プロローグ
「まさか俺に取り入るためにフェリシアにまで近づくなんて」
唐突にかけられた険しい声にナタリーの肩が跳ね上がる。
振り向くと、声の主――マクシミリオン・シトロン侯爵が立っていて、なぜ想い人である彼がこんなに嫌悪感に塗れた表情をしているのか分からず、ナタリーはただ狼狽えた。
「マクシミリオン様……?」
「軽々しく私の名を呼ばないでくれ」
マクシミリオンは、どこか痛みを感じるかのように顔を滲ませる。いつもの言葉でナタリーの態度を諌めてくるところは変わらないけれど、滲み出た刺々しさは初めて感じるものだ。
おかしいとは思いながらも平静を装って、ナタリーは彼に足早に近寄った。自慢のプラチナブロンドの髪がさらさらと揺れる。この髪だって、彼の横に並び立つのに相応しいように、毎日欠かさず手入れしていた。
「そんな。どこか私に悪いところがあったのなら遠慮なく仰ってください」
――そういえば話しかけられた時、彼は『彼女にまで近づくなんて』と言っていた。
それが、ナタリーがたった今までお茶をしていた彼女のことを指すのなら、誤解を解こうと思い、彼の次の言葉を待つ。
けれど、掛けられた言葉は想像以上に冷たいものだった。
「では失礼を承知で言わせてもらう。その媚びたような口調も、馴れ馴れしい態度も、私の意思を無視するところも、昔から全くもって好みではない」
愛しい人を前に足がすくむ。それまで軽快だった足取りも鈴を転がしたような声もあっという間に引っ込んで、生まれて初めて身体から力が抜けるほどの絶望を感じた。
「大丈夫か?」
マクシミリオンはナタリーを冷めた目で見下ろしながら、女性の肩に優しく手を添える。見せつけるようなその行為は完全な拒絶を表している。
彼は、視界に入れるのも嫌だというように、ナタリーから目を逸らした状態で話を続ける。
「金輪際話しかけるのはやめてくれ。君みたいな我儘な人間はもう飽き飽きなんだ。いい加減放っておいてくれないか。頼む」
苦しそうに吐き捨てる彼の顔をナタリーのバイオレットの瞳が呆然と見つめる。紛れもないマクシミリオンの本心に心は既に修復不可能な状態だったが、大好きな彼の頼みとあってはもう今までのようにはいかないであろうことを悟る。
――ああ、そうか。私の存在がまさかここまで彼を苦しめていたなんて。
前々から態度には出されていたが、ここまではっきりと口に出されたのは初めてだ。
自分の努力次第でどうにでもできると思っていたし、大人びた化粧も貴族令嬢のような格好も頑張って消化していたようには思う。
けれど、その努力でさえ彼にとって負担でしかなかったのなら自分はもう諦めるべきなのかもしれない。
いや、かもしれないのではなく、諦めなければならない時がようやっと来たのだろう。
マクシミリオンにそこまで嫌われていたとは思わず、少なからずショックはある。けれど、彼にそこまでのことを言わせてしまった自分自身を振り返ると、今まで張っていた意地や拘りが意外にもすんなりと消えていく。
(まぁ、私にしてはここまでよく頑張った方だわ……)
思えば彼と出会って既に七年以上が経っている。飽き性な自分がよくもまぁここまで一人の人間に思いを寄せられたものだ。
(……もう、終わりにしましょう)
振られても諦めずに何度も復活してきた。
初めて会った時から変わらない彼の真っ直ぐなところが好きでたまらなかったのに、その彼が向ける真っ直ぐな視線が今はつらい。
でも何より、彼にそんな思いをさせていた自分自身が一番恥ずかしくて、どうにもならなかった。
「ごめん、なさい」
とうとう失恋を受け入れたナタリーはゆらゆらとその場を後にする。
「ナタリー!」
呼び止める女性の声に応える気力は残っていなかったが、何とか涙をこらえ笑顔を作って振り向く。
「フェリシア、元気でね」
同席していた彼女には悪いが、彼女もマクシミリオンの大事な人とあっては、嫉妬してしまって何をしてしまうか分からない。そのため、もう金輪際会うことは避けた方が良いだろう。彼女もとても大切な人だったけれど、だからこそ傷つけたくなかった。彼女のことはマクシミリオンが責任を持って送り届けてくれるだろう。
先払いの店で良かったなんて思いながら、夕暮れ道をおぼつかない足取りで進む。空はどんよりと曇っているが、雨までは降っていないようだ。
(こんな時まで、中途半端なのね)
悪態をつきたくなる天気の中、ナタリーはアパートへと一人帰った。




