辻内家の猫
一
手袋、マフラー、コート…自転車で帰宅する完全防備の高校生。冷たい風に顔をしかめながらも、ぐんぐんスピードを上げていきます。
「とに角、早く家に帰りたい。」
コールタールに塗れ、ガリガリに痩せた子猫を兄が拾ってきたのは、そんな寒い冬の日のことでした。
学校からの帰り道、車道をヨロヨロと歩く子猫を見つけた兄は、可哀相に思って、拾ったのだといいます。
部活で使うタオルで子猫を包み、自転車の前カゴに乗せて帰宅した兄は、炬燵でぬくぬく、テレビを見ていた僕を呼び出して、その子猫を洗うように言い付けると、僕と交代で、炬燵でぬくぬく、テレビに熱中し始めました。
僕の兄は、とても優しい男なのですが、反面、非常に無責任な所がありました。いくら文句を言っても、一向に聞き入れない事は、目に見えていたので、仕方なく、その猫をタオルに包んだまま風呂場まで運んでいきました。
洗う前に、何か食べさせてやろうと思い、水で薄めたミルクと魚の缶詰を紙皿に入れて子猫の前に置くと、物凄い勢いでミルクを、ちゃぷちゃぷ、舐めはじめたので、一先ず安心しました。
兄が、猫を拾ってきたことは、この日が初めてではありませんでした。
弱った猫を見つけるとすぐにつれて帰ってくるので、その度に僕が猫の面倒を見ていました。
ミルクも缶詰も平らげた子猫は、泣き声も目も、しっかりとしてきたので、もう大丈夫だろうと思い、シャワーの湯加減に注意しながら、シャンプーでゴシゴシと洗ってやりました。
いくら洗っても毛にこびり付いたコールタールは取れず、諦めて、シャワーを嫌がる子猫をタオルでふいてやって、浴室の扉を開けると、物凄い勢いで、浴室から逃げ出したので、もうすっかり元気になったなぁと思いました。
逃げた子猫を捕まえて、ガスヒーターの前で半乾きの毛を完全に乾かすと、こびり付いたコールタールを少しずつ、慎重に、ハサミで切り取ってやりました。
その作業は深夜まで続き、所々、こびり付いたコールタールが残っているものの、努力の甲斐あって、最初より、数段キレイになりました。
そうして数週間たつと、汚れた毛が生え変わり、コールタールもすっかり取れて、あの弱弱しいガリガリの子猫の面影は、完全に無くなっていました。
二
椅子の上でだらしなく眠っている猫は、とても太っています。
暫らく、家で面倒を見ていると、大分元気になったので、野良に戻してやろうと、庭に放したら、勢い良く田んぼ道を走っていったので、やっぱり野性が一番なのだなぁと思って猫の後ろ姿を見送ったのですが、その夜、外で"にゃーにゃー"と猫の泣き声がするので、窓を開けると、あの猫が窓から、スルッ、と家の中へ入ってきました。
どうしても夜になると家に帰ってくるので、野良に戻すのは諦めて、その猫は辻内家で正式に面倒を見ることになりました。
辻内家で甘やかされて育てられた猫は太りました。その太った猫を、父と祖母は"ミーちゃん"と呼び、母は"ミーコ"と呼び、兄は"プーさん"と呼び、俺は単に"猫"と呼んでいました。
どの名前を呼ばれても、特に反応を示すことはなく、ゴロゴロと、椅子の上で、いびきをかいて、眠っていました。
頭を触っても、お腹をくすぐっても、気怠そうに半目を開けて、また閉じるといった反応しか示さず、まったく、鈍感で倦怠な猫だなぁと思いました。
ある日、僕が玄関の扉を開けた時に、猫が外へ飛び出していきました。
田んぼ道をぐんぐん走っていく猫の後ろ姿を見送って、また、夜になれば帰ってくるだろうと思っていたのですが、その日の夜も、次の日の夜も…そして、とうとう、その猫は家に帰ってはきませんでした。
三
梅雨入りして、ジメジメとした毎日が続き、洗濯物はまったく乾きません。仕方がないからカッターシャツや体操服など、明日必要なものだけを取り入れて、ガスヒーターで乾かしていると、ふと、あの猫の事を思い出したのです。
猫は死期を悟ると、飼い主の前から姿を消すといった迷信を聞いたことがあります。僕は、何となくですが、あの猫は、まだどこかでたくましく生きているような気がするのです。
体操服をガスヒーターで乾かしていると、兄が帰ってきて、おーい、と僕を呼びました。
「この猫、汚れてるからキレイに洗ってやって。」
生乾きの体操服とカッターシャツを椅子の背もたれに掛けると、僕はタオルに包まれた猫を優しく風呂場まで運んでいきました。