第3話 日常と不思議と
放課後になった。
今日はまだ始業して三日目。
授業は始まったが、そのほとんどがオリエンテーションで終わる最高の時期。
教室から見える景色を望みながら、五、六時間目を優雅に過ごした花咲は、ホームルーム後の何とも言えない開放感を味わっていた。
近くにやって来た谷が、放課後に「おはよう」と声を掛けてくる。相変わらず嫌味な奴だ。先ほどの思い遣りはどこへやら。
花咲が谷とくだらない世間話に興じていると、教室のドアがガラっと開いた。
「修平くん、峻輝くん」
呼ばれて振り向くと、滝田が教室のドアからひょっこり顔を出すようなポーズをしながら手招きしていた。
滝田朱里。吹奏楽部所属の元クラスメイト。
明るく人懐っこい性格で、同じ吹奏楽部の高梨とは特に仲が良い。
花咲や谷とは、一年次のクラスが同じだったこともあって、高梨も入れた四人で放課後に遊びに行くこともしばしばあった。
花咲は、少しだけ居心地が悪かった。
滝田は何の気なしに花咲に話しかけてくる。
それはそうだろう。滝田は昨日、花咲が盗み聞きしていたことを知らないのだから。
誰も悪くない。花咲は自分が我慢すれば、この関係が続くことを知っている。
一拍、間を置いてから、今日も元気な滝田に返事をした。
「どうした?」
少々ぶっきらぼうな言い方になったが、まあ良い。
「由紀が委員会で暇だったからさ。図書室行こ!」
「まさか勉強しようとか言わないよな」
谷が心底嫌そうな表情を浮かべる。花咲もあまり乗り気はしなかった。
「言わないよ」
「探してる本でもあるのか?」
「特にないかな」
「なら行く必要ないじゃん」
「行ったらわかるから」
不満げな花咲にそう返して、含みのある笑顔を向けてくる。その無邪気にも見える表情が可愛くて、「行くか」と返事してしまった。
「マジかよ」
「谷だけ待ってりゃいいさ」
「待ってるぐらいなら帰る」
と、言いつつも結局ついてくるのが谷峻輝という男なのだが。
図書室は二年生のフロアと同じ一階にある。図書室に行く、と大仰に言ってるだけで、教室を出ればすぐに着くのだ。トイレに行く感覚と大して変わらない。
図書室に入って、なるほど、滝田の言いたいことがわかった。
図書カウンター担当表と書かれた掲示物には、今日の日付の隣に『高梨』という文字が印字されている。
図書カウンターの裏には暇そうに小説をペラペラと捲る高梨由紀がいた。
ボーイッシュで大人びた雰囲気を持ち合わせた、花咲と谷の幼馴染。年端もいかない子どもの頃から"落ち着いている"と評されてきた彼女だが、その内心には年相応の幼さや茶目っ気も忍ばせていることを花咲は知っていた。
「由紀、冷やかしに来たよー」
入るやいなや、滝田が高梨に声を掛けた。
そういうことを自分から言うものだろうか。
「もうタキってば、先に帰ってて良いって言ったのに」
「きっと暇してると思って」
「そうだけど」
「今日部活もオフだったのにね」
「そう、それ!ホント最悪!」
「終わったら、一緒に帰ろ。今日は九十五点狙える」
「またカラオケ行こうとしてる!」
滝田と高梨でキャッキャうふふと盛り上がる。
「もしかして、俺らを連れてきたのって……」
二人の会話に割り込む谷。
心なしか、嬉しそうだ。はて、図書室に行くのを嫌がっていなかったか。
「シュンも行くの?」
高梨が谷に言う。
『シュン』は、小学生の頃から続く谷のあだ名だ。同級生は皆、谷のことを『シュン』と呼んでいた。呼ばなかったのは、花咲くらいだろう。
「良いよ。暇だし」
「修平くんも来るでしょ?」
滝田が丸い目を向けてくる。
「う、うん」
気分的にはすぐにでも帰りたい花咲だったが、こう詰められると弱い。
返答の続きを待つように滝田が花咲へ無邪気な視線を送り続ける。何というか衝動的に口走りそうになるような魔力をもった視線。耐えられなくなった花咲はそっぽを向いて誤魔化した。
「それはそうと、貸出リストに修平の名前があるんだけど」
少しだけ沈黙が流れた図書室で、口を開いたのは高梨だった。
「……え?ああ、そういえば」
言われるまで忘れていた。
滝田に振られた昨日の放課後に、放心状態で借り出した奇怪なあの本。タイトルは『大平の七不思議』だっただろうか。
「確か、カバンに入れっぱなしにして……」
そう口にしながら、カバンを漁る。
「あれ、ないな」
家に置いてきてしまったとなると、また返しに来なければいけない。少し面倒だ。
「ちゃんと書かないと、何の本を借りたかわかんないじゃん」
言いながら、高梨が貸出リストを見せてくる。
確かに、表の二列目に『花咲修平』は書いてあるのに、本のタイトルや蔵書番号などは未記入だった。
「ごめん、忘れてた」
そう咄嗟に口にするものの、花咲はそもそも名前すら書いた記憶がなかった。
「一応、書いといて」
「蔵書番号とかわからないんだけど」
「本のタイトルだけでも良いから」
「まあ、それなら」
『大平の七不思議』と書いておく。
「もっと丁寧に書きなよ」
注意する高梨の語気が強い。そういうところまで面倒がるな、とでも言いたげだ。
「読めればいいじゃん」
「いや、読めないでしょ」
「読めないは言い過ぎだろ」
走り書きだが、言われるほど雑ではない。充分に読める字だと思う。
高梨の言葉を聞いて、興味をもったのか谷が覗き込んできた。
「汚い字……というか、もはや原型留めてねぇじゃん」
「いやいやいや、そんなことないって」
普段から嘲笑気味の谷は、表情を見ただけでは高梨に便乗しているだけなのか判断がつかなかった。
「タキからも言ってやって」
高梨が滝田に促す。あまり乗り気でないのか、「別に良いよ」と断る滝田だったが、高梨に無理やり見せられて何とも言えない表情になっていた。
「うーん。確かに、これは読めないね」
「滝田まで……」
嘘を吐くのが下手な滝田が「読めない」と言うからには、本当に読めないのだろう。
仕方なく書き直すが、高梨の表情は渋面のまま変わらなかった。
「もういい。あたしが書くから、タイトル言って」
終いには、そんなことを言い出した。
「『大平の七不思議』って本」
言い合うことも書き直すことも面倒くさくなって、言われた通りタイトルを教えた。
だが、しかし。
「……なんて言った?」
今度は聞き取れないらしい。新手の意地悪だろうか。
「いや、だから『大平の七不思議』だって」
「肝心なところをごにょごにょ言わないでよ」
「しっかり言ってるって」
谷と滝田の訝しむような視線で、やっと花咲は気付いた。
これはおかしい。昨日つくしと出会ったときのような焦燥感を覚えて、心がざわついた。
落ち着け、と花咲は自身に言い聞かせる。
原因は明らかなのだ。同じ字体でも『花咲修平』という字は見えているし、会話は難なくできている。となれば、『大平の七不思議』という言葉に何かしらの認識阻害のようなものがかけられていると考えるのが自然だ。つくしがそうであったように。
ふと試してみたいことを思いついて、花咲は口を開いた。
「大平って言ったら通じるか?」
「当たり前じゃん。通ってる高校名を言えない高校生がどこにいんのよ」
「じゃあ、七不思議は?」
「まあ、そりゃあね」
「それなら……」
『大平』と『七不思議』の間にスペースを開けて書いておく。
果たして、この書き方で三人が認識できるようになるのか。チラリと滝田に目を向けると「そんな本あるんだ」と目を丸くしていた。どうやら伝わったらしい。
「最初からちゃんと書いてよ」
高梨が愚痴る。
「……悪かったって」
言い返そうと思った花咲だが、話がこじれて長くなる予感がして、平謝りで誤魔化しておいた。
「まあ、いいわ。そろそろ終わるから、先に昇降口行ってて」
花咲の態度が気に食わないのか、言葉とは裏腹に高梨の口調がぶっきらぼうだった。
「はーい」
軽く返事をするのは滝田。何事もなかったように、スクールバッグを肩にかけながら「行こ!」と元気に手招きしてくる。今のやり取りに不自然さを感じていない様子で、花咲は少し安堵した。
一方で、谷は不審がるように見つめてくる。視線だけで言葉にはしてこなかった。
「なんだよ?」
その態度が気に食わなくて、花咲は考えなしに聞いてしまっていた。
「お前らしくねーなって思って」
「俺らしくってなんだよ?」
無意識に語気が強くなってしまう。どこか焦りにも似た緊張感がピリピリと全身へ伝播して、嫌な気分になる。
「普段なら、普通に書くだろ。変な子芝居までして高梨と言い合うなんて、無益なことに時間を割くのはお前らしくないって言ってんの」
「別に……」
何かを狙って行動した訳じゃない。そう花咲が言い切る前に、谷が言葉を被せてきた。
「まあ、いいよ。今日のお前は何か変だなってだけで他意はねぇから」
「真意の方を気にしてんだよ、こっちは」
声を荒げる花咲を見て、谷はけらけらと大げさに笑っていた。
「つっこみができるなら安心だ」
「うるせぇ」
花咲が毒づくのも面白いのだろう。谷は笑うのを止めなかった。
「もう行こーよ!」
痺れを切らした滝田が図書室のドア越しに手招きしていた。
急いで下ろした鞄を手に取って図書室を出る。
先を行く滝田に追いつくと、滝田がスマホで時刻を確認しながら口を開いた。
「今日のカラオケ、いつものところで良い?」
「良いよ」
滝田の質問に谷が返事をする。
田舎にしては割と大きなカラオケチェーン店が高校の近くにあるのだ。
平日の午後は、大平高校生と定年を迎えて高齢者入りした人たちの溜まり場となっている。
滝田や高梨の部活がオフの日には、四人でよくカラオケやファミレスに行っていた。
今日もその流れで行こうとしている。
正直、花咲は気が乗らなかった。滝田と居ることが気まずいから、というわけではない。意識してしまうところはあっても、気まずさはあまりなかった。
昨日の出来事と今日の出来事について、少し整理する時間が欲しかった。
「ごめん、今日やっぱやめとくわ」
「どうした?」
谷が素直な疑問をぶつけてくる。
「今日、用事あったの思い出した」
「それは用事がないときの言い訳だろ。そんな言い訳を言ってまでキャンセル申請したくなった理由を聞いてんだよ」
「少し気分が良くなくてさ。家に帰って寝たい」
嘘ではない。寝不足で体調がすぐれないのは事実だった。それに、カラオケに乗り気のない奴が一人混ざるだけで雰囲気が曇るものだ。その発端となるのは勘弁願いたい。
「そっか。じゃあ、今日は帰ろっか」
花咲の言葉にまず反応したのは滝田だった。
迷いのない瞳を向けて、裏のなさそうな屈託ない笑みを浮かべながら言い切った。
「え、いいの?」
花咲が思わず口にした。
「言い出したの、修平くんじゃん。それにカラオケは私が勝手に言い出したことだしね。みんなで一緒に帰るだけっていうのも、たまには良いんじゃない?」
「朱里がいいなら、それで」
谷も滝田に同調する。
別に三人がカラオケで楽しんでいても、花咲は構わないのだ。しかし、ここで指摘するのは野暮というものだろう。
フォローする滝田の優しさに花咲がほんのり罪悪感を覚えていると、生徒の帰宅時間を知らせる五時のチャイムが鳴り響いた。
すると、「お待たせ」と背中越しに声が掛かる。早々に図書委員の仕事を片付けてきた高梨が駆けてきていた。急いで鞄を背負ってきたのか、制服が少したわんでいる。
「ごめん、由紀!今日、カラオケなしで帰ることになった」
「別にあたしはいいけど、タキは良いの?」
「良いの良いの。それよりさ——」
再度、女子トークに花を咲かせる二人を見ながら、谷が言った。
「ちゃんと寝ろよ?」
「……悪いな」
悪い顔をしていなければ、谷はもう少しカッコいいと思う。
その後は、特に何もなく、ただ談笑しながら帰路に着いた。
何もない単なる友人との帰宅時間を満喫して帰る。
何気ない日常の一コマ。こうして、この四人で青春が彩られていくものとばかり思っていた。
それは、昨日と同じように唐突に現れた。
「やっと帰ってきた」
学校から帰宅した花咲は、自分のアパートの前で立ちすくんだ。
何も置かれていない素っ気ない玄関の前。そこには白衣の狐女が座っていた。




