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第八章 再尋問   第九章 再捜査

  リーマンショック殺人事件(五)



     第八章 再尋問


        1


 藤田の自供の内容が覆ったのは、一回目の公判が始まる前だ。

 起訴当初から、藤田を担当しているのは、峯崎勝典だった。

 峯崎は、五十がらみのベテラン検事で、地方の検察勤めが長い。

 久美の藤田との接見の件は、牧山が検察側に打診した。

 水之浦が、冷笑を浮かべて、断言した通りになった。

 つまり、相手にされなかった。

 牧山は峯崎のところへ直接出向いて、久美の推理の概要を話して、説得しようとした。

 峯崎は、皆まで聞かずに、君の言葉とも思えんな、未決拘留中の者にガイシャの身内を接見させることができるとでも思ってるのかね、第一、そんな民間しろうと小娘こむすめが、われわれ専門家をさしおいて、藤田と接見したところでどうなると言うのかね、と、珍しく気色ばんで、露骨に機嫌を悪くした。取り付く島がなかった。

 牧山の焦燥感は消えない。

 久美の藤田との接見の件はともかくとして、起訴内容が大きく変わる可能性があったからだ。

 牧山が峯崎のところへ改めて出直そうと考えていると、次の日、峯崎本人から連絡が入った。警察側の捜査未了事項の補充ということであれば仕方がないだろう、と言ってきたのだ。協力関係が損なわれることを恐れたのだろう。

 もっとも、久美の接見を認めるものではなかった。藤田を警察署内に再留置して、捜査責任者が再尋問に当たれ、という意味だった。

 そのことを伝えると、久美は、牧山が再尋問に当たると知って、認めていただけるとは思っていませんでしたわ、と言って、あっさり引き下がった。

 藤田と久山には、どこかに接点がなければならない。藤田が、起訴前の拘留期間中に、そのことを捜査陣に言っていないとすれば、警察には言えないような事情が何かあったはずだ。久美は、そう考えていて、そのことについて、独自の推理をし、それを直接、藤田にぶつけるつもりでいた。

 牧山が再尋問に当たれば、目的は達せられると思った。

 牧山は、尋問に久美を立ち合わせることができれば、久美の立場と推理を活かせるかもしれないと考えた。

 無論、取調室に入れるわけにはいかない。

 面通しに使われるマジックミラー付きの小部屋に待機させればいい。

 取り調べ室の様子が見えるし、特別な装置を使えば、会話も聞こえる。

 久美に意見や考えがあれば、途中で聴くことができる。

 このやり方は、無論、極めて異例なことで、マジックミラー室の使われ方にも問題がないわけではなかったが、署長の大川は、これを、容認した。

 課長の水之浦も、経緯がわかっていたので、異議を唱えなかった。


       2


 藤田は、ひそかに大南署に再留置されて、再尋問が始まった。

 取調室の片隅に、机を前に筆記用具を手にして若い刑事が座っている。

 藤田の前に座った牧山は、すぐには口を開かずに、しばらく藤田を観察していた。

 牧山の隣には、竹添が控えている。

 薄青のTシャツを着た藤田は、顔がシャツの色のように青白く、面窶おもやつれしていた。

 マジックミラーは、牧山の後方、藤田の斜め前の壁面にはめ込んであって、それほど目立たない。

 牧山は、前置きを言わずに、いきなり、こう切り出した。

 「おまえは、自分が殺した、と自首してきておきながら、検察官には、殺してない、と言い始めてるようだな」

 「ほんとなんです!」

 藤田は、顔をゆがめて、叫ぶように言った。

 自首して来た頃の藤田とは、明らかに、違っていた。

 「あきれたやつだな。われわれをさんざん振り回しておきながら・・・」

 「悪かったけど、ほんとにってないんです!」

 「ま、いい。無意味な会話やりとりをするために、ここに呼び出したわけじゃないからな。それで、なんで、今ごろになって、ってないと言い出したんだ」

 「・・・おれの言うことを本気で聞く気があるんですか? 聞く気はないんじゃありませんか?」」

 「ほう、面白いことを言うようになったな。おまえにそう言われれば、そうかもしれんと言いたくなるじゃないか。おまえの自供の内容は犯人以外には知り得ないことばかりで、言い抜けできない決定的な証拠も揃ってるんだ」

 「じゃあ、やっぱり、話をしても意味がないじゃないですか」

 「そんなことはおまえが判断することじゃないだろうが。おまえの言い分を聞いてやろうと思って、こういう極めて異例な機会を与えてるんだ。今ごろになって、なんでってないと言い始めたかと訊いてるんだ。今までおれたちをだましてたってことだろうが。隠すとためにならんぞ!」

 「だから、隠さずに、ほんとのことを言ってるんじゃありませんか」

 「ほーう・・・それで、検察官は、おまえの言うことを聞いてくれたのか?」

 藤田は、それまでの意気込みを失って、力なく首を振った。

 「・・・おれが何か言っても、DNAがどうのこうのと言って、おれの話をまともに聞こうとしないんですよ」

 「そうだろうが。その鑑定結果で、おまえがガイシャに性的暴行を加えたことがはっきり証明されてるんだ。そんなことが犯人以外にできるか?」

 そう決めつけられて、藤田は、泪目になって、項垂うなだれた。

 観念したのかと思うと、そうではなかった。

 顔を上げると、同じ意味の言葉を繰り返した。

 「・・・やっぱり、刑事さんに話しても意味がないじゃないですか」

 「意味があるか、ないか、そんなことは、おまえが判断することじゃないと言ってるだろうが! 殺してないのに、殺したと言って自首して来たのはどういうことだと訊いてるんだ。普通の人間がすることじゃないだろうが」

 「・・・警察に自首したころは、死のうと思ってたんです・・・薗田が死んでしまって・・・死刑になるなら、それでもいいって・・・」

 「それで、やってもいない殺人コロシを、やった、と言い続けていたってわけか?」

「・・・はい・・・でも・・・人を殺すことがどんなに恐ろしいことか、自分では死ねずに、人を殺したと言えば、どんなにひどい扱いを受けるか、死ぬより辛くて惨めなことだとわかったんです。自分の甘さに自分であきれています」

 牧山は、藤田の言い回しに感心して、藤田の顔を改めて見直した。

 思っていたより、頭の回転がよくて、語彙ことばが豊富だ。

 「そんな言い訳が何になるんだ。そもそも、なんで、今ごろになって、そんなことを言い出した?」

 「・・・死んでしまいたい、という気持ちよりも、あの野郎が許せなくなったんです」

 「なにっ! ・・・あの野郎、って?」

 「恵美さんを殺したやつです」

 牧山は目を剥いた。

 「殺したやつは他にいるってわけか? そいつに殺人コロシの罪をかぶせるつもりか?」

 「そいつが殺したんです! おれはそいつが殺したことを知ってるんです!」

 牧山は、内心、驚いていたが、それをおくびにも出さない。

 「ほーう、どんなやつだったんだ? いもしない人間を殺人犯にするのは難しいんじゃないのか?」

 「黒っぽいジャンパーみたいなのを着た男です。ジャンパーは膝のあたりまであって、髪の毛が耳にかぶさっていて・・・」

 「なんだか、あやしそうな男じゃないか。なんで、そんな様子をしたやつだったってわかるんだ?」

 「そいつを見てるんです! そいつの後をつけてたんです!」

 「えっ! 後をつけてた、って? どういうことだ?」

 「そいつが恵美さんの後をつけてたんです」

 「・・・・薗田恵美が先を歩いていて、その後をその男がつけていて、そのまた後をおまえがつけてた、ってことか?」

 藤田は、ごくりとつばを呑み込んで、うなずいた。

 「ストーカーみたいなことをやってたとは聞いていたが、そんなことは一言も言わなかったぞ!」

 こういうのっぴきならぬ情報を隠していたとは何事だ!

 牧山は、眼を怒らせて、藤田を睨みつけた。

 「その頃は、死ぬことばかり考えていて、死刑になってもいい、と思っていたからだと思います」

 藤田は、肩をすくめるようにして、言った。


    3


 「ストーカー行為を始めた頃のことだが、どういう切っ掛けでそういうことを始めたんだった?」

 「・・・昨年の十一月頃から工場の仕事がなくなり始めて、十二月に入ると、一週間に三日か四日働いて、残りは休み、という状態になりました。年が明けたら、一週間に二日、あるいは、三日、それも、工場に顔を出すだけというような日が増えました。景気が回復したら元通りの仕事になる、と言われてましたけど・・・。仕事がない日は、他にすることもないんで、車で走り回って、夕方、暗くなる頃、大南にも帰って来てました」

 「なんで、夕方、それも、暗くなる頃、大南市に帰って来てたんだ?」

 「知ってる人に顔を見られたくなかったし、その時間は、薗田が・・・恵美、さんが、電車を降りて、駅を出て来る頃だと聞いてたからです」

 「誰に聞いた?」

 「・・・覚えてません」

 「おかしいじゃないか。・・・誰に聞いたんだ?」

 「・・・・・」

 「薗田恵美の親しい知り合いで、その頃の習慣をよく知っているような人間でなければ、そんなことは知らないはずなんだが・・・思い出せないか?」

 藤田は、思い出そうとする様子も見せずに、覚えてません、と繰り返した。

 訊き方を変えても、同じだった。

 藤田にへそを曲げられても困ると思ったので、牧山は話題を変えた。

 「薗田恵美は、おまえの高校時代の同級生だったな。同級生と言っても、いろいろあるが、おまえから見て、どういう同級生だったんだ?」

 「・・・薗田は、二年生の時、同じクラスで、席が隣同士だったことがあったり、掃除の場所が同じ所になったり、一緒に学級の係をやったり、そんな時、薗田が傍にいると、胸がドキドキしました」

 牧山は、 こいつは今時には珍しい初心うぶな高校生だったんだなと思いながら、机の上の書類綴りに目を落とした。

 「高校を卒業した後、薗田恵美は大学に進学し、おまえは、一年遅れて、名古屋の専門学校に進学してるな」

 「薗田と・・・恵美さんと、同じ大学を受験したかったんですが、経済的な事情というか、その頃、父親おやじが失職していて、結局、大学には行けなかったんです。卒業後は、かえって、恵美さんのことを思い出すことが多くなっていましたが、それだけのことで・・・。二年生の時の学級の連絡網で、恵美さんの家の電話番号は知ってたんですが・・・」

 「おまえは、今時の若者にしては、珍しく・・・純情、なんだな」

 牧山は、純情、という、昔風の言葉に皮肉を込めたつもりだった。

 「いえ、ただ、女にもてないだけです。学歴もないし、おれなんか・・・」

 藤田は、そう言うと、涙ぐんで、項垂うなだれた。

 牧山の皮肉を言葉通りに受け取ったようだ。

 藤田が黙り込んだ。

 驚いたことに、膝の上に、涙がこぼれ落ちた。

 牧山は、よほど辛い体験でもしているのだろう思ったので、一旦、話題を変えることにした。

 「おまえの実家は、大南市の北町だったな」

 「はい・・・でも、その頃、親のところには、ほとんど、帰りませんでした」

 「その頃・・・時間を持て余していた頃だが・・・薗田恵美の情報が耳に入った。それで、大南市周辺を走り回るようになって、夕方、暗くなる頃、駅前に行って、薗田恵美を待つようになったんだな?」

 「そんなことをするつもりはなかったんですが・・・薗田は、高校生の頃、少女漫画に出て来るような美少女でしたが、それが、大人びて、もっときれいになっているように見えました。それで、つい、こっちの方に・・・でも、車を降りて話しかける勇気はありませんでした。おれのことなんか覚えてないだろうし、相手にされない、と思ってたんです」

 「なるほど、それで、ストーカーをするしかなかったってわけだな・・・話を元に戻そう。薗田恵美の後を怪しい男がつけていて、その後をおまえがつけていたということだったが・・・」

 「おれは、その前の二、三日、珍しく仕事が入ったもんで、大南に帰れなかったんです。その間、ずっと、恵美さんを見たい、後ろ姿でもいい、と思ってました。あの日、おれは、駅の正面出口が見えるところに車を停めて、恵美さんが駅を出て来るのを待っていました。夕方の六時を二十分ほど過ぎた頃で、冬だと、そのくらいの時間になると、あかりが届かないところは真っ暗で、車を停めていても目立たないんです」

 「その時間に電車を降りて来るのを知ってたんだな」

 「六時二十五、六分頃、駅を出て来ました。いつも、その時間でした」

 「それで、おまえはどうしたんだ?」

 「おれは、恵美さんが歩き始めた歩道とは、車道を挟んで反対側の、ロータリーの近くに車を停めていました。薗田が街路灯を二つ分ぐらい歩いたころ、車を動かそうとしました。その時、その男に気づいたんです」

 「例の男だな」

 「はい。黒っぽいナップザックを背負ってました。恵美さんから二十メートルくらい離れて、電柱の陰に立ち止まったり、途中の店を覗いてるようなふりをしながら、恵美さんと同じ方向へ歩いていたんです」

 「おまえは?」

 「なんであいつは薗田の後をつけてるんだろうと思いながら、道路の左端の方に車を寄せて、時々車を停めたりしながら、後を追いました」

 「そんな走り方をしては、他の通行車両の邪魔になったんじゃないのか?」

 「いえ・・・片側二車線ですから、それほど、邪魔にはなっていなかったと思います」

 「そういうことには気をつけてたってわけだな」

 「はい・・・ま、そうです」

 「駅から薗田恵美の家までは、普通に歩いて、二十七、八分、早足で歩けば、もっと時間がかからない・・・襲おうと思っていたとすれば、その男にも時間の余裕はなかったはずだ」

 「そういうことはわかってたんじゃないでしょうか。それに、人目につかずにあんなことができる場所は一ヶ所しかないんです。あいつは、それも、計算に入れてたんじゃないでしょうか」


     4


 牧山は、思わず、藤田の顔を見直した。

 捜査陣が事件発生当初から重要な手がかりの一つと考えていたことを、藤田が、事も無げに、口にしたからだ。

 「・・・どうして、そう思ったんだ?」

 「国道に出て、右折して、踏切を渡って、しばらく走ると、左に入る道があります」

 「入るとすぐ右側が公園になっている県道だな」

 「そうです。その男は、その道に入る手前で、恵美さんに早足で近づいて、呼び止めました」

 「えっ! ・・・薗田恵美は、さぞ、びっくりしたことだろうな」

 「ええ、ひどく驚いた様子で、さっとうしろを振り向きました」

 「逃げようとして、すぐに早足になるか、駆け出したんじゃないのか?」

 「いえ、それが、違ったんです。意外だったんですが・・・そいつは、ちょうどその時、外灯の近くにいました。わざと外灯のところで声をかけたんじゃないかと思います」

 「えっ! どうして、そう思うんだ?」

 「姿を見せずに、暗がりで声をかけたりすると、刑事さんが言ったように、すぐに逃げ出す、と思ったんじゃないでしょうか」

 こいつの頭の回転は並みじゃない、牧山は、改めて、そう思った。

 「とにかく、恵美さんは逃げなかったってわけだな?」

 「それどころか、立ち話を始めて、しばらくすると、肩を並べて歩き始めたんです」

 「ほーう・・・その男が薗田恵美に声をかけたのは、シャッターが下りたままになってる店の前のあたりだな?」

 「はい。二人が立ち話を始めた時、おれも車を停めたんですが・・・」

 「おまえは、その前から、車を走らせたり、停めたりしてたんだろう? 男に気づかれるとは思わなかったのか?」

 「気づかれてもいいと思ってました。何か言ってくれば、こっちからおどしつけてやろうと思ってたんです。それに、車を停めても目立たない場所ところだったんです」

 「どういうことだ?」

 「歩道脇に、タバコや缶コーヒーなどの自販機が、五つ、六つ、並んでいて、道路脇に停車スペースがあったんです」

 「以前、バス停があったところだな」

 「古びたベンチがあったので、そうだろうと思います。おれは、そこに車を停めて、車を降りて、自販機の前に行って、缶コーヒーかなんか買うふりをしました」

 「知らんふりして、横目で見てたってわけだな。しかし、あのバス停跡は、確か、県道の入り口から六、七十メートルほどしか離れていないはずだ。その男は周囲を警戒してる様子は見せなかったのか?」

 「いえ、自販機の方に顔を向けたりしませんでした」

 「それほど余裕がなかったんだろうな・・・他に通行人とかもいなかったのか?」

 「そう言えば・・・ほとんど、見かけませんでしたね」

 「車社会もここまできたかという感じになってるからな。それで、二人は、肩を並べて、歩き始めたそうだが・・・?」

 「信号のところで、角を左へ曲がって、見えなくなりました」

 「おまえはどうしたんだ?}

 「おれは、慌てて、車に戻りました。エンジンをかけたままだったんで、すぐにウインカーを点滅させながら、車道に出ようとしましたが、車がなかなか途切れず、苛々《いらいら》しながら、待たなければなりませんでした。

 車道に出られたと思ったら、信号の変わり目で、赤信号に引っかかってしまって・・・。やっと、県道に入ったんですが、二人の姿が見えません。慌てて速度をあげました。恵美さんの家を知っていたんで、そのまま、恵美さんの家の近くまで 走ってしまいました。

 そんなに速く歩けるはずがありません。公園があったのを思い出して、適当なUターン場所を選んでいるうちに、もっと先の方まで走ってしまって・・・・。Uターンしてからは、途中で二人に出会うかもしれないと思って、周囲を見回しながら、ゆっくり走りました。

 公園が近づくと、もっとスピードを落として、手前の入り口から公園の中を見ました。黒々とした高い土手の下に、コンクリート建てのトイレが見えました。おれは、びっくりして、ブレーキを踏みました。水銀灯の明かりの先に、あの男が見えたんです」

 「えっ! その男を見たのか!」

 藤田は、ごくりと唾を呑み込んだ。

 牧山は、藤田の口元を見つめたまま、次の言葉を待った。

 「ちらっと見えただけで、すぐ闇の中に消えてしまいました。とても慌てた様子で、駆け去った感じでした。見たのは、その男だけで、恵美さんの姿が見えないので、ひどく胸騒ぎがしました」

 「公園の中は暗かったんじゃないのか?」

 「水銀灯は二つしかないんですが、トイレ周辺以外に、人がいないことくらいはわかります」

 「・・・それで?」

 「どうしょうかと、ちょっと迷ってたんですが、その入り口の手前に、車が入れるほどの小径こみちがあったんです」

 「車で公園を半周できるようになってるな。それで、トイレの方へ向かったんだな」

 藤田が、急に、黙り込んだ。

 「それから、どうしたんだ?」

 「・・・思い出したくないな」

 藤田は、そう言って、俯いた。

 肩が小刻みに震えている。

 藤田が口を開かないので、苛ついた牧山は、こう言って、脅した。

 「・・・そうか。今までの話は嘘っぱちで、やっぱり、おまえがったんだな」

 藤田は、慌てて、血の気のせた顔を上げた。

 急に饒舌じょうぜつになった。

 「・・・おれも怖かったんですが、あの男なら、たとえ引き返して来ても、負けない、そんな思いがありました。恵美さんは、まだ、公園のどこかに、それも、トイレの中か、その近くにいると思いました。恵美さんが殺されてるなんて夢にも思ってなかったんで、男を追いかけることなんか考えもしませんでした。水銀灯の明かりだけだったんですが、公園の中に人がいないことはわかります。それで、トイレの中を見てみようと思ったんです。恵美さんがトイレの中にいるとすれば、なんでこんな不気味なところに一人でいるんだろうと思いながら、土手の下に車を停めて、車を降りて、トイレの中を覗こうとしました。明かりはついていませんでした。トイレの近くにある水銀灯の明かりだけで・・・」

 牧山は、実際に体験した者でなければ話せない内容だと思いながら、身を乗り出すようにして、聞いていた。

 「それで・・・中の様子は?」

 と、訊いたのは、藤田の供述に疑いを持たなくなった証拠だ。

 「・・・入り口を覗いた途端に・・・赤い血らしいものを見たんです・・・心臓が止まりそうでした・・・」

 藤田は、そう言った後、絶句したまま、頭を抱えるようにして、黙り込んでしまった。顔からすっかり血の気が引いて、体全体が小刻みに震え、見ているのも気の毒なほど何かにおびえている。異常な怯え方だった。ストーカーをするほど好きだった女性が殺されている場面だから、無理もない、と牧山は思った。


     5


 藤田を少し休ませた方がいいと判断して、尋問を、いったん、中断した。

 それを機に、牧山は、この時点までのやり取りを、久美がどんな風に聞いていたか、訊いてみようと思った。

 竹添に見張りを任せて、一旦外に出て、久美がいるマジックミラーの部屋に入った。

 「すみません。尋問の最中に・・・」

 「いや、そんなことはいいんですが、ここまでの尋問ことで、気づいたこととか、言いたいこととか、何かありませんでしたか?」

 「藤田は頭の回転がいいようですね。このレベルの理解力と判断力があれば、推理を交えた話をしても、理解してくれそうな気がしてます」

 「どういうことですか?」

 「姉は、男に声をかけられて、逃げ出したりせずに、その男と立ち話を始め、肩を並べて歩き始めた、藤田は、そう言いましたね」

 「あいつはうその話に迫真性を持たせるすべを知ってる油断のならんやつです。起訴前に、それで、さんざん振り回されましたからね」

 「今度は、ほんとのことを言ってるんじゃないでしょうか。そう思いながら、聞いていました」

 「藤田が言ったことを信じるとすれば、お姉さんの不可解な行動も理由づけできるってことになりますが・・・?」

 「その時の姉の心の動きを、私なりに、推測しながら聞いていました」

 「なるほど・・・妹の久美さんにしかわからない感覚みたいなものがあるんでしょうね・・・それは聞いておいた方がいいでしょうね」

 「その男が久山だとすれば、久山は父が人事管理部長をしていシグマ大南支社の工場で働いていたわけですから、姉の警戒心を解くために、わざと街路灯の下で、顔を見せた上で、すぐに、そのことを言ったんじゃないでしょうか。あなたのお父さんの会社で働いていて、大変お世話になっていた者だ、そんな意味のことを言われれば、姉としても、逃げ出すわけにはいかなかったんじゃないでしょうか」

 「・・・考えられないことじゃありませんね」

 「久山は、八年近くも大南工場で働いていて、実直な模範工だったそうですから、誠実で正直そうな顔をしていたんじゃないかと思います。そんな久山が、続けて、こんな意味のことも言ったんじゃないでしょうか・・・お父さんに相談したいことがある、話を聞いてもらうだけでいい、実は、十一月にお父さんに解雇を言い渡されてから、仕事が見つからず、今では、ホームレス状態になっている、郷里には、妻と二人の子どもがいる、妻は健康が優れず寝たり起きたりで、自分の仕送りだけを頼りにしている・・・」

 「なるほど・・・立ち話をしていたとすれば、そんな内容のことしか考えられませんね」

 「久山は、その数日前に、車庫の前に現れて、父と立ち話をしていたことがあって、その時、折悪おりあしく、姉が帰って来ました。その時は、姉には、なぜ、父が、その男と、立ち話をしていたのかわからなかったはずです。だけど、この時、その男の話を聞いて、事情がわかったんだと思います。肩を並べて歩き始めたというのですから、姉は久山に同情してしまったとしか思えません。父に再雇用を頼んでみようとまで思っていたのかもしれません。姉は人見知りするくせに、他人ひとに感情移入して、すぐに同情してしまうようなところがありました」

 「なるほど・・・お姉さんの性格や考え方を知っている久美さんでなければ、わからない感覚ことですね」

 「・・・ちょっと突飛とっぴな推測ですけど、県道に入ると、すぐ右側に公園がありますね。久山は、トイレに行きたい、とでも言ったんじゃないでしょうか。下見をしていて、きっと、その公園にトイレがあることを知ってたんだと思います。久山は、今にも漏れそうだという様子で、トイレに急ごうとするふりをした。姉は、その様子が滑稽なので、笑いをこらえながら、トイレの近くまでついて行った・・・若い女性の行動としては、とても考えられないようなことですが、実際に、あんな場所ところで殺されていたのですから・・・それに、慣れた通勤路で、冬でなければ、まだ日射しがあるような時間帯だったわけですから・・・」


     6


 牧山は、取調室に戻って、改めて、藤田の前に座った。

 久美の推理の概要を藤田に話して聞かせた。

 「・・・そうか・・・あの野郎、そんな恵美さんをトイレの中に引きずりこんだんだ!」

 藤田は、そう言うと、悔しそうな泪顔になって、黙り込んでしまった。

 牧山に催促うながされて、やっと、真相と思われる驚くべき事実を語り始めた。

 以下がその内容だが、供述調書のままではない。

 聞いていた久美が、自分の視点を入れて、まとめたものだ。

 藤田の言葉が足りなかったり、表現が不十分なところは、補足してある。 

 藤田の心の中の動きも、推測できる範囲内で、書き加えてある。


         *    *    *


 恵美は、コンクリートの床の上に、仰向けに倒れて、死んでいた。

 激しい恐怖感に襲われて一瞬、呆然と突っ立っていた。

 錯乱した頭で、こんなところへ人など呼べない、と思った。

 逃げ出そうと思ったが、逃げ出せなかった。

 頭の中はすっかりパニック状態になっていたが、恵美をそのままにしておくことはできなかった。

 いつ人が来るかわからない、車の中に移すしかない、と思った。

 抱きかかえると、頭がのけぞって、ぐったりした体は、意外に、重かった。

 両手、それに、ジャンパーの両腕や胸のあたりが血で濡れた。

 よろけながらも、なんとか、車の助手席にかかえ込んだが、頭をがくんと前に落とした体が安定しない。

 リクライニングシートを倒そうと焦ったが、血糊ちのりのついた手が震えて、なかなか操作ができない。

 手間取っているわけにはいかなかった。

 仕方なく、恵美の体全体を前にずらすと、少し安定した。

 激しい動悸に、心臓が止まりそうだった。

 助手席側のドアを閉めて、車の前を走って、急いで運転席に乗り込むと、シートベルトを締める余裕もなく、発進した。

 公園は出たが、どこへ向かえばいいのか、わからなかった。

 頭の中は錯乱パニック状態のままだ。

 夜の道を、ただ、走り回った。

 町の灯りや人家が見えない方角であればよかった。

 十字路やT字路やY字路などいくつもあったが、そんな分岐点に差し掛かる度に、山が黒々と重なっている方角へハンドルを切った。

 山間のT字路の一つで、ハンドルを急に左に切った時、頭を胸の前にがくんと落としたままの恵美の体が、運転席の方へ倒れかかってきた。

 右手でハンドルを操作しながら、左手で押し戻し、なんとか、姿勢を直そうとするが、うまくいかない。

 何度か繰り返しているうちに、助手席側のドアに支えられて、どうにか、動かなくなった。

 可愛そうな体勢になってしまったが、そのまま走るしかなかった。

 時折、行き交う車があるので、車を停める気にならなかった。

 どこを走っているのかわからなかった。 

 側道から間道に入ると、他の車と行き交うことはなくなった。

 間道を走り続けて、舗装をしてない小さな道に入り込んだ。

 車が通れるとは思えない、荒れるに任せた狭隘な林道だった。

 左右には道を覆うほどの大小の雑木が迫っている。

 一昔前の木材運搬用の林道らしく、整備された形跡がない。

 道が中高なかだかになっていて、枯れかかった雑草が、車の腹をこすって、不気味な音を立て続けた。なんで、そういう無茶なことをしていたのか、自分でも説明がつかない。

 無理矢理、車を進めていると、前照灯の光りの先に、小さな木橋が現れた。

 ちて、壊れて、片側の半分ほどが落ちかかっていた。

 小川が横に流れている。

 前へ進めなくなった。

 降りて見ると、浅い谷川の底は大小の岩だらけで、その間を流れる水の音がする。

 先へ進めないまま、否応なく、そこで時間を過ごさざるを得なくなった。

 助手席側のドアを開けようとすると、恵美の体が、頭をがくんと前に落としたまま、外へ落ちかかった。

 慌てて、ドアと自分の体で支えておいて、助手席に戻した。

 今度は、リクライニングシートを倒すことができたので、やっと、恵美を助手席に横たえることができた。


 途中で死後硬直のことを聞かれた藤田は、その言葉の意味を知っていて、まだ、少し体温が残っていた、と言った。その時、恵美の顔は生きていた時と同じように穏やかできれいだったと、聞かれてもいないことを付け加えた。

 車内灯の明かりだけなので、整った顔立ちが引き立って、凄絶な美しさをたたえていたのだろうか、それとも、藤田の心理状態が常人のものではなかったせいだろうか、と久美は思った。

 さらに、藤田は、喉元から胸元にかけて赤黒い血が付着していて、それが可愛そうで、血を拭き取ろうと思った、と信じ難いことを言った。


    7


 上着とその下の下着を脱がしてみると、血は胸元よりずっと下の方まで流れていた。

 着衣や下着を全部脱がしてみるしかなかった。

 パンテイ・ストッキングを脱がそうとすると、ブーツが邪魔になった。

 結局、一糸纏いっしまとわぬ全裸の状態にするしかなかった。

 拭く布がなかった。

 自分が着ている木綿製の下着なら、柔らかい肌を傷つけずに、強張こわばり始めていた血をきれいに拭き取れると思った。

 自分も、上半身、裸になった。

 冒涜ぼうとくしようという気はなかった。

 小川の水で下着を洗っては、恵美の体を拭いた。

 喉元の傷口が二つ無惨に口を開けていたが、その周辺も丁寧に拭いた。

 涙を流して、声を出して、泣きながら拭いた。

 こびりついた血を拭き取った後も、恵美の体を、ただ、拭き続けた。


 この時の様子は、まさに鬼気迫る光景ものだっただろうと思って、久美は身震いした。一面の星空だったそうだから、放射冷却が始まって、日中と違って、こごえるほどの気温になっていたはずだ。

 この時の藤田は常人ではない。

 上半身、裸のまま、かなりの時間を過ごしたはずなのに、全く寒さを感じなかったと言う。

 手足の動きをめると、さすがに、体全体に震えが来た。

 シャツと上着を身に着けて、ジャンパーも羽織ろうとしたが、両腕から胸元にかけて、血がべっとり付いていた。

 ジャンパーは羽織るのをめて、後部座席に丸めて置いた。

 いずれ、死体をどこかに置いていかなければならない。

 恵美を裸のまま遺棄することには耐えられなかった。

 ブラジャーと下着は、赤黒い血に染まって、特に左側が固く強張こわばっていた。白い肌に着せたり、白い乳房にかぶせたりしたくなかった。通勤服だけを元通りに着せてやった。

 下着やブラジャーは、後部座席に置いた自分のジャンパーの中に入れて、一緒に、丸め込んだ。

 パンテイトストッキングやブーツは、元通りに、履かせた。

 ブーツの甲に血痕が付着していた。

 その血痕を濡れた下着で拭き取ってからも、ブーツを意味もなく磨いた。

 いつまでも、そこに、留まっているわけにはいかなかった。

 恵美を置き去りにすることはできなかった。

 山道を後戻りし始めたが、このままだと、自分が恵美を殺した犯人にされる、という戦慄を伴った激しい恐怖感に襲われ始めた。

 考えがまとまることはなかった。

 県道に戻って、最初は、あてもなく、西の方へ向かって走っていた。

 途中で、名古屋方面へ向かう道だと気づいて、Uターンした。

 大南市街へ戻ろうと思っていたわけでもなかった。

 また、Uターンしようと思ったが、その決断がつかず、ただ、ぐずぐずと、走り続けた。

 まとまった人家のあるあたりを通り過ぎて、大南市に近づいていた。

 Uターンの決断もつかないまま、走っていると、道路の両側が雑木林になった。雑木林は、かなりの規模で、四,五百メートルは続いていた。

 もう、限界だった。後続車もなかったし、対向車の前照灯の明かりが近づいて来ることもなかった。ここしかない、と思った。

 車を道路の左端に停めて、恵美の死体を、雑木林の中に運んだ。

 外は冷え込んでいたが、車の暖房の中にいた上に、異常に興奮して、体が火照ほてっていたので、寒さは感じなかった。

 足で探って、樹木や灌木がまばらなところを選んで、恵美を凍るような冷たい地面に横たえた。


 藤田は、苦渋とも当惑ともつかぬ表情を浮かべて、急に項垂うなだれて、黙り込んだ。

 久美は、その理由がわかった。

 牧山も同じだったらしく、

 「・・・DNAのことだけどな。おまえがったことになってる重要な証拠の一つになってるんだ。何か言うことがあるんじゃないのか?」

 藤田は、ビクッとして、顔を上げた。

 ひどく動揺している。

 血の気の引いた顔を、また、うつむけてしまった。

 口は閉ざしたままだ。

 牧山は、あせらずに、待った。

 藤田は、やっと、口を開いた。

 耳を疑うようなことを言った。

 恵美を横たえた後で、自分でも説明がつかないようなことをしてしまった、ズボンを下着ごとずり下ろすと、恵美のスカートをまくり上げ、パンテイストッキングを膝まで引きずり下ろし、恵美の冷たくなった陰部のあたりに自分の固くなったものを押しつけて、すぐに果てた、と。

 久美は、藤田の生理の不可思議さが理解できなかった。

 遺棄する直前ときになってから、死後硬直が始まっていた死体を陵辱するなんて!


 久美が、この件に関する捜査陣の見解を知ったのは、後になってからだ。

 捜査陣の見解は、こういうものだった。

 藤田は、恵美の死体を車に運び込んで以降、場所を選んで、どこかの時点で、思いを遂げようと思っていた。その欲望が、死体を伴って深い山中に入り込んだり、死体から血を拭き取ったりするような、普通の神経の持ち主ならできないような一連の不可解な行動を取らせた。異常な状況にあった上に、精神的な動揺があって、途中では遂行に至らず、結局、遺棄した場所で思いを遂げたのであろう、と。


 藤田は、どうして、こんなことをしてしまったのだろうと、しばらく呆然としていた、と言った。

 果てた後で、完全に常人にもどったのだろうと思われる。

 雑木林の中が急に明るくなった。

 前照灯の明かりが近づいて来て、車の走行音が聞こえてきた。

 心臓が早鐘を打つようになった。

 反射的に死体のスカートを片側だけ下ろし、ズボンを引き上げながら、雑木林のさらに奥に駆け込んだ。

 車が走り去っても、胸の動悸は収まらなかった。

 恵美を置いたところへ戻ろうとした。

 前照灯の明かりが、また、近づいて来て、雑木林の中が、ぼーっと明るくなった。同じことが、二回、続いた。

 動けなくなった。

 恵美の死体のところへ引き返す余裕などなくなっていた。

 一刻も早く、雑木林そこを離れようと思った。

 車のところへ駆け戻ると、すぐに発進させた。

 大南市街へは向かいたくなかったので、途中で、Uターンした。

 ほうけたようになって、車を走らせていると、涙が、なく、あふれ出てきた。

 恋情、哀切、罪悪感、罪滅ぼし、どんな言葉を使っても、表現不可能な感情に襲われていた。

 恵美をあのままにして置くことには、とても、耐えられなかった。

 恵美の死体が雑木林の中に置いてある、そのことを、だれかに知らせなければいけない、その思いで、頭がいっぱいになっていた。

 途中に、コンビニ店があった。

 一旦、駐車場に入って、車を停めたが、中に入れなかった。

 ひさしの下にコンビニの店名が横に走って、中の灯りで、大きな文字が浮き出ていて、店名の下に、電話番号があった。

 その番号を頭に入れると、コンビニ店の駐車場を出た。

 道路沿いに、家並みが続く小さな町の中を走り回って、公園の広場の一角に公衆電話ボックスを見つけた。

 自分のケータイをジャンパーのポケットに入れていたが、後部座席に置きっ放しにしていたので、うっかりしてた、と藤田は言った。

 公衆電話からコンビニ店に連絡したのは、意図してやったことではない、と言いたかったのだろうが、自分のケータイの番号を知られたくなかったことは明らかだ。



    第九章 再捜査


    1


 藤田の新しい供述は、警察、検察の双方を驚愕させた。

 信憑性しんぴょうせいについて疑義ぎぎがなかったわけではないが、少なくとも、再捜査は確実な状況になった。

 藤田の供述だけで、久山を拘束し、連行することはできない。

 鹿児島にいる久山を別件で逮捕することもできなかった。

 捜査員を鹿児島に派遣し、先ず、任意に事情を聴取をするという手順を踏まなければならなかった。

 捜査本部長の大川政嗣は、牧山と竹添を署長室に呼んだ。

 牧山も竹添も、鹿児島行きを命じられるものと思って、署長室に入った。

 ところが、大川は、こう切り出した。

 「あの、かわい子ちゃん、のことだがな」

 「えっ・・・!」

 牧山は、すぐに、誰のことかわかったが、

 「かわい子ちゃん、て?」

 と、とぼけた。

 「薗田久美様のことではございませんか、おじさま」

 竹添が、おねえ系の言い方で、からかった。

 竹添も竹添だが、大川も大川だ。

 この非常時に、笑いながら、竹添に調子を合わせた。

 「あは、はは・・・。スイリリョクが冴えてるな、今日の竹添君は・・・・。ま、いい、本題に入ろう」

 古色蒼然とした若者言葉で話を切り出しておきながら、竹添のスイリリョクが冴えてるの、本題に入ろう、もないもんだ、と思ったが、牧山は久美のこととなると気になる。それに、大川が、本題、という言葉を使う時は、厄介で大きな仕事を持ち出すことが多い。

 「久美さんが、また、何かしましたか?」

 「何かしたかじゃない、何かしそうだ、ってことなんだけどな。あののことだ。藤田の供述を聞いてたんだから、きっと、何かしでかす。どんな僥倖に恵まれたのか知らんが、なにしろ、爆破事件を刑事コロンボみたいに解決した娘だからな」

 「刑事コロンボ? 一昔前のテレビドラマじゃないですか。署長もご存知で?」

 竹添は、話の本筋よりも、枝葉の言葉の方に興味を持った。

 大川は、時々、がらにもないことや、場違いなことを言う。

 竹添は竹添で、そっちの方に興味を持つ傾向がある。

 大川が、また、本筋をはずれた竹添に調子を合わせた。

 「あれは一風変わった刑事ドラマで、殺人犯が最初に登場して、ドラマの冒頭でコロシをする。それを風采のあがらん刑事が、とぼけたフリをしながら、目星をつけた犯人を追い詰めていくという、お決まりのものだ。あのも、犯人がわかったつもりになっていて、どうやら、名探偵気取りで犯人を追い詰めていく気でいるらしい」

 風采の上がらん刑事、と言ったときに、大川が牧山を横目で見たので、牧山はそっぽを向いた。

 大川は、二人に、びっくりするような指示をした。

 「君らは、ここしばらく、あのを見張っていてくれないか」

 「えーっ!」

 牧山と竹添は、同時に、目を剥いた。

 「藤田の新しい供述やあの娘が考えてることが正しいと信じてしまったわけじゃないが、久山が殺人犯だとすると、あの娘が危ない。人を殺したようなやつは、追い詰められると、何をしでかすかわからんからな。尾形のことで、経験済みのはずだが、それでも、あのじゃじゃ馬のことだ、いくら止めても、勝手に動くだろう。姉さんばかりでなく、母親も久山に殺されたと思ってるんだからな。それに、あのの推理や捜査の能力がほんものかどうか見てみたい、という気もある。誰の力であろうと、事件の真相が解明できるんだったら、それはそれで歓迎すべきことだからな」

 牧山は、自分たちの捜査能力を当てにしていないようなことを言われて、一瞬、ムッとしたような顔をしたが、一方では、大川の太っ腹ぶりに、内心、感心していた。牧山にも、話題の主が久美ということであれば、面子めんつを捨てても構わない、という身贔屓みびいき意識があった。

 藤田は、少なくとも、死体遺棄の罪は確実だったので、未決勾留していることに問題はなかったが、真犯人としての公判が持つかどうか、この段階になって、確信が揺らぎ始めていた。

 大川に調子を合わせていた竹添が、急に、不機嫌な顔になっている。

 ただの人員補充だったのかもしれないが、県警本部から派遣されて来ているという自負がある。

 大川は、すぐにそれと察して、こんな風に言葉を継いだ。

 「きみたちの捜査能力を疑ってるわけじゃない。気を悪くせんでくれ。事件によっては、岡目八目と言って、全くのド素人の方が真相が見えてる場合もある。かと言って、警察として、あの娘の動きに期待してるわけじゃないぞ。そんなことは、警察の威信にかけて、ぜったいあってはならんことだ」

 大川は、そう大見得を切ってから、全く矛盾する言葉を続けた。

 「きみらの当面の仕事は、あの娘を危険から守ること、それだけだ。それも、気づかれんように気をつけてくれ。あのの動きを止めてしまいかねんし、何よりも、警察が動いていると知ったら、久山が警戒する。

 藤田の供述だけで、久山の身柄を拘束するのは考えもんだ。本人に自白させて、確かな物証でも見つからなければ、手が出せん。遠くへ出かける必要があったら、出張旅費は出す。事件に関わることで、久山が被疑者の一人であることは確かなんだからな。・・・以上だ。これは署長命令だ」


     2


 久美は、一月十九日に日比谷公園で迫田智宏に会ってから、久山俊彦がどこでどうしているのか、わからなかった。

 竹添に電話で聞いてみると、鹿児島県警からの情報がある、と言った。

 藤田が自首する前は、久山の情報収集を始めていた時期があったので、その資料が残っていた。さらに、藤田の新たな供述後は、改めて、久山の再捜査に着手していた。

 竹添は、久美が何か聞き出そうとすると、詳しいことは言えませんよ、と先に釘を刺した。久美に情報を流すことにりて、警戒していた。

 久美は、次の日、今度は、牧山のケータイに電話を入れた。

 牧山と竹添が、署長室に呼ばれて、指示を受けた直後あとだったが、無論、久美はそんなことは知らない。

 久美は、牧山に怒られるだろう、久山の情報など教えてくれるはずがない、それでも、元々だ、教えてもらえない場合は、他の方法を考えればいいと思っていた。

 久美が思い切って用件を切り出すと、牧山は久美が予想していたようなことは言わなかった。

 捜査情報を漏らすことはできません、とか、なんで、そんなことを知る必要があるんですか、とか、危ないまねはするなと言ってあるでしょう、などとは言わずに、笑いを含んだ声で、やっぱり、そうですか、と言った。

 牧山は、折り返し電話するからと言って、一旦、電話を切った。

 久美は、かえって、不安になった。

 警察が、民間人に、ましてガイシャの身内に、当該事件の捜査情報を漏らすことなどあり得ない。今までの経緯があったにしても、久美を特別扱いすることは、やはり、許されないはずだ。

 そんなことをいろいろ思い巡らしながら、諦めかけていると、ケータイが鳴った。

 牧山は、鹿児島県警本部からの最新の情報ですが、と断ってから、次のような情報ことを教えてくれた

 久山は郷里にいる。

 郷里は鹿児島県北部、伊佐市の菱刈というところだ。

 表向きは農業だが、日雇いの仕事に出ている。

 現在、一人暮らしの状態で、以前とは性格が変わってしまって、集落の中の付き合いを、ほとんど、しなくなっている。

 牧山は、そんなことを簡潔に言うと、うるさいことは何も言わず、久美の今後の行動予定も聞いたりせずに、意外に淡泊に、電話を切った。

 久美は拍子抜けした。

 危険だから、刑事の真似事は決してするな、と厳しく釘を刺されるものと思い込んでいたからだ。

 久美は、久山の所在さえわかればいいと思っていたので、情報としては十分だった。

 その翌日、午後三時半過ぎに、出席する講義の予定がなくなったので、松嶋潤一のケータイに電話を入れた。

 松嶋は、何か連絡が来る頃だと思ってたよ、とはずんだ声で言ってから、もう一つ講義が残っていて、その講義に向かうところだと付け加えたので、久美は、前置きを省略して、すぐ本題に入った。

 松嶋には藤田の供述の概要を話してあった。

 「久山は郷里の鹿児島県にいるわ」

 「鹿児島か。九州の果てだね。遠いな」

 「藤田の供述だけで久山を連行するのは、警察も躊躇ためらっているようだわ」

 「じゃあ、警察の捜査官が鹿児島に出向くことになるわけだ」

 「そうなると思うわ。でも、警察だけにまかせておけないわ」

 「えっ! ということは・・・久美さんも・・・鹿児島に?」

 「そうしようと思ってるの。久山の居所が、鹿児島県の北部、伊佐市の菱刈ってところだとわかったの。市役所で調べれば、詳しい住所がわかるわ」

 「市役所が教えてくれるかな。個人情報の開示にはうるさくなってるからな。それは、警・・・」

 松嶋は、それは警察に任せておけばいい、と言いかけたが、こういう場合の久美の行動パターンを知っていた。止めたところで、同じことだと思ったので、言葉を呑んだ。

 「届け物があるとか言えば、住所くらい、なんとかなるわ。久山に、直接会って、対決してみたいの」

 「対決、って・・・それ、危ないよ! 尾形のことでも、ぼくは責任を感じて、あの後、不眠症になりかけたんだよ」

 「だから、松嶋君も一緒に行ってくれない? 旅費は出すわ」

 久美は、どこか近辺にでも出かけるように、事も無げに言った。

 松嶋は、一瞬、面喰らったが、胸が高鳴った。

 相手が久山一人なら、なんとかなるだろうと思った。

 「・・・ぼくは、もちろん、いいけど、大学の講義はどうするの?」

 「親戚の法事に行くとか、何か理由をつけて、休講するってのは、どうかしら? 飛行機で行けば、鹿児島だって遠くないわ」

 「ったく、久美さんの悪知恵には、驚くよ」

 「あは、はは。悪知恵で悪かったわね。姉と母の仇を討つんだから、これくらいは許してもらえると思うわ。松嶋君にまで、それに付き合えっていうのは筋違いかな?」

 「そ、そんなことない! 喜んでお伴しますよ」

 「じゃあ、旅行計画など、細かいことは、後で連絡するわね」

 松嶋は、もうすっかりその気になったらしく、弾んだ声で、じゃあ、それを待ってるよ、と言った。

 久美は、マンションに帰って、細かい旅行計画を練っておこうと思った。

 大学の正門を出ると、左の方へ足を向けた。

 正門を出たとき、右側の二十メートルほど離れたところにある大きな掲示板の陰に黒っぽい背広を着た男がいて、慌てた様子で、隠れたような気がした。

 久美は、尾形に襲われてから、自分の後をつけている者がいないか、用心する習慣がついていた

 久美は歩き始めたが、後を振り返らなかった。

 そのまま歩道を歩いて、大学のキャンパスを囲む石垣が途絶えたところで、左へ曲がって、十メートルほど歩いてから、立ち止まった。後を追っている者がどんな人間であれ、待ち伏せていても、危険はないと思った。

 十一月中旬の午後四時過ぎで、柔らかい西日の中に、周囲の木々の深緑の葉が、時折、葉裏を見せるほどの風が吹いている。周囲には、三々五々、学生たちが歩いていた。

 しばらくすると、男の顔が石垣の陰から出た。

 顔だけ出して、覗いたのだ。

 久美は、目を疑った。

 その顔が竹添だったからだ。

 「あら、竹添さんじゃないの! どうしたの? わざわざ東京まで出てきて、いいとしして、かくれんぼしてるの」

 竹添は、仕方なく、頭をかきながら、石垣の陰から全身を現した。

 その後から、なんと、牧山まで出て来た。

 久美はあきれてしまった。

 自分の方から、石畳の歩道にヒールの音を響かせながら、つかつかと歩み寄った。

 「まさか、私をけてたんじゃないんでしょうね!」

 「えへ、へへ・・・」

 ひどくまごついたらしい竹添が、不思議な笑い声をあげた。

 牧山も、間の悪そうな顔をして、頭を掻いている。

 久美は吹き出してしまった。

 「あは、はは・・・。捜査の専門家の尾行にしては、お粗末ね」

 牧山は、久美に笑われて、やっと、元の「おじさん」の顔を取り戻した。

 「尾行だなんて、そんなつもりじゃ・・・・」

 「じゃあ、どういうつもりなんですか? これが尾行じゃなくて、なんと言うのかしら?」

 久美は、牧山と竹添をいじめにかかる。

 ウエストが形良く絞られた長袖の青紫パープルブルーのワンピース、濃紺のサブリナ・パンツ。濃紅色ダークレッドのショルダーバッグを後に回し、胸を張って、両手を腰に当て、肘を横に張っている。

 両脚を開いて、踏ん張って、口元にいたずらっぽい笑みを浮かべているところを見ると、面白がっているのだ。

 牧山は、久美に悟られないように尾行しろなんて、どだい署長の命令が間違っている、と思った。親戚以上に顔を知られている二人に、そんな尾行がうまくできるはずがない。

 「実は、あなたの身辺を、気づかれないようにに、そっと護衛しろ、っていう大川署長の命令なんです」

 と、牧山が言った。牧山は、根が正直で、真面目だ。

 「えっ! 署長の? 署長さんが、そう言ったの?」

 「そうです。尾形のこともあるし、警察は善良な市民の安全を守る義務があるんです」

 竹添が、苦し紛れに、したり顔で言った。

 「私、善良な市民にされちゃったの。おかしいわね。あは、はは・・・」

 「笑い事じゃありません! 事件関係者の身の安全を守るのもわれわれの重要な仕事なんです」

 竹添が、ムキになった。ここで追っ払われては、公費で久美の尻を追っかけるという楽しみがなくなるのだ。

 「学生マンションの方へ回るつもりでしたが、時間が早かったんで、こっちの方へ来てしまいました」

 牧山は、珍しく戸惑っている様子で、そんな言い訳をした。

 「それで、いつ、東京に出て来たんですか?」

 「午後二時過ぎに、東京駅に着きました」

 「いつの?」

 「・・・今日です」

 「それで、もう、見つかっちゃったの! あきれた人たちね。あは、はは・・・」

 牧山も竹添も、久美に何と言われようと、返す言葉がない。

 牧山と竹添が旅行用の大きめのバッグを手にしているところを見ると、長期戦を覚悟していたのかもしれない。

 久美は、二人の様子を見ていて、大川が言ったことは本当かもしれないと思った。そうだとすれば、捜査や尾行の専門家であるはずの二人の自尊心を傷つけるようなことを言ってしまったんじゃないかと反省した。

 「私の後をつける必要なんかないんじゃありませんか」

 「えっ、それは困る! 署長命令なんだから!」

 竹添が、慌てて、言った。

 「目的は同じでしょう? 一緒に動いていただくことはできないんですか?」

 「えっ! いいんですか? そうしてもらえば、われわれも助かります!」

 竹添が、思わず、本音を口走った。

 牧山が、竹添に呆れたような目を向けて、

 「それは、どうかな。署長を裏切ることになるぞ」

 「大川署長に言わなきゃいいでしょう。おじさんや竹添さんを見張ってるわけじゃないでしょう。それとも、あなたたちを尾行してる捜査官が、もう一組、いるのかしら?」

 久美は、また、いたずらっぽい微笑を牧山に向けた。

 「私は、鹿児島に行くことに決めてるんですよ」

 「・・・それはだめです。危ないまねはするなと言ってあるでしょう」

 牧山の言い方には、いつもの迫力がない。

 「だから、おじさんと竹添さんに一緒に行っていただけば、その心配がなくなるわけでしょう? 私を危険から守るという尾行の目的に合ってるはずよ。どうせ、捜査官のひとが、少なくとも二人ぐらいは、鹿児島に行くことになるんでしょう?」

 牧山は、まいったな、と思った。

 この事件では、さすがの牧山も、久美に翻弄されっ放しだった。

 いくら止めても、この娘は鹿児島に行くだろう。鹿児島のあたりまで久美の尾行ができるはずがない。列車で行くにしろ、飛行機を使うにしろ、同じ乗り物に乗らなければ、尾行にはならない。久美に気づかれずに、同じ乗り物に乗るなんて、透明人間にならなければできない。

 「・・・こうなると・・・それも考えないわけにはいかのかもしれませんね。普通ではとても考えられないことですが、あの署長のことですからね」

 牧山がそう言うのを聞いて、久美は、大川の考えてることがわかったような気がした。

 久山の居所がわかれば、久美は行動を起こす、そうなると、すぐにでも危険がないとは言えない、大川は、そう考えて、急遽、牧山と竹添を東京に向かわせたのだろう。

 しかし、たぶん、これは表向きの理由だ。

 大川の本当の意図は、牧山と竹添を鹿児島に行かせるつもりでいて、それに久美を同行させたかったのではないだろうか。

 百歩譲っても、警察が、被害者の身内の久美に、こんな前代未聞の依頼はできない。久美自身の意思でそうなるようにし向ける必要があったはずだ。

 眉毛と目尻の垂れた顔が浮かんできた。

 やるわね、あの狸オヤジ、また、会いたいな、と思った。


 その日の夜、久美は松嶋に、断りの電話を入れた。

 「松嶋君、ごめんなさい。あなたに迷惑をかけなくてもよくなったわ」

 「えっ! どういうこと?」

 「警察の捜査官が、二人、一緒に行くことになったの」

 「・・・・・」

 松嶋は、久美との鹿児島行きがキャンセルされることになって、ショックを受けたのか、しばらく返事をしなかった。

 「・・・でも・・・捜査官が二人だけじゃ、心配だな」

 松嶋は、言うことに事欠いて、牧山と竹添が聞いたら、目を剥きそうなことを言った。

 「ぼくも、行こうかな。やっぱり、心配だよ」

 二人の捜査官だけでは心配だというのは立て前で、本音は鹿児島に行きたいらしいと思ったが、大学の講義がある時期に迷惑をかけたくなかった。

 他に方法がなければ、松嶋を頼るしかなかったが、牧山と竹添が一緒に行くとなれば、その必要もなくなった。

 「ありがとう。でも、大丈夫よ。鹿児島県警も万全を期してくれる、って言ってるらしいわ」

 「・・・ぼくも・・・行きたいな」

 松嶋は、つい、本音を漏らした。

 久美も、一緒に行けなくて寂しい思いがしたところをみると、松嶋のことが好きになってしまっているのかな、と思った。

 久美は、それを吹っ切るように、

 「すぐ帰って来るから、帰ったらあなたに報告するわ。できれば、久山を自白に追い込んで、その供述をもとにして、しっかりした物証も見つけて来ようと思ってるの」

 「短い期間で、そこまでできるとは思えないけど・・・張り切りすぎて、無理しちゃだめだよ」

 「わかってるわ。心配してくれて、ありがとう。じゃあね」


    リーマンショック殺人事件(六)に続く



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