諦め
定は野江良の心情など知る由もなかったが、ある日の朝、食事をしながらNHKの報道番組を観ていた時だった。定はまたしてもシメ子の声に意表を突かれる。
「お父さんは全く解っていない様ね」突然木霊したシメ子の声に、定はキョロキョロ茶の間を見渡す。だが、今回はシメ子の姿はない。
「どうしたんですか、急にキョロキョロして。何か落ち着かないの?」再婚した妻から指摘され、
「いや、別に何でもないんだ」慌てて早口で返す。どうやら妻には何も聞こえてないらしい。
「貴方がやるべきことは、野江良の上京を止めさせることではありません! あの子は貴方との過去を忘れたいのですよ。このままでは、お父さんはゴキブリとしても生まれ変わるのも無理ですね。野江良を上京したいと駆り立てたのは、他ならぬ貴方でもあるのですから。
それに、野江良が上京しないで、どうやって許婚と出会うことが出来るのでしょうか」声のみではあるものの、少々怒りと呆れが混ざった口調だった。
あいつを、野江良を上京させてやることが、俺のやるべきこと……だったのか。確かにこのままでは許婚とは一生出会うことはない、定は心中で呟く。食欲もなくなる程だ。
これは今日にでも、航空チケットを買いに行かなくては。定は諦め、野江良の上京を手助けしてやると決めた。
結局父は野江良を東京の大学へ進学させる意思は曲げず、野江良は母と二人で上京することになった。その話を息子から聞いた定は後日、二人分の東京行きの航空チケットを持参し、野江良の家を訪ねた。
しかし、もう我が家の事情に首を突っ込んでほしくない野江良は、ちっとも嬉しさなどなかった。瑠美姉の進学の時には、一銭たりとも出さなかったくせして。それだけ定のことが疎ましかった。
だけれど、航空チケットはありがたく頂戴するのだった……。




