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愛憎

 初めて電話をした日から、勇気を出して高瀬さんに歩み寄った。相変わらず張りぼて女――中野はあたしの陰口を書き続けているらしくて、陰口に塗れた自分が高瀬さんに近づいてもいいのだろうかと不安になることもあった。でも、あたしを気にかけてくれる高瀬さんを邪険にすることができなくて、前よりも明るい自分を意識して接した。そして、電話したあの日以来、あたしは高瀬さんに特別な感情を抱くようになっていた。高瀬さんを知りたい、あたしを知ってほしいという、願い。それは、中野と付き合っていた時には感じなかった、確かな恋の形だった。自分の恋心は認めても、あたしの恋心を強制するつもりはなくて、その気持ちは胸の中にしまっていた。あたしは、高瀬さんの友達でいられたら、それでいい。高瀬さんには高瀬さんの幸せを見つけてほしい。あわよくば、普通以上の親友になれたらいいかな、なんて思うようにして、恋心を隠し続けた。

 あたしの通う学校は上から見ると「王」の字になっている。それぞれの校舎は中心が渡り廊下で繋がっていて、北校舎、中央校舎、南校舎の三つに分かれている。南校舎にはもう一つ渡り廊下があって、そちらは図書館に繋がっている。

 ある日の放課後。アルバイトが休みだったあたしは、北校舎と中央校舎の間にある中庭に来ていた。北校舎は美術室や音楽室、理科室などの特別教室がある。特に音楽室は吹奏楽部の功績が大きいのか、北校舎の一階と二階に一つずつ作られている。一階の第一音楽室は二階の第二音楽室よりも広い教室であるため、吹奏楽部が部室としていつも練習に使用していた。今は各パートが個別で練習している様子で、第一音楽室だけでなく、第二音楽室でも吹奏楽部員が練習に励んでいた。

 中庭は園芸部によって綺麗に整備されている。大きな桜の木を中心にして、植木や花壇が桜を囲うように並んでいる。春になれば見事な桜と色彩豊かな花壇が見られるけれど、秋が迫って冷え込んできた今では、整備された中庭も寂しげだった。

「よっと」

 夕陽が差し込む中庭。桜の近くに置かれた、傷んだ木製のベンチにリュックを投げて腰を下ろした。第一音楽室に目をやると、中庭と第一音楽室を繋ぐガラス扉の近くで、フルートを担当する女子部員たちが楽譜と向き合い、真剣な面持ちで音色を奏でていた。もちろん、高瀬さんの姿もそこにあった。そよ風に乗せて流れる音色、その音色に身体を揺らしながら、演奏を続ける高瀬さんたち。耳に届く美しい演奏も相まって、神聖なものを見ている気がした。目を閉じて音に聴き入ると、胸の中がすうっと澄み渡っていくようだった。

 高瀬さんとの距離が縮まって、アルバイトが休みの日はこうして高瀬さんの練習を見守り、高瀬さんや他の吹奏楽部員と一緒に帰るようになっていた。そう、高瀬さんのおかげで、他の部員たちとも仲良くなることができたのだ。中野の書き込みで周囲を疑い続けた日々が嘘のようで、毎日が楽しいと思えた。

 ふと、演奏が止まったので目を開けた。フルートパートの部員たちが照れたように笑い合いながらあたしの方を見ていた。小さく手を振ると、みんな同時に手を振り返してくれた。女子が多い学校だから、吹奏楽部の部員たちもほとんどが女子だ。フルートパートの部員は全員女子で、全員可愛い。あたしの一番は、高瀬さんだけれど。

 部員の一人が高瀬さんを肘でつついた。高瀬さんはフルートパートの部員たちに笑い返すと、小走りであたしの方へ駆け寄ってきた。

「もう、針ノ木さんっ。みんな恥ずかしいって言ってるよ」

「ご冗談を。コンクールで金賞取る人たちがなに言ってるのさ」

 座ったまま、高瀬さんを見上げて微笑んだ。照れ笑いのまま、銀色のフルートを胸元で大切そうに抱える高瀬さんが可愛かった。そのまま高瀬さんと話していたら、フルートパートの部員たちが譜面台を持って、こちらへ移動してきた。高瀬さんの譜面台も一緒に持ってきて、あたしの座るベンチがフルート奏者たちに囲まれてしまった。

「おやおや。新しいスタイルの嫌がらせ?」

 不敵に笑って見せると、みんなが和やかに笑い声を上げた。

「先生が針ノ木先輩に聴かせてやれってー」

 一年生の部員が第一音楽室のガラス扉を指差した。そこに、目の細い男性教師が腕組みをして笑顔を浮かべていた。ピンク色のワイシャツにグレーの清潔なスラックスを履いた、背の高いシルエット。厳しくも優しいと、吹奏楽部員から厚い信頼を寄せられている音楽教師、川口かわぐち先生だ。吹奏楽部の見学をし始めた頃は練習の邪魔になるかと心配だったけれど、オーディエンスがいれば効果的な練習になる、と快く受け入れてくれたのが川口先生だった。高瀬さんたちの邪魔にならないように遠巻きで聴いていたから、オーディエンスとして認めてもらえたのだろう。

「先生のご指名でしたか。上等じゃない」

 あたしを囲んだ奏者たちがフルートを口元へ近づける。

 秋の気配が近づいた夕焼けの中庭に、穏やかな風の音色が流れ出した。


 吹奏楽部の練習も終わり、町に夜がやって来た。駅で他のフルートパート部員たちと別れて、あたしと高瀬さんはいつかの帰り道と同じように、ホームで電車を待っていた。秋が本格的に深まる中、ホームに吹き込む夜の風は日に日に肌寒くなっていった。パーカーの上から体温を奪っていく冷たい空気に耐え切れず、ホームの中央に輝く自販機で、小さいボトルの温かいミルクティーを買った。自販機から出てきたミルクティーのボトルは温まりすぎていたのか、パーカーの袖を使ってやっと持てるほどに熱かった。

「あちち。温まりすぎだってこれ」

「貸して貸して」

 高瀬さんの綺麗な指先が差し出された。火傷しないでよ、と笑いながら手渡してみたら、やはり高瀬さんも熱かったのか、すぐに返された。高瀬さんは手をさすりながら苦笑いを浮かべていた。

「あっついね」

「でしょ。少し冷ますよ」

「水かけちゃえ」

「アイスティーにするつもりか」

 いたずらっぽく笑うと、高瀬さんも笑ってくれた。

 歩み寄ってくれた高瀬さんを意識し始めて、あたし自身も歩み寄った。あの日以来、あたしたちの距離は縮まり、中野と付き合っていた時とは違う環境ができつつあった。新しくできた吹奏楽部員の友達。吹奏楽顧問にオーディエンスとして受け入れられたこと。アルバイトが休みの日に真っ直ぐ帰宅するだけだった自分にできた、新しい目的。好きな人を見守って、同じ時間を共有することが幸福だと感じるようになった。背負ったリュックサックと同様にくたびれていた自分自身がここまで変わるなんて、思わなかった。

「くすっ。針ノ木さん、最近、元気になったね」

「そ、そう?」

 聞き返してみたら、高瀬さんは先程の明るい笑顔とは違った、見守るような眼差しをあたしに向けた。

「ちゃんと見てるから、分かるよ」

「…………」

 高瀬さんの眼差しから逃げるように、ホームの柱に寄りかかって、うつむいた。

 好きだから、見ていたい。でも、見つめていると、苦しくなる。

「ね、針ノ木さん。電車来るまで、針ノ木さんのこと教えてよ」

「んー? あたしのこと?」

「ほら、前の電話でお預けされちゃったから。質問、いいかな?」

 顔を上げながら思い返した。そういえば、夜も遅かったから、あたし個人の話はしなかったような気がする。ペットボトルの温度を確かめながら、明るくうなずいた。

「いいよ。ご質問をどうぞ」

「えっとね……」

 高瀬さんがあたしに対して疑問に思っていたこと。聞いてみれば、あたしがどうしてこの土地に引っ越してきたのか、ということだった。一人暮らしをしてまで、あの学校に進学した理由を知りたいらしかった。

「きっと、将来の夢があるんじゃないかなって。アルバイトもして一生懸命学校に通ってるんだもん」

 本当に、あたしのことをよく見ている。嬉しいという気持ちと、恥ずかしいとか、照れくさいとか思う気持ちも一緒に並んでいた。好きな人だから、こんなにくすぐったく感じてしまうのだろうか。高瀬さんの言葉にうなずきながら、熱が引いたミルクティーのボトルキャップを開けた。

「高瀬さんの言うとおりだよ。夢があるから、この土地に来てみた」

 ミルクティーを一口。先程は手に持てないくらい熱かったけれど、ホームが寒かったせいで意外と早く冷えてくれた。温かい熱が喉からお腹へ下がっていって、ほっとした。高瀬さんがミルクティーに視線を向けていたから、ボトルを差し出した。

「飲む?」

「飲む! やったぁ」

 熱を確かめるように恐る恐る受け取って、一口。ボトルを返してもらったら、あたしももう一口飲んだ。間接キスだ、なんて、心の中で密かに喜んでいた。

「ごちそうさまぁ。それで、針ノ木さんの夢ってなぁに?」

 笑顔で質問を続ける高瀬さんに、あたしも微笑み返した。

「大富豪の会社、棘科とげしなグループ関係の仕事に就くこと」

「棘科グループ……」

 この町には、有名な大富豪がいる。「棘科」と呼ばれる富豪家は、昔からこの地域を治める守護者として伝えられ、今も住民に慕われている。棘科一族は地域に残る伝説や民話にも登場し、有名なものでは、災害を引き起こして人を喰らった土蜘蛛を退治して、この土地に平和を取り戻したという話がある。現在の棘科一族は、西の山側にあるとげもりという広大な森林地帯を私有地として所持しており、森の一部を観光地として開放している。また、棘科の名に連なる企業を多数抱え、世界各地の慈善事業にも出資しているという。

 あたしがこの町と棘科の名前を知ったのは中学二年生の頃だった。テレビの特集で「伝説に守られた町」というドキュメンタリーが放送されていた。棘科一族を慕う住民の話や、実際に棘科グループの企業に勤める人々の体験談、更には、棘科グループ代表へのインタビューもあった。住民は口々に「棘科一族のおかげで町に活気がある」と語り、棘科グループの企業に勤める人も「厳しさも大変なこともあるが、非常にしっかりした企業として運営されている」と話していた。テレビで放送するために美談として作り上げられたのかもしれないけれど、住民や勤めている人々がとても明るく、充実した顔で毎日を過ごしている様子が、すごくうらやましかった。あたしが生まれた山奥の冷たい町よりも、大富豪が守護し続ける、人を活かす町に住んでみたいと、深く興味を持ったのだった。

「ばあちゃんの妹さん、大叔母さんに相談したら、手伝ってくれるって」

「じゃあ、大叔母さんが、仕送りとかしてくれてるの?」

「うん、そうだよ。人を殺す町よりも、人を活かす町へ行きなさいって、言ってくれた。環境が変われば、チャンスがあるはずだって」

「ひ、人を殺す町?」

 物騒な言葉を聞いたせいか、高瀬さんが眉をひそめ、分かりやすく顔色を変えた。怯える彼女を安心させるように手をひらひらと振った。

「あーいやいや、殺人鬼がいるわけじゃなくて。あたしの地元、景気も悪くて仕事も少ないからさ。だから、人を殺す町って言われてる」

「な、なるほど……」

 あたしの実家は貧乏だ。大学に進学するための費用もない。高校を卒業したら働いて自立していくしかないから、どうせ働くなら、自分の望む環境で働きたかった。そのチャンスを探して、僅かな希望を持ってこの土地に引っ越してきた。大金を稼ぎたいとか、大物になりたいとか、不相応な考えは持っていない。ただ、人として、普通の生活をしたいだけだ。他の人が聞いたら、夢の無い若者だ、とか言うかもしれないけれど、あたしにとっては宝くじに当選するとか、大女優になるとか、それくらいに大きな夢なのだ。

 普通に生活ができる。それこそが本当の幸せなんだって、あたしは思う。

 線路の先に眩しいライトが見えた。電車の音が近づいて高瀬さんが残念そうに肩を落とした。

「うーん、時間切れかぁ。針ノ木さんのこと聞こうとすると、いつも時間が足りないよ」

「おっ、この隙に逃げてしまおうか」

「ダメダメ! 逃げても捕まえるもん」

 ミルクティーのボトルに栓をして、リュックに詰めた。

 あたしと高瀬さんの肩が触れ合う。隣で笑う高瀬さんは、電車のライトに負けないくらい眩しかった。


 高瀬さんにあたしの「夢」を話してから数日後。六時間目に体育館でとある講演会が開かれることになった。あたしはその講演会を心待ちにしていて、昨日の夜は興奮して眠ることもできなかったくらいだ。校舎と体育館を繋いでいるひび割れたコンクリートを希と一緒に歩いていると、スマートフォンにメッセージの受信通知がきていた。開いてみると、高瀬さんからのメッセージだった。

『お待ちかね、棘科家当主様の講演会でーす。やったね!』

 思わず顔が綻んだ。あたしが笑ったのを見て、希が画面を覗き込んできた。

「おっ? 愛しの高瀬さん?」

「からかうんじゃない」

 ニヤニヤ笑う希の頭に軽くチョップをしたら、笑顔のまま肩をすくめた。

「でも、これね。ホント、マジですごい機会だと思うよ。当主様って超多忙らしいし、講演会してくれるなんてすごいよ」

 いつも飄々としている希が珍しく興奮していた。棘科家の現当主は若くして棘科グループを率いるカリスマだ。町に住む住民、老若男女問わず、みんなが慕っている。芸能人やアイドルを目の当たりにするかのように、他の生徒たちも色めき立っていた。先生たちもさぞ緊張していることだろう。

 体育館に着くと、普段は予鈴ぎりぎりまでのんびりしているはずの生徒たちが集まり、用意されたパイプ椅子に座り始めていた。まるで入学式か卒業式のように、体育館のステージの上には艶のある立派な黒塗りの机が鎮座していて、その上には卓上マイク、机の端には原色の鮮やかなフラワーアレンジメントと透明の水差しが置かれていた。生徒たちが座るパイプ椅子も妙に整然と並んでいて、ご丁寧に学年と組が書かれた立て札まで置かれていた。ステージから当主様が分かるようにしたのだろう。あたしたちもさっさとパイプ椅子に座って、講演会の開始を待った。しばらく希と話しながら待っていたら、ふと、肩を叩かれた。顔を上げると、色白の肌にあたしの大好きな笑顔が咲いていた。高瀬さんだった。あたしが反応するより早く、希が声を上げた。

「あっ! 蓮華、高瀬さんだぞっ」

「高瀬さんだぞー」

 希と同じ言葉を繰り返して、高瀬さんが腰に手を当ててえっへん、という風に胸を張った。可愛くて、おかしくて、笑い声が出てしまった。

「あははっ。やっほー、高瀬さん」

「やっほー! 今日はよかったね、針ノ木さん。当主様のお話聞けるなんて」

「うん、嬉しいよ。昨日から楽しみで、あんまり眠れなかったんだ」

「あーっ。講演中に寝ちゃダメだよ?」

 もちろんだよ、と笑い返したところで、予鈴が響き渡った。

「あ、そろそろ始まるね。またね!」

「うん、またね」

 一組の席へ向かう高瀬さんを希と二人で見送った。

 体育館備え付けのスピーカーから、移動していない生徒は大至急体育館へ移動するように、と放送が流れた。

「よかったね」

「ん? なにが?」

 聞き返すと、希は声を潜めて顔を近づけた。

「蓮華、最近楽しそうだよ。よく笑うようになった」

「……ちぇ、しっかり見られてんの」

「高瀬さんのおかげってヤツぅ?」

 人差し指で腕をつつかれたから、もう一度希の頭に軽いチョップをしてやった。

 その後間もなく、残りの生徒たちも席に着いて、当主様の到着を待つだけとなった。六時間目開始のチャイムが鳴ってから二、三分。校長と教頭に連れられて、スレンダーな女性が体育館に入ってきた。ウェーブが掛かった、赤く見えるほど明るい茶髪。紅色のジャケットに白いスラックスを履いて、堂々とした足取りでステージ脇まで歩いてくる。猫のようにくっきりとした瞳と顔立ちは、雑誌の美人モデルのような美貌だった。気のせいだろうか、瞳が赤く、輝いて見えた。

「っ……」

 息を呑んだ。堂々とした優雅な立ち振る舞い。身に纏う存在感の違い。比べる必要はないのに、中野の陰口に翻弄されている自分と比べてしまった。あたしがいかに情けなくて、出来の悪い人間なのか思い知らされたようで、愕然とした。

 あの女性が棘科グループ代表で、棘科家当主。テレビの中にしかいなかった有名人が今、目の前にいる。あたしだけでなく、他の生徒たちも興奮して、館内がざわめいた。生徒たちの反応や上がる歓声に、当主様はただ笑顔を浮かべていた。

「うわ、別格……。テレビの中よりすごくない?」

 当主様を横目で見ながら、希が耳打ちしてきた。ごく自然に、二度うなずいた。

「うん。圧倒されちゃう……」

 ステージ脇のマイクスタンドの前に教頭が立って、わざとらしく咳払いをした。

「静粛に」

 フェードアウトするようにざわめきが静まる。静かになったのを確認して、教頭がもう一度口を開いた。

「えー、ただいまより、進路指導教育講演会を行います。本日は大変ご多忙の中、棘科グループ代表、そして、棘科家当主の棘科紅羽とげしな くれはさんにお越しいただきました。町の守護者である棘科一族の方に、直接お話をしていただけるまたとない貴重な機会であります。生徒のみなさんはしっかりお話を聞き、今後の進路について積極的に質問を――」

 前置きが長い。その貴重な機会と時間を無駄にしているのは教頭だろう。あたしが舌打ちをすると、隣に座る希が小さく笑った。

「――では、棘科さん、お願い致します」

 促され、当主様が体育館の端に並ぶ教師たちに一礼して、ステージに上がった。艶やかな机の前に立つと、卓上マイクを少し上に傾けて、生徒に向かって頭を下げた。生徒たちをゆっくり見回すようにして、当主様が明るい表情で口を開いた。

「ご紹介にあずかりました、棘科グループ代表、棘科家当主の棘科紅羽です。先祖が代々守ってきた土地に生きる若者たちと交流する機会をいただき、棘科一族の末裔として非常に嬉しく思っています。教頭先生からしっかり聞くように、とお話がありましたが、どうぞ肩の力を抜いて、気楽にしてください。気を張っていては疲れますし、かえってつまらなく感じてしまうかもしれません。……実のところ、私としても、背広のえらーいおじさんたちと会議をするより、こういう講演会の方が楽しかったりするんですよ」

 大富豪の当主様が幼い子供のような笑顔を浮かべた。

 なんて気さくな人なのだろう。同じように思ったのか、他の生徒たちも顔を見合わせて、小さな笑い声がところどころで上がった。当主様は子供っぽい笑顔のまま、肩をすくめた。

「本当に、講演会の方が気楽なんですよ。ちょっと難しい話になりますが、この間、経営協力を求めてきた企業があったんです。その時の会議は特に気が滅入りました。収支報告も企業成果や成長の話も作為的で、後ろめたいことがあったみたいなの。信用できなかったので、そちらの企業から持ちかけられた経営協力はお断りしました。みなさんがこの先、就職活動で――」

 一番最初に難しそうな話が出たけれど、当主様の講演会は新鮮な話ばかりで、とても楽しかった。時折、あたしたちの気持ちを解すように余談を交えながら、棘科グループのこと、自分が立ち会った面接や就職活動をしている人たちへの企業説明会などの様子を教えてくれた。話を聞いている間、あたしは当主様にずっと釘付けになっていた。憧れる企業の代表者が語る話の中には厳しい現実もあったものの、希望を持つことができる話だった。

 講演の最中、何度か当主様と目が合った気がした。当主様の瞳は、あたしたちとは全然違う、もっと遠い、別のものを見据えているようだった。あたしには当主様がどんな次元の思考にあって、なにを見て生きているのかは分からない。当主様の思考に近づくことができなくても、将来の目標である棘科グループには、喰らいつこうと思った。「普通の生活」のために、どんな末端でもいいから、棘科の名に連なる企業を目指したい。息を呑んで、両手を強く握り締めた。  

「――私の話が、少しでもみなさんの人生に貢献できれば幸いです。決して諦めないで、希望を持って人生を歩いてください」

 当主様が求める人材の話、進学する人、卒業後に就職する人へのアドバイスをして、講演が終わった。体育館に響く拍手を受け、当主様が穏やかな表情で深く頭を下げた。当主様の振る舞いはやはり堂々と、流れるように優雅だった。当主様の存在感に圧倒されて、話にもすっかり聞き入ってしまっていた。講演の間、中野が書き込んだ陰口のことや、将来への不安は姿を消していたのに、当主様の声が途切れた途端、波が寄せるようにゆっくりと胸の中に現れ、抱いていた希望をじわり、じわりと侵食していった。

「棘科さん、ありがとうございました。棘科さん、せっかくの機会ですので、残りの時間、生徒からの質問をお受けいただきたいのですが、よろしいでしょうか」

 決められたような台詞だった。当主様も壇上に上がったままだから、もともと質問時間を設けてあったのだろう。当主様は穏やかな表情を崩さず「どうぞ」と快く受けてくれた。

「短い時間ではありますが、生徒のみなさん、進路学習の一環として、積極的に質問をお願いします。質問のある生徒は挙手をしてください。マイクを持っていきますので、学年と組、名前を名乗ってから質問をするように」

 少しばかり高圧的に思えた。生徒たちがひそひそと急に質問なんか思い浮かばないとか、教頭の態度が気に入らないとか、そんな話し声が聞こえた。周りを見回しても、誰かが質問をするような様子は見られなかった。三年生の席が妙に静かだったのが不思議に思ったけれど、三年生たちがぽつぽつと挙手をし始めたからその理由がすぐに分かった。

「……ふぅん。三年生には事前に質問を考えさせておいたんだ」

 あたしが呟くと、希が呆れたようにため息をついた。

「こうでもしないと、誰も質問しないだろうしね」

 多分、当主様も事前に質問を考えさせていたことに気づいたかもしれないけれど、嫌な顔一つせず、穏やかな表情のままだった。就職、受験、それぞれの進路を決めた三年生からの質問に耳を傾け、簡潔にまとめつつ、しっかりと質問に答えていた。

 四、五人からの質問に答えたら、挙手が止まった。授業終了のチャイムが鳴るまではまだ時間がある。教頭は相変わらず、せっかくの機会だからなにか質問はないかと煽り、三年生ばかりではなく、一、二年生も積極的に質問をするように呼びかけ続けた。気がつけばひそひそと話す声は消えて、張り詰めるような気まずい沈黙が館内を満たしていた。

「まあまあ、落ち着いてくださいな、教頭先生。生徒のみなさんも、無理に難しい質問を考えなくて大丈夫です。私が話した中で分かりにくいところがあったら、どんな些細な疑問でも構わないので、聞いてくださいね。もちろん、質問ではなくて、講演会の感想でも構いません。ぜひ、みなさんの声を聞かせてください」

 教頭の煽りを見かねたのか、沈黙を破り、当主様が明るい声でそう言った。町の大富豪でテレビや新聞にも出る有名人は、気配り方も全く違う。

 当主様の言葉が口火となって、一年生や二年生でも、ちらほらと手が挙がった。講演会の質問や感想の他に、二年生の男子から「趣味はなんですか」なんて面白い質問も飛び出した。体育館がどよめいたけれど、教頭が不思議と止めに入らず、当主様も意外な質問を受けて嬉しそうに笑っていた。

「くすくす……。いいですね、そういう質問は大歓迎です。趣味はアロマテラピーです。自宅でアロマキャンドルを焚いてみたり、サロンでアロマトリートメントを受けたりします。ほら、さっき話したとおり、偉い人と会議をするとストレスも溜まるし、肩も凝るから。リフレッシュしないといけないじゃない?」

 最初に見せた子供のように人懐っこい笑顔が浮かんだ。体育館が和やかな笑い声に包まれて、教頭のせいで張り詰めていた空気がまた解れた。そこからタガが外れたように多くの生徒たちが当主様へ質問をするようになった。進路や将来のことはもちろん、先程と同じ、当主様のプライベートに関する質問もあった。

「蓮華は質問しなくていいの? 憧れの当主様じゃん」

「あー、いや、うん。遠慮しとくよ」

 希の言葉に苦笑いで返した。当主様と言葉を交わしてみたいとは思うけれど、あたしには立派な意見も質問も思い浮かばなかった。あの男子生徒みたいな粋な質問も閃かなかったし、なにより気後れしてしまって、度胸のないあたしには無理だった。

「――では、時間になりますので、棘科さんへの質問を打ち切りたいと思います」

 質問の波が途切れたところで、和やかな空気を壊して教頭の声が響いた。教頭の声はあからさまに太く、当主様がせっかく解した館内を冷たくしてしまった。進路学習の一環である講演会だから、僅かにでも趣旨から脱線したことが許せなかったのだろうか。それにしたって、大人気ないような気もする。

「教頭先生、一人だけ指名させてくださらない? 実は、気になっている子がいて。その子に講演会の感想を聞きたいのだけれど、よろしいかしら」

 当主様が教頭を見て、首を傾げた。教頭は驚いた様子だったけれど、ぜひお願いしますとうなずいた。静まった館内が再びざわめく。当主様の気になる子とは誰なのだろうと視線を追ったら、意外にもあたしのすぐ近くに向けられていることに気がついた。

「そこのあなた、二年二組の」

 微笑む当主様の赤い瞳と目が合った。そんなまさかと思って、自分を指差してみたら、当主様はますます笑顔になってうなずいた。

「そう、あなたよ。あなた、私のことずっと見ていたでしょう? 熱心に聞いてくれていたから気になっちゃって。ぜひ感想を聞かせてちょうだい」

 痩せた女性教師がマイクを持って駆け寄ってきた。進路指導担当の先生だ。全く予想外の出来事に、マイクを受け取った右手が震えた。隣に座る希がニヤニヤとおかしそうにあたしを見ていて、少し悔しかった。パイプ椅子から立ち上がると、生徒たちの視線が一気に突き刺さるのを感じた。大勢の前で話すことなんてなかったから、なにを話したらいいのか思い浮かばなくて、頭の中が真っ白になった。とりあえず、名乗るだけ名乗ろうと、マイクを口に近づけた。

「に、二年二組、針ノ木蓮華、です」

「あら、蓮華さん、って言うの? 素敵なお名前ね。感想、聞かせてもらえるかしら」

 震える声で名乗ったら、フォローするように当主様がすぐに声を掛けてくれた。名前を褒められたこともなかったから驚いて、ひくっ、と変な息を吸ってしまった。ありがとうございます、と頭を下げて、一旦当主様から視線を外した。すぐに言葉が出てこなくて、パイプ椅子に座る生徒たちの頭に視線を泳がせていたら、一組の生徒と目が合った。

 高瀬さんだった。

(がんばって)

 声には出さず、口元がそう動く。大好きな人からの応援ほど心強いものはない。可愛いなぁ、と思った途端、緊張がぼろぼろと崩れ落ちて、すぐに気を持ち直せた。当主様に視線を戻しながら、あたしって単純だな、と苦笑いがこぼれた。

「あたしは――」

 言いかけたら、当主様が微笑んだままうなずいた。あたしを安心させるような、姉や母親のような母性を感じさせる、そんな微笑みだった。

「あたしは何年か前に、この町と棘科家が取り上げられた特番をテレビで見てから、働くなら棘科グループの企業で働きたいって、願うようになりました」

 うん、うん、と当主様がうなずく。一組の席では、相変わらず高瀬さんが見守ってくれている。大丈夫だ、怖いことなんてない。あたしの抱く夢を、掴みたい未来を、当主様に話してみよう。言葉にするたびに、白かった思考が晴れて、あたしの想いと願いが輪郭を取り戻して姿を見せてくれた。

「あたしの夢は、普通の生活を手に入れることです。毎日を平穏に生きて、人生を全うできる。それこそが幸せなんじゃないかなって、いつも、思ってます。だから、テレビの中で見た、棘科グループを目指そうって……」

「…………」

 当主様の表情が、少し変わった。微笑んではいる。でも、あたしを見つめる目がなにかを見抜いて、微笑みの色合いが変わった。そう、まるで、哀れむように、あたしを壇上から見下ろしていた。哀れむ当主様の視線に救いを求め、しがみついて、言葉を続けた。

「学校で嫌なこととか、大変なこともあるけど、当主様の話を聞いて希望を持つことができました。希望をくれた当主様の下で働けるように、学校生活も頑張っていきます。本当に、ありがとうございますっ」

 思い切り深く頭を下げたら、なぜか周りから大きな拍手が沸いた。ただ感想を述べただけなのに、どうしてこんなにも大きな拍手をもらったのかは分からなかった。壇上の当主様もあの微笑みを浮かべて、拍手をしてくれていた。パイプ椅子の横にしゃがんでいた先生にマイクを返して、席に着いた。安堵して、深くて長いため息が出た。

 拍手を止めて、当主様がマイクに近づいた。

「……ありがとう、蓮華さん。待っているわよ、あなたが来るのを」

 椅子に座ったまま、もう一度頭を下げた。うなずいて、当主様が教頭に視線を投げた。

「あ、はい。えー、大変すばらしい感想でありました。他のみなさんもしっかり希望を持って将来のことを考えていただければと思います。それでは、もう一度棘科さんに大きな拍手をお願いします」

 館内が大きな拍手に包まれる。机から離れて、頭を下げる当主様。ステージから降りる時に、また目が合ったような気がした。

 その後、教頭から堅苦しい挨拶があって、講演会がお開きになった。当主様から指名された驚きと興奮がまだ冷めなくて、変に身体が火照っていた。希にも顔が赤いと言われて、顔に手を当てたら本当に熱くなっていて、恥ずかしくなった。ざわめく生徒たちに紛れて体育館を出ようとしたら、先程マイクを持ってきてくれた進路指導担当の先生に呼び止められた。

「針ノ木さーん、針ノ木さん、ちょっとストップ」

「あ、はい?」

 希が、先に帰るね、と体育館を出て行った。希に手を振って、先生を見上げると、先生がステージ脇に立つ当主様を指差した。当主様は校長や教頭と話していて、教頭が頭を何度も下げていた。なにかあったのだろうか。

「棘科さんが、就職のことであなたと話がしたいんだって!」

「ええっ! マジですかっ」

「マジよ、マジ。針ノ木さん、これは本当にすごいことなんだから」

 先生は嬉しそうだった。もちろん、あたしも嬉しかった。まだ気後れしている部分もあったけれど、自分の目標や夢を伝えた今では気後れも薄らいでいて、当主様に向き合えそうな気がした。

 進路指導の先生に連れられて、ステージ脇にまで来る。当主様は教頭に厳しい口調で話をしていた。

「――ですから、あのように威圧的な聞き方をすれば生徒たちが萎縮するのは当然です。質問しない若者を懸念されるのは分かりますが、もう少し上手い方法があったのではなくて? 司会を務めるのならば、柔軟な進行を心がけてください。あれでは生徒がかわいそうです。校長先生も、教頭先生に対して優しすぎますわ」

「め、面目ありません」

 講演会で質問を求める教頭の煽りに、さすがの当主様も不満があったらしい。痩せ型で背の高い教頭はハンカチで脂ぎった額を何度も何度も拭っていた。その隣では、綺麗な白髪をオールバックにしたふくよかな校長がぺこぺこと同じように頭を下げていた。学校の偉い人がここまで腰を折る姿を見るのは初めてだった。

「棘科さん、連れてきました」

 進路指導の先生が当主様の横から、明るい声をかけた。不機嫌そうだった表情をぱっと笑顔に変えて、あたしの方へ向き直った。

「あら! ありがとうございます、先生。さっきはどうも、蓮華さん」

 教頭に向けていた厳しさはどこへやら。気が知れた年の近い友達と触れ合うように、当主様があたしの手を取って握手をしてくれた。当主様から、甘い香を焚いたような、胸が軽くなるような優しい香りがした。ひょっとしたら、趣味で使っているアロマキャンドルの匂いなのだろうか。猫のように美しく整った目元と鼻筋を間近で見て、すごい美貌だと改めて圧倒された。

「指名しちゃって、驚いたでしょう? ごめんなさいね」

「そ、そんな。あたしは、その、嬉しかった、です」

 気恥ずかしさと、緊張。言葉も途切れ途切れになった。でも、当主様の綺麗な瞳に釘づけになって、見つめ続けてしまった。

「くすっ、そんなに緊張しないで? 私も嬉しかったんだから。あなた、ずっと私を見て、話を聞いてくれていたもの。壇上から見ていると、そういうのってよく分かるのよ。あなたの将来の夢についても、本心から話してくれたって思えたわ」

 隣で聞いていた校長もうなずいて、ぜひ棘科さんの企業で採用してもらえないか、と冗談めいたように笑った。冗談とはいえ、校長から直接当主様にそう言ってもらえるのは素直に嬉しくて、前向きな気持ちになれた。当主様は校長からの打診を受けて、ころころと笑っていた。

「あら、校長先生。その採用を前向きに考えるために、ここに呼んだんですよ」

「マ、マジでっ、じゃなくて、本当ですか!」

 声を上げると、当主様の瞳が再びあたしに向けられた。当主様の瞳は赤みを帯びていて、とても深く、宝石みたいに輝いていた。不思議な輝きに目が惹かれて、離れない。吸い込まれるというのは、このことを言うのかもしれない。当主様は柔らかく笑ってうなずいた。

「棘科グループの系列企業はたくさんあるわ。あなたが長く勤められる職種もきっとあると思うの。景気が悪いとはいえ、新卒を採用している企業は必ずあるから、前向きにね。高校を卒業したら、すぐに就職するつもり?」

「は、はい。進学は考えていないです。実家にはあまり頼らずに、すぐに働きたいと思ってます」

 答えたら、当主様が目を細めた。言葉足らずで怒らせてしまったのかと思ったけれど、あたしに向けられる視線には怒りや憤りの感情は含まれていない気がする。でも、なにかを見つけようとしている、鋭いものだった。

「そう……。勤務地の希望は?」

「今は隣町で一人暮らしをしてるので、生活が安定するまでは、この町か、隣町がいいかなって思ってます。通勤しやすいですし」

「一人暮らし?」

 細められていた目が開かれた。実家にあまり頼らないと言ったのに一人暮らしなんて、考えてみればすごい矛盾だと思う。でも、これには家庭の事情がある。

「あ、はい。わけあって、大叔母の仕送りと、あたしのアルバイト代で生活してます」

「…………」

 当主様が無言で腕組みをして、右手の人差し指を腕の上でトントン、と動かした。なにかを考えるようにあたしの顔を眺めた後、ジャケットの胸ポケットからアルミのカードケースを取り出して、真紅に染められたカードをつまみ出し、あたしの前に差し出した。紅を背景に、細く黒い文字で「棘科紅羽」とだけ印刷されていた。

「これ、私の名刺ね。裏に私の連絡先もあるわ。この名刺はね、そう、なんていうか、個人的な名刺なの。なんとなく、あなたとはもっと詳しく話をしなくちゃいけないような気がする。私が指名したのもなにかの縁だと思うから、渡しておくわね」

「あっ、ありがとうございますっ」

 ほしかったプレゼントをもらったかのように喜んだ。自分の顔がすっかり綻んで、満面の笑顔になっているのが分かった。名刺を受け取ったら、しばらくその真紅のカードに目を奪われた。一生の宝物にしようと思った。

 でも、個人的な名刺って、どういう意味なのだろう。

「意外とね、縁ってすごいものだったりするのよ。直感、みたいな。商売人はそういうのを大事にして、商機を掴むこともある。蓮華さんとの縁がなにを起こすのか、楽しみにさせてもらうわよ。どんな些細なことでもいいから、相談、待ってるわね」

 そう言って、当主様は壇上で見せた可愛らしい笑顔に戻った。

 やはり多忙な様子で、あたしと少し言葉を交わしただけで、当主様は校長たちと一緒に体育館を後にした。去り際に当主様が手を振ってくれて嬉しかった。紅色の名刺を大切に持ったまま当主様の背中を見送って、あたしも教室に戻った。


 傾いた陽が差し込む校舎の廊下をゆっくり歩いていた。六時間目が終わり、二学年棟は数名の生徒が残るだけで静かだった。多くの生徒はあたしが体育館で当主様と話をしている間に帰宅したか、部活へ向かったようだ。一日を終えた心地よい気だるさを感じながら、当主様から受け取った紅色の名刺を見つめた。講演会では指名され、更に言葉を交わし、名刺までもらった。指名された時はどうしようと思ったけれど、高瀬さんの応援や当主様の優しいフォローがあって、あたしの将来の夢や、想いを伝えることができた。そうだ、あたしの想いが伝わったから、きっと当主様から近づいてくれたのだ。

「……高瀬さんのおかげかな」

 名刺から視線を外して、窓の向こうに広がるオレンジ色に染まる空を見上げた。

 高瀬さんと距離が縮まってから、立て続けに嬉しいことが起きている。吹奏楽部員の友達ができて、オーディエンスとして歓迎され、そして今日、当主様の目に留まった。中野の書き込みで周囲が敵だらけになったと一人で悲観していたけれど、勇気を出して高瀬さんに歩み寄ったことで、学校生活の状況が好転した。もちろん、中野の書き込みを見た人もいるかもしれない。でも、考えてみれば、今まで中野以外の誰かに直接いじめられたり、嫌がらせを受けるようなことは起こっていない。このまま堂々と、高瀬さんと仲良く学校生活を過ごせるように努力すれば、中野の書き込みは風化していくかもしれない。

 紅色の名刺を見ていると、前向きな気持ちがどんどん溢れてきた。高瀬さんと当主様が、あたしの背中を押してくれている。卑怯な方法に逃げて自分を正当化するようなヤツに、負けてたまるものか。

 決意と共に名刺を財布のカード入れに丁寧に入れて、廊下の先に目をやった。

「もう、そういうの、やめた方がいいよ」

「えぇ? なんで? 泉実ちゃんには関係なくない?」

 愛しい声と、憎い声が聞こえた。一組の教室の前で二人の女子生徒が言い争っていて、野次馬がちらほらとできていた。晴れ渡っていた心に鈍重な黒い雲がむくむくと広がっていく。最悪な光景を前にして、足がぴたりと止まった。

「棘科さんに指名受けたからって、媚売ってるとか仕込みとか、そんなの、ひどいよ」

 柔和で、いつもふわふわしている高瀬さんの口から、嘆きにも似た厳しい言葉が発せられる。彼女が手に握っている手提げ鞄が、小刻みに震えていた。眉を寄せ、悲しい瞳をした高瀬さんが対峙しているのは、あたしの元恋人、中野美晴だった。中野はすっとぼけたように眉を上げ、嘲るように目を見開いていた。

「だから、泉実ちゃんには関係ないでしょ? なんで泉実ちゃんがあいつを庇うわけ?」

「大切な友達をいつもバカにされて、黙っていられるわけないよ。いつも針ノ木さんの悪口ばっかり言って、少しでも自分を省みたことはないの?」

「うっわ。聞きたくもない名前が出てきた。そいつの名前見たり聞いたりすると吐き気する。最悪。大切な友達とか、ありえん」

 色黒の顔に皺が寄り、歪む。憎い人物の嫌悪感に満ちた表情を見て、あたしも嫌悪感に満たされた。対して、高瀬さんは諦めたように顔を引いて、首を横に振った。

「また、悪口。針ノ木さんばっかり責めて、自分のことは考え直さないんだ。そんなの、逃げてるだけだよ。卑怯だよ」

 近くで見ていた野次馬の一人が高瀬さんの手を引いていた。張り詰めた空気に怯え、高瀬さんを引き離そうとしているのか。高瀬さんの冷静で、はっきりとした意見が中野の醜悪な顔を更に歪めていく。付き合っていた頃に見た、あたしの嫌いな顔だった。

「もう、うるさい! アンタになにが分かるっていうの?」

「思いやりのない人のことなんか、分かりたくもないよ!」

 高瀬さんもヒートアップしてきている。冷静だった声の調子に怒りが徐々に現れ始めていた。早く止めないと、このままでは高瀬さんまで完全に中野の獲物にされてしまう。

「くっ」

 息を呑んだ。

 中野の前に出て行くのは怖かった。あたしは中野が怖い。それに、人のことをなんとも思わないような人間に、あたしの言葉なんて届かない。話し合いの場を持とうと歩み寄ったのに、支離滅裂な会話と暴言で台無しにされたほどだ。もう言葉も交わしたくないし、顔も見たくなかった。思い出したら暴れたくなるほど嫌で、憎しみに満ちていた。

 でも。

 今は、高瀬さんが危ない。いかに中野が怖くても、憎くても、大好きな人が危ない目に遭いそうなのを放っておくわけにはいかない。

 あたしを信じて庇ってくれたのなら、なおさらだ!

 奥歯を噛み締めて、当主様の名刺をもらって浮かれていた顔を固くした。真っ直ぐに高瀬さんだけを見つめて、一歩、また一歩、廊下を歩いていく。悲しく怒り続けるあたしの天使を助けるために。

 あたしに気づいて驚く野次馬を押しのけて、黒い悪魔と対峙するあたしの天使に向かっていく。綺麗な栗色の髪が目の前に見えたところで、彼女の細い手を取った。

「高瀬さん」

 手を取って声をかけると、びくっ、と身体を震わせて、高瀬さんがあたしを見た。瞳は潤んでいて、今にも泣き出しそうだった。あたしの天使は泣くのを堪えて、ずっと悪魔と戦い続けていたらしい。

「針ノ木、さん」

 眉が下がって、安堵するように泣き笑い。あたしも固くしていた表情を僅かに緩めて、微笑んだ。

「帰るよ。リュック、取りに行こう」

 高瀬さんの手を引いて、廊下から二組の教室に連れ込んだ。中野や野次馬はなにも言わず、あたしの背中に視線を送るだけだった。あたしの席からくたびれた黒いリュックを引っつかんで肩にかけると、高瀬さんの手を強く握ったまま二組の教室から出た。

「話してる途中だろ! おら、逃げるな、クソが!」

 なんて醜い声と言葉だろう。教室から出たところで怒声が背中に浴びせられた。薄汚くて安っぽい、まともな話し合いができない人間のやりそうな煽り方だった。高瀬さんが振り返ろうとしたけれど、歩みを止めずに無理やり引っ張った。

「い、痛いよ、針ノ木さん……」

 怯えた声が高瀬さんの口から漏れた。あたしは高瀬さんを見ずに、廊下の先だけ見据えて、小声で呟いた。

「……約束、破ったね」

「約束? ……ああっ」

 思い出してくれたのか、隣で高瀬さんが声を上げた。

 つい先日。国語表現の授業前に高瀬さんにお願いした二つの約束。一つ目は、中野の言うことを鵜呑みにせず、高瀬さん自身の目であたしを見るということ。二つ目、中野に対して、あたしのことで関わらず、反論しないこと。

 高瀬さんは二つ目の約束を違えてしまった。

「ごっ、ごめんなさいっ」

「…………」

「針ノ木さん、針ノ木さんっ。ごめんっ、ごめんなさい」

 返事はせず、早足で廊下を抜けて、手を握ったまま昇降口まで階段を駆け下りる。謝り続ける高瀬さんを引っ張って、北校舎と中央校舎を繋ぐ渡り廊下までやって来た。

「さて」

 渡り廊下の真ん中に来たところで立ち止まった。繋がれていた手を離して、高瀬さんに向き直った。眩しい夕陽が高瀬さんの髪をキラキラと輝かせ、白い肌をオレンジ色に染めていた。愛しい人の瞳は今にも泣き出しそうなほどに揺れている。両手を胸の前で結び、不安そうにする高瀬さんの額に物凄く軽いチョップをしてやった。

「こら」

「あうっ」

 あたしに厳しく怒られると思っていたのだろう。予想外の手ぬるい攻撃にびくりと肩を震わせて、困ったように顔をしかめた。可愛らしくて、苦笑いが漏れた。

「まったく。中野に反論するなって言ったのに」

「ご、ごめん、なさい。怒ってる……?」

 潤んだ瞳がこちらを見ている。あたしは苦笑いのまま首を横に振った。

「いやいや、怒ってないよ。庇ってくれたのは嬉しかったし、なんだか、複雑な気分」

 頭をかきながら中庭に視線を向けた。吹奏楽部員たちが各パートごとに集まって、それぞれが練習を始めている。フルートパートの子たちもいつもの場所に譜面台を立てて、秋風に音色を乗せていた。

「講演会の後、中野さんがまた針ノ木さんのことをバカにしてたの。棘科さんに指名されたから媚びを売るような感想を言ったとか、指名されたのは裏で決められてたとか、仕込みとか――」

「言わせときなって」

「あう、ごっ、ごめん……」

 高瀬さんの言葉を遮って、吐き捨てた。パーカーのポケットに両手を突っ込んで夕陽を見上げた。

 恐らく、これから先も中野は面と向かい合うことはせず、陰であたしの人格を否定し続ける。そして時が過ぎ、記憶や憎しみが薄らいでいけば、あたしの存在を気にしなくなるだろう。それは決して明るい意味で気にしなくなるのではない。存在を否定することで気にしなくするのだ。針ノ木蓮華は自分よりも劣っている、蛆虫以下だと、憎い人間を最低限まで落として否定する。そして自分を正当化し、美しく輝かせる。そうすることで自分の価値を守るわけだ。一切、自分を省みないままに。

「でも、針ノ木さんは悔しくないの?」

 夕陽を見上げるあたしの前に高瀬さんが立った。潤む瞳と理不尽を嘆く声が、どうにもならない憤りを強く訴えていた。高瀬さんは見ないで、夕陽をにらんだ。

「悔しいさ。でも、反論も弁解も、しない」

 言葉を伝えようと話し合いの場を持ったのに、あいつは威圧的に自分の憎しみばかりを前面に押し出して終わり方を汚した。挙句、綺麗に終わらせようとしたのに、なんて自分を正当化する。針ノ木蓮華の想いや心を聞こうとも、見ようともしなかった。悔しいし、中野は憎い。あんなヤツに一時でも心を寄せた自分自身も許せない。

 でも、憎い、悔しいという衝動に任せて中野を攻撃すれば、自分自身が磨り減って、疲れ果て、更には中野と同じ醜い人間になってしまう。それだけは、絶対に避けたかった。

「聞いてくれない、見てくれない。そんな人に言葉を尽くしたところで、自分が磨り減っていくだけなんだって、気がついたんだ。中野が書き込む悪口は気になるけど、もう見ないようにしてるし、反論だってしない。分からない人に心を注ぐよりも、分かってくれる人に心を注ぎたいんだ。例えば――」

 夕陽から目を離して、高瀬さんを見つめた。大きな瞳と、可愛らしい唇。あたしが心を注ぐべき人は、目の前にいる。大失敗をして見つけた、最高の温もり。可愛いだけじゃなくて、自分の目で針ノ木蓮華を見て、評価すると約束してくれた、心の温かい人。

「――高瀬さんみたいな人に、ね」

 高瀬さんと出会ってから今までで、一番最高の笑顔を意識した。反論するなと言ったのにあたしを庇ってくれた。中野に立ち向かってくれた。自分の信念を持って正義を貫いた、可愛い、あたしの天使。夕陽を背景に、高瀬さんが大きく目を見開いて、赤くなった顔を伏せた。

「……きっ、嫌いにならないの? 約束破ったんだよ? 針ノ木さんの言うこと、分かってない人なんだよ? 針ノ木さんだってすごく嫌な思いをするはずなのに、どうして、私を助けてくれたの? どうして、そんなに優しくしてくれるの?」

 肩が縮まって、胸の前で震える両手を結んでいた。

 たくさんの質問の中に、かつて、あたしが高瀬さんへ向けた質問があった。

 あたしも、あたし自身の目で高瀬さんを見ている。高瀬さんの可愛いところ、優しいところ、危なっかしいところ。仲良くなってからまだ日も浅い。お互いに、深いところまで知り尽くしたなんて、思っていない。それでも、高瀬さんとは分かり合うために交わした言葉があった。分かり合うために過ごした温かい時間があった。中野とは付き合っていたから、過ごした時間は高瀬さんより長い。でも、こんなにお互いを知ろうと言葉を交わしたことがあっただろうか。隣の温もりを大切に感じて、思いやって過ごす時間があっただろうか。高瀬さんは可愛いだけじゃない。あたしがほしい温もりを、あの夕陽のように眩しくて、温かく、切なくなるほどの優しさを持っていると、信じられた。

 だから想いを寄せた。好きになった。

 大好きなんだ。あなたの前では、優しい針ノ木蓮華でいたいんだ。

「高瀬さんと同じ。あたしも、あたしの目で高瀬さんを見てるだけ」

 大好きだからと、一言で言えたのに、口にはしなかった。震える天使の頭に右手を置いて、綺麗な栗色の髪を辿って、頬までゆっくりと撫でてあげる。頬で手を止めたら、高瀬さんが伏せていた顔を静かに上げて、潤んだ目を細めてあたしの掌に頬を寄せた。

 嫌がらない。むしろ、愛おしそうに、あたしの掌を受け入れてくれた。

 付き合ってもいないのに、抱き締めたい。キスしたい。

 そんな欲望を抑え込んで言葉を続けた。

「あたしは、自分の目で見た高瀬さんを信じてる。さっき中野とぶつかったのも、ただ約束を破ったわけじゃなくて、あたしを庇うために戦ってくれた、高瀬さんの優しさだって信じてる。だから、嫌いになんて絶対にならない」

「針ノ木さん……」

 もう、すぐにでも泣き出しそうだった。これはまずいと思って、高瀬さんの背中を軽く押すように叩いた。これから練習があるというのに泣かせるわけにはいかない。今はパートごとの練習だから間に合うはずだ。これが全体練習だったら先生にも叱られてしまうだろう。

「ほら、元気出しなよ。練習あるんでしょ? あたしもバイト、行くからさ」

「う、うんっ」

 目元をこすって、大きく深呼吸する高瀬さん。中庭に駆け出そうとして、こちらを振り返った。振り返った天使の笑顔に、不安に潤んでいた瞳はもうない。

「ごめんね。ありがとうっ」

「……ん」

 小さくうなずいて片手を挙げた。高瀬さんも手を振り返して、中庭を横切って第一音楽室へ駆けて行った。なんとか部活には間に合ったけれど、まだ、一抹の不安が心にこびりついていた。

「因縁つけられなきゃいいけど……」

 今までは中野には直接触れず、あたしと関わるだけだった高瀬さん。しかし今日、中野に面と向かって反論したことで、彼女も狙われる可能性が出てきた。成績も人間関係も部活も良好で、学校生活が順風満帆だったというのに、結局巻き込んでしまった。

 しばらく中庭を見つめた後、昇降口へ足を向けた。

 もし、中野が高瀬さんを攻撃してきたら。高瀬さんの悪口を、陰口を言い触らすようになってしまったら。あたしのせいで高瀬さんを巻き込んだのだから、あたしは高瀬さんから離れるべきなのだろうか。それとも、近くで守るべきなのだろうか。

 どうしたら、いいのだろう。

 右手に残る高瀬さんの感触と温もりに、胸が苦しくなった。

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