男女の区別もない、お告げ
野江良が生まれてくる一カ月前の昼間、定にとってはいつも通りの日だった。自宅の茶の間で昼寝をしていた定は、
「定さん、定さん起きなさい」との呼び掛けに目を覚ます。
「シメ子さんは貴方の厄を全て被り、この世を去りました。なので、貴方はシメ子さんの分も、これからお生まれになるお孫さんに対しても、借りが生じています。
即ち、孫との運命の人に赤い糸を結び付ける。これから、貴方にある情景が浮かびます。お孫さんは誰と運命の糸で結ばれるのか、その判断が、貴方への借りです」定の脳裏に、男女の区別も着かない、美輪明宏の様な人物の姿と、言葉が木霊したが、シメ子の様に蝋燭の火には照らされていなかった。
突然の出来事に、一言も発せられず狼狽する定の脳裏に、第一子の女児が誕生した一家の情景が浮かぶ。
食卓のテーブルに着いている、とある夫婦、女児の両親の様だ。
「あの子の名前、どうしようか?」妻の言葉に夫は、
「んー……何が良いかなあ」名前辞典をめくりながら首を傾げている。
その光景を見た定は、咄嗟の思い付きで、乃衣瑠と思い浮かべる。特に名前の意味や漢字には、深くも浅くも理由などありはしない。だが……。
「乃衣瑠なんてどう?」妻はテーブルの上に置いたメモ用紙に、定が思い浮かべた漢字を書き出し、のいると発したのだ。この光景を見て、定は大きくたじろいだ。
「乃衣瑠? お前も珍しい名前を思い付くな。有名人のペンネームや芸名じゃあるまいし、他で聞いたことないぞ、そんな名前」夫は笑う。しかし、
「あちらの方が名付けてくださったのよ」
「え?」妻の示す方に夫が振り返った刹那。
「貴方様はどなたなのですか」夫が訊き夫婦は定の方へ目を向ける。二人は驚く様子もなく、至って自然体だ。
「お二人には私が見えているのですか!?」定は驚愕し、声も上擦んでしまう。
「はい、蝋燭の火によって煌々と照らされています。乃衣瑠と言う名前は、神のお告げか何かですか」再度夫に訊かれ、
「私は神ではなく、原田と申します。私にも、もう時期男児の孫が生まれます」自己紹介を終えると、先程の美輪明宏の様な声のみが、定に木霊する。
「今、貴方が命名した女児が、貴方のお孫さんの許婚です。ご自分のお孫さんにも、将来運命の人だと解り易い様に、貴方が命名しなさい」
笑みを浮かべているのだろう優しい口調に、シメ子の時の様に、フワッと宙に浮かぶ様な感覚だった定は、
「お宅の娘さんと私の孫は、運命の糸で結ばれ繋がりました。どうか私の孫と結婚させてください!」慇懃に頭を下げる。
「貴方様の原田家と、うちの田村家は繋がったのですか……。でも、まだ娘は生まれたばかりですし、いきなりその様なことを言われましてもねえ……」夫は当然訝る。が、
「生まれたばかりの時点でフィアンセがいるなんて、恵まれた子じゃない」妻は嬉しそうな笑みを浮かべる。
「突然の無礼は承知しています。ですが、どうか、わたくし原田と、今の情景を忘れないでください!」定は再度、深々と頭を下げて懇願した。
定はここでフッと我に返り、しばらくの間ボーっとする。つまり、今見た情景は、少し先の未来なのだ。
意識がはっきりしたところで、定は固定電話の横にあるメモ用紙を手に取り、再び思い付くままに、野江良と乱雑な字で書く。自分の孫の名前にすらも、漢字などの意味など全く以てなかった。
この様な、互いに珍しい名前であれば、当人達も将来勘付く筈だ、定は確信する。
そして五月初旬、定に二人目の孫である男児が誕生したのだ。
生まれて直ぐに、定は父である息子に、
「子供の名前は野江良にしろ」こう告げて、新たに書き直したメモ用紙を見せる。だが当然、
「何だよ親父、そんな耳慣れないし作家やアーティストみたいな名前は。名前は俺達夫婦で考えるから良いよ」息子は聞き入れようとはしない。
「いや、こういった一風変わった名前は、直ぐに名と顔を覚えてもらえる。人を助け人に助けられながら、周りと調和を取っていけるよう、願いが込められているんだ」前もって考えていた、全くの出鱈目。
「そう言われてもなあ……。もう候補は幾つか出てるんだよ」難色を示すのは自然の息子に、
「頼むから俺が考えた名前に命名してくれ! この通りだ!」定は無我夢中で懇願し、頭を下げた。父親の様を見て、
「どうしたんだよ、そんなにムキになって……」息子が唖然とするのも当然。
しかし息子は渋々、
「親父がそこまで言うのなら、解ったよ」と承諾する。結果的には定が捩じ伏せた、捩じ伏せざるを得なかったのだ。
これが、野江良本人には事実を伏せている所以。
野江良が生まれて三カ月後の八月下旬に、乃衣瑠も生まれた。こうして全て定の意思により、原田野江良と田村乃衣瑠と言う、珍しくて耳慣れない名前の男女が生まれたのだった。
だがこの段階でも、原田野江良と田村乃衣瑠の二人は、唯定が思い込んだ許婚に過ぎないのも、また事実である。




