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マクシミリオンを思い始めてかれこれ七年が経過した。
ナタリーは総務部の雑用係から抜け出し、やっと一人前として認められるようになってきたところだ。最近では書類管理だけでなく、公共空間の整備に関する企画を担当しており、仕事仲間との関係も良好で安定した環境で働いている。
次期宰相と名高いマクシミリオンは、学院時代よりさらに男らしさが増し、精悍な顔立ちと引き締まった体を持つ凛々しい男性となった。その真面目な性格と真摯なところも相まって理想の結婚相手に挙げられるほどの人気を博している。
ナタリーはそんな彼に追いつくべく、それなりの給料を日々自己に投資し特に『淑女らしさ』に力を入れる生活を送っていた。
ちなみに今はもうミシェルの指導は受けていない。二年前に彼女の妊娠が発覚してから定例での指導が難しくなり、今では月に一度手紙を出して会いにいく程度だ。ミシェルからは既に及第点に達していると言ってもらえていたが、ナタリーはもっと自分を磨くべきだと考えていた。
今日もマクシミリオンを見かけたからには話しかけようと彼に歩み寄る。
「宰相補佐様、おつかれさまです」
さすがに王宮では「マクシミリオン様」なんて軽々しく呼べない。愛嬌も大事だが、彼に恥をかかせるようなことがあってはならないから、ナタリーは彼を幻滅させないギリギリのラインで接していた。
「今日もお会い出来て嬉しいです。おかげで良い一日になりそうです」
「君も変わらず元気そうで何よりだ」
顔を合わせて微笑み合う。
素直なマクシミリオンはさっさと会話を切り上げて立ち去りたそうだ。彼の意思を汲み、ナタリーも早々にさよならを告げようとして気づく。
「……あら。不躾ですけれども、何だか顔色が優れないようです。大丈夫ですか?」
「ああ、少し寝不足でな。だが心配はいらない。体調には気をつけている。……すまない、そろそろ次が……」
「呼び止めてしまって申し訳ございません。無理なさらぬようご自愛くださいませ」
「すまないな」
「いえ、こちらこそ」
軽く頭を下げて足早に立ち去るマクシミリオンを彼よりさらに頭を低くして見送って、ナタリーもその場を後にしようと踵を返そうとするが……。
「あ」
振り返るとエミリオが立っていて、そのまま立ち去るわけにもいかないと足を止めた。
「……君は何だか……いや、なんでもない。それより元気にしているか?困ったことはないか?」
「いえ、変わらず過ごしております」
「何かあったら私が力になるから安心したまえ。それでは」
ひらひらと手を振って去っていくエミリオ。彼も今や王立騎士団の副騎士団長という重要なポストに就いており、各々違う環境に身を置いている。昔のような関わり合いは自然と減っていって当たり前なのだろうなと思いながらも、ナタリーは彼の得意の自慢話が聞けなくなるのは少し淋しいと感じた。
◻︎ ◻︎ ◻︎
それから少し経って、とある事件が起こった。
王太子殿下と王太子妃殿下が離婚されるという噂が流れ始めたのだ。
なんでも王太子殿下が別の女性と婚姻を結ぶことを望んでいるのだとか。
しかもその新たな女性というのが某課に在籍していた平民の女性であったらしく、しばらく王宮内は騒然となった。
あのシャーロン一筋の殿下のツンデレぶりがよくない方向へ導いたのだろうとナタリーはすぐに気づいたが、王宮内でのシャーロンの人気ぶりは凄まじく、平民の女性や殿下に怒りを抱く人は多かった。
そして困ったことに、彼女と非常に似た状況にいるナタリーにも悪い影響が出始める。
一度は良くなった周囲の態度が一気に悪化したのだ。
『宰相補佐様に取り入ろうとする平民』
『振られても蝿のようにまとわりつく身の程知らず』
そんな風なことを遠回りに言われたと思う。
実際、マクシミリオンは騒動以来シャーロンのそばによくいるらしく、殿下よりもお似合いなのではと噂されているくらいだ。そんな彼にしつこく話しかけていたナタリーが、蠅のように煩わしい存在だとして冷たい目で見られるのは自然なことである。
会話もろくに取り合ってもらえず、陰口を叩かれる毎日。それなのに仕事だけは山のように押し付けてくるので帰れない。これでは自分の業務もままならない。
『恋愛に現を抜かしている暇があるなら、これくらいのことすぐにできるでしょう?』
『悪いけど、チェックなら他を当たってくれ。僕も今忙しくてね……』
当たりの強い人も避けるような態度を取る人も、どちらも仕事に支障が出て厄介だと思った。
それでも、ナタリーは与えられた仕事を全うするしかない。
「あの、ペイリーさん、この前の企画書の話なのですが……」
今は、数年目にしてやっと与えられた雑用以外の仕事の件について、直属の先輩に報告しているところである。彼女――アイリス・ペイリーもナタリーと同じ企画を担当しているため、アイリスの協力は不可欠である。だが……。
「あの案は却下よ。公共福祉に対するあなたの案って、独りよがりで、こじんまりとしたものばかり。前も孤児院のことばかりで、教育がどうとかつまらないことを言っていたわね。けれどそれって彼らが本当に望んでいること?貴女の強みは、貴族でも裕福でもないこと。どういう視点を期待されているのがまだわからないの?」
周囲の視線が自分に集まっているのを感じ、ナタリーはただ小さく肩を縮こませて頭を下げる。
「……ご期待に添えず、申し訳ありません」
「期待なんてしていないわ。あなたにはが……いえ、何でもないわ」
一期上のアイリス・ペイリーは、元々冷たかったのが、更にブリザードの如く凍った態度でナタリーに接している。子爵令嬢であり貞淑な彼女にとって、ナタリーの存在は目障り極まりないのだろう。今もおそらく「がっかり」という事を言いたかったのだろうが、言い過ぎだと思ったのか口を噤んだ。
アイリスは冷たいことには間違いないが、仕事の評価に関しては彼女の言う通りであった。
(公共福祉ってよくわからない……。孤児院への支援とか奨学金制度くらいしか私は関わってこなかったもの)
アイリスに言わせれば孤児院への支援は貴族の布施で間に合っているし、奨学金制度は既に充足していると。教育に関しても優先順位は低いらしい。
(それこそ、内情を知らないお嬢様の発想では?)
毒を吐きたい気持ちを抑え、ナタリーは自席へ戻った。
それからも、周囲の当たりは強いまま。なかには露骨に軽蔑を態度に出すような人まで現れた。まるで学院時代の時のように、ナタリーは無気力で笑わなくなった。
こんな環境に居続ける意味はあるのかと自問自答しながらも、仕事は続けるしかないと体を奮い立たせていたある日――その日は数週間ぶりの休日で、ナタリーは買い物袋をぶら下げてアパートへと続く道を歩いていた。
ふと、掲示板を前に足を止める。人員募集のチラシが目に入ったのだ。
「へぇ、図書館への就職ねぇ」
まじまじと読めば、王都図書館の職員として働きませんかという文言が目に入る。今の仕事より給料は安いが、生活できなくなるほどのものではない。王立図書館よりスケールは劣るが、誰にでも解放されている王都図書館はナタリーにとってもありがたい場所だった。
悪くないかもと思ったナタリーは早速、その足で視察へと向かった。とはいっても本を読むついでに少し職員の様子や職場環境を見てみる程度だ。
王都図書館は吹き抜けの二階建て構造にとなっている。カウンターのよく見える、しかし彼らからは死角になっているだろう二階の角で、本を手に館内の様子を観察していると、ふと一人の女性が目に入った。首にぶら下げる社員証から図書館の職員だと分かる。
手に抱えた本を一つ一つ丁寧に本棚に戻しているその所作は、品があってつい見惚れるほどである。艶のある黒髪は低い位置で一つにまとめられ右肩に流されており、そのおかげで横顔がよく見えた。大きな黒い瞳に高い鼻梁、少し色づいた頬は白い肌によく映え、まるで絵のような美しさであった。
だが、何より気になったのは、彼女が車椅子を使っていること。
背の高い本棚に彼女は苦戦しているようだから、ナタリーは思わず一階まで駆け下り、声をかけることにした。
「お手伝いします」と話しかければ、彼女の猫のような目がくるりとこちらへ向く。そして申し訳なさそうに、けれどどこか嬉しそうに歯に噛んだ。
「ごめんなさいね」
これが、フェリシアとの出会いだ。




