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『笑われ者のヨル』の感想会は、予定通りエミリオの家で開かれることとなった。
手土産の焼き菓子を無事購入し、住所が書かれた紙を頼りにナタリーは目的地へ向かう。
(緊張する……。上手く話せるかしら)
胸に抱く紙袋には、読み終えた『笑われ者のヨル』が入っている。
ナタリーは今、夢を叶えるために仮面を脱ぎ捨てるヨルの勇気を感じていた。
怖くて、足がすくんで、手足が汗ばむ。でも動き出した体はどこか前向きで、清々しさもあって……。
一旦心を落ち着かせようと、道の途中で立ち止まり、深く深呼吸する。
今日は雲一つない青空が広がっている。太陽は眩しくて直視できないけれど、空は変わらず静かにナタリーを包み込んでくれている。その穏やかさに頬を緩ませ、ナタリーは再び歩き出す。
(今日は絶対、エミリオ先輩にあの日みたいな顔はさせない)
あの日、エミリオとギクシャクしてしまった日、ナタリーの迷いがエミリオを不安にさせてしまったのは間違いない。だから、今日はエミリオが不安にならないくらい自分の気持ちを伝えきろうとナタリーは決めていた。
ちなみにその日の翌朝、ジャンは土下座せんばかりの勢いで謝罪してくれた。綺麗に切り揃えた黒髪が坊主へと変わっており、見るからに反省している様子だった。
申し訳ないと何度も頭を下げる彼に、ナタリーの方こそエミリオに対して不誠実だったと謝れば、ジャンはそんなことはないと首を横に振った。
彼は、「自分はエミリオ先輩に恩があるが、それが色眼鏡となってナタリーを警戒していただけだった。蓋を開けてみればお二人はお二人なりの歩み方をしていて、自分は一部分しか見ていない部外者であった。早とちりしてエミリオと同じくらいナタリーが傷付けば良いと思った、それが間違いだった」と、全て正直に打ち明けてくれた。
ナタリーはジャンに対する怒りの気持ちはなく、むしろエミリオへの想いに気付けた感謝と、エミリオが部下に尊敬されている嬉しさが胸を占めるだけだった。
むしろあなたのおかげでエミリオへの気持ちの強さに気づけたのだと、真剣な表情で告白の決意を告げる。
その表情を見て、ジャンはようやっと穏やかな表情になって去っていった。
あれからエミリオと話す機会はほぼなく、ジャンとのことを引きずったまま当日となってしまったが、エミリオは穏やかな顔でナタリーを迎え入れてくれた。
玄関に入った途端彼の匂いに包まれて、胸がドキリと跳ね上がる。
一人暮らしには十分な広さの家は、隅々まで掃除が行き届いていて清潔感があり、ナタリーも見習わなければならないと反省するほどだ。
家具やインテリアは落ち着いた色合いの物が多く、全体的にモノトーンで統一されている。
ソファに腰掛けるよう促され、ローテーブルに置かれた紅茶や菓子を頂く。ソファには丁寧に膝掛けも用意されていて、ナタリーは彼の気遣い一つ一つに感動した。
淹れたての紅茶を飲みながら、ナタリーはエミリオに話しかける。
「私の好きなフィナンシェに、淹れたての紅茶なんて、エミリオ先輩はどこまでも優しい人ですね」
「ははっ、たいしたことないよ。それより何か欲しいものとか頼み事があったら遠慮なく教えてくれ」
そう言いながらエミリオはぎこちなくソファに腰を下ろす。そっぽを向くことはないが、こちらへ顔を向けることは恥ずかしくてできないようだ。
ナタリーはそんな彼を見て、自然と口元を緩めた。
(エミリオ先輩も緊張しているのね……私と同じ)
エミリオのことが好きだと自覚してから、ナタリーは彼の行動一つ一つの裏を考えるようになった。
そしてそれのどれもが誰かに対する思いやりにつながっていると分かる度、自分の中で彼への想いが強くなっていくのを感じていた。
ナタリーは鞄から本を取り出す。
ここからは自分が頑張る番だと心の中で喝を入れる。
『笑われ者のヨル』――きちんと全て読んだ。今日まで何度も読み返した。この本を貸してくれたエミリオの勇気にナタリーが報いるために。
ふう、と一呼吸おいて、ナタリーはエミリオを真っ直ぐ見据えた。
「エミリオ先輩、お話があります」
そう言ったナタリーに、エミリオはどうしたのかと彼女を見る。彼の目の焦点がナタリーが持つ本に合った時、その眦が不安気に揺れて、彼の動揺がこちらにまで伝わってくるほどだった。
そんなに不安にならないで大丈夫。そう心の中で語りかけながら、ナタリーは彼に本を差し出す。
「私の答えを書きました」
「…………」
静かに受け取ったエミリオが暫く動かないので、ナタリーは慌てて言葉を付け加える。
「えっと、直接書き込んだ訳ではないので安心してください。代わりに付箋を一枚貼って……」
ナタリーが必死に弁明するうち、エミリオはゆっくりと本を開き、パラパラとページをめくり出す。彼にしては珍しくマイペースで、ナタリーの方がペースを崩されてしまいそうだ。
それでもナタリーは大人しくエミリオを見守り続け、静かに彼の返事を待った。
しばらしくして、彼はふと最後のページで手を止める。首を捻りながら、文字を読み上げる。
「『夢=エミリオ』……?」
不思議そうに呟くエミリオ。
当然の反応だと思う。だってこれはナタリーが付け足した文字だ。
口に出されると存外恥ずかしく、少しはにかみながらナタリーは言う。
「エミリオ先輩は、私のことを夢って書いてくれていましたよね。私の幸せを願うって。それを見たとき、私がヨルなら、きっと私にとっての夢はエミリオ先輩だと思ったんです。……思えば昔からずっと、エミリオ先輩には幸せになって欲しいと思っていました」
器用だけど不器用な、自分の幸せを後回しにしてしまうような、見ていて歯痒い人。初めて会った時から、ナタリーの中でエミリオのイメージは変わらない。
「昔はただの願いだったんです。……でも今は、何というか、それだけでは物足りないというか、欲張りになったというか……」
言葉にしようとすると、どうにも上手くまとまらない。辿々しくなりながら、それでもエミリオに自分の気持ちをぜんぶ伝えようと、ナタリーは喋り続ける。
「いつからかは分かりません。でも気づけば、私がエミリオ先輩を幸せにしたいって思うようになったんです。先輩の本音が知りたい。私には遠慮しないで我儘を言って欲しい。幸せになって欲しいじゃなくて、一緒に幸せになりたい。だから、つまりですね、私はエミリオ先輩のことが……」
ナタリーが覚悟を決めて顔を上げると、目の前のエミリオは口をあんぐりさせたままこちらを見ていた。
一気に気恥ずかしさが昇って、ナタリーも少し咳払いをして一呼吸おく。
「…………少し、いやかなり照れくさいですね。けど…………」
ナタリーはエミリオの空色の瞳をしっかりと見つめる。
その青空のような瞳だって、ナタリーを見守ってくれるから大好きだ。
「これだけは今日伝えようと思って来ました」
期待と不安の入り混じった瞳がナタリーを見つめている。
そうだった。彼は心の中に複雑さを秘めていて、でもいつだって自分の欲より相手の幸せを願っている不器用な人だった。
だから、しっかりと伝えよう。下手な解釈なんてしなくて良いように。ストレートに。
大きく空気を吸い込んだら、迷いや照れはどこかへ吹っ飛んでいく。
「好きです、エミリオ先輩。大好き。ナルシストで自信家なところも、臆病で気にしいなところも、全部含めて――」
その先は言えなかった。視界が真っ暗になって、息ができなくなったから。
気づいた時にはエミリオに抱きしめられていて、彼の腕の中は想像よりずっと温かくて居心地が良いと知った。
二人とも首まで真っ赤で、発火してしまいそうなほど身体も熱くて、心臓の音の速さまで一緒で、笑ってしまうくらい同じで。
「……ありがとう」
彼の声は霞んでいて涙目で、だからナタリーもツンとした鼻先を上に向けて彼にぎゅっと抱きつく。
「色んなことを間違ってしまいました。きっとこの先も自分を見失う時が来るかもしれません」
「そんなことはないさ」
「でもその時にエミリオ先輩が側にいてくれるなら、私はきっと自分を見つめ直すことができる。先輩がいるから目を背けないで立ち向かっていける。それに……」
この先は、自分の中で湧き出た欲だ。
「私もエミリオ先輩にとってそうありたいと思いました。他の誰でもなく私がです」
エミリオに抱く思いは、マグマのような燃え上がる火というよりは、小さく灯る青い火のように静かな情熱を秘めたものだ。
でも、実は赤い炎より青い炎の方が、温度が高かったりする。
気づいてしまえば、あっさりと認めることができた。
ナタリーを強く抱きしめるエミリオが言う。
「私もそうだ。ずっとそうだった。欲張りにも心の中でずっと君と一緒に幸せになりたいと思っていた。でも私は臆病で、君の声を素直に信じることができなかった。ジャンのことも、君はもっと怒っても良いはずなのに、今日だって不思議なくらいいつも通りに笑顔でいてくれて……。でも……これは夢じゃないんだな?」
「夢じゃないです。夢なんかじゃありません」
ナタリーはぎゅっとエミリオの服を掴み、ぐりぐりと頭を押し付ける。
エミリオは暫く静かになって、決心したようにゆっくりと口を開く。
「……本当の恋人に、なってくれるのかい?」
頭上から掠れた声が落ちてくる。
臆病な告白は実にエミリオらしく、甘くナタリーの胸をくすぐる。
「ここでいいえと言ったら?」
「大泣きする。君に縋り付いて、頷いてくれるまで家から帰さない」
「ならなってあげないとですね」
ふふ、と笑いながら上を向く。やっと欲を見せてくれたエミリオが心の底から愛しくてたまらない。
そうだ。ナタリーはずっとエミリオの我儘を知りたくて、叶えたかったのだ。
「意地悪言ってごめんなさい。お詫びに何でも好きなこと一つ聞きます」
「何でも……?」
甘い視線がナタリーを捉えて、そしてその瞳が何かを訴えている。その意味がわかって、ナタリーはただ頷いた。
――どうぞ、お好きなように。
エミリオの欲ならばいくらでも付き合える。
カーテンの隙間から日差しが降り注ぎ、二人の影を作り出す。穏やかな時間が流れる中、ナタリーはその柔らかさに身を委ね、静かに目を閉じた。
やがて二つの影が重なる。
それを見ていたのは、ただ青い空だけだ。




