約束
「自分は悪くないって言いたいわけ?」
会話にならない。話を捻じ曲げられて、一度ぶってやろうかと思った。でも、いかに相手が腹立たしい言動をしても、手を出せば立場が悪くなる。斜陽に照らされる教室はこんな時でも美しくて、目の前に立つ醜い元恋人とは比べてはいけないほど、神聖な場所に思えた。あたしは深いため息をついて、手に持っていたくたびれた黒いリュックサックを背負った。これ以上、会話を続ける意味はない。話し合いの場を台無しにしたのは、目の前にいる特徴的な丸いマッシュルームボブの女だ。あたしが振ったことで、ひどくプライドを傷つけられてしまったのだろう。別れた後に悪口を言われるのはよくあることらしいけれど、まさかここまで胸糞悪いものだとは思わなかった。
「そんなこと、一言も言ってない。ネットに悪口を書くのはやめてくれって言ってるの。そんなに不満があるなら、なんで言ってくれないのさ」
猿のような顔が引きつって、口と眉が吊り上がったのが見えた。我ながら、どうして付き合ったのか理解に苦しむ。確かに好意を抱いていた日々がまるで、嘘のように遠くへ霞んでいく。この女とクラスが違って本当に良かった。せめてもの救いだ。
夏休みはとうに終わり、暦が秋へ向かう十月中旬。一年と少しの間付き合った彼女との関係に悩み、別れを告げたら、SNSサイトに実名付きで罵倒される羽目になった。ひとまず穏便に話し合おうと思って、放課後に自分の教室に呼び出してみたら、会話にならなくて、向けた優しさが全て仇になって返ってくる始末だった。理解しにくい言動や思考を目の当たりにすると、苛立ちよりも嫌悪感に似た恐怖が襲ってきた。もう、この人間とは関わってはいけないのだ。リュックサックのベルトを右手でしっかりと握り締めて、踵を返した。
「もういい……」
「せっかく綺麗に終わらせてあげようと思ったのに!」
「汚くしてるのは、あんたでしょ」
振り返らずに出た言葉は、自分でもぞっとするほど冷たかった。
別れ話を切り出した時、こいつは奇妙なほど綺麗で整然とした言葉を言った。別れるという決断が、一生懸命悩んで考えた結果で、別れることで学校生活が充実するならそれでいいと、こいつは確かに言ったのだ。でも、その言葉はとんでもない張りぼてだった。あたしたちが付き合っていることを知る数少ない友達から連絡があったのは、別れ話をした日の夜。この女がSNSサイトにあたしを貶め、侮辱し、呪詛のような暴言を怒涛の勢いで書き込んでいると、慌てて連絡してくれた。あたしの前では見かけだけの張りぼてを作って取り繕い、その陰であたしの人格を殺したのだ。これは、自分のプライドが殺された腹いせなのだろう。
底が見えた。もはやこの女に論を説いたところで、自分が疲れるだけだ。後ろの気配は放っておいて、教室の入り口に向かった。歩き出すあたしを追いかけてくる様子はなかったから、完全に縁を切れたのだと、少しの悔しさと安心を覚えた。
あたし、針ノ木蓮華はこの町の共学高校に通う二年生だ。共学とはいえ、少し前までは女子高として機能していたせいか、共学となった今でも女子生徒が多い。だから、たった今揉めた、あたしとあいつのように、女子同士で恋人として付き合う生徒も、少しいたりする。
教室を出て、オレンジ色に満たされた廊下を静かに歩く。放課後になってからどれほど経っただろう。生徒たちはそれぞれの放課後へ向かい、教室や廊下に残っているのは僅かだった。夕陽のフィルターに覆われた窓ガラスの向こうでは、グラウンドで懸命に走る運動部員たちの姿が見えた。彼らの努力に比べれば、あたしたちの揉め事なんて安っぽいものだ。血の滲むような努力をして、高みを目指す彼らは本当に美しいと思う。あの張りぼて人間には一生辿り着けない感覚だろう。
「青春、か」
乱雑に切ったショートの黒髪をかき上げながら、ぼそりと呟いた。
あたしの青春にも新しいページが一枚追加された。高みを目指す美しさではなくて、醜い心の持ち主と付き合ったという、薄汚くてカビの生えたようなページだった。指でつまむと、指先が黒ずんで、臭ってきそうな。ああ、不愉快極まりない。
窓から目を外し、昇降口へ向かう階段を駆け下りた。
「じゃあね~」
「うんっ、また明日ね!」
階段を下りたら、女子生徒三人組が二人と一人に別れるところに出くわした。二人は各部の部室がある北校舎へ、一人はこれから帰るところなのか、昇降口で靴を履き替えようとしていた。ガラス張りの昇降口には西日が強く差し込む。下駄箱も壁紙もオレンジ色に染まる中で、栗色のセミロングが夕陽に輝いていた。彼女のシルエットを縁取る虹色の光が、まるで彼女自身が光を放って輝いているように錯覚させた。足を止めて、神聖な光を纏う彼女に釘付けになった。
同じ学年で、組が違う。でも、合同授業や選択教科で席が隣同士になったり、班が一緒だったりしたことがあった。二年一組の、高瀬泉実さん。吹奏楽部のフルート奏者。町の富豪が出資している製薬会社に父親が勤めていて、母親は看護師だと聞いた。裕福な家庭でのびのび育っているのだろう、人当たりもよくて人気者、おまけに成績優秀な優等生だ。学校指定のブレザーを身につけ、胸にリボンをしっかりと締めて、身だしなみも整っている。彼女とは対照的に、あたしは私服の黒いパーカーを羽織り、着ているブラウスの裾はスカートの上に飛び出しているし、リボンなんて一年生の夏からつけていない。おまけに背負っているのは使い古したくたびれたリュックサック。女の子らしさの欠片もない。全く、同じ女なのにここまで差があるなんて。少なくとも、元恋人である張りぼて女よりはいい女になれるように頑張りたい。
「あっ。針ノ木さん!」
靴を履き替えた高瀬さんが顔を上げたところで気づかれた。立ち止まってまじまじと観察していたので、あたしはぎくりと後ずさった。高瀬さんの白い肌には、こんなあたしでも受け入れてくれるように柔らかい笑顔が浮かんでいる。
「針ノ木さんはこれから帰るの?」
「あ、うん。そう、帰るの。帰るとも。あはは」
乾いた声で苦笑い。ごまかすようにあたしも下駄箱から履き古した黒いブーツを取り出した。靴紐を解き、足を入れてしゃがみこむ。靴紐を結んでいれば高瀬さんも立ち去ってくれるだろうと思ったけれど、彼女は全く動かなかった。紐を結びながら顔を上げると、こちらを興味深そうにじっと見つめる高瀬さんと目が合った。
「どうしたの?」
「黒いブーツ、カッコいいなぁって。針ノ木さんって、カッコいいよ! 授業の時も思ってたんだ」
カッコいい、というよりも、綺麗とか、可愛いとか言われてみたいのが正直なところではある。しかし、高瀬さんの言葉は嫌味ではなくて、素直な褒め言葉だって分かるから、嬉しかった。長い睫毛に縁取られた大きな瞳があたしを捉えている。夕陽に染まる高瀬さんの柔和な笑顔は、どこか郷愁にかられるような不思議な魅力があった。寂しくもあって、嬉しくもあって、温かい感情が行き場を失って、胸と喉の間で詰まるようだった。
靴紐を結び終えて立ち上がる。高瀬さんを正面に見て、微笑み返した。
「高瀬さんだって、可愛いじゃん」
「あえっ」
ぼんっ、と音が聞こえそうなほど、一瞬で白い肌が赤くなった。両手を驚いたように開いたまま、高瀬さんが口をパクパクさせながら、言葉にならない言葉を必死になって絞り出していた。
「そんな、そん、そんなこ、そんなことはっ」
「ふふ、古典の用言活用みたい」
いたずらっぽく笑って見せると、今度は開いた手で顔を覆って、心底恥ずかしそうに、うー、うー、と唸り声を上げ始めた。あまりからかってはかわいそうだったので、落ち着かせるために頭をぽんぽん、と軽く叩いてあげた。
「なぁに照れてんの」
「も、もう、からかわないでよー」
「素直に思ったことを言っただけだって」
じゃあね、と手をひらひらさせて、高瀬さんの前を通り過ぎる。ガラス扉をくぐって外に出たら、グラウンドから土の匂いが風に乗ってきた。夕陽に染まった景色に土の匂い、何気ない日常に感じられる美しいもの。あたしはこんな景色が大好きだった。教室で揉めた醜悪なヤツのことなんか、一息で洗い流して、忘れさせてくれる。嫌なこと、つらいことを霞ませて、慰めてくれる優しさ。あたしがほしいのは、派手な服や上等なバッグじゃない。ただ、あの夕陽のように温かく、柔らかく照らしてくれるような優しさだ。
ごつごつと重たい音を立てるあたしのブーツに混じって、ローファーの軽い足音が後ろから聞こえてきた。首を傾けるようにして後ろに目をやったら、高瀬さんが慌てるようにしてあたしを追いかけて来ていた。
「針ノ木さん! 待って!」
どうしたのだろうと、立ち止まって振り返った。
「んー? どしたの?」
「一緒に、帰ろう」
また、柔和な笑顔が咲いた。選択教科の授業で一緒になったくらいで、それほど仲良くなったつもりはない。しかし、こうした人当たりのよさが高瀬さんの魅力であり、人気者にする部分なのだろう。その内、誰かに騙されたりしそうだ。
「一緒に? あたしの家、隣町だから電車乗るけど」
「それなら、帰り道同じだよ。私も隣町なんだ」
「あれ、そうだったの。てっきり山側かと思ってた」
山側の住宅地は、いわゆる「お金持ち」が住むような場所だったと記憶している。この町の大富豪も、山側に広がる森の中に大きな館を構えて住んでいる。だから、高瀬さんみたいな裕福な家庭はみんな山側に住んでいるものだと思っていた。このご時勢にマイホームを建てられるのは一握りの成功者だ。普通に仕事をしていれば当然できること、なんて言うけれど、その普通が今じゃ高嶺の花なのだ。あたしの家庭は昔からずっと貧しいから、よく分かる。しかし、そんなあたしと違って高瀬さんは本当に高嶺で咲いた花。人気者で優等生の美少女なんて、作り物の世界にしかいないものだと思っていた。
「……一緒に帰っちゃ、ダメかな? そういえば針ノ木さん、今日、ちょっと元気ないもんね」
大きな瞳があたしを覗き込んできた。元気がない理由は明白だ。あんなヤツに一瞬でも好意を寄せた自分が憎くて仕方がない。すんなり別れ話にオーケーを出したくせに、陰で散々あたしを貶めた卑怯者。女々しいのはどっちだっつーの。
パチパチと火花のように弾ける怒りが胸の中で暴れ回ったけれど、人気者の手前、あからさまに嫌な顔もできなくて、やはり、自然に笑顔がこぼれていた。愛想笑いなのか心から出た笑顔なのかはよく分からなかった。
「帰り道同じならいいじゃん、帰ろっか」
「やったぁ! ありがとう、針ノ木さん!」
軽い足取りであたしの隣に肩を並べた。日差しみたいな眩しい笑顔が隣に咲いていて、少しだけ、照れくさかった。あたしみたいなのと一緒に帰って、なにが楽しいんだか。でも、あの卑怯者と揉めた帰り道、一人きりだったら疲れてしまうところだった。事情を知らない第三者が一緒にいてくれるだけで、ずいぶんと心の重圧が軽くなる。それが高嶺の花なら、完璧だ。
「あたし、変なヤツに目ぇつけられちゃったから、一緒に帰ると嫌な思いするかもよ」
もちろん、変なヤツとは教室にいたあいつだ。あたしが高瀬さんと一緒に帰っているところを見たら、今度は高瀬さんを狙っているとか、汚い言葉で言い触らしたり、ネットに書き込んだりするかもしれない。可能性としては十分ありうることだった。
「えっ、どうして?」
「針ノ木さんには敵が多いのですよ」
「そんなの、かわいそう」
「へっ」
かわいそうと言われて、変な笑い声が出た。我ながら、嫌な声だった。
レンガを積み上げた校門の前に、広い道路が東から西へ延びている。この道路には生徒がよく利用する文房具店と古びたパン屋が肩を並べていて、他にもごちゃごちゃと古くから根づいた民家や商店が肩を寄せ合っている。夕方の帰宅時間だからだろう、学校前の道路は多くの車が往来していた。歩道を歩くあたしと高瀬さんの会話も、車の音に負けないように大きめの声になっていた。
「そういえば高瀬さん、部活は?」
「今日は早退。ちょっと、寝不足で」
小さく舌を出して、笑う。吹奏楽部はあの学校の中でも規模が大きく、毎年力を入れて取り組まれている。長時間の練習がつらいとか、先生が厳しいとか、挫折して辞めていく新入生たちもいるほどだ。しかし、そんな厳しさがあるせいか、大会では必ず金賞を取って帰ってくる。我が高校は、吹奏楽部では強豪高だったりするのだ。
「目標はいつも金賞だからね。私も音楽は好きだけど、疲れた時はさすがに休むよー」
「怒られたりしない?」
「大丈夫。先生は厳しいけど、みんなの顔色とか体調はしっかり見てくれてるから」
なるほど。厳しいとはいえ、休息を挟んでいるわけだ。練習と休息のメリハリをつけることが、上達の秘訣なのかもしれない。
「針ノ木さんは、部活やってたっけ?」
屈託のない笑顔。ああ、眩しい。学校で醜いものと向き合っていたせいか、人気者である高瀬さんと肩を並べて歩くこの時間が無性に幸せに思えた。
「あたしは部活してないよ。放課後は、アルバイト。今日は休み」
「アルバイトかぁ。どこで働いてるの?」
「駅前商店街のCDショップ。あたし、洋楽聴くのが好きなの」
あたしが聴くのは少し昔の洋楽ばかり。六十年代から八十年代に流行した洋楽アーティストのCDを借りたり、時々は買ったりして、それを聴いて毎日を過ごしている。あたしが洋楽好きだと知るや否や、高瀬さんは「針ノ木さんはやっぱりカッコいい」と繰り返した。高瀬さんのカッコいい基準に疑問が残るものの、この笑顔を見ていると、喜んでいるならいいか、という気分になってしまう。
「……ずるいなぁ」
空を見上げて呟いた。紫色が東に、橙色が西に。夜と夕方の境界線が空にくっきりと見えていた。空とあたしの顔を交互に見て、高瀬さんが首を捻った。
「えっ? なんのこと?」
「なんのことだろうね」
学校前の道路を東へ歩いて、もう一つ大きな道路に突き当たる。この道路を南へ下っていけば、煌びやかに電灯が輝く商店街のアーケードに入る。あたしたちの目的地である駅は、商店街を抜けた先だ。
高瀬さんは終始柔らかくてふわふわした雰囲気を崩さず、たくさん話をしてくれた。あたしは自分から話すことはあまりなく、ほとんど彼女の聞き手に回っていた。話に夢中になっているせいか、時々、アーケードですれ違うスーツ姿の人や、他の学生にぶつかりそうになっていたから、手を引いてあげたりして、少し忙しかった。忙しかったけれど、嫌じゃない。むしろ、楽しんでいる自分がいた。
恋人と別れた。それは苦い過去の出来事。今はもう、別れた恋人に未練なんてなくて、ただ、見えないところであたしを貶める書き込みをするのが腹立たしいだけだった。万が一あいつからやり直したいと言われても、あたしは絶対にうなずかない。綺麗に終わらせるとか抜かしておきながら、陰で汚いことをしているヤツなんか、友達でいるのもごめんだ。そんなヤツと関わった後だから、高瀬さんのように無関係な第三者には、優しい針ノ木蓮華でいようと頑張った。いくら悪口を言われても、陰口を言われても、そんなの嘘だと笑い飛ばせるくらいに堂々としていたい。
しばらく歩いて、鈍い銀色に包まれた長方形の建物が見えた。この町では一番大きな駅で、あたしと高瀬さんの目的地だ。仕事帰りの疲れたスーツ連中に混じって改札を通り、薄汚れた白いタイルの通路を歩いて六番線ホームまで来た。ホームでは同じ学校の生徒たちもいて、本を読んだり、スマートフォンをいじったりしながら同じ電車を待っていた。
「完全に帰り道一緒じゃん。なんで今まで気づかなかったんだろ」
聞いてみると、高瀬さんが「ね~、不思議だよね~」と笑顔を返してくれた。
「私は部活で、針ノ木さんはアルバイトだったからかな? すれ違い、みたいな」
「なぁるほど。高校二年目でやっと行き会えたわけ」
「行き会えたから、運命だね」
首を傾げて、にっこり。あたしが言えば恥ずかしいような台詞だけれど、この少女が言うと途端に神秘的な色合いを持つから不思議だった。
「運命、かぁ。ははっ、そう言われるとちょっと重たいかも」
頭をかきながら、ホームから見える空を見上げた。もう、橙色は見えなくなってきている。紫色が濃くなって、闇が向こうから流れてきていた。
「じゃあ、私が半分持つね。そしたら、軽くなるよ」
「なにを?」
高瀬さんを見た。やはり、にっこりと笑顔が浮かんでいる。
「針ノ木さんの、運命」
「えっ……」
その言葉と笑顔に、胸が鳴った。今日見た笑顔の中で一番、心を揺さぶられるものだった。直視できなくて、思わず目を逸らしてしまった。高瀬さんに顔を見られるのが物凄く恥ずかしい。プロポーズでもされたのかと思うほど、冷えていた心から顔の表面まで一気に熱が走り抜けるのを感じた。
「……やめなよ」
うつむいて、呟くように震えた声が唇の端から漏れた。
あたしの恋愛対象が女の子とはいえ、誰彼かまわず好きになるわけじゃない。でも、傷心しているところにそんなことを言われたら、本気にしてしまう。ましてや、言われた相手は人気者の美少女である高瀬さんだ。この少女は自分がいかに整った容姿をしていて、どれだけ無防備な優しさや温かさを撒き散らしているのか分かっていない。下手をすれば、高瀬さんは本当に悪いヤツに騙される。
「えっ、は、針ノ木さん、怒った?」
「ううん、照れただけ」
高瀬さんは見ないで、線路の先を見据えた。遠くで、電車のライトが眩しく光っているのが見えた。ホームのスピーカーから、電車到着のアナウンスも聞こえてくる。電車が遅れればいいのに、と思った。
少しだけ、高瀬さんと肩の距離を縮めた。
電車の中は混み合っていて、あたしと高瀬さんはドアのすぐ脇で肩を寄せ合い、座席から天井に伸びているポールに掴まっていた。隣町だからすぐだけれど、息苦しかった。学校から駅までたくさん話をしてくれた高瀬さんも、さすがに人が多いからだろうか、電車に揺られている間は口を開かなかった。触れ合う肩の感触を意識したら、ぴくりと震えて、恥ずかしくなった。
「…………」
彼女と別れたばかりなのに、すぐ他の子に心を惹かれる自分が嫌で、唇を噛んだ。どれだけ高瀬さんが可愛くても、恋愛対象として見てはいけない。あたしが高瀬さんへ必要以上に心を寄せれば、張りぼて女が高瀬さんにもあたしの悪口を言ったり、あるいは嫌がらせをするかもしれない。高瀬さんとはある程度の距離を置いて、友達でいるべきだ。運命を半分持ってくれる、なんて言ってはくれたけれど、きっとその言葉に重たい意味はなく、あたしが考えすぎただけなのだ。
「針ノ木さん、大丈夫? 場所、かわる?」
あたしを心配して、丸い瞳が覗き込んできた。
「あ、いや、平気。ごめんね、ちょっと考え事してただけ」
「悩みごとなら、相談に乗るよ?」
「そんなに難しいことじゃないから、心配しないで」
高瀬さんを安心させるように笑いかけた。あたしは、あの張りぼて女とは違う。無闇に周囲に言い触らして、自分の味方を作ろう卑怯な真似はしない。
直後、電車が強く揺れて、高瀬さんの背中に背が高い小太りな中年男性が寄り掛かってきた。他の人たちは上手く踏みとどまっているのが分かったから、妙にわざとらしく感じて、むっとしてしまった。
「こっち」
小さく声をかけて、高瀬さんの手を引いた。高瀬さんはあたしより背が低いから、あたしの目の前にあるポールをつかませて、その背中を覆うようにあたしが立った。ちょうど、あたしの胸元に高瀬さんが収まっているような形だ。横目で寄り掛かってきた男の人を見たら、特に悪びれる様子もなく吊り革を握り直していた。わざと寄り掛かってきたのなら嫌だから、念のためだ。
「ありがとう」
少しだけ首を傾げて、あたしを見上げる高瀬さん。距離が近くて、あたしの頬が高瀬さんの髪の毛に触れそうだった。微笑み返して、返事にした。高瀬さんの髪の毛から甘い香りがしたけれど、シャンプーの香りだろうか。
「針ノ木さん、バニラの匂いがする」
「えっ?」
香りのことを考えていたら香りのことを返された。驚いて声が上ずった。
「あ、あー、多分、香水じゃないかな。中学の終わり頃に、気に入ったヤツ見つけたの。それからずっと使ってる」
「お気に入り見つけられるって、いいよね。やっぱり、カッコいいなぁ」
「……ふふっ」
高瀬さんにカッコいいと言われるのは、これで三回目。またか、とは思ったけれど、ちょっぴり嬉しくて、笑った。
美少女の温もりと香りに慰められながら電車に揺られること十数分。あたしたちの言う、「隣町」へ到着した。先に下りる高瀬さんの背中に続いて、あたしも電車を下りた。なんとなく振り返ると、さっき高瀬さんに寄り掛かった男性があたしたちの掴まっていたポールの前に移動していた。急に腕から指先にぞわり、と寒気が走って、慌てて手についた水を払うように手首を振った。
「針ノ木さん、いこっ」
「あ、あぁ、うん」
先を歩く高瀬さんがこっちを見て笑っている。返事をしたら、間抜けな声が出た。
蛍光灯が規則正しく並ぶホームを二人で歩き出す。隣町の駅は最初の駅より小さくて、四つのホームがある程度だ。階段を上がって、ホームと改札口を繋ぐ通路を歩く。最初の駅で見かけた学生やスーツの何人かがちらほらと同じ方向へ通路を歩いていた。小さな改札を抜けて、夜に沈んだ駅前のロータリーへ。ロータリーの駐車場には迎えに来た車とタクシーがいくつか停まっていた。駐車場を照らす真っ白な電灯の向こうには夕焼けはなく、黒い夜空に埋め尽くされていた。日が沈むのも早くなったものだ。
駅に併設されている駐輪場まで来た。駐輪場はごちゃごちゃしていて、僅かな隙間に無理やり自転車が差し込まれていたり、原付バイクが自転車を倒して停まっていたりと、ひどい有様だった。高瀬さんの自転車も、後から無理やり隙間に差し込んできた自転車に倒されていた。いつものことだから、と気にも留めずに、銀色の自転車を起こしていた。
「針ノ木さんのおうちって、どっち?」
起こした自転車のチェーンを外しながら、高瀬さんの瞳がこちらを見た。あたしは顎で駅を示して、笑った。
「駅の裏手。踏切渡ったらすぐなんだ。高瀬さんは?」
「私は西の住宅街だよ。自転車で、五分も掛からないかも」
「マジ? そんなに近かったの」
また、驚いた。同じ駅だけでなく、住んでいる家も近かったなんて。
チェーンを外し終えて、自転車のかごに入れる。その上に、高瀬さんの黒い手提げ鞄が載せられた。
「針ノ木さん、小学校と中学校はこの町だった? 近くに住んでるのに、全然見かけたことなかったから……」
「あぁ、あたし、高校に進学した時にここに越してきたんだ」
「えっ、知らなかった! そうだったんだ」
「うん。今、アパートで一人暮らし」
「うそっ、一人暮らししてるの」
心底驚いたように、高瀬さんが目を見開いた。言葉を捜すように視線を泳がせて、高瀬さんが続ける。
「じゃ、じゃあ、ご飯はどうしてるの?」
「自分で作るよ。バイトで疲れてる時は抜くけど」
「お洗濯は?」
「親戚が古い洗濯機を譲ってくれたから、自分でやれる」
「す、すごぉい……」
信じられない、といったように目が見開かれている。こうも感情豊かに反応してくれるのは嬉しい。あの張りぼて女はほとんど笑わないし、デートで待ち合わせする時はいつも時間に遅れてくるくせに向こうが不機嫌そうに顔を歪めていたものだ。なにかあったのか聞いても「なんでもないよ」とか「普通だよ?」とか抜かす始末。無駄な気苦労ばかりさせて、思い出すだけでぶっ飛ばしたくなってくる。構ってちゃんなのか、ああ、もう、記憶から消したいくらいに憎い。
「針ノ木さんって、すごく大人っぽくて、カッコいいなぁって思ってたけど……。そっか、一人暮らししてるから、大人に見えるのかな」
「……あたしは、子供だよ」
「えーっ、そんなことないよ、一人暮らしできるんだもん。大人だよー」
ころころと笑って、あの柔らかくて温かい笑顔を見せた。
あたしは子供だ。張りぼて女に抱く怒りと憎しみ、高瀬さんに抱く淡い希望に胸の中をかき乱されているのだから。張りぼて女をぶっ飛ばしてやりたいと思う反対側で、高瀬さんに優しさを向けて自分は善人なのだと安心させている。口には出さないだけで、あたしの内面は幼い子供のようにわがままなのだ。
「ほら、もう暗くなるよ。家が近くても早く帰らないと」
高瀬さんを促して、駐輪場からロータリー前まで戻ってきた。本当は、もう少し彼女と話したかった。高瀬さんの声を聞いて、笑顔を見ていると、張りぼて女に向けていた怒りや憎しみが急に薄れてきて、心に温かさが戻る気がする。心地よい。本当に、心地よくて、引き止めたい気持ちを抑え込むのに精一杯だった。
「針ノ木さん、今日はありがとうね。アルバイトのお休みって決まってる? また一緒に帰ろ?」
「あぁ、休みはね、バラバラなんだ。他のスタッフとの兼ね合いがあるから。っていうか、そんなに部活休んで平気なの?」
笑いながら聞くと、案の定、眉が八の字になって困った顔になった。我が校の吹奏楽部は大会やコンクールで優勝を目指す部活。頻繁に休めるわけではないのだろう。
「それに、部活終わった後、一緒に帰る友達、いるんでしょ? 急に一緒に帰らなくなったら、部活もやりにくくなるんじゃない」
「う、ううん……。どうしよう」
高瀬さんには高瀬さんの学校生活がある。あたしのことを気にしてくれるのは嬉しいけれど、まずは今過ごしている生活を大切にしてもらいたい。あたしに関わることで、張りぼて女に何かされる可能性もある。せっかく友達も多くて、部活も一生懸命やっている彼女に苦しい思いはさせたくなかった。とはいえ、あたしと帰ることができないという点でも悩んでいる様子だったから、困ったものだ。
「じゃあ、こうしよう」
言いながら、あたしはリュックをアスファルトに下ろして、ボールペンと生徒手帳を取り出した。不思議そうに目を丸くして、高瀬さんが覗き込んできた。上目遣いで笑い返しながら、手帳のメモ欄にペンを走らせて、ビリッ、とページを破いた。
「あたしの連絡先。アナログで申し訳ないけど」
無骨に破れた手帳の切れ端を渡す。困り顔が一転して、ぱあっと明るいあの笑顔が戻ってきた。子供みたいに目をキラキラさせて、あたしの顔と渡した切れ端を交互に見た。
「やったぁ、ありがとう! 待ってね、私のも送るから――」
「帰ってからにしなよ。もう暗いし、先に家に帰りましょう」
「う……。はぁい」
ペンと手帳をリュックに放り込んで、背負い直す。喜んでもらえるとは思わなくて、また照れた。高瀬さんは手帳の切れ端を丁寧に折りたたんで、ブレザーの内ポケットに大切そうにしまった。
「急いで帰るから、待っててね。すぐ連絡するよ、すぐ」
高瀬さんが慌てるように自転車にまたがって、足元がふらついてこちらに倒れそうになった。倒れないように、横から高瀬さんの肩と自転車のハンドルを持って支えてあげた。
「きゃっ、ご、ごめんっ」
「慌てない、慌てない。帰り道に事故でもされたら、嫌だし」
「そ、そっか。うん、気をつけて帰るね」
「約束できる?」
「できるよ!」
小指を立てて、あたしの前に差し出してきた。うなずいて、高瀬さんの柔らかい小指に自分の指を絡めて上下に振った。気恥ずかしくておまじないは唱えなかったけれど、多分、大丈夫だろう。
「それじゃあ、私、帰るね。連絡、少しだけ待っててね」
「慌てないでよ。気をつけてね」
また明日、と小さく手を振って、高瀬さんがゆっくりと自転車をこいで走り出した。指切した効果があったのか、遠ざかっていく自転車の速度は緩やかだった。高瀬さんの後姿が見えなくなるのを確認して、あたしも帰路についた。駐輪場を横切って、駐輪場近くにある踏切を渡る。踏切を渡ったら、すぐに信号つきの交差点があって、横断歩道の先に薄暗い雑居ビルや古い家屋が何軒か並んでいた。それらの裏に隠れるようにして、ひび割れた外壁の二階建てアパートがある。二階の一番奥が、あたしの部屋だった。暗闇の中に浮かぶそれは、時間の中に置き去りにされているようだった。周りには新しいお店や、高級マンションが建ち並んでいるのに、このアパートだけは古い時代の匂いを残したまま、でも、存在を主張するように建っていた。
錆び付いた階段にゆっくり足を乗せて、静かに上がって行く。ごつ、ごつ、とブーツが重たい音を鳴らした。一階の一番手前だけ、玄関横の磨りガラスからオレンジ色の明かりが漏れている。一ヶ月ほど前は二階中央の部屋にも明かりが灯っているのが見えたけれど、今では電気が灯ることもなく、郵便受けの口に真っ白なテープが張られて投函できないようになっていた。住人はあたしの知らない間に引っ越したようだ。
赤茶色の扉を何枚か横切って、一番奥へ。玄関扉についている郵便受けに白い紙と薄いパンフレットが刺さっていた。暗くて見えないから、とりあえず一旦家の中に入ることにした。パーカーのポケットから鍵を出して、のろのろと鍵を差し、回す。扉を開くと、あたしが使っている香水の匂いが顔を撫でていった。壁にある電気のスイッチを押したら、頼りないオレンジ色の光がぼんやりと冷えた空間を映し出した。
台形に区切られた狭い玄関で靴を脱いだら右手の台所で手を洗った。左手の突き当たりにトイレ、手前に洗濯機、浴室へ続く扉がある。狭い空間に無理やり詰め込んだ感じがあって、息苦しい。台所の先には、白い横引き扉に隔たれた、傷んで薄汚れたフローリングの四畳半がある。駅には近いけれど、傷んだ内装で外観も良くないせいか、入居者はあたしと一階に住む老夫婦だけだ。保証人も不要で妙に安い家賃のアパート。時々、いわくつきかもしれない、と疑ったりする。
玄関に鍵をかけながら、内側から郵便受けに刺さっていた白い紙とパンフレットを引き抜いた。「この地区の担当になりました」という手書きのチラシと、自動車ディーラーのパンフレットだった。パンフレットにはご丁寧に顔写真つきの名刺がホチキスの針で留められていた。チラシには自己紹介や趣味が見栄えよく書かれていたけれど、これではまるで公開処刑だと、哀れに感じた。台所脇に置いた、緑色の大きなゴミ箱にパンフレットとチラシを投げ入れて、奥の四畳半に向かった。
四畳半の電気を点けて、リュックを部屋の角に置いた。正面には大きな窓と、足も置けないような狭いベランダがある。学校に行く前にカーテンを開けておいたから、町の明かりがよく見えた。窓のすぐ右横に、小型テレビともらいものの古いCDコンポが載せられたパイプラック、ラックの前にはこげ茶色のちゃぶ台があった。ちゃぶ台の上には、安物のフォトフレームに入った昔の写真が置かれている。あたしが九歳の時に姉と撮った、思い出の一枚。長い栗色の髪に、セルフレームの眼鏡をかけた、あたしの大好きな姉。写真に写るあたしと姉は、手を繋いで同じように笑っていた。
なにも知らない、無邪気な明るい笑顔で。
「ただいま、姉さん」
写真に声を掛けながら、窓の左側に敷かれたあたしの寝床、茶色の大きな布団をまたいだ。引っ越す時に大叔母が買ってくれたものだ。一人で眠るには大きすぎるけれど、柔らかくて寝心地がいいから助かっている。布団の横にある押入れを開き、中に通してあるパイプハンガーに着ていた黒いパーカーを引っ掛けた。パーカーの重みが肩から消えたら、はあ、とため息が出た。
右手の小指を気にしながら窓を開けて、ベランダに出た。雑居ビルの風が狙ったようにあたしの横を掠め、部屋の中へ滑り込んでいく。ベランダから空を見上げると、欠けた月がこちらを見下ろしていた。ベランダの黒いプラスチックの手すりに右手を乗せて、小指を立てた。
「高瀬さん」
甘えた声が漏れた。
一緒にいて、すごく心地よかった。学校であんなことがあった直後だから、余計にそう感じたのか。張りぼて女には感じられなかった、人間としての温もりが高瀬さんにはあった。また、話したい。二人きりで肩を並べて、帰りたい。一ヵ月後でも、半年後でもいいから、二人きりになれる時間がほしい。高瀬さんの前ではもっと明るく振舞っておけばよかった。いや、でも、あまり心を許してしまっては、張りぼて女につけ込まれる。連絡先は渡せたのだから、それで十分だ。選択授業では席が隣同士だから、近くにいられるし、思い詰めることはない。大丈夫だ、大丈夫……。
悶々とする自分に言い聞かせていたら、スカートのポケットに入れていたスマートフォンが震えた。取り出してみたら、メッセージが届いていた。文章の中に「高瀬」という単語が見えた瞬間、叩かれたように胸が鳴った。
『高瀬です。今日は一緒に帰ってくれてありがとう! もっとたくさん話したかったけど、それはまた今度にします。これからも、よろしくね! 私の電話番号は――』
途中まで読んで、スマートフォンを胸に押し当てた。
他の人が見たらいたって普通の文章だ。でも、あたしにとってはすごく嬉しくて、胸がいっぱいになるほど、温かいものだった。ハートや星の絵文字が付いた彼女の言葉は、絵文字以上にキラキラしていた。高瀬さんの温もりに慰められて、張りぼて女のことで苛立っていた心が静まっていく。例え明日登校して、張りぼて女に嫌なことをされても、またインターネットに悪口を書き込まれていたとしても。あたしは、綺麗な針ノ木蓮華でいよう。
たった一人。高瀬さんにだけでも信じてもらえるように。
丁寧に言葉を選んで、返信した。
「……ご飯、作ろう」
翌日、登校するなり、張りぼて女の書き込みをあたしに教えてくれた友達が駆け寄ってきた。長い髪を白いシュシュでポニーテールにしている面長の女子で、野口希という。高校に入って、気がついたら仲良くなっていた子だ。リュックを机の脇に引っ掛けながら顔を上げると、彼女は小声で口を開いた。
「蓮華。昨日、中野と話した?」
中野というのは、張りぼて女のことだ。中野美晴、それがあたしの元恋人、張りぼて女の名前だった。
「呼び出して話したよ。なに、また書き込まれたのかい」
椅子に座って、腕組みをした。希の瞳は鋭くて、口元も笑っていない。こうして慌てて駆け寄ってくるくらいだから、張りぼて女がまたあたしに都合の悪いことを書き込んだことくらい予想できた。
「大丈夫なの? 先生に相談した方が良くない?」
「放っておきなよ。ああいう方法で味方増やしてるだけでしょ。あたしをとことん落っことしたいんじゃない」
「どういう別れ方したのよ、あんた」
希が苦笑いしながら、机の上に腰を下ろす。綺麗な太股が短いスカートから覗く。男子たちに中を覗かれても知らないぞ、と心の中で思った。
「本音を話したの。金銭的にも、気持ち的にも、息が続かないって」
「金銭的かぁ。言い方はキツいかもしれないけど、ま、蓮華、一人暮らしだもんね」
「うん。付き合う時にさ、一人暮らしでバイトもしてて、親戚から仕送りしてもらって、やっと生活できてるってこと、話したんだよ? それなのに、あれ買って、これ買ってって遠慮なくて。ペアリングねだられた時は、死にそうだったよ」
「あいつ、駅前のデパートで買ったパスケースとかバッグとかの写メ、しょっちゅうサイトに載せてるよね。学生がどこからそんな金持ってくるんだ、って思ってた。でも蓮華、それさ、本当に愛されてたって言えるの? 蓮華は幸せだったの?」
「……耳が痛いねぇ。キスはもちろん、スキンシップなんて、なにもさせてもらえなかったから、寂しかった。幸せだなんて思えなかったかな。付き合ってた時に何度も話をしたけど、話がまとまらなくて」
いい洋服、いいバッグ、いい食べ物、あいつはいつもそればかりで、針ノ木蓮華を見てくれなかった。あたしを好きだと言ってくれたのは最初だけで、デートの時も、二人きりでいる時も、全然笑わないし、いつもなにか不満そうにして、気がつけば金と体力ばかりが失われていく関係になっていた。もちろん、関係を修復しようとして何度も何度も話をした。そのたびに「蓮華に不満はない」ないとか「蓮華の気持ち分かってあげなくてごめん」なんて言うくせに、結局態度は変わらなかった。そして金と体力に意識が向いた時、あたしの心には、あいつに対する愛情なんて欠片もなくて、底の抜けたバケツのように空っぽになっていた。
どうして付き合っているのだろう?
そう考えたら、あたしの中にあるなにかが叫んだ。
別れろって――。
「ちなみに、買ったリングとネックレスは先週売ってきた」
「いくらで売れたの」
「聞くな」
手をひらひらさせると、希が呆れたように肩をすくめた。
一時間目が終わり、ショートホームルームを挟んで二時間目になった。この時間は選択授業の国語表現。高瀬さんと席が隣同士になる授業だ。しかし、国語表現の授業は文芸部に所属している中野も選択している。嬉しいことと嫌なことが重なるのはなんとも複雑な気持ちだ。あたし自身、精神的に強くないから、どこまで我慢できるか不安だった。こんなことに耐える根性なんて、昔から持っていない。
選択授業は移動教室だ。国語表現の授業は一組の教室で行われる。あたしは二組の生徒だから、すぐ隣の教室に移動すればいいだけだ。予鈴ぎりぎりまで、希や他の友達と廊下で話をして、予鈴と同時にぞろぞろと動き出す生徒に混じって一組の教室に入った。希は数学を取っていたから、三組の教室に歩いて行った。一組の教室に入って、自分の席を探すというより、高瀬さんの顔を探した。
「あっ」
入ってきたあたしに気づいて、高瀬さんが小さく声を上げて笑顔を見せた。たった一度一緒に帰っただけなのに、なぜか、急に距離が近くなった気がした。
高瀬さんの席は最後列の窓際から二番目。その隣、最後列で窓際があたしの席だ。「おはよう」と声を掛けながら隣に座ると、待っていたと言わんばかりに笑顔がますます眩しくなった。
「おはようっ。昨日はありがとう」
「お礼ばっかり言っちゃってさ。一緒に帰っただけだよ」
「それが嬉しかったの。だから、ありがとう」
柔らかく目を細めて、口元が笑う。本当にふわふわと、白くて柔和な笑顔だった。その笑顔の向こう側に、マッシュルームボブの頭が見えた。中野は、高瀬さんの席から三列数えた先にある。こっちに視線を向ける気配もなく、距離も離れてはいるけれど、どうせ聞き耳でも立てているに違いない。
あたしの視線を追うように、高瀬さんも中野に目をやった。
「…………」
なにか感づいたように、顔を背ける。まるで恐ろしいものを見たように、眉をひそめた。
「……どうしたの?」
声の調子を穏やかに小さくして、怯えさせないように微笑んでみる。高瀬さんは申し訳なさそうにして、うつむいた。まだ先生は到着していないし、他の生徒も賑やかに話をしていたから、周りの生徒には聞こえないように、お互い声に気をつけて、秘めた会話を続けた。
「中野さんと、付き合ってたんだよね」
上目遣いに聞いてくる。濁りのない澄んだ瞳から控えめな鼻を辿って、膨らんだ唇へ、自分の目が自然に動く。仕草がいちいち可愛いのは、やはりその整った顔立ちと、雰囲気のせいだろうか。
「過去形で正解。あたしの恋愛対象は女の子……。あたしのこと、嫌いになる?」
頬杖をついて、微笑んだまま聞いてみた。しかし、高瀬さんは動じない。うつむいていた顔をすっと上げ、姿勢を正してゆっくり首を横に振った。
「なりません。ウチの学校、女の子同士のカップルは他にもいるし、学校抜きにしても、いいんじゃないかなって思う」
「……ふぅん」
ほんの少しの期待。顔に出さないように、そっと胸にしまった。
「でも、中野さん、どうして針ノ木さんの悪口ばかり言うんだろう。付き合ってたのに」
高瀬さんと中野は同じクラスで一組だ。あいつは相変わらずあたしの悪評を触れ回っているらしいから、高瀬さんも知っていて当然か。中野の狂言が高瀬さんの耳に入っていると思うと、悔しくて、心から残念だった。
「あたしから振ったから、悔しかったんじゃない? よくあることらしいよ」
「だからって――」
「あのさ」
高瀬さんの言葉を遮って、真剣な顔つきで彼女を見つめた。あたしの表情が変わったのを見て、高瀬さんも強張った表情になった。
「先生が来る前に、二つ、約束してくれない?」
「ど、どうしたの急に」
「一つ目。あいつの言うことを鵜呑みにしない。高瀬さんは高瀬さんの目で、あたしのことを見て。もし、高瀬さんに嫌われることがあるなら、あいつの言葉じゃなくて、高瀬さんの言葉で嫌われたい」
「針ノ木さん……」
少し間をおいて、高瀬さんが力強くあたしを見つめ返して、二度うなずいた。
「二つ目。中野に対して、あたしのことで関わらない。中野がなにか言ってても、反論したり、構ったりしないで。巻き込みたくないから」
そこまで言ったところで、教室に先生が入ってきた。胡麻塩頭で穏やかな顔つきの、男の先生だった。先生が教卓に立つとちょうどチャイムが鳴って、教室中の生徒が話を止めて起立した。
「はい、じゃあはじめます。礼」
太く通った声が穏やかな顔から発せられる。
話の途中で煮え切らなかったけど、あたしも他の生徒に合わせて先生に頭を下げた。高瀬さんは優等生だし、あたしが話しかけて授業の邪魔をするわけにもいかない。授業が終わるまで、少し我慢しよう。
大人しく着席して、ノートを開いていると、高瀬さんがノートの角になにかを書き込んで、それを静かに破いてあたしの机に置いた。
『約束します。針ノ木さんは悪者じゃないよ』
高瀬さんの横顔を見た。もう高瀬さんは先生の方に意識を向けていた。口には出さずとも、整然とした綺麗な文字に組み立てられたこの言葉は、きっと高瀬さんの本心であると信じられた。
嬉しくて、温かくて、優しくて。涙が滲んだ。
一緒に帰ったのがきっかけになって、選択授業の時は高瀬さんとよく会話をするようになった。よく話すようにはなったものの、念のため、彼女が中野に目をつけられないように、なるべく距離をとって接した。恋愛対象にはせず、一人の友達を心がけた。本音で会話できないのは物足りなく、どこか高瀬さんをあしらっている感じもして、自分は薄情者なのだろうかと落ち込む日もあった。
そんなある日の夕方。あたしはCDショップでアルバイトに励んでいた。学生アルバイトだから、主にレジや商品の陳列、販売前の加工など、パートさんたちよりも簡単な仕事を任されていた。今日は店長に特集コーナーの設置を指示されて、中古CDが綺麗に陳列できるように売り場の整理と掃除をしていた。眩しい蛍光灯の下、あたしより少し背が高い、黒光りする棚と格闘する。棚にはほこりが溜まっていて、POPや仕切り板を動かすたびにほこりが舞い、何度もくしゃみが出た。
ある程度ほこりが取れて見栄えがよくなったらPOPとCDの陳列を始めた。途中、若い店長が通りかかって「掃除してくれたのか。ありがとう」と褒めてくれた。気分良く陳列をしていたら、更に嬉しくなる出来事が舞い込んできた。
「いたいた、針ノ木さんっ」
「ん?」
顔を横に向けると、いつかの帰り道、隣にいた笑顔がそこにあった。白い肌は蛍光灯の下だと更に美しく、白く輝いていた。遠慮しているのか、胸元で小さく手を振っていた。
「高瀬、さんっ?」
震えた息が出て、胸の奥がぎゅうっと締め付けられた。油断したら高瀬さんへ甘えたくなりそうだったから、できる限り平静な自分を保った。
「き、来てくれたんだ。あ、いらっしゃいませ」
「いらっしゃいました」
あたしのすぐ隣に肩を並べて、ころころと笑う。肩が触れそうでもどかしかった。一応、周りのお客さんや店員の目が気になるから、仕事はしながら話を続けた。
「部活は?」
「終わった帰りだよ」
左腕につけている太い黒革バンドの腕時計を見る。アナログ時計の針は六時をとうに過ぎていた。この時期になれば日が暮れるのは早い。いくら駅が近いとはいえ、電車の時間は大丈夫なのだろうか。
「電車は大丈夫?」
「遅いので帰るつもり」
「他の部員の子も、一緒なんじゃないの」
「もぅ。針ノ木さん、気にしすぎだよ。CDショップに寄りたいから、みんな先に帰っていいよ、って言ったの」
あたしが仕事をしているから高瀬さんも気を遣って、近くのCDを手に取ったり、眺めながら、上手く周囲の目をごまかすように会話を続けてくれた。
「来ちゃって、ごめんね。迷惑だったかな」
「そんなわけないじゃん。嬉しいよ」
嬉しい。本当に嬉しかった。だから、油断して並べるCDを間違えてしまった。平静を装っているつもりが、高瀬さんの存在に心が揺れている。床に置いた段ボール箱の中から正しいCDを取り出して差し替えた。小さくため息をつくと、高瀬さんがレジの様子をうかがいながら、肩の距離を縮めてきた。横目で見ると、あたしが並べたCDを手に取りながら、うつむいていた。
「……中野さんと別れた途端、急に針ノ木さんに近づいたりして、私、気持ち悪いね」
CDを並べる手がびくりと震えた。
中野と付き合っていた頃とは違う、胸のくすぶり。期待と不安、焦りと嬉しさが、急かすように胸からお腹に落ちていく。高瀬さんに触れて、そんなことないよ、と一言、慰めてあげたかった。仕事へ向けていた意識が負けそうだった。奥歯を噛み締めて、欲望に似た熱い感情を抑えつけた。
あたしと仲良くなればなるほど、高瀬さんにも危険が及ぶ。せっかく人気者で優等生で、充実した部活もしているのに、中野の醜い言動で高瀬さんがひどい目に遭うなんて、絶対に嫌だった。でも、高瀬さんは、中野に貶められたあたしを気遣って、距離を縮めようと、歩み寄ってくれた。中野に高瀬さんが傷つけられるのも嫌だけれど、高瀬さんの気持ちもないがしろにはしたくない。
迷いに震える自分の手元を見ながら、軽い言葉を選んで答えにした。
「気持ち悪いなんて、思うわけないじゃん。高瀬さん、優しいもん。ぶっちゃけ、針ノ木さん傷心中だから、構ってもらえると嬉しかったりする」
仕事を続けながら、会話も続ける。床に置いた段ボール箱の中身が減っていく。もうすぐ、CDの陳列は終わってしまう。陳列が終われば、あたしはレジへ戻って次の指示を仰がなくてはいけない。せっかく来てくれた高瀬さんと、離れなくてはいけない。
「あー……。あの、さ」
「うん。なぁに?」
「今夜、電話してもいい? せっかく来てくれたのに、全然話せそうにないから、今」
しゃがんで、段ボール箱から残りのCDを全部出して、腕に抱え込んだ。顔を上げると、高瀬さん目を細めて、首を傾げるようにうなずいた。栗色の綺麗な髪が流れるように横へ揺れた。
「うん、オッケーだよ。私も、ゆっくりお話したいから」
レジや売り場を気にするように、高瀬さんも店内を見回した。学生やサラリーマン、カップルや友達同士など、夕方でもこの店は混み合っていた。落ち着いて話せないもどかしさを感じていたのは、高瀬さんも同じだったらしい。
立ち上がって、残りのCDを陳列する。ほこりも取り除いて、POPも新調した。店頭特集のCDが整然と並んだら、見栄えのいい華やかなコーナーができあがった。手に付いたほこりを払うのと同時に、店内に業務連絡のチャイムが流れた。
『業務連絡です。レジ応援、お願いします』
店長の声だった。あたしが顔をしかめると、隣から小さな笑い声が聞こえた。
「くすっ。行ってあげて。私なら、大丈夫だから」
「ご、ごめん。今夜、電話するから。ごめん!」
「うん、うん。頑張って、針ノ木さんっ」
屈託のない笑顔と一緒に、手を振ってくれた。高瀬さんに見送られて、レジへ駆けて行く。幸い、レジを待っている人は二、三名と少数だった。大事に至る前に応援には間に合ったようだった。店長が会計をしている隣へ駆け込んで「隣のレジへお回りください」と書かれたプレートをカウンターの下へ片付けた。
「二番目にお待ちのお客様、こちらへどうぞ」
店長のレジから一人、こちらへ流れてくる。レジを打ちながら、店長がアイコンタクトをしてきた。表情は明るかったから、多分「ありがとう」の意味だと思った。レジをしながら、高瀬さんを探して売り場に目を配った。高瀬さんはあたしが陳列した特集CDコーナーから明るい顔でこちらを見ていた。見守られているようで、なんだかほっとした。
その夜。アルバイトが終わって帰宅したあたしは、慌しく夕食をかきこみ、お風呂も急いで済ませて、布団に倒れ込んだ。今夜は高瀬さんに電話をする約束をしている。せっかくの貴重な時間を無駄にはしたくない。緊張しすぎて、スマートフォンを握り締める右手から、肩までガタガタと吹雪に見舞われたように震えていた。お風呂に入って温まったはずの身体が熱を失って、肌の表面がひんやりと冷たくなっていくのが分かった。
あたしは震えを抑え込み、スマートフォンのディスプレイをにらみながらぶつぶつと独り言を繰り返していた。
「で、電話っ、電話するぞ。約束したんだ、電話しても怒られないっ。大丈夫、大丈夫だ、蓮華、高瀬さんは優しい! 大丈夫! 緊張するな、いつもどおり、いつもどおりに!」
電話がこんなに緊張するのは初めてだった。アルバイト先でも、電話程度で震えるほど緊張したことはない。中野と付き合って、初めて電話した時も、こんな感覚はなかった。
念仏を唱えるように自分に言い聞かせ、発信ボタンにタッチした。
空白の時間が少しあって、呼び出し音が鳴る。まだ声も聞いていないのに息が上がって、身体がガタガタ震えて、変な汗が上半身に滲んできた。面と向かって話すよりも、どうしてここまで緊張するのか分からなくて、大叔母が買ってくれた茶色い布団を強く握り締めた。二回と半分、呼び出し音が鳴った後、ついに耳の向こうに線が繋がった。
『もしもしっ、高瀬です』
電話の向こうから学校で会う時と変わらない明るい声がした。頭が真っ白になっていて、なにを言えばいいか分からなくなった。返事も上ずり、更にワンテンポ遅れてしまった。
「あ、あ、も、もしもし。針ノ木ですがっ」
『うんっ、こんばんは! お仕事、お疲れさま』
お疲れさま。そう言われた途端に身体を震わせていた緊張がふっと切れて、するりと両腕から落ちていった。柔らかい声と言葉だけで固く結ばれていた不安が解れて、川のせせらぎに流されるように消えていく。慌てる自分を落ち着かせるようにゆっくりと呼吸しながら言葉を探した。何度か呼吸をしたら、心の中に澄んだ空間ができた気がして、上ずった声が元の調子に戻った。
「あー、あの、ありがと。今日は、その。ごめんね」
『そんなそんな! 私、お母さんに怒られちゃったんだ。いくら仲良しでも、アルバイトの邪魔しちゃダメでしょ! って』
「……へ、仲良し、か」
仲良しと聞いて、照れくさくなった。中野と付き合っていた頃は、こんな風にくすぐったい気持ちになることはなかった。
『でも、電話の約束はできたもん。会いに行ってよかったぁ』
「ポジティブ」
小さく笑い合った。
スマートフォンから聞こえるのは高瀬さんの声だけで、静かだった。多分、自分の部屋で電話をしているのだと思った。見たことがない高瀬さんの部屋が、頭の中に勝手に想像されて、広がっていく。クマのぬいぐるみが置いてありそうだとか、窓に掛かっているカーテンは桃色だとか、高瀬さんの声を聞き、話をしながら、際限なく妄想とも呼べる想像が膨らんでいった。
『――でね、その時に食べたドーナツがすごく美味しかったの。ほら、アーケードの手前にドーナツショップあるんだけど、分かる?』
「駅前の、ビルの一階だったっけ」
『そう、そこそこ! 行ったことある?』
「去年の暮れに一回行ったかも」
あたしたちの会話は、学校でもできるような他愛ない話だった。でも、不思議と話が途切れない。話しても話しても、話し足りない。高瀬さんのことをもっと知りたい。あたしが見えないところで、高瀬さんがどんな日々を過ごしているのか知って、高瀬さんの思い出や過ごしてきた時間を共有したかった。自分のことを知ってもらいたいというよりも、相手のことを深く知りたくなる、そんな感覚は初めてだった。
『あ、そっか。針ノ木さん、去年引っ越してきたばかりだし、慣れてないからあんまり出かけない?』
「買い出しに出かけるくらいで、あまり遊びには行かないなぁ。実はビビりでさ、慣れない土地が怖くて、一人じゃ出かけられなかったりするんだ」
『そんなことないよ、針ノ木さん、一人暮らししてるし、ビビりなんかじゃないよ! 絶対強いよ!』
いつもふわふわしている高瀬さんが妙に熱いフォローをくれた。電話の向こうで必死に訴える彼女の顔が浮かんで、笑みがこぼれた。
「一人暮らししてるからって強いわけじゃないよ。高瀬さんみたいにしっかりした家庭なら、本当に強くて、立派な大人になれるんじゃない? 高瀬さん、学校じゃみんなと仲良くできてるしさ」
『そ、そんな、立派なんかじゃ……。私だって、怒られたりもしたし……』
照れ隠しのようにそう言って、会話が途切れた。
同じ町に住んで、同じ空の下で生きている。距離だってそんなに離れていないのに、あたしと高瀬さんは全然違う環境に身を置いていた。高瀬さんは大富豪が出資する企業に勤める父親と看護師の母親を持ち、時に厳しく、時に優しく、大切に育てられた。高瀬さんは両親から懸命な愛情を注がれ、想われ、多くの友達に慕われる人間に成長した。常識も、善悪も、自分の意思で判断して行動していける。当然のことが当然にできる、すばらしい人間なのだろう。
途切れた会話を、高瀬さんが拾って繋げた。
『……私、自分の話ばっかりしてたね。針ノ木さんのこと、今になってやっと聞いたみたいで、失礼だったよ』
「そんなこと思ってないって。高瀬さんのこと分かったし、あたしは楽しんでる」
『でも、私ばっかりじゃ、ダメだよ。針ノ木さんのことも教えて。私のことも教えたから、今度は、針ノ木さんの番だよ』
あたしの番、と言われて、枕元の目覚まし時計に目をやった。可愛らしいにわとりの形をした時計は日をまたごうとしていた。結構な長電話をしてしまっていたらしい。
「話したいところだけど。時計、見て?」
『時計? ……あっ、やだ、もうこんな時間!』
アルバイトで帰宅した時間も遅かったから、あっという間に夜も更けた。これ以上長話をしていると、寝坊するか、明日の授業で意識を失ってしまう。
『自分の話ばかりして、こんな時間になっちゃった! ごめんね、針ノ木さん』
「こらこら、謝らないでよ。あたしは楽しいって言ったじゃん」
『だってー』
電話口から聞こえた声は甘ったるくて、幼い子供が可愛いらしく言い訳をしているみたいだった。こんな時、もし近くに高瀬さんがいたら、頭をこつん、と軽く叩いてみてもいいかもしれない。きっと高瀬さんは、笑って頭を押さえるだろう。
「だってー、じゃなくて。納得できないなら、また電話すればいいでしょ。休みの日にそのドーナツショップでお茶するのもいいし。チャンスはいくらでもあるよ」
僅かな間を挟んで、高瀬さんが寂しそうな声色を投げかけてきた。
『針ノ木さん、お姉ちゃんみたい。私、一人っ子だから――あっ、ごめん。また自分の話になっちゃいそう。そろそろ、寝なくちゃいけないよね』
その言葉を最後に、あたしも高瀬さんも沈黙した。電話を切りたくなかった。夜も遅いから、明日に備えてもう寝なくてはいけないと、頭では分かっている。分かっているけれど「おやすみ」の一言を言うことができなかった。付き合い始めた恋人同士みたいに、もどかしくて心地よい沈黙があたしたちの間に流れていた。
付き合ってなんか、いないのに。
『……切らないの?』
甘い、小さい声。狙っているのかと思うほど、卑怯なほどに可愛らしかった。なにもかもがあの張りぼて女と違う。女の子らしい仕草に反応、何度も見せてくれる明るくて優しいあの笑顔。胸の裏をきゅっと掴まれ、切なくも思える感情がこみ上げてくる。布団を、強く握り締めた。意味の分からない寂しさが、胸から喉にこみ上げてくる。痛くて、苦しかった。
『針ノ木さん、聞こえてる……?』
「……聞こえてる」
震えた声で返事をした。
ひょっとしてあたしは、高瀬さんにからかわれているのだろうか。あたしの恋愛対象が女の子だから、気のあるふりをしているとか。いや、そんなことはない。高瀬さんは張りぼて女とは違う。あたしをからかうのにアルバイト先まで顔を出すわけがない。ああ、どうしよう。高瀬さんには嫌われたくない。高瀬さんを信じたい。高瀬さんは絶対、張りぼて女とは違うのだと信じたい。
「おやすみの前に、聞かせてほしいんだけどさ」
『うん……。なぁに?』
また甘い声が聞こえてきた。耳元で囁かれたようで、肩が震えた。
「……どうして、そんなに優しいの? あたし、中野が言うとおり、悪いオンナなのかもしれないのに。どうして優しくしてくれるのかなって」
その質問をした後に、また二人で沈黙した。聞かなければよかったと、強烈な後悔に襲われた。嫌われたくないのに、嫌われるような質問をしてしまった。
「…………」
『…………』
沈黙が続いている。不安と後悔と緊張で、止まっていた震えが帰ってきた。肩が嗤って、スマートフォンを握る手も震えて、震えを抑えようと不自然に力が入った。答えを聞くのも怖いし、今の質問をなかったことにして、謝った方がいいだろうか。口を開こうとしたあたしを遮って高瀬さんが沈黙を破った。
『針ノ木さん、ちょっぴり、人間不信になっちゃったんだね』
「あ、いや、高瀬さんを疑ってるわけじゃ」
『いいの。中野さんに陰口を書かれたから、そうなったんだよ。きっと、学校のみんなも中野さんの書き込みを見て、信じてるんじゃないかとか、思ってるでしょう?』
「…………」
高瀬さんの言うとおりだった。登校するたびにいつも思っていた。すれ違う生徒や言葉を交わす生徒を目にすると、この生徒も中野の書き込みを見たのではないかと疑ったり、その書き込みを信じて、あたしの話をしているのではないかと不安になる。
『でもね、針ノ木さん。針ノ木さんから、お願いごとされたじゃない。私の目で見てほしいって、言ったよね?』
「……うん」
『私、ちゃんと自分の目で見てるよ。学校で私に気を遣ってくれてることも分かってた。私が針ノ木さんに近づくことで、中野さんが私にも悪口を言うかもしれないから、私と話す時も、距離を保ってるよね』
柔らかくてふわふわした印象があった高瀬さん。でも、高瀬さんはあたしのことをよく観察していた。あたしのことを、針ノ木蓮華を見てくれていたのだ。高瀬さんの身も危なくなるのではと心配していることも、中野の一挙一動を警戒していることも、全てお見通しだったのだ。見透かされていたことに感じる僅かな恥ずかしさと、あたしを見てくれていたことへの喜びが、強張っていた心を緩ませた。
『私はね、情けとかで優しく接してるつもりはないよ。私は私の目で、針ノ木さんを見て、私なりの接し方で接してるだけ。誰かに言われたからじゃなくて、自分自身の意思でね。だから、どうしてって聞かれたら、針ノ木さんとの約束を守ってるだけって答えるよ』
一緒に帰った日の、小指を立てた高瀬さんの姿が瞬いた。柔らかくて細い小指の感触が右手に戻ってきた。
『答えに、なったかな?』
濁っていた心が透き通った。不安に震えていた身体も気がつけば落ち着いていて、質問への後悔もなかった。あたしは高瀬さんに感じていた疑問を言葉にして聞いた。そして、高瀬さんはその疑問に対して思っていることを言葉にして言ってくれた。伝えたいこと、知りたいことを言葉にする。当たり前に思っていたことを実際に行動に移すのは、とても勇気がいることだった。今、こうして言葉にする勇気を出すことができたのは、高瀬さんのことを知りたかったからで、高瀬さんにもあたしを知ってほしかったからだ。
でも、中野と付き合っていた時はどうだっただろう。あたしも中野も言葉にせず、本当に伝えたいことをお互いに知ることはなかった。それはきっと、知る必要性を感じなかったからだろう。心から想いを寄せる相手であれば、自分を分かってもらいたいと願い、相手のことも深く知りたいと願う。その願いがあたしと中野の間にはなかった。
そうだ、あたしと中野の間には、愛情なんて、最初からなかったのだ。
――愛情?
そこまで考えて、息を呑んだ。
あたしは高瀬さんのことを知りたいと願った。高瀬さんにあたしのことを知ってほしいと願った。この高瀬さんに向けた「知りたい」、「知ってほしい」という願いは、愛情なのだろうか。恋愛対象として見てはいけないと、友達同士の距離を保たなくてはいけないと言い聞かせていたのに、気がつけば、もう何度も、高瀬さんに惹かれていた。
惹かれていた。それはつまり、あたしは高瀬さんのことが――。
どきり、とあたしの真ん中が波打つ。
電話をする前の緊張、声を聞いた時の安堵と、胸の奥を掴まれる感覚。
焦って、急かされるような、でも、心地よいこの感覚。
高瀬さんが、心の内側に、入ってきてしまった。
いや、違う。
あたしだ。あたしが、高瀬さんを求めたのだ。
「……ありがとう。ごめん。変なこと、聞いて……」
また声が震えた。声と一緒に嫌になるほど切ない息が漏れた。恥ずかしくなって頬に手を当てると、熱を持っていた。面と向かって話す時はまだ冷静でいられたのに。
『大丈夫、だよっ』
あたしが葛藤する傍ら、耳元に届いた高瀬さんの声は明るくて、優しかった。そしてその言葉は、あたしが心のどこかで求めていた言葉だった。中野を憎み、周囲を疑い続けている荒んだ心に、痛いほど沁みていく。中野と付き合っていた時には見えなかった温かい存在。すぐ近くにいた温もりを見つけた途端、あたしは、高瀬さんという温もりに深く依存するようになっていった。