる。柔らかくて、温かい。あたしの手に自分の手を重ねて、高瀬さんが唇を震わせた。
「やっぱり、中野さんなのかな」
風邪で朝から休んだという中野。欠席と偽って学校に来てフルートを壊していったかもしれないし、風邪で本当に休んでいるかもしれない。決めつけることはできない。怪しくても、あたしたちに真相を探れる力はなくて、疑い続けることしかできなかった。そして、高瀬さんがずっと大切にしてきた、思い出のフルートが壊されたという残酷な事実も変わらない。あたしの胸に黒い罪悪感を塗りたくって、あざ笑い続ける。
――大好きな人が、つらい目にあった。
大好きな人が不幸になる姿は、身体が震えて、全身が粟立つほど怖かった。あまりにも恐ろしくて、絡める指も、頬に触れている手も温度を失って、湿っぽい冷たさが肌の上を撫でていく。鼻先から、額を通って、頭の芯から冷えて痺れる感覚。
覚えている。忘れたくても忘れられない、恐怖。
――蓮華。私の可愛い妹。先に逝く姉さんを許してください。
涙で濡れた文字を思い出して、頭を叩かれたように目の前が瞬いた。途端、高瀬さんに触れていた手を離して、勢いよく立ち上がった。潤んだ瞳が離れようとするあたしの動きを追って見開かれた。
「やだ、どこ行くの! ひとりにしないで!」
椅子が音を立てて倒れた。立ち上がって、恐怖に震えるあたしの手を握り締める。高瀬さんの手も、同じように震えていた。
「ダメだ、あたしは一緒にいられない! 高瀬さんを不幸にしたのはあたしなんだ!」
腹の底から、声が出た。想いを寄せた人が苦しむのは、嫌だった。大好きな人を失うのは、もう、嫌だった。可愛くて綺麗で優しい天使を、彼女の幸せのために突き放さなくてはいけないと、必死にもがいた。しかし、高瀬さんは頑なにあたしの手を離さなかった。
「針ノ木さんは悪くない! 針ノ木さんは私を守ろうとしてくれた! 私を守るための約束を、私が破ったから、私のせいなの!」
あたしの手を強く握り締め、うつむく高瀬さんから、温かい雫が零れ落ちる。
一つ、二つ。
「お願い、針ノ木さん……。ひとりにしないで……」
――ひとりにしてごめんなさい。でも、蓮華、どうか蓮華は強くなって――
手に落ちる涙の温度に、裏返った息を吸った。額がきんと冷たくなる。
「ねえ、さん……」
かすれた声が、喉を震わせた。あたしの手にしがみつき、静かな涙を流し続ける天使が、かつて想いを寄せていた人に重なる。
温かく、眩しく、そしてどこか、悲しげだった、夕陽のような人。
記憶の奥底に隠していた過去が溢れて、抵抗する腕から力が抜けた。
その過去は忘れない。でも、悲劇のヒロインを演じるための材料にはしないと心に決めていた。腐りきった自分を変えるために、見失った自分の歩く道をもう一度探すために、ずっと隠し続けてきた。恋人として付き合っていた中野にも、親友と呼べる希にも打ち明けていないあたしのはじまりを、引き出されそうになった。
高瀬さんが顔を上げた。涙に濡れた瞳がいつも以上に綺麗な目元を輝かせている。息を呑んだ。高瀬さんの身を守るために働いていた理性が、冷えと痺れの波に乗って消えていく。抑え込んでいた「好き」が身体の奥で弾けとんだ。
もう。
もう、我慢、できない。
つかまれた手を解いて、思い切り、力いっぱい高瀬さんを抱き寄せた。小さな声を上げて、柔らかい身体があたしの腕の中に収まる。電車の中で知った高瀬さんの香りが腕の中に溢れて、あたしの我慢も一気に溢れ出した。溢れる感情の波を言葉にできなくて、ただきつく、高瀬さんの身体を抱き締め続けた。
高瀬さんは一度身体を強張らせたけど、徐々に力を抜いて、おずおずと不器用に抱き返してくれた。
「どうなっても知らないよ。……それでも、いいなら」
耳元で呟くと、ぴくり、と肩が震えて、可愛らしかった。ぎゅっと、あたしの背中に回された腕に力が入った。抱き締めたまま髪の毛を撫でてあげると、また天使の身体が震えた。嫌がる様子はなくて、もっと、高瀬さんの腕に力が入っていくのが分かった。
「教えて、針ノ木さん……」
今まで聞いたことのない、甘い声。めまいをさせる声の後に嗚咽が続いた。
「私、間違ってたの? フルートを壊されるくらい、いけないことをしたの?」
嘆きと問いかけが嗚咽と共にあたしの胸を貫いていく。
針ノ木蓮華を庇うことが正義だと信じて行動した結果、高瀬さんは積み上げてきた努力を失った。部員たちと高みを目指し、続けてきた努力を直前で打ち壊された悲しみは、あたしが思う以上に高瀬さんを苦しめていたのか。
「違う。間違ってなんか、ない」
抱き締めたまま、言い切った。絶対に、間違ってなんかいないと。
「あいつがフルートを壊したのは、高瀬さんが正しいからさ。自分が不利なのを分かってるから、高瀬さんじゃなくて、フルートを狙ったんだ」
中野がネットにあたしの陰口を書き込む行為と、高瀬さんのフルートを壊す行為は一見違って見えて、どこか似ている。あたしに直接意見を言うことをせず、綺麗に別れると抜かしておきながら、見えないところで針ノ木蓮華を否定した。別れた理由を直接話し合うのが不利なのを分かっているから、問題をすり替え、あたしの人格を的にして、陰で否定したのだ。高瀬さんのフルートもそうだ。中野は当主様の指名を仕込みだと、馬鹿げた話を触れ回ったことを高瀬さんに非難された。当然、仕込みだなんて証拠はどこにもないし、その発言の根本にはあたしへの恨みしかない。まともに高瀬さんと戦えないと分かった中野は、高瀬さんではなく、フルートを標的にした。
そんな中野と違って、あたしと高瀬さんには正々堂々と胸を張って言葉にできる理由がある。決して、間違いじゃない。
「私、すごく怖い。あの子が、あのフルートがいないと、怖くてたまらないの……」
「…………」
その言葉どおり、吹雪に見舞われたように高瀬さんはガタガタと大きく震えて、波打つ鼓動があたしの胸にまで伝わってくる。これはきっと、高瀬さんが我慢していた恐怖。抑えていた負の感情が溢れて、震えが止まらないのだ。
あたしはそっと高瀬さんを解放して、彼女の両肩に手を添えた。真っ直ぐ見据えると、彼女の深い瞳の海に視線をつかまれて、溺れそうだった。
「フルートの代わりには、なれないかもしれないけど――」
一度言葉を切って、息を呑んだ。促すように、高瀬さんが少し首を傾げた。
「――あたしは、そばにいるよ」
短く息を吸って、高瀬さんの唇に視線を落とした。小さくうなずいて、高瀬さんがそっと瞼を閉じる。あたしの望むことと、高瀬さんの望むことが通じ合った瞬間だった。
高瀬さんの肩に添えた手が震える。顔を近づけたら、触れてもいないのに唇の先がじんじんと痺れた。全身を貫く心地よい緊張に、頭がどうにかなってしまいそうだった。
大好きな人が、あたしと同じことを望んでいる。
大好きな人へ、一番の愛情表現ができる。
大好きな人が、あたしを受け入れようとしている――。
瞼を閉じて、高瀬さんの桃色の唇に自分を重ねた。ずっと、ずっと求めていた大好きな人の唇と、その感触。口先に伝わる大好きな人の柔らかさに、胸の中であざ笑っていた悪魔が消えていく。黒く塗りたくられた罪悪感が光に照らされて、靄が晴れていく。肩から腕へ手を滑らせて、高瀬さんの指を探す。艶やかな指先の感触に触れたら、二人でぎゅっと手を結び合った。
大好きな人とのキス。でも、燃える欲望も、悦びも、今はいない。ただ、震える天使に元気を取り戻してほしくて、温かくて、優しいキスをした。ここが学校だなんて、関係ない。想いを通わせた人にあたしの愛情を注ぎたい。溢れる想いを全て唇に乗せて、高瀬さんに差し出した。
二度、三度、優しいキスを交わして、唇を離した。手を繋いだまま、額を合わせたら互いの吐息が交わった。
高瀬さんの柔らかさが唇から離れない。身体中を走り回る、心地よい、なにか。ピリピリと、弾けて、止まらない。頭が熱っぽくて、中野への憎しみも、フルートが壊された悔しさも、なにもかもが蕩けて、霞んでいく。
こんなにも。
気持ちが、いいなんて。
「……どうなってもいい。針ノ木さんになら、なにされてもいい。大好き、針ノ木さん」
もう一度、唇が触れる。今度は高瀬さんからキスをしてくれた。
言葉にしてもらえること。想いを行動にして、見せてくれること。中野とは間逆な高瀬さんの愛情。大好きな高瀬さんがくれた、あたしが本当に望んでいた愛の形だった。唇を離して、高瀬さんが涙を拭いながら笑った。
「顔、真っ赤だね」
「そ、そりゃあ……。大好きな人と、キ、キス、したわけだし。初めて電話した日からずっと、好きだったし……」
「本当に?」
「う、嘘じゃないって!」
慌てて言うと、高瀬さんが心底楽しそうに笑ってくれた。
その後も何度か、唇を合わせた。高瀬さんはあたしの腕を抱いたまま、そばを離れなかった。倒れたパイプ椅子を片付けた後、半分まで締められていたブラインドを上げて、日が暮れていく寂れた中庭を二人で眺めた。吹奏楽部の演奏は、各パートの音がちらほらと、少しずつ聞こえるようになってきている。まだ完全というわけではないけれど、部員たちの動揺も収まりつつあるようだった。高瀬さんも落ち着いた様子で、あたしの腕を胸に抱きながら穏やかに微笑んでいた。
「高瀬さん」
中庭を見たまま、呟いた。視界の端で高瀬さんがこちらを向くのが分かった。
「大好きだよ」
「こっち向いて?」
腕を引かれた。照れくさかったけど、中庭から目を外して高瀬さんを見つめた。初めて帰った日から変わらない、あの、優しい笑顔があった。
「もう一回」
「も、もう一回?」
本当に好きな人を前にすると、緊張もすごい。照れくさくて恥ずかしくて、顔を見つめて言葉にするのが大変だった。深呼吸して、うなずいて、全力の笑顔を浮かべた。
「大好きだよ、高瀬さん」
言い終えたら、高瀬さんが胸に飛び込んだ。あたしの胸に顔を埋めながら、高瀬さんの明るい声が聞こえてきた。
「やったぁ。今日から私たち、恋人同士?」
「あたしなんかでよければ」
「針ノ木さんがいい!」
パーカーをぎゅっと握り締められる。あたしがいい、なんて言われたらもう、崩れ落ちてしまいそうだった。
「あ、でも。一つだけ気になることがあるの」
話しながらまた腕を抱く。腕を抱き込んだまま、背中をあたしの胸に預けてきた。思えば、高瀬さんはすごく積極的だった。初めて帰ったあの日も、高瀬さんから声をかけてくれたし、あたしのアルバイト先にも顔を出してくれた。今こうして、お互いの気持ちを知った後も、あたしに甘えるように積極的に触れてくれる。求めていた愛情の形を見せてくれるのは本当に幸せだった。
「気になることって?」
「さっき針ノ木さん、私のこと、姉さんって呼んだ。気になる」
「うぐ」
しっかり聞かれていたらしい。あたしの両腕は高瀬さんに捕まえられていた。
「今日は逃がさないよ。私、針ノ木さんの運命、ちゃんと半分持つから」
初めて一緒に帰った日の言葉。あたしの運命を半分持つという、高瀬さんの想い。あの日と聞こえ方がまた違う。高瀬さんの言葉から、違う声が聞こえる。「私は逃げない。だから、針ノ木さんも逃げないで」――そう、言われているような気がした。
「……分かった。高瀬さんもフルートの思い出を教えてくれたんだ。あたしも、あたしのはじまりを、教えるよ」
「うん。私のこと、信じて。私、針ノ木さんの恋人だもん」
「ありがと。一緒に帰った日から信じてるよ。ずっと」
高瀬さんの頬に短いキスをして、心の鍵を外した。
深い暗闇の底に沈めていた、針ノ木蓮華のはじまりをゆっくりと掘り起こす。記憶に触れると、痛みにも似た冷たさが指先に走って、涙が滲みそうになった。でも、胸の中に愛しい人の温もりがある。愛しい人の温もりと想いがあれば、暗い記憶にも、悲しい過去にも向き合える。
意を決して、黒い闇の奥から、冷たい記憶をつかんで、無理やり引きずり出した。
「あたしが、まだ小さい頃――」
あたしがまだ小さい頃。山奥の小さな町で、家族と暮らしていた頃の話。両親と姉と兄、あたしの五人で暮らしていた。姉はあたしと十歳も歳が離れていたけれど、幼いあたしをいつも可愛がってくれたのを覚えている。五歳離れた兄は姉とは対照的で口も悪く、他人を見下すような人だった。あたしはいつもいじめられて、泣かされていた。すれ違うだけでうるさいと言われたり、ソファーに座っていただけで邪魔だと蹴られたり、指の骨を折られることもあった。
それ以上に、おぞましいことも、された。
「……もっと嫌なことも、されたっけ」
うっすらと思い出して、頭が揺らされるように気持ち悪くなって、顔をしかめた。高瀬さんが心配そうに見上げてくる。
「だ、大丈夫?」
「大丈夫、大丈夫。いじめられた時は、姉さんがいつも、助けてくれたんだ……」
あたしが兄にいじめられているのを見つけると、すぐに姉が助けに来てくれた。姉は仕事で家を留守にしがちな両親に代わって、あたしと一緒に遊びに出かけたり、勉強を教えてくれたり、本当に優しくしてくれた。あの時あたしが抱いていた想いが、恋愛だったのか憧れだったのかは、今になってはもう分からない。でも、とにかく大好きだった。
「針ノ木さんの、お姉さん……」
あたしの両腕を捕まえたまま、高瀬さんが呟いた。
「うん。榛花っていうんだ。高瀬さんみたいな栗色の長い髪で、綺麗なオレンジ色をしたセルフレームの眼鏡をかけてて。賢くて優しくて料理も上手、自慢の姉だよ」
優しくて、穏やかな笑顔でいつもあたしを見守ってくれた。姉はとても温かい人だったけれど、時々見せる横顔が寂しくて、不思議な雰囲気があった。
「夕陽、みたいな人だった。優しくて、温かいんだけど……。時々、寂しそうに見える人だった」
姉は将来、看護師になりたかったそうだ。でも、実家が貧しく、高校卒業後に進学できなくて、夢を諦めて就職することになった。姉の就職先は、当時開業したばかりの小さなリゾートホテル。ホテルの制服を着た姉は、この間まで高校生だったとは思えないほど大人っぽくて綺麗だった。でも、姉はあまり楽しくなかったみたいで、あたしに優しくしてくれるのは変わらなかったけれど、高校にいた頃に比べて元気がなくなっているのが分かった。今思えば当然かもしれない。夢を諦めて、本当にやりたいことかどうかも分からない仕事に就職したのだから。更に、開業したばかりというのも相まって、仕事は多忙を極め、姉が就職した時には、スタッフ間の人間関係も崩壊寸前だったらしい。
「就職してから、姉さんはどんどん痩せていったよ。月に一回休めればいい方で、毎日夜遅くまで残業してた。姉さんはストレスでご飯も食べられなくなって、倒れて運ばれたことも、あったんだ」
「そんな……」
掴んでいた腕を離して、背中を向けていた高瀬さんが振り返った。姉のことを一緒に悲しんでくれている。本当に、あたしの重荷を半分持ってくれているような気がした。悲しむ瞳と目が合ったから、またキスをした。唇で高瀬さんの口先を挟むようにして、その柔らかさを少しだけ、楽しんだ。
「ん、平気?」
「大丈夫。高瀬さんと一緒なら、怖くない」
微笑み返して、話を続けた。
痩せ衰えて、何度も倒れて、リゾートホテルの支配人からは「もう面倒見きれない」と突き放された。姉を支えてくれる同僚もおらず、破綻寸前だった人間関係も手伝って、姉は一人ぼっちになっていた。両親は姉の変化には全く無関心で、姉が稼いでくる僅かな給料にしか興味を持たず、兄も姉の変化を気にすることはなかった。子供だったあたしも、そんな姉の孤独とつらさに気づいてあげることができなかった。
姉が入社して、半年ほどたったある日。小学校の授業が終わって家に帰ると、仕事から帰ってきた姉と行き会った。姉は、真っ白な顔をしていた。頬もこけて、入社当時はぴったりだったホテルの制服も、すっかり緩くなってしまっていた。あたしが「ただいま」と言うと、姉は疲れた笑顔で「おかえり」と返してくれた。
その日は両親の帰りが遅くなるから、まだ小学生だったあたしが兄にいじめられないよう面倒を見るために、無理を言って早めに仕事を上がらせてもらったらしい。姉と一緒に宿題をして、お風呂に入って、夕飯は、あたしにハンバーグを作ってくれた。姉の作るハンバーグはあたしの大好物だった。
「針ノ木さんの好きなもの、ハンバーグなんだ?」
「……過去形、かな。今は苦手」
「えっ? どうして……」
夜、姉はあたしの部屋に来て、寝るまでずっと手を握っていてくれた。あたしが小学校の割り算が難しいとか、同じクラスの男の子にからかわれて嫌な思いをしたとか、そんな話をした記憶がある。姉は相変わらず疲れた笑顔だったけれど、あたしの話を楽しそうに聞いてくれた。よしよし、と頭も撫でてくれた。しばらくは話をしていたけれど、次第にぼんやりと眠気がきて、姉の顔を眺めながら、うとうとと眠ってしまった。
「寝る直前に見た姉さんは、あたしの右手を両手で掴んで、うつむいてたんだ。ちょうど、さっきの高瀬さんみたいに」
なにかに祈るように。なにかに懺悔するように。
それが、最後に見た、生きている姉の姿だった。
「……うそ」
高瀬さんが少しだけ身を引いた。あたしの目が、熱くなる。
翌日の朝は、母に起こされて目が覚めた。母は目を真っ赤にして、青ざめた顔をしていた。パジャマ姿のまま母に抱きかかえられて居間にきたら、いつも朝早く仕事に行く父が怖い顔で誰かと電話をしていた。母に「今日は学校を休みなさい」と言われて「どうして?」と聞き返したら、あたしを抱き締めたまま大きな声で泣き崩れてしまった。兄はいつもと変わらない様子でソファーでくつろいでいたけれど、母の泣き声に舌打ちをした。
電話を終えた父は、怖い顔を一転させて、急に老け込んだように悲しい顔になってあたしの頬をさすりだした。父の手はごわごわして、ざらついていた。しばらく頬を撫でた後に、父が早口で、こう言った。
「お姉ちゃん、遠くに行っちゃったんだ、って」
「…………」
高瀬さんがあたしの身体を優しく両腕で抱き寄せる。父の言葉が示すその意味を察したようだった。
父と母に、姉がどこに行ったのか聞いても答えてくれなかった。庭に出てみたら、確かに姉の車はない。仕事に行っただけだと思っていたけれど、夜になっても姉は帰ってこなかった。
それから、二、三日。大叔母をはじめ、少ない親戚が狭い我が家にやって来た。みんな怖い顔をしていたのが恐ろしくて、あたしは大叔母にしがみついたままだった。居間に真っ白な布団が敷かれて、みんな黒い服を着ている。あたしも、黒い服を着せられていた。
しばらくして、父が知らない大人たちと担架みたいなものを持って家の中に入ってきた。担架の上にいたのは、青白くなった姉だった。姉が布団の上に寝かされたら、すぐに駆け寄って、姉に声をかけた。でも、返事がない。胸の前で両手を結んで、黙って目を閉じたままだった。顔も指も青白かったけれど、首だけが赤くなっていて、表情も歪んで、少し変だった。身体を揺さぶって、もう一度声をかけた。おねえちゃん、おねえちゃん。どこに行っていたの、榛花おねえちゃん。あたしが声をかけるたびに、大叔母や親戚の人の嗚咽が強くなっていく。
返事のしない、変わり果てた姉。泣き続ける両親と親戚たち。
そこであたしは、やっと気がついた。
「姉さんは、死んだんだ」
つい数日前に、言葉を交わして、一緒に勉強をして、お風呂に入って、夕飯まで作ってくれた姉が死んだ。信じられなかった。あたしは葬儀の最中も、絶対に姉が生き返ると思った。姉にしがみついてずっと泣き続ければ、アニメや映画のように神様かヒーローが来て、姉を生き返らせてくれると思った。両親に止められても、大叔母に慰められても、生き返ると信じて姉のそばから離れなかった。優しく笑って「おはよう」と起きてくれると、また一緒にお風呂に入って、ご飯を食べてくれると信じていた。
「……でも、生き返るわけ、ないんだよね」
そこから先は、よく覚えていない。火葬場で姉が変な機械に入れられるところまではぼんやりと覚えているけれど、その後、姉がどうなったのかはよく思い出せなかった。今でこそ、火葬の後に骨上げをしたはずだと考えられるけれど、骨になった姉の姿が、どうしても思い出せなかった。
あたしを寝かしつけた翌日の夜明け前に、姉は自殺した。その年の春にあたしと一緒に行ったアスレチック公園の森で首を吊ったと、後で両親に聞かされた。姉はまだ、十九歳だった。遺書には就職したホテルでの仕事や人間関係に疲れてしまったこと、夢を諦めた悔しさ、そして、あたしに対する想いが綴られていた。死んでもあたしを守ると、あたしのことが大好きだと、姉は最期まで、あたしのことを考えてくれていた。仕事で死にたくなるくらいつらかったはずなのに、あたしのことだけは、ずっと考えてくれていたのだ。
『蓮華。私の可愛い妹。先に逝く姉さんを許してください。
ひとりにしてごめんなさい。でも、蓮華、どうか蓮華は強くなってください。
天国に行っても、姉さんはずっと蓮華のことを守るから、強くなって、生きてください。
大好きです。ありがとう、蓮華』
「それが、姉さんの最期の言葉」
姉が死んだ後、両親もあたしも空っぽになっていた。唯一中身を持っていたのは、粗暴な兄だった。姉が死んでからはあたしに対して直接暴力を振るうことはなくなり、死んだ姉を根性なしだ、死ぬのは甘えだ、と、毎日のように罵倒するようになった。兄は高校卒業後、姉のようにはならない、と吐き捨てて上京した。あたしが中学二年生の頃、兄は時折帰省しては、あたしにも上京しろと迫った。
「俺は上京したら磨かれた。都会に揉まれて成長した。だからお前も出て来い! 俺はお前を心配して言ってるんだ、手を差し伸べてやってるんだって」
「……上京しないよね?」
高瀬さんが心配そうにあたしを見上げてきた。しないよ、と苦笑いを返したら、安心したように目尻が下がった。兄は子供の頃に何度もあたしをいじめた。それを今になって心配しているなんて言われても、不安で恐ろしかった。それに、兄の仰々しい大演説は見かけだけで、言葉の本質は自分の物差しでしか判断していない、他人を見下し、他人の考えや思いを汲み取らない意見にしか聞こえなかった。
あたしの予想どおり、兄の言葉を拒んだら「姉ちゃんみたいになりたいのか」、「お前の人生は姉ちゃんと同じで終わっている」、「姉ちゃんもお前も根性なしだ」、「姉ちゃんが死んだからお前も腐ったんだ」と思いつく限りの罵詈雑言をあたしに浴びせてきたものだ。本当にあたしを心配しているのなら、そんな乱暴な言葉なんて出るわけがない。それに、悲しい想いを遺して死んでいった大好きな姉を、そんな風に罵倒されて信じられるわけがなかった。兄の乱暴な言葉にノイローゼになって、死んだ姉を追おうかと思った日もあった。
「そんな時、棘科グループの特番を見たんだ。都会になんか行かなくても、人を活かす町があった。だから、姉さんの最期の言葉どおり、強くなるために、生きるために、伝説に守られた町に行こうって……」
遺書に書かれた、涙で滲んだ文字を思い出す。絶対に自分を庇うための材料にはしないと、心に決めていた。同情してほしいだけだとか、お前は根性がないとか、心が腐っているとか、兄があたしにぶつけた悪意を否定するために、胸の奥底に隠していた。大好きな姉の言うとおり、強い針ノ木蓮華になるためにずっと隠し続けていた、あたしのはじまり。
熱い雫がこぼれそうになって、高瀬さんに背を向けた。
姉さん。あたしは、強くなれただろうか。あなたの悲しい道を辿らないように、憎い兄の言葉を打ち砕くために、両親を置いて、思い出も友達もあの小さな町に置いて、たった一人でこの町まで来た。でも、目指す夢の途中で、恋人の大切なものが壊されて、恋人がつらい目に遭ってしまった。あたしは、中野のような卑怯者に負けたくない。あたしに、なにができるだろう。恋人を守るために、あたしに、なにができるだろう。
姉さん――。
「蓮華。こっち向いて、蓮華っ」
高瀬さんが、あたしの名前を呼ぶ。苗字じゃなくて、名前で。驚いて振り返ると、姉と高瀬さんの姿が、涙で滲んで重なって見えた。
「私、ちゃんと自分の目で見てきたから、分かるの」
「た、高瀬さん……?」
「お姉さんの願いどおり、蓮華は強くなった。ずっと一人でお姉さんのことを抱え込んでたのに、その上で、私を中野さんから守ろうとしてくれたんだもん」
あたしの両手を握って、真剣な眼差しで見つめる。フルートを壊された高瀬さんを励ましに来たつもりが逆に励まされている。同情されているのであれば嫌だったけれど、高瀬さんの言葉は同情とは違う。同情じゃない、これは正しく、激励だった。眼差しと同じ、素直で真っ直ぐな気持ちが言葉と声に込められている。
「蓮華のお姉さん――榛花さんのことは、私も忘れない。会ったことも、話したこともないけど、お姉さんが生きていたことと、お姉さんの悲しみを知っておくことが、一番の供養になると思うの。だから、だから一緒に、頑張ろう? お姉さんのためにも一緒に生きようよ。ね?」
あたしだけでなく、姉のことまで想ってくれた。この可愛い天使は、どこまでも底が知れないほど、深い優しさを見せてくれる。悪い人に騙されてしまいそうなほど、本当に純粋で綺麗な心を持っている。
姉さん。どうか、この天使とあたしを見守っていて。姉さんの生きた日々と悲しみは、あたしたち二人が記憶して、これからも生きていく。必ず、お互いが目指す夢を掴み取って、胸を張って幸せだと言えるようになる。貧しいから、なんて諦めない。あたしはあたしが納得する幸せを手にするまで、あがいてみせる。あたしを想って死んでいった、あなたのためにも。
パーカーの袖で涙を拭いながら、笑った。
「そうだね。ありがとう。……泉実」
「うんっ」
互いの抱えていた重荷を、二人で背負って、対等になった。泉実は大切なフルートを失った悲しみ、あたしは大切な姉を失った悲しみ。二人とも、大切な家族を失った。たった今交わした互いの言葉は、傷を舐めあって慰めたのではなく、その悲しみを二人で背負って、二人で乗り越えるためのものだ。隣にいる人を想い、信じて、愛すること。それは同情でも、慰めでもない。前に進むための強さになる。
「ちゃんと、半分持ったからね」
そう言って、泉実がもう一度胸に飛び込んできた。お互い遠慮がなくなったように、この短い時間で誰よりも距離を近づけた。
重荷を話し終えて冷静になれたのか、あたしは泉実を抱き締めながら、泉実のフルートをどうするべきか、と考えを巡らせていた。備品で使えそうなフルートがあれば、演奏自体はできるかもしれない。でも、それだけでいいのか。泉実の傍らにはいつも、大切な存在である、あのフルートがいた。整備が行き届いているか分からない学校の備品で、泉実は実力を出し切れるのだろうか。
あたしの身体に回される泉実の腕は、不安な心を表しているように力が入っていた。
その時、音楽準備室の扉が強めに叩かれた。二人で驚いて、慌てて離れた。でも、しっかり手は繋いだままで、二人ともちゃっかりしているな、と思った。扉が開くと、黄色の明るいワイシャツが見えた。派手なワイシャツに背の高いシルエットとくれば、吹奏楽部顧問の教師、川口先生しかいない。
「高瀬――おお、針ノ木。来てくれたのかい」
「す、すみません先生。勝手に入ってしまって」
謝ると、先生は疲れた顔で首を横に振った。グレーのデスクから椅子を引き出して、ため息をつきながら座る。先生の表情を見る限り、いいニュースは期待できそうになかった。
「いや、いいんだよ。高瀬には今、針ノ木のような親友が必要なんだ。すばらしい音楽が心に響くのと同じように、すばらしい音楽を奏でるためには、演奏に心が伴っていなければダメだ。その心を支えるのに、針ノ木の力が必要なんだ」
繋がった手に力が入る。先生はもう一度ため息をつくと、あたしたちの方へ向き直った。
「針ノ木も聞いてくれ。生徒指導の先生と、教頭先生にも話をしてきたんだ」
泉実のフルートは第一音楽室の楽器庫に保管されていた。以前から教頭に頑丈な錠前を取りつけてほしいとお願いしていたらしいけれど、叶わないままで、楽器庫の扉は安い掛け金に南京錠をつけただけの簡単な施錠だったそうだ。犯人はその掛け金を壊して楽器庫に侵入し、泉実のフルートだけを壊していった。他の部員の楽器も学校の備品も無事だったから、先生たちは泉実個人を狙ったものだと判断したらしい。
吹奏楽部は成果を出しているのだから、楽器庫の施錠くらいしっかりしたものにしてあげればいいのに、と歯がゆく思った。
「心当たりは高瀬から聞いているよ。同じクラスの中野という生徒と、揉め事を起こしたそうだね。実は今日、保健室の先生が、授業中なのに出歩いている生徒を見かけたらしいんだ」
「まさか、中野なんですか?」
「まだはっきりとは分からない。ただ、その生徒は北校舎へ、つまり、この校舎に向かったそうだ。中野という生徒は今日学校を休んでいると聞いたけど、学校へ来て壊すことだってできる。限りなく怪しい、とは考えられるけどね……」
壊されたフルートは生徒指導の先生が預かり、警察に相談するべきだと直訴しているそうだが、教頭は警察沙汰を避けたいらしく、話し合いは平行線のままだという。呆れた川口先生は一旦頭を冷やすために、こうして戻ってきたそうだ。
「先生にとっても、吹奏楽部全員にとっても、みんなで音楽を完成させるために高瀬が必要なんだ。誰か一人でも部員が欠けるなんて、あってはいけないことだ。先生も、みんなの努力を無駄にしたくない」
しかし、と先生は腕組みをした。
壊された泉実のフルートは、もはや修理ができるような状態ではない。だからといって新しくフルートを買うなら、大きなお金が必要になる。また、学校の備品にフルートが二つあるけれど、泉実が使っていたフルートよりも古く、川口先生がこの学校に着任したときからひどい保管状況だったらしく、コンクールで使えるようなものではないという。
「その場しのぎ、という形は一番避けたい。コンクールでしっかり演奏できる、いい方法がないか、考えているんだ……」
コンクールは今週末の日曜日。明後日だ。間に一日しか、猶予がない。
「高瀬。コンクール直前で君だけを切り捨てるようなことはしない。もう少し、先生に時間をくれないかな。なにか方法を探して、高瀬が心から演奏できるようにしたい。今日は針ノ木と一緒に帰って、心を休めてくれないか。先生からのお願いだ」
川口先生もやりきれないのだろう。先生自身も部員のみんなと一生懸命、心からの音楽を作ろうと努力をしてきたのだ。泉実の横顔は悲しかったけれど、はっきりした声でうなずいた。返事を聞いたら、今度はあたしを見た。できるだけ明るい表情を心がけている先生が痛ましかった。
「針ノ木名誉顧問、高瀬を頼みますよ」
「ええ、任せといてくださいっ」
今日は泉実に休んでもらい、明日の練習と明後日のコンクールにはしっかり出てもらうと、先生は念を押していた。帰る前にフルートパートの子たちと少しだけ言葉を交わして、あたしと泉実は下校することにした。校舎を出て空を見上げると、西の空に頼りない陽の光が残っていて、東からは艶やかな紫が流れつつあった。秋が深まって、日が暮れるのも早くなった。繋いだ手をパーカーのポケットに一緒に入れたら、口数の減った泉実が「あったかい」と微笑んでくれた。誰も見ていないのをしっかり確認して、今日何度目かのキスをした。
帰り道、街路樹からたくさんの枯葉が落ちていた。あたしたちの歩く道には力尽き、色を失った葉が絨毯のように敷き詰められていた。かさかさと物悲しい音を聞きながら、できるのなら、楽しい出来事と一緒に泉実と恋人同士になりたかったと、考えていた。ポケットの中にある温もりも、学校で何度もしたキスの感触も、色鮮やかな喜びの他に、枯葉と同じ色をした切なさまで連れてくる。フルートのことですぐに力になれないことが悔しくて、なにかできないものかとずっと考え続けていた。お互い、あまり口は開かずに歩き続けていたら、眩しい商店街をあっという間に通り過ぎて、駅前まで来てしまった。このまま電車に乗って、隣町まで行けば、あたしと泉実の手は離れて、それぞれの夜に向かうことになる。泉実は両親にフルートが壊されたことを話し、あたしは一人、アパートでそんな泉実を心配する。
心配することしかできない自分が、もどかしくて、悔しかった。
「泉実。あたし、泉実になにかできない? 泉実の力になりたい」
駅の広場で足を止めて、あたしの可愛い恋人を見つめた。してほしいことを聞くなんて、情けないにもほどがあると思う。でも、泉実は、あたしの恋人は大好きなあの笑顔を見せてくれた。
「大丈夫、力になってくれてるよ。学校でも、この帰り道でも、蓮華は私の望んだことをしてくれたんだよ」
「望んだこと……?」
「私を励ましに来てくれた。抱き締めてくれた。手も繋いでくれた。大好きだって言ってくれた。恋人にもなって、キスだって、してくれた……。いっぱい、いっぱい、力になってくれたじゃない」
駅前の眩しいネオンに照らされて、栗色の髪と大きな瞳が虹色に輝いて見えた。
「……だから、そんなに自分を追い詰めないで」
小首を傾げて微笑む姿が、また姉に重なって見えた。
「う、うん。ごめん」
「謝らなくていいの。元気出さないとこうだぞー」
あたしのチョップを真似て、泉実の手がこつんと額に当たった。
手を結んだまま駅に駆け込んで、二人で電車に乗った。窓のすぐそばで肩を寄せ合って、暗く沈んでいく風景に目をやった。想いを寄せた人と結ばれて、関係が近づいた後の景色は、なにもかもが新鮮に映る。見えていなかったものが見える。辿り着かなかった思考に、意識が繋がっていく。中野への不満や疑いに逃げ腰になっていた自分に、徐々に戦う決意が宿りつつあった。
あたしの姉が遺した強さという言葉。それは、気に入らない相手のフルートを壊したり、陰口を書き込んだりするようなことではない。ましてや、兄が振るった暴力や乱暴な言葉でもない。困難と向き合うこと。そして、その困難と戦うための心こそ、強さだ。あたしは、あたしができることで泉実を救ってみせる。
そうだ、あたしには、戦うための武器がある。
隣町の駅に着いたら、泉実が駐輪場から自転車を引っ張り出してきた。珍しく自転車が倒されていなかったと、ころころ笑う泉実が可愛らしかった。ぎりぎりまで泉実のそばにいたくて、今日は泉実を家まで送っていくことにした。駅の入り口を横切って、ワインレッドの敷石が並べられた歩道を北西に歩く。駅前交番の前を通ったら、中でおまわりさんが一生懸命書き物をしているのが見えた。
「蓮華と一緒に家まで帰れるなんて、嬉しい」
「今週末、バイト休みだしね。大サービス」
カラカラと回る自転車の音を聞きながらゆっくり歩みを進める。陽はもう沈んで、規則正しく並ぶオレンジ色の街灯があたしたちの歩く道を照らしてくれていた。泉実が自転車を押しながら歩いていたから手は繋げなかったけれど、一緒にいられるだけであたしは幸せだった。
真っ直ぐ歩いていたら、幹線道路が走る大きな交差点に差しかかった。幅の広い横断歩道が信号の向こうに伸びている。横断歩道を渡ったら、ワインレッドの敷石が途切れて、歩道は普通のアスファルトになった。街灯に合わせて街路樹が一定間隔で生えていて、横切るたびに黄色い枯葉がかさかさと寂しい音を立てた。見通しのいい広い一本道の先を指差して、泉実がまた笑顔を浮かべた。
「あの突き当たりを左に曲がったらすぐだよ」
「え、マジ? もう着いちゃう? 延長できない?」
駅と距離が近いということは、あたしのアパートにも近いということ。家が近いのは嬉しいはずなのに、一緒に歩く時間が短くなってしまうのは残念だった。人間とは本当にわがままな生き物だと、自分自身に呆れてしまった。泉実もあたしのわがままを聞いて、おかしそうに笑っていた。
「私も、同じこと考えてた。もうちょっと、一緒にいられたらいいのにって」
今日はいつもより泉実と一緒にいる時間は長かった。触れ合った時間も、言葉を交わした時間も、今までで一番だった。でも、まだ足りない、もっと一緒にいたい。道の突き当たりが近づくにつれ、歩調も徐々に遅くなっていく。
「コンクールがなければ、蓮華と一日中一緒にいられるのにな」
呟いて、泉実がうつむいた。もう、一本道は終点だ。白いガードレールが立ちはだかり、標識が右へ行くか、左へ行くか、問いかけている。街灯に照らされる泉実の白い横顔があたしの中に小さな火を点けた。周囲を見回して、誰もいないか確認する。日も落ちて、近くを歩いている人はいない。道路を走る車も、今は途切れている。
「泉実」
呼びかけて、泉実が足を止めたら、軽いキスをして、すぐ離れた。もう、これで何回目だろう。可愛くて、愛しくて、何度口づけても足りなかった。一日中一緒にいられる時間があれば、ずっと抱き締めて、ずっと泉実の唇に触れていたかった。
「……蓮華がキスしてくれると、ちょっと、楽になるの」
「やっぱり、不安だよね」
再び歩き出しながら、泉実がうなずいた。
泉実は、ずっと大切にしてきたあのフルートが欠けた状態で、コンクールと戦わなくてはならない。先生がいい方法を考えてくれるとは言ってくれたものの、感じているプレッシャーはあたしの想像以上だろう。
突き当たりの道を左手に逸れたら、先程の広い道路から急に狭い路地に入り込んだ。車一台分くらいの道が蛇のようにうねり、その道に沿って、古い家と新しい家が入り混じって並んでいた。一番手前に、屋根が右から左へ斜めに切り取られたような、細長い白い家が見えた。閉められたカーテンの隙間から、温かいオレンジ色の光が漏れている。銀色の玄関扉の隣には、屋根つきの駐車場があった。二台分の駐車場には青い軽自動車が一台停まっていた。
「お母さん、帰ってきてるみたい」
表札は無かったけれど、どうやらこの細長い家が泉実の帰る場所らしい。綺麗で新しいこの家は、きっとご両親が頑張って建てたマイホームなのだろう。自分の住むアパートと比べてしまって、少し気持ちが落ち込んだ。軽自動車の横に自転車を停めて、泉実が改まったようにあたしの前に立った。
「蓮華……」
近くの電柱にぶら下がる、冷たい街灯があたしたちを照らす。声色を聞いて表情を見れば、泉実がどんな気持ちでいるのかなんとなく分かる。きっと、今のあたしと同じ。
「帰りたくないよ、蓮華」
「…………」
「コンクールに出るのが、怖いよ……」
力なく、あたしの胸に倒れる。あたしも、泉実から離れたくなかった。泉実が元気になるまで、ずっとそばにいてあげたい。コンクールの日も、ステージに一緒に立ってあげたいくらいだった。震える泉実の身体を抱いて、綺麗な髪の毛に頬を寄せた。
「いつも一緒にいたフルートが、いないんだもんね……」
泉実は胸に顔を埋めたままだ。また、泣いてしまっただろうか。
「でも、あのフルートはただ壊されたんじゃない。泉実が直接いじめられないように守ってくれたんだ。自分の身を犠牲にして、暴力を全部引き受けてくれたんだ」
泉実の成長を見守り続けてきたフルート。泉実の大切な家族。そうだ、あのフルートは泉実の家族として、泉実が傷つけられないように身を盾にしてくれたのだ。そう思わなければ、報われない。理不尽な悪意を一方的にぶつけられただけで、終わらせたくない。あのフルートが死んでしまっても、フルートと共に成長した泉実は生きている。泉実の中に、フルートと共に奏でた心からの音楽が生きているのだ。あのフルートと共に過ごした時間を無駄にしないためにも、泉実は、立ち直らなくてはいけない。
「壊されたフルートは、泉実の中に音楽を遺してくれた。フルートと一緒に作った音楽は死んじゃいない。泉実も、音楽も、ここにいる。ここで生きてる。これで終わりなんかじゃない。あたしたちはまだ、戦えるはずだよ」
力いっぱい泉実の身体を抱き締めた。上手い励まし方はできない。でも、あたしの想いを全て言葉にして、精一杯の励ましを送った。泉実は音楽が好きだと言っていた。理不尽な出来事で、フルートと歩いてきた大好きな音楽を嫌いになってほしくない。好きを好きのままでいてほしい。ぎゅう、とパーカーが握り締められる。返事はせず、あたしの胸の中で泉実がうなずいていた。泉実はあたしを庇おうと、理不尽な言葉を振りかざした中野と戦った。あの理不尽と戦えるだけの強さが泉実にはあるはずだ。
泉実を抱く力を緩めると、うつむいたまま天使がそっと離れた。
「……大丈夫?」
「うん……」
胸に手を当てて、深呼吸。頬を両手で二回叩いて、泉実がうなずいた。まだ少し不安そうではあったけれど、あたしを見上げる瞳は優しく輝いていた。
「ありがとう、蓮華。蓮華からたくさん、元気をもらえた気がする。これからも、よろしくね。そ、その、み、見捨てないでね?」
「見捨てるわけない。あたしも受け入れてもらえて、すごく嬉しいんだよ。絶対に見捨てるもんか」
泉実はこれから、両親にフルートのことを話さなくてはいけない。明日はフルートを失ったまま練習に向かい、その翌日にはコンクールへ挑むことになる。待ち受けているのは不安ばかりだった。でも、泉実は笑顔でいる。だから、あたしも笑顔で返した。ほんの少し、僅かでもいいから、元気になってもらえるように。
「じゃ、じゃあ、帰る前に」
ん、と瞳を閉じて、顔を上げてきた。仕草がいちいち可愛くて、いじわるしたくなってしまった。でも、さすがにかわいそうだから、素直に唇を合わせた。泉実の唇は柔らかくて気持ちいいから、どうしても挟んだりつまみたくなる。長めに感触を楽しんで唇を離したら、泉実が優しく瞳を細めて、ほっと息をついた。
「また、ね……」
離れていく天使は、優しい、いつもの笑顔だった。玄関まで駆けて行き、扉に手をかけたところで、栗色の髪を揺らして振り返った。
「蓮華、本当にありがとう。練習もコンクールも、頑張るから!」
「うんっ」
大きくうなずいて、返事をした。手を振りながら、天使が銀色の扉の向こうへその姿を消した。扉が閉まるのを確認したら、あたしはすぐに駆け出した。
細い路地を抜けて、泉実と一緒に歩いてきた広い一本道へ戻る。駅前の明かりが、視線の先に浮かんだ。走っていると、肌に触れる空気が冷たくて、痛かった。でも、止まらない。泉実を守るために戦う決意が、痛みも冷たさも跳ね除けるように身体を熱くしてくれる。あたしがしようとしていることは、非常に図々しく、愚かな行為だ。でも、これはフルートを壊した犯人に対して戦うための、唯一の武器。
走りながら財布をまさぐる。財布の中から、鮮やかな紅色の名刺を取り出した。